夕日に向かって喋れ!
「井戸で冷やした
私は今まで生きてきた中で一番大きな声を出した。だけれども熱を込めてやらない。さらっと話す。今日一日頑張ったであろう、サラリーマンの疲れた顔だけを見据えて物語を紡ぐ。
「へへ、いただきます」
手でグラスを持つ仕草をする。そのまま口へ持って行く。くっと飲み干す。唇をんぱっと鳴らす。手ぬぐいで軽く汗を拭う。
「よお冷えてますな。汗がすうっ……と引いていくような心持ちで」
遠くで喉ぼとけがぐわりんと動くのが見えた。
今だ。ぱらっと少しだけ扇子を開くと、それを箸に見立てる。そして目に見えない刺身を摘まみあげる。ぽんと口に放り込むと、こりこりした食感を味わうようにほっぺを動かす。
男性は目が釘付けになる。ネクタイを緩める。
さあこれでとどめだ。口を動かしたまま手をくいっと捻る。魚とお酒で口をいっぱいに満たして一気に飲みこむ。まだだ。まだ何も言わない。
一、ニ、三。たっぷり間を作って、「ぷはあ~っ」と静かに感嘆の声を漏らした時だった。
彼は私を見たまま、漏れるように呟いた。
「ええなあ……キンキンで美味そうやなあ……」
緩みきった顔をしていた。にまにまと笑ってた。
それがもう嬉しくて嬉しくて、話を途中で投げ捨てようとしたけど、ぐっと堪えて続けた。ふわふわしていて後のことは覚えてない。オチを言うと、二人ほどの拍手が聞こえて目が覚めた。
「師匠!」
「弟子!」
手が痛いほどのハイタッチをした。たぶん今、ボニータイラーが流れてると思う。「いや、ボニータイラーはラグビーせえへんねん」と再度訂正された。
◇
「私の景色、見せれました」
青菜は涼しさを感じられるネタ。だから、汗をかいて働く人に涼しさを届けたいと思った。それで笑顔になってくれたらと。私の思いはちゃんと届いた。
「でも……やっぱり人前で話すのは苦手です」
こんな胃に穴が空くようなことは向いてない。ましてや寄席で毎日やるなんて絶対に無理だなあと思った。仕事にはできない。人を笑顔にする難しさを痛感した。
「そうかな。君はもうたくさんの人を笑顔にしとるかもよ?」
「私がですか?」
師匠は自分の胸に手を当て、燃えるような目で私を見る。
「ワタシたちはね、君が客席で笑ってくれるのが嬉しいの。それで笑顔になんのよ。ワタシら落語家はね」
――私が落語家さんを笑顔にしてる?
考えたこともなかった。そっか。笑ってるだけでいいんだ。私が笑顔なだけでいいんだ。落語が好きなだけで人を笑顔にできるんだ。
でもまだ終われない。私には一つやり残したことがある。
「私、最初で最後の落語をしてきます。一番笑顔にしたい人のために」
「行ってこい冒険者! 夕日に向かって走れ!」
夕日に向かおうとした。駅と逆方向なのでやめた。
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