第6話 三すくみの問題

 その日の夢で覚えているのは、

「三すくみ」

 というものであった。

 三すくみというと、

「じゃんけん」

 であったり、

「ヘビ、カエル、ナメクジ」

 の話であったりするのだが、この日の夢には、後者の歌舞伎の物語が出てきたのを思い出したのだ。

 それは、

「大蛇丸、自来也、綱手姫」

 の三人を刺している。

 しかも、これは入れ墨図柄の意味という意味での発想であり、

「そもそも、それぞれ三すくみ、つまりは、ヘビはカエルと飲み込むが、ナメクジに溶かされてしまい、カエルはナメクジを食べるが、ヘビに食われてしまう。そして、当然ナメクジはカエルに食われるが、ヘビを解かす」

 という意味で、それぞれが抑止力となって、結果、まったく動けないというものである。

 それを一つの身体に入れることで、それぞれがけん制しあって、お互いを締め付けることになり、その間に挟まれた人間は、絞殺されてしまうという意味合いから、

「一人の背中に、この三つを掘ることは許されない」

 として、忌み嫌うものだということなのだ。

 これは、昔の探偵小説の題材にも描かれたもので、それを利用して犯罪を考えたというのを、なぜかその日の夢で見たのだ。

「どうして、三すくみなんだろう?」

 と考えたが、うまく言葉にできなかった。

「昨日、好む好まざるにかかわらず、人が死んでいるのを目の当たりにしたからだろうか?」

 と感じた。

 確かに、人が死んでいるのを見るのは初めてで、しかも、それが殺人事件ともなると、ショックは大きかった。

 中学時代の交通事故は、大きな事故であったが、その時、救急車で運ばれていったので、少なくとも死んでいたわけではない。

 だが、あの惨状は、死んでいるところを目の当たりにするよりも、恐ろしいものだったといえるのではないだろうか。

 それを思うと、交通事故の惨状は、一度見ると、そのショックが消えるまでには、かなりの時間が掛かることだろう。

 だが、殺人事件に遭遇した時はどうだろう? 人が殺される瞬間を見たわけではなく、あくまでも、死体を見たのである。

「断末魔の表情」

 とはよく言ったものだが、今夜のあの死体の顔をまともに見ることができなかったのは、暗かったということもそうだが、見えたとして、どこまでショックだっただろう?

 それよりも、

「俺はこの事件とは関係ないんだ」

 という思いの方が強く、警察に疑われない状態だったのは、よかったと感じることだろう。

 もし、疑われるようなことになったら、死体を見たその瞬間よりも、さらにリアルに自分に襲い掛かる恐怖を感じることになる。

「冤罪で、殺人犯になどされたら、どうすればいいんだ?」

 という思いがあり。誰かに助けてもらいたいと思うが、下手をするとその人から助けてもらったとしても、

「今度はその人から狙われることになるのではないか?」

 と思うと恐怖しかない。

 その時に、自分を助けてくれて、犯人を懲らしめてくれる人の登場を待ち望むのは、三すくみの理論とは違っているはずなのに、何か共通点を見つけようと考えることであり、その思いが夢に出てきたのかも知れない。

「自分なら、3つのうちのどれがいいだろう?」

 と考えた。

 三すくみというのは、それぞれが、他の二つに対して、

「片方には、絶対的な強さがあり、片方には絶対的な弱さがあるというのを、トライアングルで循環しているかのようなものである」

 と定義できるのではないだろうか?

 だから、本当なら、自分が強い相手をやっつけるとすると、自分に強い相手が、自分を脅かす相手を食べてくれたことで、自由に動けるようになり、そいつが今度は自分を食べてしまうことになる。そして、自分に強いものだけが、生き残ることになる。

