新しい景色
高座。舞台のことを落語ではこう呼ぶそうだ。そこは板張りで、座布団が一つ置いてあるだけ。スポットライトが一点を照らす。
究極に何もない空間。それが高座。
その限りなく無に近い場所で落語家さんが一つ言葉を発する。すると高座に景色が見え始める。世界がもくもくと立ち現れる。
来る。あの感覚が。また景色が変わる――
瞬きをすると、目の前には動物園があった。太い銀の鉄格子が見える。獣独特の匂いがする。頼りない虎がいる。首の辺りにある、小さなチャックが揺れて光ってた。
十五分、落語家さんが変わる。
瞬き。今度は調子のいい陽気な男性が見える。喉を鳴らして酒を飲む。ほっくほくの茶碗蒸しをかきこむ。鯛の刺身はぷりぷり輝いている。透きとおる身に醤油が伝う。お腹が鳴った。自分の。
一転、今度はぐちゃっとした豆腐が見える。強烈な匂いを放ってる。カビの花がぽっぽっと咲いている。赤と緑。不思議と綺麗に見えた。
二十分、また変わる。
瞬き。今度は蛸がぬるりと立ち上がり墨を吐く。台所を塗りつぶして銀河にする。秒間三十フレームでぬるぬる動く。大胆なコマ割りで暴れまわる。三味線の音も暴れ狂う。蛸は強烈なパースで見得を切った。
楽しい。想像した世界で笑うのって、ほんとに楽しい。
――落語家さんの名前が書かれた札、めくり。それが『仲入り』となった時、高座に座布団だけが残って、それで休憩だと分かった。
一呼吸いれる。頭がほんのり熱い。
「ふう。ちょっと疲れました」
「頭フル回転してるって感じよね。前半はどうやった?」
見た景色を話す。しずくさんの睫毛がぱちくりする。
「すごいわ。それ他の人より見えてるかも」
「他の人より?」
うららさんは腕組みをして頷く。
「落語家と客は相性がある。二つの歯車がぴたりと合った時、落語トランスは発動すんの。きっとほたるんは誰とでも噛み合う。そんでその想像力で、常人を越えた景色が見えてる……凄い長所やね」
また褒められた。頭もぽかぽかなのに顔までぽかる。
「そんなほたるんなら、最後の景色はもっと凄いかも」
再演を告げる音が鳴り出した。体が熱い。眼が冴える。集中力が限界まで高まってる。うららさんの言葉に期待も高まる。いよいよ最後の落語だ。私はゆっくりと瞬きをした――
えっ。
そこはよく知っている場所だった。古びた宿屋。細かな間取りまで分かる。だってこれは、この物語は、美術館で見た『竹の水仙』なのだから。
知ってるはずだった。なのに全然違った。
竹を捌く職人の手は繊細で細い。柔らかく受け流すような力の使い方をしてる。キャラが違う。絵のタッチが違う。
この間のが力強い水墨画なら、今は水彩画。
竹の水仙も淡く優しい。一輪挿しの白磁の花瓶に活けられて、暖かい朝日を浴びてる。桶じゃない。道具まで変わってる。変わらないのは物語。また蕾がぶるりと震える。竹がしなる。そして水仙は――
咲いた。
静かな「ぱちっ」と言う音を立てて。静謐な朝に溶け込むように。滲むように。心地よい品のある音が鳴って咲いた。
――とんでもないことに気付いてしまった。これってつまり、落語家さんの数だけ違う景色が……。うん。もうこの沼からは出られそうにない。
◇
耳の奥に心地よい拍手の音が聞こえてくる。緞帳が降りて行ってる。まだ夢の中にいるような気分だった。ふと周りを見た。声が漏れた。
「まだあるやん。見たことない景色」
たくさんの人が笑ってた。たっぷり笑いで溢れてる。それがなんだか嬉しかった。自分のことのように嬉しかった。とってもいい景色だった。
だけど。
この景色はもう三人で見られなくなる。だって二人は。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます