第36話 仕事3
お藤が静かに言う。
「つまり、あんたたち二人の殺しの依頼が来たんだ。普段は標的に向かって『あんたたちが標的です』とは言わない。依頼人のことも言わない。だけど今回は特別だ。知りたきゃ依頼人を教えてもいいよ」
主人とお内儀が顔を見合わせる。
「興味ないね、そんなこと」
「お内儀さん、柚香が悠一郎の子を身籠った時、羨ましかったかい?」
お藤は極力さりげなく言ったつもりだったが、明らかにお内儀の顔が変わった。
「おりんが亭主の子を孕んだ時、嫉妬したかい?」
お内儀はさっき真っ赤になった顔を真っ青にしてわなわなと震え出した。
「あんたは天神屋の跡取りが欲しかったわけじゃない。自分が惚れた男の子供を産みたかった。そうだろ?」
「お黙り」
地の底から湧き上がるような声だった。
「あんたは柏華楼で全く売れない遊女で、悠一郎のことが好きだった。だけど柚香に持っていかれた。あんたは別の男の子供を孕んじまって、仕方なく酸漿を使った。あんたは二度と子供を産めない体になったというのに、柚香は悠一郎の子を腹に宿し、あんたと違って酸漿は使わずにそのまま子供を産んだ。悠一郎が死んじまっても彼の忘れ形見がそこに居る。あんたはと言えば、散々な思いをしたのに全く売れない。そこに来たのが天神屋の若旦那だ。あんたはこの若旦那を独り占めしたい、絶対に逃がさない、というつもりでいた。そうだね」
お内儀は唇を震わせながらお藤を睨みつけたまま黙っていた。
「あんたは別にこの若旦那に惚れてたわけじゃない。柏華楼であんたを売れ残りと馬鹿にしていた女たち――少なくともあんた自身がそう思っていた女たちに復讐したかった。『ほれ見たことか、あたしはこんな大店の若旦那をつかまえたんだ、あたしを甘く見るんじゃないよ』と見せびらかしたかった。そう、あんたは大輪の花を咲かせたつもりでいたんだ。なのにこの馬鹿旦那はあんたの古巣である柏華楼に出入りしていた。あまつさえ、お店の女中に手を出して、子供を孕ませた。馬鹿なのかね、この旦那は」
お藤の容赦ない言い方に若旦那は目を剥いた。だが、やったことはすべて事実なので何も言えない。
「だけど、あんたには子供が産めない。子供がいないということになると、天神屋の跡取りがいなくなるってことだ。それは御主人よりむしろお内儀の方が死活問題だったんじゃないのかい?」
これには主人の方が驚いた。なぜお内儀の方が問題になるのか。
「分かんないって顔だね、ご主人は。あんた本当にお内儀のことこれっぽっちも見てなかったのかい。嫁に来たとき無花果の木を切ろうと言い出したのはなぜなのか、ほんのちょっとも想像しなかったのかい。華だよ。いいかい、女ってのは華が無いと生きていけないんだ、お内儀は華って名前が示すように、人一倍華を欲してる」
「それとこれとどういう関係が?」
ここまで言ってわからないというのは、よほどお内儀をどうでもいい人間として扱っていたのだろう。そうでなければこの主人はそもそもが馬鹿だ。
「悠一郎に見向きもされず、柏華楼では相手にされなかったお華が唯一花を咲かせたのは、あんたと所帯を持ったときさ。それも柏原で一番の呉服屋である天神屋の若旦那であるあんたとね。あんたが棒手振りなら花なんか咲かなかっただろうよ」
主人は呆然とお藤を見つめていたが、ゆっくりとお内儀に視線を移した。
「そうなのか? お前が欲しかったのは私ではなくて天神屋のお内儀という肩書だったのか?」
お内儀は黙ったまま、目の前の畳の縁をじっと見つめていた。それが答えでもあった。
「華絵」
「触らないで!」
主人が彼女の肩に手を置こうとするのを、彼女は思い切り振り払った。
「ああ、そうですよ。そうに決まってるじゃありませんか。あんたなんか天神屋の若旦那ということ以外にどんな取り柄があるって言うんです? 商売のことなんか何もわからない。彦左がいなけりゃ何もできない。朝から晩まで若い娘の尻を追い回して、柏華楼に出入りして、昼間っから湯屋の二階で酒飲んで、あたしには見向きもしないで女中に手を出して。あんたがこのお店のために一体何をしたって言うんです? 言えるものなら言ってごらんなさいよ!」
主人は彼女にかける言葉もなく、口を半開きにしたまま悲し気な目を向けている。
「あたしには悠一郎しかいなかった。そりゃあいい男だったよ。あたしの全てだった。あの人の為なら何でもできると思ったよ。だけどあの人は柚香に首ったけだったのさ。憎ったらしいあの女。あの女はわざと孕んだんだ。悠一郎を自分のものにするために。結局あの女は死んじまったけどね。悠一郎も迎えになんか来なかった。ざまあみろだ。花柳病だろうよ。遊女の宿命さ」
お内儀はふんと鼻で笑うと、また主人をぎろりと睨みつけた。
「あたしは柚香に負けた。柏華楼の女たちみんなの笑いものさ。惨めだったよ」
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