ホームレス

ユスティニ太郎

第1話

 その男はじっと何かを見つめているようだった。特に人通りの多い駅の前で、何をしているでもなく、ただ一人でそこにいた。まわりにこんなにも行き交う人がいるのに、人を待つ人であふれているのに、男は独りだった。男は何かを見ているようだった。ひっきりなしに目玉を動かすのでもなく、かといってただ一点だけを見つめているわけでもないようだったが、目は開いているように見えたから、何かを見ていたのには違いない。仮に何かを眼球で捉えようとしていなかったとしても、その目には何かが映っていたはずだ。べつに近くまで寄っていって確認したわけではないが、僕の目には確かにそう映った。

 その男はどこかへ出かけることもなく、いつもそこにいるようだった。もちろんずっと監視しているわけでもなければ、男にGPSをつけて常に位置情報を追跡しているわけでもないから、実際には確かめようがない。まして僕が例の男を見る時間は、平日のわずか数秒ほどしかなかったから、その男を見ていない時間のほうがずっと長かった。しかし僕が見ていない間もずっとそこにいるのだろうという確信が僕にはあった。いつからそこにいるのかも、いつまでそこにいるのかも、僕にはわからない、もしかしたら本人でさえわかっていないのかもしれない。だが男はそこにいた。実際、僕がそこを通る時にはいつも決まってそこにいて、何かを見ていた。いつもそこにいるのに、不思議と何を見ているのか気にかけているのは僕だけのような気がした。そもそも人は街を歩いているときに、他人がどうであるかなんていちいち気にしていない、と言われればたしかにそうで、その男だけが例外であるというのは全くの見当違いかもしれないが、男はまるで無数に通り過ぎていく人の意識の外にいるようであった。少なくとも僕にはそう感じられた。そこにいるというよりはそこにあるといったほうが正しいかもしれない。ほかの人たちと同じ世界に生きているはずなのに、どこか違う世界からやってきて、同じ世界にいないような、そんな超常的な何かのように、そこでじっと何かを見ていた。男の前を過ぎていく大勢の人は、ひょっとして意識的に視界の外へ、もっと言えば意識的に意識の外へ男を追いやっているのかもしれなかった。やはり自分以外の誰かが男に目を向けるのも、声をかけるのも、誰かがその男の存在を意識しているように感じたことも、ついぞなかった。

 前に一度だけ、いつも何を見ているのか、何を食べているのか、どこから来て、どこへ行くのか、どうしてそこにいるのか、聞いてみようとしたことがあった。しかし、どうやって聞いたらいいのか、なんと言って話しかければいいのか、そもそも話しかけていいのか、わからなかった。つらつらと御託を並べたが、結局その程度の勇気も出せなかったのだ。別に必要に迫られていたわけでもないし、話しかけなかったからと言って、何かがどう変わることもきっとなかったはずである。かといって話しかけたから何がどう変わることもなかっただろうから、別に話しかけてもよかったのは間違いない。ただそのときは話しかけなかった。ただそれだけのことである。そして結局それ以降、声をかけようと思ったことはなかった。あるにはあったかもしれないが、どうやって話しかけようか考えた記憶がないから、多分なかっただろう。ここで勘違いしてほしくないのは、僕がこれっぽっちの勇気も持ち合わせていない人間では決してないということだ。別に人と比べて大きくはないし、何なら小さいほうだったかもしれないが、確かに持ってはいた。加えて、そもそも命がかかっているわけでもないし、話しかけたからと言ってこちらが即座に命の危険にさらされるわけではないことも分かっていた。そこに振り絞るほどの勇気は必要なく、いつもより少しだけ圧をかければ勝手に押し出されて、それで事足りるくらいの量だったはずだ。だが話しかけなかったから、男について新しいことは何もわからなかった。人通りの多い駅前にずっといることと、性別が男性であることと、何かを見ていること以外は何も。

 二年ほどたったある日、男は突如姿を消した。行方をくらませたかのような表現で、少々語弊があるかもしれない。厳密にはしばらく前から姿が見えなくなっていた。いつも決まってそこにいるだけで、それ以上の変化も特に見受けられない。やはりそこにいて、何かを見ている。しかし、何を見ているかは全く判明することもなく、月日だけが流れていた。毎日のように近くを通っていたが、いなくなっていることに気づかなかった。その男の存在を確かに意識していたはずの僕の目にも男の姿は映らなくなっていたのだ。いつから男がいないのかもはっきりしない。もしかしたら、この瞬間だけこの場を離れていて、どこか違うところにいるだけかもしれない。明日には戻ってくるのかもしれない。そんなはずはないとわかっている答えが一瞬脳裏をよぎる。そんなわけないのだ。男はいつだってそこにいたはずなのだ。しかし今、確かにそこに男はいない。それどころか、男がいた痕跡もない。どのくらいの期間そこにいたのかはわからないが、かなり長い間そこにいたはずなのに。そこに一人の人間がいたのに。名前も年齢も、何を食べているのかも、いつからそこにいるのかも、どこから来たかもわからないが、確かにそこにいたのだ。これは勘違いでも何でもない、まぎれもない事実なのだ。ところが僕以外の人間は、そこに男がいたことを知らない。男がいなくなったことを認識すらしていない。

 とうとうその男についてはほとんど何もわからなかった。しかし、最近一つの疑問について、自分なりに答えを見つけたのだ。男がなぜそこにいたのかという問いの答えだ。男がいた場所は屋根付きで雨風をしのげる場所でも何でもない、ただ人通りが多いだけの駅前だった。どうしてわざわざ人通りが多いところにいたのだろうか。これは僕の思い上がりかもしれないが、男は僕のような人間を探していたのではないだろうか。僕ではない誰かだったとしても、大勢通りかかる誰かに、自分が何者であるか意識してほしかったのではないだろうか。目玉を積極的に動かすことはなくても、誰かを探していたのではないだろうか。この考えにたどり着いたとき、僕はかすかな勇気を押し出さなかったことを悔やんだ。男はそこにいたのだ。男はもういないのだ。男がそこにいたことは知る由もないのだ。名前も分からぬまま消えてしまったが、まだ僕の意識のうちに、その男はじっと何かを見つめているようだった。

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