私だけの世界

 緑豊かな森を湛えた広く静謐な境内。この須磨寺すまでらにも落語会があるという。会場である青葉殿しょうようでんは旅館の宴会場みたいだった。


 ずらっと三百席ほどの椅子が並ぶ。私たちは後方に座って全体を見渡す。ほぼ満席に近い。落語好きがこんなにもいることに嬉しくなって、テンションが上がる。二番太鼓の音がお腹に響く。


 昂った気持ちは維持しつつ、一呼吸入れて集中する。


 二人のおかげで心はすっかり晴れた。今なら落語が聴ける。存分に妄想できる。落語家さんの言葉は頭にすっと入ってきた。もう零れ落ちたりはしない。


 まくらで和歌の話を始めて恋愛という言葉が出たから、今から『崇徳院すとくいん』をかけると分かる。ひめちゃんとあの日、二階席で一緒に聴いたネタだ。


 このネタはオチまで知っている。だけど今の私なら別の楽しみ方ができるかもしれない。そう決めて妄想のリミットを外す。言葉の雨はざぶざぶと会場を飲みこむ。目の前の景色をがらっと変える。今までとは違う景色に。


 ――私だけの世界に変えてみせるんだ。


 客席を消し去る。落語家さんも消える。妄想の一番底へと潜る。


 ……見えた。はっきり見える。恋煩いで布団をかぶる若旦那が。いや、私が見える。恋に焦がれてどうにもできない私がいる。ひめちゃんに恋した私がいる。


 恋の悩みを手伝いの熊五郎に打ち明ける。熊五郎はうららちゃんだ。任せとけと頼もしく胸を張ってくれる。あっけらかんとした熊五郎もとい、うらごろうは私のために大阪中を駆け回ってくれる。考えもなしに飛び出して行く。


 そんなうらごろうに助言を与えるのはしっかり者の奥さん。しずくちゃんだ。二人は私たちの恋を助けてくれる。


「瀬をはやみ」と大声で詠いながら私の恋人を探してくれる。陽気な声が街に響き渡る。そんな姿がありありと目に浮かぶ。


 ――そう、これは私だけの崇徳院。


 落語はどんな想像をしたっていい。キャストを私たちに置き換えて遊んでもいい。時代だって変えてもいい。どんな想像でも受け入れてくれる。


 ここにいる三百人がそれぞれ違う想像をしている。みんな見ている景色は違う。だけど心は一つになって笑っている。みんなの好きを受け入れてくれる。


 ここは好きを好きでいていい場所なんだ。それが落語なんだ。

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