第4話 第二の試練『慈悲』

 光が止むと、アリアはまた、遺跡の中に戻っていた。



『第一の試練を突破しました。第二の試練を開始しますか?』



「あぁぁっ……そんなっ……そんなっ!」



『後は着替えて、そしたらトイレに行ける』


 そう思っていたアリアの希望は、粉々に打ち砕かれた。



「あぁぁっ!? だ、だめっ! ダメぇぇぇぇっ!!」



 遠退いていく希望に、疲弊した括約筋が屈しかける。

 アリアは死ぬ思いで力を振り絞り、尿道への浸水を食い止めた。



(あ、危なかった……んんっ! でも、もうっ……!)



 あのまま着替えてトイレに行けていれば、十中八九間に合っていただろう。

 もしかすると下着を濡らすことになったかもしれないが、大洪水は避けられた筈だ。


 だが、その道は閉ざされた。




『お漏らし』




 考えることを避けていた四文字が、現実味を帯び始める。



(だめっ! だめよっ! そんなこと……絶対に……んんっ!?)


「あああっ!? あああああっ!!」



 遅いくる大波。遠ざかるトイレ。

 アリアの心に、絶望が広がる。



(もう、我慢できないっ! あぁっ、どうしたらいいのっ!?)



『第二の試練を開始しますか?』



「しれ……ん……っ! やるっ! やりますっ!!」



 アリアの返事に、魔法陣が眩い光を放つ。


 どうやら試練の際は、一時的にこの遺跡から出ることができるようだ。

 ならば次の飛ばされた先で、試練を終える前にトイレに行ければ、最悪の事態は回避できる。



(もう、どう思われてもいい! トイレっ、トイレぇぇぇっ!!)



『『慈悲』の試練を開始します』




 ◆◆




 光が止むと、アリアは素早く瞬きをして周囲を見渡した。


 今度の試練の舞台は、街中だった。

 建築様式は帝国やランドハウゼンと似ているが、一、二世代遅れているようにも思える。

 少なくとも、アリアの知識の中には、存在しない街並みだった。


 アリアは知る由もなかったが、ここはアリア達の住むイーヴリス大陸ではない。

 魔獣犇く南東の海を超えた先にある地域、『エルドラン海域』にある国の一つだ。


 だがアリアにとって重要なのは、ここがどこかではない。



(トイレっ! トイレはどこっ!? 私っ、もう、我慢できないっ!!)



 どこかにトイレはないか、アリアは周囲を見回した。

 こんな状態になっても、アリアはまだ店でトイレを借りることを躊躇っていた。

 だから必死に公衆トイレを探したが、残念ながら見える範囲にトイレは見つからない。



(あぁぁっ……どうしようっ!? どうしようっ!?)



 ――ジョロッ。


「うああぁぁあぁっっ!!?!?」



 とうとう、ほんの少しだけ、出口が開いてしまった。


 浸水は僅か。

 だがインナーのクロッチに、小さな、だが確かな染みが広がる。



「あああぁぁぁぁぁぁぁ……っ」



 最早、一刻の猶予もない。

 アリアは一つだけ気に留めていた、客の少ない喫茶店に飛び込んだ。



「あ、ああの、そのっ、すみませんっ、トイレっ、あぁぁっ!? くぅぅっ……トイレをっ、貸して下さい……!」



 入ってくるなりそう告げたアリアに、店のマスターが不機嫌そうな視線をぶつける。



「トイレは客専用だよ」


「あ、あ、ちゅ、注文しますっ。でもっ、先に、トイレにっ。おおお願いしますっ!」



 だが、目に涙を浮かべ懇願するアリアの様子に、視線は徐々に哀れみを帯びていく。



「はぁ……振り返って左奥の扉だ」


「ありがとうございますっ! あっ、あっ、あっ、あああぁぁぁぁ……っ!」



 腰を突き出し、内股で、言われた方向に駆け出すアリア。

 そして、初めてしっかりと、トイレに続く扉を視界に収めた。




「あ、あぁ、あぁぁぁっ!?」




 扉の前には、既に2人の女性が列を作っていた。



(そんなっ、そんなぁっ!)



