小さな一歩

 カフェのテーブルにホットココアをことりと置く。窓際の席に一人で座って海に沈む夕日を眺める。嵐のような日々だったなあと物思いに耽る。久しぶりに一人でぼーっとしていると突然声をかけられた。


「ほたるさん。相席いいかしら?」

「え、はい」


 私の前のテーブルでショートケーキの苺がふるふる揺れる。グレイヘアの女性がイスに腰かける。上品で落ち着いた声の主は、大学の学長さんだった。


「この冊子すごくいいわね。愛が詰まってるわ」

「ど、どうも」


 私たちの作ったフリーペーパーを幸せそうに読んでいる。こっちまで嬉しくなる。そういえば部活の顧問だったなと思い出して質問してみる。


「学長さんは、いつから落語が好きなんですか?」

「そうね、十七の時だったかしら」

「当時のことを聞いても?」

「いいわよ。あの頃は……」


 少し遠慮がちに言葉を紡いでいく。学長さんがまだ少女だった頃の話を。四天王の高座を生で見たこと。同年代のファンも多くて、落語に対する熱気に溢れていたこと。


「四天王もカッコよかったけど、私の最推しは別の人だったの。ただ推すのが遅くて、二年後に死んじゃったわ」


 両手を上げてあっけらかんと言う。哀しさはなさそうだ。


「分かります。油断してたら引退じゃなくて、永眠しちゃうから。だから推せるときに推さないとって!」


 ほんとにそうと二人で力強く頷いたのが面白くて笑う。


「ほたるさん、ほんとうに大きくなったわね」


 そう言われたから頭と胸に手を当ててみる。別にどこも大きくなってない。大きくなってるわよと私のまな板を指さす。


「ほら大きくなってる。命の灯」

「それ見えるんですか?」

「もちろん。私は死神の目を持ってるもの」


 なんて指でピストルの形を作って銀色の瞳を指さす。なるほど『鉄砲』だなと気付いて嘘だと分かる。学長さんは案外おちゃめらしい。おそらくあの廃部の時も。


「姫路さんのも見えますか?」

「ええ。あなたが薪を焚べた灯が見えるわね」

「そう仕向けたんですよね?」

「私はただ高座を用意しただけよ」

 

 学長さんはフリーペーパーの表紙を私に見せた。


「この笑顔を救ったのはあなたなの。あなたの言葉なのよ」


 救ったなんて大げさだ。ただ笑顔が見たかっただけだから。でも改めてそう言われると少し照れる。ひめちゃんの笑顔を見たくなってきた。


「そろそろお暇しようかしらね。あなたと話せて楽しかったわ」


 学長さんが席を立とうとした時だった。ほんの一瞬のことだった。テーブルに手を付けたまま数秒固まる。笑顔が消えたようにも見えた。見間違いだろうか。何事もなかったように立ち上がって笑顔で訊かれた。


「ところで、あなたたちは参加するの? 来月の文化祭」

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