第3話 第一の試練『使命感』

『進んでいけば、トイレがあるかも知れない』



 何せここまで整った環境だ。

 人が長時間過ごすことを、想定していてもおかしくはない。

 ならば、トイレだってあるはずだ。



 そんなアリアの淡い期待は、扉の先の部屋に入った瞬間、脆くも砕け散った。


 入ってきたところ以外、扉は奥の封印されたもの一つ。

 とてもトイレに繋がっているとは思えない。


 そして、目の前の立て看板だ。



「ふぅぅっ……三つの、試練……?」



 看板には、こう書かれている。




『三つの試練。『使命感』、『慈悲』、『献身』。聖涙の衣を欲する者よ。汝が心を示せ』



 『試練』だ。



 恐らく、ここは何らかの魔導具の保管庫で、アリアはそれを手に入れるための試練の間に迷い込んだのだ。

 途中でトイレがあるとは思えない。



「んんっ……これ、全部……あぁぁっ……やるしか、ないの……!?」



 焦燥が、膀胱を縮み上がらせる。

 アリアにはもう、一刻も早く全ての試練をクリアし、ここを出る以外に道は残されていない。


 部屋の中心には、これ見よがしに光を放つ、複雑な術式で書き上げられた魔法陣がある。

 顔面を真っ青にしながら、アリアはそれに足を踏み入れた。




『第一の試練を開始しますか?』




「……やるわ……!」



 魔法陣の放つ光が、より一層強くなる。



『『使命感』の試練を開始します』



 アリアの視界が光に包まれ、やがて遺跡とは別の風景が浮かび上がる。



「っ!? ここはっ!」



 目を開けると、そこには見慣れた風景が広がっていた。


 ノイングラート帝国、皇立学園ベルンカイト本校。

 アリアは学園に帰ってきていた。



 何故? どうして学園に?

 状況が飲み込めず、不安を覚えるアリア。


 だが、それでも――



(トイレ! トイレに行けるっ! あぁぁっ……よかったっ……!)



 遥か彼方の存在だったトイレが、すぐそこにあるのだ。

 しかも、普通に実習から戻るよりも、かなり時間を短縮できている。

 アリアは、天にも昇る気持ちだった。



「んんっ……!」


(ダメよっ、油断しちゃ。慎重に……でも、できるだけ早く、トイレにっ……!)



 余裕ができたとは言え、かなり追い詰められていることに変わりはない。


 それに、ここが『試練』の舞台である可能性も捨てきれない。

 試練を終えたら、またあの遺跡に戻されるかもしれないのだ。

 その前に、何としてでもトイレに行かなければいけない。


 焦りを悟られないギリギリの速さで、アリアは校舎へと入っていった。




 ◆◆




「んんんっ! んんんんっっ!!」



『もうすぐトイレに行ける』


 そう思うこともまた、尿意を加速させる原因の一つだ。

 アリアの顔には脂汗が浮かび、うめき声は、そろそろ隠すのが難しいほどに大きくなっていた。


(大丈夫……我慢できるっ! 我慢っ……がまっ、あぁぁっ……!)



 膀胱を満たす熱水が、急かすように出口を叩く。



「ふぅぅぅ……んっ!? んむぅぅぅっっ!!」



 だが、これ以上苦悶を表に出すわけにはいかない。

 今、アリアは注目を集めている。


 アリアは、勿論いい意味でだが目立つ生徒だ。

 そんなアリアが訓練服のまま、他の生徒に先んじて学園に戻り、険しい顔をして廊下を歩いている。

 視線を集めてしまうのも、致し方ないことだ。


 故に――



「あっ……ん……くぅっ!」




 目の前に現れた、赤いマーク。



 夢にまで見たトイレの看板を、アリアは切なそうに見上げただけで、足を向けることなく通り過ぎた。



(あぁぁっ、トイレぇぇっ……!)



 アリアが今着ている訓練服のインナーは、上下一体の黒いレオタード。

 さらに股布部分は、ズラす、破るなどが出来ないように、固くキツく作られている。


 生徒達には知らされていないが、過去の調査実習で、教師の目がないのをいいことに不埒な行為に及んだ生徒がいたため、対策が為されたのだ。


 そのため用を足す場合は、ソックスとブーツを残して、全裸になる必要がある。

 なので実習の後は、皆着替えを済ませてからトイレに行くのが常識だ。


 訓練服のままトイレに飛び込むといことは、『私は着替えの時間も我慢できないほど漏れそうなんです』、と言っているのと同じなのだ。



(ダメっ……そんなの、耐えられないっ! 我慢……あぁぁ……まだ、我慢よっ……!)



 ならば着替えを……と行きたいところだが、アリアが向かっているのは更衣室ではない。


 優秀なアリアは、この学園に置ける自分の立ち位置をよく理解している。


 アリアの母国、ランドハウゼン皇国は帝国の隣国にして最大の同盟国だ。

 父ランドハウゼン皇王は、帝国内でも実権こそないが、影響力なら皇帝に次ぐとまで言われている。


 その娘の自分が、『安全だ』と保証された遺跡内で、未知のトラップにより行方不明になったのだ。

 どれほどの人々にまで責任が及ぶのか、想像もつかない。


 一刻も早く自身が無事であること、そしてある程度は仕方がない、未開放領域によるものだと、関係各所に伝える必要がある。



(それまでは……我慢……我慢、するのよっ! 私はっ、ランドハウゼンの、おう、じょ……あぁぁっ、でも、トイレぇぇっ……!)



 もちろん、アリアが関係者全員を回る余裕はないし、そんな必要もない。

 アリア程の立場の者なら、学園長に直接報告をして後のことを頼めばいいのだ。

 あと少し、あと少しの辛抱でトイレに行ける。


 アリアは震える手で、学園長室の扉を叩いた。




 ◆




「状況はわかりました。大変だったわね」



 穏やかの雰囲気の年配の女性。

 学園長はアリアの報告を聞いて、優しい声でそう告げた。



「それにしても、あの遺跡に未開放領域があったなんて。エクエス・レヴィエム……やはり厄介な人物だったようね」


「あの、私、その……っ!」



 遺跡と先史文明の天才に意識が逸れた学園長に、アリアが切羽詰まったように声をかける。



「あら、ごめんなさい。貴女にはまだ、聞きたいことがあるのだけど……」


「っ!?」


(先に、行かせてあげた方がよさそうね)



 報告の間、アリアはずっと、忙しなく太ももを擦り合わせていた。

 表情は固く、時たまブルっと震えては言葉を詰まらせる。


 誰が見ても、トイレを我慢しているとしか思えない。

 それも、今すぐにでも駆け込まないと、大変なことになる位に。



「実習から気を張りっぱなしで、疲れたでしょう。着替えて少し休んでから、また来てちょうだい」


「は、はいぃっ! しし失礼致しますっっ!! あぁぁぁ……っ」



 学園長の言葉を聞くや否や、アリアは安堵に顔を綻ばせ、逃げるように学園長室を後にした。


 廊下に出たアリアは、周囲の視線も構わず、早足で歩き出した。

 最早、転移直後の余裕は一切ない。



(も、も、もう、限界っ! あぁぁっ……あと少しっ! あと、着替えだけだからっ、お願いっ……!)


 尚、無事に帰路に着いていた場合、そろそろ馬車に乗り込む頃だ。


 帝国の馬車は新しいモデルだし、道だって舗装されている。

 だが、それでも微弱な揺れは、断続的に発生する。

 こんな状態で揺れに襲われ続けて、本当に学園まで我慢しきれたのか……今となっては怪しいところだ。


 遺跡からの招きに若干感謝を捧げながら、アリアは更衣室の扉を開いた。


 そして――



「えっ」





――光に飲み込まれた。

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