 つまり、三すくみというのは、それぞれ一体しかいないものだとすれば、

「最初に動いたものがいれば、最終的に、最初に動いたものに強いものが勝者となって生き残る」

 ということになる、

 だから、ハッキリいえば、

「最初に動けば生き残ることはできない」

 ということになるのだ。

 では、じゃんけんの場合はどうであろう? じゃんけんというのは、三すくみの動物、一体ずつを一つの密室に閉じ込めておくのとはわけが違う。

 なぜなら、

「あいこ」

 というものが存在するからだ。

 三人でじゃんけんをして、

「二人が、グーを出して、一人がパーを出せば、パーの一人負けで、最後は決勝を二人で行うことになり、逆に一人がチョキを出して、二人がパーを出せば、その時点で、チョキを出したものの勝ちとなってしまう。同じパターンが、グーとチョキの間にもできるのであるが。また、三人がそれぞれで違うものを出せば、皆同じものを出したのと同じで、あいこということになるだろう」

 もっとも、これは3人でじゃんけんをした場合のことであり、二人で行った場合は、あいこがあるだけの、普通の勝負でしかない。四人以上でも、三人とほぼ内容は同じ。ということは、二人以外であれば、あとは、3人以上ということで同じことになるのだった。

 だとすると、じゃんけんというものは、

「3すくみでありながら、相手を抑止して動けない」

 という理論ではなくなる。

 ただ、それぞれの力関係が三すくみだというだけで、それを感が合えると、じゃんけんというのは、確率の証明の道具となると言った、数学的要素が大きいのかも知れない。

 つまり、じゃんけんなどのゲームは、

「基本的に、それぞれが公平に出す」

 ということで、先制攻撃や、奇襲攻撃は許されないのだ。

 であれば、抑止力としての三すくみは、実用的ではないということも言えるのではないだろうか。

 あくまでも理屈の上だけということになる。

 なぜかというと、

「ヘビも、カエルも、ナメクジも、絶対に一体であるということはありえない」

 からである。

 そもそも、それぞれ一体を密室に入れて、そこで様子を見ているというのは、あくまでも実験的要素であり、世の中に、それぞれの動物が一体ずつしかいないということはありえない。

 だから、通常の世の中で、ヘビが動いてカエルを食べたので、ナメクジが残ったヘビを溶かしても、他のカエルが、自分を食べるかも知れない。カエルという動物が一匹減っただけなのだ。

 そして、そのカエルもまた、ヘビの餌食である。

 となると、あくまでも三すくみとは理論上の問題であり、自然の生態系に、何ら影響を与えることはない。

 ただし、そのうちの一角が崩れてしまうとどうなるか?

 何かの影響で、例えばヘビが全滅してしまえば、どうなるか?

 カエルは、ヘビに食われることがなくまり、ナメクジを食い放題ということになり、最後はカエルの一人勝ちになってしまう。

「だが、果たしてそこで終わりであろうか? いや、違う。カエルだけが生き残っても、今度はカエルの餌となるべき、ナメクジは全滅することになるのだ。そうなると、食料のなくなったカエルは、飢え死にしてしまうだろう。結局すべてが死滅してしまうことになる」

 ただ、これは、三すくみの動物が、食料を一つの動物に限った場合の理屈ではあるが、この問題が、生態系の循環という問題である。

 厳密にいえば、これも理論上の問題でしかなく、話としては、フィクションでしかないのだ。

「三すくみというのは、理論ではなく、心理戦だ」

 という人もいた。

 その人は、不知火の知り合いで、

「いや、ただの知り合いではないか?」

 と考える相手、自分が好きになり、そのままずっと気持ちが変わっていない、なるみという女性であった。

 不知火は、今まで好きになった女性は何人もいるが、それが長続きしたことはなかった。

「俺って、飽きっぽいんだ」

 という思いを抱いたのは、女性に対しての感情と、食事に対しての感情からだった。

 食事に関しては、不思議な感覚を持っていて、

「好きなものがあれば、いくらでも続けようと思うのだが、それが止まるのは、飽きた時であった。飽きてしまうと、見るのも嫌になるのだが、それが極端なのだ」

 といえる。

「何が極端なのか?」

 と聞かれると、

「最初は、まったく分からないんだけど、同じように、これは好きだと思って食べ始めても、2,3日で飽きてしまうこともあるようなあっけない感じの時もあれば、逆に、半年続けても飽きがこないと思う時もある。そういう意味での、飽きが来るまでの期間に、相当な開きがある」

 と答えていた。

「なるほど、それは、本当に極端だ。本当に最初はまったく分からないのかい?」

 と聞かれると、

「ああ、本当に分からないんだ。そういう意味で、自分の味覚というのは、本当に曖昧なものなのかも知れないと思うんだよ」

 というと、相手はどこまで信用できるんだろうとばかりに考えてしまっているようだった。

 なるみという女性は、そんな中でも、飽きがくるような気が最初からしなかった。一種の、

「一目ぼれ」

 というものだったが、考えてみれば、今までの不知火から考えれば、いつもは、少しずつ相手を好きになることばかりだったので、一目ぼれというのは、初めてのことではなかったであろうか?

 そんなことを考えていると、なるみの顔が思い浮かんでくる。

 今まで好きになった人を思い出してみると、ちょっと気になるという程度の時は、顔を思い浮かべると、すぐに浮かんでくるのだったが、本当に好きだと思うくらいにまで発展してくると、今度は逆に、すぐに思い出そうとしても、頭に靄がかかったかのように、ハッキリとしないのだった。

「これって、緊張のようなものなのか、それとも、好きになったことで、自分の好みの女性とのイメージが曖昧だから、頭の中の焦点が合わないという感覚になるからなのだろうか?」

 と考えた。

 確かに、これまでの不知火は、自分が好きな女性のタイプというのは曖昧だった。

「どんな女性が好きなんだい?」

 と聞かれても、

「うーん」

 と曖昧な返事しかできなかったような気がする。

 そんな中で、思い出そうとしても、顔がハッキリと思い出せる、なるみという女性は、本当に自分の好みの女性なのだろうと思う。

「今まで、なるみに遭うために生きてきたのではないだろうか?」

 とまで思うほどだった。

 このセリフは、よくプロポーズであったり、

「私をいつ好きになってくれたの?」

 と聞かれた時に答えるセリフの定番として考えられるものだが、まさか、自分にもそんな風に感じられる女性が現れるとは、正直思っていなかった。

 だから、なるみとの出会いは、

「偶然で片付けてしまってはいけないものなのだ」

 と、感じるようになっていた。

 なるみと知り合ったのは、一見、

「こんなの偶然ではないか?」

 と思うような出会いだった。

 偶然でなければ、まるで不知火がストーカーではないか? と言われるような形になって不思議のない出会いだったので、それを認めたくなければ、偶然で片付けるしかないというほど、本来なら恥ずかしいものだった。

 だが、知り合ってから少しして、明らかに、なるみが変わったのだった。

 それまでのなるみは、どこか捉えどころのない、よく言えば、

「天真爛漫」

 少し違う言い方(いや、本音を言えば)をすれば、

「天然」

 というところだったのだが、ある日から急に笑わなくなった。

 それまでは、いつも笑顔で、

「本当の顔はどこにあるのだろう?」

 という思いを抱かせるような顔だったのに、それ以降の顔は一体何なのか、真顔と言えばいいのか、それまでの顔しか知らないので、恐怖しかないのだった。

「こんな恐ろしい顔を、笑顔のウラに隠していたんだ」

 と思うと、気持ち悪さと恐怖を一緒に感じた。

 オカルトがホラーに変わったような気持ちにあり、改めて、

「俺って、オカルトは好きだが、ホラーは苦手だ」

 と思うのだった。

 これは、小説におけるジャンルの話で、最初は、

「ホラーとオカルトって、どこが違うんだろう?」

 と思っていた。

 しかし、ホラーというのは、サイコホラーなどのように、恐怖をいかに読者に与えるかということが勝負なのと違い、オカルトの場合は、恐怖を裏に推し隠し、都市伝説や奇妙な話を前面に押し出すことで、読者を不思議な世界へといざなうものだ。

 つまりは、ホラーというのは、

「最初から、恐怖のインパクトを植え付け、そのまま最後まで、その恐怖を衰えないようにして、読者を飽きさせない」

 というものだと思うのだ。

 逆にオカルトというのは、

「恐怖を裏に抱えていて、相手に恐怖を与えないように、ドロドロした雰囲気を最後までもっていき、最後の数行で、読者にどんでん返しを浴びせることで、奇妙な小説を完成させる」

 というものであると思うことから、

「ホラーとオカルトは、恐怖や不思議な現象という意味で共通項は存在するが、ストーリー性としては、まったくの大将的なものではないか?」

 と思えるのだった。

 そういう意味で、なるみには、

「オカルト的要素」

 を持った女性だといえるのではないだろうか?

