ほたるの結実
終演から二時間後のことだった。忘れ物をしたことを思い出した私は一人ホールへと戻る。会場の入口に行くと、なぜか呼び止められた。
「まだ開場せえへんのですか?」
女の子は手にしてたチラシを見せてきた。落語会のチラシだ。顔を近づけてよく見てみた。一時からと書いてある。十一時ではない。
――やべえ。開演時間を間違えちった。
どうする。お姉さんはもう帰ったかもしれない。けど呼び戻すのに時間はそうかからないはずだ。たとえ数人でも興味を持ってくれたんだ。絶対に落語を聴いてもらいたい。
「ほたる。どうしたん?」
「それがね。かくかくでしかじかなの」
事情を聴いたひめちゃんは受付を進んで引き受けてくれた。私は円都さんに一報をいれる。電話越しから「あほやなあ」と聞こえて「あほでしたわ」と答える。二人にも連絡を入れておいた。
受付を済ませた彼女の元へ行く。
「早くても二十分はかかるって。三人で準備しといてくれる?」
「ほたるはどうすんの?」
「戻ってくるまで繋ぐ」
時間がないのが分かってるからか、何も聞き返してこなかった。言葉はなかったけど唇は重なった。ファーストキスしちゃった。
「イヤリングのお返し。こんなことしかできへんけど」
「ううん。すっごい嬉しいよ。この口なら喋れる」
◇
座布団を抱えて高座へ上がる。頭をかきながらぺこぺこする。
「すいません、うちの師匠が寝坊してしまいまして」
なんて言い訳をして話し始める。仮にも一度、青菜をやりきったんだ。一回ぐらいなら死ぬ気でやれる。だけど落語はやらない。私はただの素人だからだ。
「頑張って、褒め部の人~」
「ありがとう。もう褒め部でええよ」
小さな笑いが起こる。客席からゴスロリちゃんが声をかけてくれた。おかげで空気が緩くなった。いつかあの子にもお礼をしないと。
彼女たちは何が聴きたいだろう。落語は円都さんに任せればいい。私は自分の出来ることをやる。お姉さんの落語をもっと楽しんでもらうために場を暖める。
みんな落語に興味がある。だったら趣味全開で良さを語ればいいんだ。今まで体験したことを全部話す。全部まくらだ。全力で楽しむ。楽しいをぶつける。それはきっと伝わるはずだから。
私は息を大きく吸って落語の魅力を語った。
悲劇も喜劇に変えてくれること。落語は日常を豊かにしてくれること。違う考え方も見せてくれる。とびきり可愛いファンタジーにもなるし、ダークな一面もある。同じネタでも落語家さんによって景色は変わる。
言葉一つで。仕草一つで。目の前に世界を創り上げて行く。
寄席は異世界に繋がってる。そこでは現実のことを忘れて笑える。心が疲れたら逃げ込める場所でもある。明日からの生きる糧をくれる。心に風を吹かせてくれる。暖かくてワクワクする。
「でも一番ええのは値段がむっちゃ安いってこと! こんなコスパのええ趣味は他にないと思う。あったらごめんね」
もしいつか興味がなくなっても大丈夫。いつでも寄席は傍にあるから。帰ってこれる場所があるから。いくつになっても楽しめるのが落語だから。いつだって受け入れてくれるから。
私は落語を愛してる。出会えて良かった。今ここにいる人たちにも。
心臓が破裂しそうだった。喉が渇く。照明は眩しくて熱い。
お姉さんから貰った手ぬぐいで汗を拭く。一人じゃないと思えて心が強くなる。だけどもう体は限界みたいだった。
「寝坊してすびばせんね」
と師匠が高座にひょいと顔を出した。足が痺れて立てないんですと言うと、私を袖まで引きずってくれた。わっと笑いが起こる。
「ごめんなさい。高座に上がってしまいました」
「なんで謝んのよ。こんだけ盛り上げといてさ。負けられへんやん」
「じゃあ私より笑わせてくださいね」
「当たり前やん。ワタシはプロよ」
力強くバトンタッチをする。明かりの先へと進んで行く。
たくさんの笑い声が聴こえた。意識が飛んだ。
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