アクアリウムメモリー
――
しずくちゃんはそう言って私をある場所に連れてきてくれた。ここに来るのは子供の時以来かもしれない。昔と変わらない暗闇のトンネルを抜けると、そこには青色の世界があった。
大水槽にはたくさんの魚たちが泳いている。暗室にペパーミント色の明かりが満たされる。水の心地よい音だけが静かに聞こえる。ここは須磨の水族館。
「でもなんでスマスイ?」
「考えごとをするにはええ場所でしょ?」
分厚いアクリルガラスに透明な私が映り込む。その向こうに澄んだ海がある。確かに、暗くて静かなこの場所なら自分と向き合えそうだ。
館内を二人でしとしと歩く。真っ暗な部屋にきた。
暗闇にクラゲが浮かび上がる。ゆらゆらと白く尾を引いて揺蕩う。その姿を見ていると彼女の言葉を思い出す。
――結婚しよ。
自然とウェディングドレス姿を思い浮かべる。純白も似合いそうだし、彼女の好きなレモン色もいい。だけど結婚なんてまだ考えられない。恋愛が分からない。
今までは女子高だったし、今は女子大だし。男の子と恋愛したことはないし。そもそも最近まで友達すらいなかった。なのにいきなり恋人ができた。ひめちゃんは好きだ。でも本当に女の子を愛していいの?
「わたしね、うららちゃんが好き」
乳白色のライトがしずくちゃんのにんまりした顔を照らす。
「ここでいっぱいデートしたし、初めて仲良くなったのもここ。初めてキスしたのも」
閉じた唇が艶やかに光るから、その先を聞きたくなる。二人の愛を知りたくて耳を傾ける。だけどそれは私の想像を上回るいちゃらぶの洪水で。
――だめだ。溺れる。景色が勝手に浮かんでくる。
獰猛な魚たちの泳ぐアマゾン館が見える。暗闇に二人だけのシルエットが浮かび上がる。肌がふれあう。息がかかる。柔らかな唇が揺れる。遠くからことりと足音がして心臓が跳ねた。
息継ぎもできないほど、ぐるぐる景色が変わる。
ぴったり体を寄せ合って小さな水槽を覗く二人。タッチプールで手を重ね合わせる二人。お揃いのぬいぐるみを買って二人で声をあてて。そのイルカちゃんをちゅーをさせ合って――
もう溢れそうなぐらいラブストーリーを流しこんでくる。私を恋の海で溺れさせようとしてくる。とろけるような甘い話は頭に流れ込んできて妄想がどんどん膨らむ。想像は止まらないし、惚気ばなしも止まらない。
知らないことを一緒になって考えてくれたこと。二人でほんとうに好きなものを肯定しあったこと。自分の心に嘘はつかないと誓いあったこと。普通じゃなくていいんだと約束したこと。
「わたしは彼女が好き。でもね、好きになったのは女の子とちゃうの」
そこまで言って唇に指をあてる。私に考えてみてと言うように。
「……うららちゃんという人を好きになった?」
しずくちゃんは柔らかく笑う。性別じゃなくて一人の人間を好きになった。一緒にいて楽しいと思える人を。笑顔にしたい人を。心のもやもやがすうっと晴れて行く。ようやく自分の心が透明になった気がした。
「ありがと。おかげで答えが出たよ。だいぶドキドキしたけど」
「もっとすごいのもあるけど、聴きたい?」
恥ずかしくなって首を振る。笑いながらぽんと肩を叩かれた。
「さあ落語を聴きに行きましょう。今ならきっと大丈夫なはずよ」
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