 ただ、急に変わったのには、他人には分からない、性格を変えるだけの何かがあったともいえるだろう。

 それを、

「オカルト的要素」

 などというのは、何も知らない相手としては、実に失礼なことではないかとも思えるのだった。

 だが、それを含めたところで、彼女の魅力だといえば、そうなのだ。

 なるみという女性が、雰囲気を持っていて、その雰囲気は、絶対に俺を飽きさせるものではない。

 こう言ってしまうと、いかにも、

「自分中心的な考えだ」

 と言われてしまうのだが、好きになるのは自分なのだ。

「自分中心であって何が悪い」

 そう思うと、意外と人を好きになるというのは、自分中心でないと難しい、つまりは、「一目ぼれというのは、自分中心の考え方が造り上げる妄想なのだ」

 といえる気がした。

 だから、今までの自分には、一目ぼれがなかったのだとすれば、自分なりの納得がいくというものである。

 不知火は、なるみと知り合ってから、他の友達がどんどん減っていった。不知火から離れた人もいれば、相手が不知火から離れる場合もあった。最初は、不知火からまわりを避ける素振りがあったのだが、まわりが不知火から去っていったのは、不知火がまわりを避け出したことと関係があるのだろうか?

 不知火自身は、

「それでいい」

 と思っているのだが、どうも、それだけでは説明がつかないというような、納得はいっていない感覚であった。

 というのも、なるみが天真爛漫な性格から、急に真顔になり、その表情に恐怖を感じた人が、なるみから去っていったのを見て、不知火は、

「なるみから去っていくなんて。まわりを信用しない方がいいのかも知れないな」

 と、第三者的になるみのまわりを見た時、自分のまわりと比較してみると、どこにも差がないように思え、

「別に大差なんかないのに」

 と思うようになると、自分もまわりを避けるようになってきたのであった。

 そうなると、人を避けるのも、人から避けられる雰囲気ができあがるのも当たり前というもので、ただ、その二つが、どこか、

「交わることのない平行線」

 を描いているようで不思議だった。

 なるみが、豹変したのは、

「誰か好きな人がいて、その人にフラれたからではないか?」

 と、最初に考えた。

 この考えはあまりにも、平凡であり、ベタでもあった。だから、すぐにそれを否定する考えを頭に抱くと、すぐに抱いた考えがもっともらしく思えたので、その考えはすぐに捨てることになった。

 では、

「誰かに裏切られたのでは?」

 という思いが浮かび、こちらは、しっくり来たのだが、それだけでは説明がつかないものがあったので、さらにプラスアルファで考えてみることにした。

 つまりは、

「人に裏切られたことで、自分がひどい目に遭った。そしてそのひどい目というのは、トラウマができてしまうほどのもので、そうでもなければ、あそこまで恐怖に歪んだ顔になるはずがない」

 と思えたのだ。

 ただ、それが、元々は、

「なるみの油断がもたらしたものではないか?」

 という危惧があった。

 だが、その考えは間違っているとすぐに分かったのは、もし、油断があったと自覚できているのであれば、ここまで同じ表情、つまり無表情がずっと続くことはない。心のどこかで、自分を苛めるかのような、自己嫌悪があってしかるべきだと思うからだった。

 そんな様子がなるみには決してなかったのだ。だから、油断というわけではないが、強引にひどい目に遭わされた。それは、理不尽でしかなく、恐怖に震えたとしても、無理もないことだ。