 たった2人。

 だが、今にも忍耐の糸が切れてしまいそうなアリアにとっては、永遠とすら思える時間だ。

 しかも2人とも、アリアほどではないが落ち着きがなく、とても順番を譲ってもらうことはできなそうだ。



(が、我慢っ、我慢よっ! 後2人……たった、ふたりぃ……!)



 ジョッ、ジョロッ。


「ああぁあぁぁあぁっっっ!?」



 再びの浸水。

 放出の快感を知った尿道は、もう容易く小水の侵入を許してしまう。



(だ、だめぇっ、間に合わないっ!)



 一人は出てきた。順番待ちは後一人。

 だが、その一人すら、アリアは待てる気がしなかった。



(漏れるっ、漏れるぅぅっ!!)


「ね、ねぇ」


「っ!?」



 尿意に支配された思考が、現実に引き戻される。

 顔を上げると、前の女性が気遣わしげな表情でアリアを見ていた。



「順番、変わろうか?」



 彼女も額に汗を浮かべているし、しきりに太ももを擦り合わせている。

 それでも、あと1人2人間に挟んだところで、間に合わなくなることはないのだろう。

 少なくとも、今にも限界を超えようとしている哀れな少女に、順番を譲る程度の余裕はあるようだ。



「ああありがとうございますっ!!」



 一も二もなく、アリアはその施しに飛びついた。

 これで目の前の扉が開けば、アリアの長い戦いはハッピーエンドを迎えることができる。


 そして、その始まりを告げる水音が聞こえてきた。



「くううぅぅぅぅぅっっっ!!!」



 膨れ上がった膀胱が、水音に反応して収縮を始めようとする。



(まだっ! まだよっ! もう少しだからっ、お願いぃぃっ!)



 これが最後の我慢。

 アリアは全ての力を振り絞り、力を抜こうとする括約筋を締め上げる。



 そして、ついに、扉が開いた。



(あぁっ! 間に合っ――)


「漏れちゃうううううぅぅっっ!!!」






 幼い声が、店内に響き渡った。






 5~6歳くらいの少女だ。

 両手で出口を抑え、泣きながらトイレの方に走ってくる。

 その様子は、アリアに負けず劣らず切迫したものに見えた。


 彼女は涙でぐしゃぐしゃの顔をアリアに向けて、無自覚に、悪魔のような言葉を口にした。



「お姉ちゃんお願いっ! 先に入らせてっ! もう漏れちゃうっ!!」


「え、あ、あの、私……っ!」



 『どうぞ』と即答できないアリアを、誰が責めることができようか。

 少なくとも、彼女の窮状を知る店内の客は、皆気の毒そうな表情を浮かべていた。


 やがて少女の目にも、涙目で膝を擦り合わせるアリアの姿が映る。



「お姉ちゃんも……漏れちゃいそうなの……?」



 自分も限界だというのに、年上のアリアを慮る言葉。それが、逆にトドメとなった。




「お、お姉ちゃんはっ、大丈夫よっ。漏らしたりなんて……んんっ……し、しないわっ!」




 精一杯平静を装い、少女に道を譲るアリア。



「ありがとうお姉ちゃん! すぐ出るからっ!」



 一目散にトイレに駆け込む少女に対し、何とか『お姉ちゃん』の体裁を守り切った。

 が、そこまでだった。


 やがて聞こえてくる小さな水音に、アリアの理性が崩れ落ちる。




「ごごごめんないっ! 早くしてっ! お姉ちゃん、本当はもう我慢できないの!」


「ごめんねっ! お姉ちゃんごめんねっ! もうちょっと! もうちょっとだから!」


「早くっ! 早く変わってぇぇっ!!」



 ジョロッ、ジョロロッ。



「あああぁぁあぁっ!! 早くうううぅぅっ!!」



 店中の注目を集める、アリアの壮絶な我慢。

 恥も外聞もかなぐり捨て、両手で力一杯に出口を押さえつける。

 全てはその先にある、最悪の醜態を回避するため。



 そして、そんなアリアに答えるかのように、最後の扉が開かれた。



「お姉ちゃんっ!!」


「ああああああああぁぁぁぁぁぁっっ!!!」




 ――最後の、試練の扉が。






 光が、再びアリアを包んだ。

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