見せたい景色
客席は空っぽだった。どう見たって一人しかいない。でも一人はいる。最前列に座った女性は目を輝かせて高座を見つめている。うっとりとした表情で落語を待っている。
「あんな顔見せられたら、こっちも楽しませたくなるやん」
楽しそうに笑う彼女を音で送り出す。出囃子の追い風を吹かせて高座へと押し上げる。大きな拍手が迎えてくれた。
軽くまくらを話して心の距離を近づけてゆく。
今日の円都さんはとてもリラックスしていた。喋りのテンポも緩く丸みがある。それはお客さんにも伝わって肩の力が抜けるのが見えた。暖かい言葉は足元から満ちて行く。会場をひたひたと飲みこんで行く。
――オレンジ色の羽織に手をかけ、物語の紐をほどく。
落語の世界に肩までとっぷりとつかる。景色が変わった。
たっぷりの湯気が見える。滾々と湧きだす水音が聴こえてくる。硫黄の香りが鼻に抜ける。浴衣姿の人々の頬にまあるい紅がさす。足湯がちゃぽんと音を立てた。
見える。ここにある。
傾斜のある小道は奥にずっと続いていて、温泉街のレトロな街並みが広がっている。豊かな自然に囲まれて澄んだ空気が気持ちいい。
炭酸せんべいのほのかな甘い匂いもしてくるし、ほかほかの酒まんじゅうは湯気を沸き立たせてる。サイダーの透明な瓶は汗をかいている。旅の景色がありありと見えてくる。まるで旅行に行っているかのような感覚にさせられる。
思った通りだ。やはり円都さんは旅の描写が得意だ。しかもよく知った有馬となればより想像を伝えやすい。お客さんも大きく頷いていて楽しそうだ。でも本当に楽しいのはここから。
言葉に弾みが付いてテンポが上がる。
二階の座敷に向かってすっと竹竿を伸ばし入れる。小銭はからころと竹をすべる。レモン色の水が零れ落ちてくる。
陽の光を反射しながら、おしっこが竹をつたう。
そう。おしっこだ。おしっこなのだ。用事で手を離せない人のおしっこ代行サービスなのだ。それでお金を稼ごうというのだ。有馬温泉で。もうあほらしくて肩の力が抜けてくる。ほんとにばかだなあと思う。
でもそれがいい。のんびりした温泉地にしょんべん屋が闊歩する。竹を持って陽気にしょんべんできまっせと言う。そんな状況をみんなすぐに受け入れる。わけが分からなくて楽しくなってくる。
しまいには綺麗に見えてくる。品すらもある。もはやレモンティーだ。やっぱりレモンティーには失礼だ。
下品にならず、さっぱりとやってのける。そんな名人芸をしているとは露知らず。ただ楽しませたいという一心で落語をする彼女に、客席にいる女性もほくほくした顔で笑う。この笑顔が見たかったんだ。
好きなのに落語を見れない、学長さんの笑顔を。
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