 だが、なるみという女性が、思った以上に気丈であるということも、一緒にいる時間に比例して分かってくるようになり、すぐに、

「この考えは間違っていない」

 という確信まで得られるようになった。

 それは、他人事のように見ている自分が、なるみがまわりを見る目とでは違っているのだが、それこそ、

「交わることのない平行線」

 であり、近づこうとすると、相手が自然と離れていく、まるで、

「磁石の同極のようなものではないか?」

 と感じるようになったのだ。

 本当は、彼女の扉を開くことを目指して、一緒に苦しんであげようとまで思ってしかるべきなくらい、彼女のことを好きになっているのだが、下手に扉を開いて、その扉が、本人を巻き込んで、吸い込んでしまうブラックホールのようなものであったとすれば、それは、

「後悔してもしきれない後悔だ」

 と、言えるのではないだろうか?

 なるみに自分の気持ちを打ち明けられないのは、

「自分に自信がないからだ」

 と思っていたが、果たしてそうなのだろうか?

 確かに途中から雰囲気が変わり、変わった瞬間は、

「こんなヤバイ女性と一緒にいると、自分がおかしくなる」

 と思ったのだが、その感覚が、あっという間にマヒしていったのだ。

 何かに包まれているような感覚が、なるみから醸し出されているものだとは思わなかった。

「君はなるみのどこが好きなんだ?」

 と、聞く人はいないが、もし聞かれたとすれば、

「垂れ目なところ」

 と答えるかも知れない。

「ふざけてるのか?」

 と言われるかも知れないが、真剣であった。

 人の顔で性格を判断し、そして、その判断した性格で好き嫌いを判断するのが、不知火のやり方だった。

 だが、その不知火の考え方は、自分の中で、

「俺、オリジナルな考えだ」

 と思っていたが、実際にはどうではない、

 どこにでもあるような、ベタな考えなのであった。

 不知火はいつも、いや、絶えずと言ってもいいかも知れないが、

「人と同じでは嫌なのだ」

 と思っている。

 だから、人と違うと自分で思っていれば、それが、どんなにポピュラーなものでも、自分オリジナルだと思うのだ。妥協していると言われるかも知れないが、妥協もある意味、個性といえるのではないか。なぜなら、妥協も個性も、

「人それぞれ」

 なのだからである。

 妥協を悪くいう人もいるが、決してそうは思わない。妥協もなく、すべてを自分の考えで押し通そうとする人は、結局は、他の人と同じでは嫌だから、自分を押し殺してでも、自分を貫こうとしていることに気づかないのだ。

 そのことをどこまで分かっているのか? それを考えると、なるみと一緒にいて、

「自分が妥協できる数少ない女性だ」

 と思うことで、なるみを好きになった理由の一つがそこにあるのだと、自分を納得させることができるのだ。

 なるみは、今都心部の会社で働いている。バリバリのキャリアウーマンということで、まわりの男性を受け付けないほどのオーラを保っているという。

 しかし、中にはそんな彼女を慕っているような男性がいた。彼は、なるみを慕っていた。まるで男女の立場が逆になったかのようだが、そんな関係だってありなのが、今の世の中だ。

「なるみが、女王様で、男が奴隷である」

 という、主従関係。

 いわゆる、

「SMの関係に見えるのは、相手の男があまりにもMっけがあり、なるみの性格を覆い隠すだけのものがあるからだ」

 といえるのではないか。

 だから、実際にはまわりからは、すぐには悟られない。悟る人間がいるとすれば、それは、真正のサド体質なのではないだろうか?

 なるみの会社には、そんな、M体質の男性も、Sの男性も両方いるようだった。

 なるみのことを見ている二人の目はまったく違うものなので、まわりからは、分かりかねているようだが、なるみからすれば、二人の視線を痛いほどに感じられた。

 そのうちに、なるみの方がその視線に耐えられなくなり、どちらに対しても、ゆっくりと近づいていく。

 その距離感は絶妙で、両者ともに、

「つかず離れずの距離」

 を保っていた。

 二人とも、その距離感に酔っているようで、三人がまるで、三すくみのように見えるのだが、三人三様でもあるのだ。それを三人がそれぞれに感じているようで。この思いを誰が証明するというのだろうか? そんなものは必要はないように思えるのだった。

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