第3話 後始末の時間

 ジョロッ……ジョロロッ……ジョッ……。



「ぜぇっ! ……はぁっ! ……ぜぇっ! ……はぁっ!」



 小エントランスに水音を響かせた大放尿が、終わりを告げた。


 最後の一滴まで絞り出したアリアは、憔悴し切った表情で荒い息を繰り返す。

 その顔は、汗と涙と涎でベトベトの酷い有様だ。


 そして、そんな顔面以上の大惨事となった両足は、産まれたての子鹿のようにプルプルと震えている。



 ――ゴトッ。



 アリアの体内に残っていた、およそ500mlもの小水を受け切った花瓶が床に置かれる。

 その重々しい音が引き鉄となり、アリアの膝がカクンと折れた。



「あぁぁっ」



 支えを失い倒れ込むアリアを、ここまでアリアを救い続けたメイドの少女、パルシィが受け止める。

 全身に感じる人の温もり……それはアリアの頭にかかっていた靄を払っていった。


 クリアになった視界が、足元に広がる惨状を映し出す。



 並々と小水を湛える2本のグラスと、花瓶。


 大理石の床にできた金色の水溜り。


 ぐっしょりと濡れた下半身。



 どう見ても『お漏らしの跡』にしか見えない有り様に、アリアの顔がくしゃりと歪んだ。



「あぁ……あぁぁっ……私……こんなところで……! ごめんなさい……ごめんなさいっ……あぁぁ……!」



 『中等部主席』


 『ランドハウゼンの皇女』



 輝かしい肩書きは今や金色の海に沈み、より惨めさを助長させた。

 泣き崩れ、パルシィに縋り付くアリア。


 パルシィとしても、このまま落ち着くまで慰めてやりたいところだが、ここは会場から扉一枚隔てただけのエントランスホール。

 しかも、アリアの我慢が想像以上にもたなかったせいで、身を隠せてすらいないのだ。


 目の前の扉が開かれただけで、アリアの明日からの呼び名は『お漏らし皇女』となる



「皇女殿下……一先ず――」


 ――ガチャッ。


「っ!?」



 一先ずこの場を離れようと声をかけるパルシィ。

 だがその言葉は、全く警戒していなかった方向からの開閉音に遮られた。


 戦慄の表情で背後の従業員室に振り向けば、曲がり角の向こうから黒髪のメイドが姿を現す。



「ひっ!?」



 自身の醜態が人目に晒される恐怖に、アリアはパルシィにしがみついてガタガタと震え出した。



「た、た、助けてっ……助けてっ……嫌ぁ……!!」



 その怯えた小動物のような様子に、パルシィは変な扉が開き、黒髪のメイドは泣きそうになる。



「わ、私だって……頑張ったのに……!」


「役☆得です♪ ……大丈夫ですよ、皇女殿下。彼女は私の仲間です」



 そう言われ、アリアはパルシィの影から伺うように、黒髪のメイドに目を向ける。



「ティーネと申します。ここは私にお任せください」


「あ、私はパルシィです」


「あきれた……自己紹介ぐらいしなさいよ」


「あはは……それどころじゃなくて」



 二人の気安い感じに、アリアの警戒も解けていく。本能的に、ティーネが味方だと悟ったのだ。



「では、ここはお願いします」


「ええ、任せておいて。今なら部屋に誰もいないわ。アリア様、また後ほど」


「じゃあ行きますよ! そぉいっ!」



 気合一発、アリアを持ち上げたパルシィは、従業員室を目指す。

 今度こそ、本当に助かった。そう安堵のため息をつくと、直後にぶり返してきた悲しみにアリアはさめざめと泣き出した。



「我慢っ……したんです………ずっと……我慢……! でもっ……みんながっ……私を、いじめて……うぅっ……トイレっ……行かせてくれなくて……!」



 それは、年端もいかない幼児の様な言い訳だ。


 確かに貴族なら、相手の様子を伺い敢えて声をかけない気遣いも必要ではあるが、やはり一番の原因は『トイレに行きたい』の一言が言えないアリアにある。

 アリア自身もわかっていたが、それでも何かの所為にしなければ、心が壊れてしまいそうだったのだ。



「存じておりますよ。人気者はお辛いですね……ですが、あれ程我慢されていたのに、皇女としての気丈な振る舞い。ご立派でしたよ」



 だからパルシィは、その甘えを受け入れ、優しい声でアリアの奮闘を讃えた。


 『貴女は立派な皇女ですよ』と



「よく扉まで耐えて下さいました。お陰で、私も助けに入ることができました」


「あぁぁっ……うぁぁぁっ……うわぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁっっ!!! あああぁあぁぁぁああぁぁっっ!!!」



 その優しさは、アリアの心の箍を外し、押し込めていた感情が溢れ出す。


 アリアはパルシィに抱きつきながら、暫く声を上げて泣き続けた。




 ◆◆




 結局この後、アリアがパーティ会場に戻ることはなかった。


 下着はパルシィが用意した物に穿き替え、足も綺麗に拭いたのだが、とても会場に戻る気にはなれなかったのだ。

 あそこまで取り乱した姿を晒したのだ。仮に戻ったとして、どれ程の好奇の視線に晒されることか。


 目敏い女性の中には、自分の窮状に気付いていた者もいるかもしれない。




『お手洗い、間に合いまして?』




 などと聞かれたら、今の弱った心では間違いなく泣き出してしまう。


 それにパーティは全部で3時間。今は漸く半分が過ぎた頃なのだ。



 下半身は完全に疲弊しきっている。

 先程の様な祝辞責めに遭えば、今度こそ1時間と持たずに、会場で水溜りを作ってしまうことだろう。


 実際、汚れを落としている最中に再び催してしまい、体を拭かれる刺激で為す術なく決壊。

 タオルに放尿するという醜態を晒している。



『で、で、出ちゃうっ! あぁぁっ!? ごめんなさいぃぃぃっっ!!!』



 尚、受け止めるパルシィは、何故か鼻血を垂らしていた。



 そのパルシィと相方のティーネだが、実は過去に一度、アリアと会ったことがある。

 素行の悪い貴族に難癖をつけられ貞操の危機に陥っていた時、当時12歳のアリアに救われたのだ。


 一歩も引かず2人を擁護しその身を守り切った小さな貴人の姿に、2人は崇拝に近い念を覚え、いつか恩を返そうと機会を伺っていたのだ。

 そして、今日の事件に遭遇した。


 気を持ち直したアリアの心からの感謝に、パルシィは再び鼻血を、ティーネは下から、出しちゃいけない何かを溢れさせた。



『ぼっだいないおごどばでずぅぅぅぅぅっっ!!!』


『んくぅぅぅっ!! この程度っ、はぁっ! はぁっ! あの日の御恩に比べればっ!!』



 アリアの様子がおかしかった件に関しては、飲みすぎと気疲れで体調を崩していたということで処理された。


 彼女が1時間半、休みなく飲み、踊り、会話をしていたことは、会場の多くの者が知ることであり、疑う者はほぼいなかった。


 中には真相に気付き、そしてアリアが戻ってこなかったことで何かを察した者もいたが、皆一様に口をつぐんでいる。

 若輩を気遣うべき立場にありながら、我欲を優先させ少女に休みなしの応対を強いた来賓達に、皇帝自ら厳重注意を言い渡したからだ。


 掘り返してアリアに恥をかかせでもしたら、家のお取り潰しもあり得る。


 こうして終業パーティでのアリアの失態は、闇に葬られることとなった。

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