第2話 コンプライアンスとハラスメント

 不知火が、この街にある営業所に勤務するようになってから、3年目のことだった。だいぶ街にも慣れてきて、仕事も自分のある程度考えているような方向で進めることができるようになっていた。

 その日は数日前からの仕事の延長線上にいて、どちらかというと、仕事がエンドレスという感じであった。

 会社に泊まり込む日もあったが、そう何日も続けられない。泊まり込んだというのも、

「最終電車に間に合わなかった」

 というだけで、さすがに田舎ということもあり、午後10時半には、会社を出ないと、最終に間に合わないくらいだった。

 実際には、F市までは帰れるのだが、そこからまた少し乗り換える必要があるので、それに間に合わない。だったら、会社に泊まった方がマシだという考えだった。

 しかも、帰りつく時間は完全に、日付をまたいでいる。それからシャワーだなんだといっていると、2時近くになる。

「神経が高ぶっているので、眠れるものも、なかなか寝付くことができない」

 ということになると、朝は、6時半には出ないと間に合わないことを思えば、寝る暇などあるはずもなかった。

「それよりは早く帰って、一番早い電車で来るようにすればいいのではないか?」

 ということになる。

 そうなると、一番早い電車で、会社の近くの駅に着くのが、6時半くらいだ。

 だから、どんなに急いでも、7時前くらいなのだが、最終で帰ってから、朝辛い目覚めをするのとどちらがいいか、実際に比べてみたこともあったが、

「佳境に入ってから、日が浅い時であれば、早く帰って始発というのがいいのかも知れないが、長期に渡ると、最終の方がいいような気もしてくる」

 そう考えて、最終までいると、今度は、帰るのが億劫になってくる。それだと、

「会社に泊まる方がいいのか?」

 とも思えてきた。

 正直、2年目くらいまでは、どっちがいいか、迷っていたのだ。

 だが、3年目になると、今度は、

「早朝の方が頭が回るので、早く来る方がいいかも知れない」

 と思うようになり、3年目は早朝出勤が多くなってきた。

 しかし、仕事は自分ひとりでしているわけではなく、プロジェクト体制になると、会議が業務時間内に終わらず、下手をすれば、7時や8時近くになることもある。

 そんな時は、その日のやるべき仕事をこなしていると、すぐに、10時くらいになってしまい、あっという間に最終ということもあった。

 その日も、午後10時半くらいになってきたので、

「お先に」

 と言って、事務所を出た。

 車通勤している連中は、まだまだ宵の口と思っているのか、車で10分くらいの通勤の人は、実に羨ましく思えるのであった。

 いつもと変わらない時間なので、どこか、既視感を感じながら片づけをしていると、気持ちの中で何か違和感があったのだ。

 頭の中は、仕事がキリがついているわけではなく、気色の悪い気分での帰宅になるので、違和感は、そこから湧いて出ているのではないかと思ったが、どうも、そうではないような気がした。

 少し時間が中途半端であった。このまま駅についても、少し電車を待たなければいけなないという思いがあり、駅に近づくにしたがって、寂しく何もないところを通ることになる。

 住宅街があるだけで、コンビニの一つもない駅前は、駅員もいない無人駅である。

「このまま行っても、30分くらい待たなければいけないのであれば、ちょっと遠回りをして、コンビニで何かを買っていこうか?」

 と考えた。

 コンビニに回り込むと、いつもの、駅までの一直線の道ではなく、例の間の交差点から、メイン通りの方に曲がる道から抜けてくることになる。そっちにいくと、コンビニやファミレスがあるので、結構明かりもついているので、人通りも多いことだろう。

 コンビニで、ドリンクと、ちょっとしたつまみのようなものを買った。電車の中に乗っているのが、1時間っくらい。なぜなら、もうこの時間になると、快速はなく、各駅停車でF市まで帰らなければいけない。途中、特急の追い越しなどを考えると、1時間というのは、妥当な線ではないだろうか。

 さすがに、最終ともなり、都心部に向かう電車であれば、ほとんど人が載っているということもない。

 前にも何度か乗った最終電車、一つの車両に、平均して、5人くらいだろうか。下手をすれば、自分だけで、誰も乗ってこないこともある。酒が飲めれば、酒でも飲みながらゆっくり帰ればいいのだが、残念なことに(?)、不知火は下戸だったのだ。

 下戸というと、昔であれば、結構きつかったのだろうが、今では、そこまでのことはない。

 先輩などから聞いた話では、昔は、

「俺の酒が飲めんのか?」

 と、新入社員歓迎会という、もっともらしい名目だが、実際には、酔い潰すというのが、常套手段なのだろう。

 いわゆる、

「社会人の洗礼」

 というものを浴びせられるというのが、当たり前であり、それを乗り越えて、新入社員は、やっと、会社に入ったことになるとでもいうような、

「いかにも、昭和の理論」

 が展開されていたというではないか。

 そんな時代において、社会人だった人が、今は課長や部長クラス、それだけに、今の時代では、何をどうしていいのか、途方に暮れているともいうのだ。

 何と言っても、その頃から見て、数年前くらいから、

「コンプライアンス」

 という言葉が叫ばれるようになってきた。

 コンプライアンスとは、

「法令遵守」

 という言葉で訳されるようだ。

 要するに、今までの会社における倫理というものが、いかに曖昧だったということなのか。

 まるで、大学の体育会系のように、

「新入生歓迎のコンパでは、先輩の注いだ酒を飲めないなど、失礼千万、社会に出れば、そんなことは許され合い」

 と言って、ある意味、飲ませて酔い潰す理由を、あたかも就職した先の会社のせいにして、酔い潰すのが、

「儀式」

 のようになっているのだ。

 そんな儀式を、

「何たる悪しき伝統なんだ」

 と思ってきた。

 そういえば、昭和から平成に掛けて、会社においてのコンプライアンスという意味で、

「なんて無意味な」

 というのも結構あったものだ。

 このような、新入社員の度胸を試すかのような言い方をしているが、ただの苛めでしかない、

「新入社員歓迎会」

 であったり、同じ新入社員という意味で、

「新入社員が、仕事の時間でも、花見の場所取りに行かせる」

 という伝統も、実にバカバカしいものではなかったか。

 確かに、花見の時期というと、4月の上旬くらいの、新入社員が研修であれ、配属された場所で、まだ、右も左も分からないので、仕事にはならないかも知れないが、だからと言って、仕事時間中に、

「花見の場所取り」

 ということをさせるというのは、どういうことであろうか?

 実にバカバカしいことである。

 そして、新入社員に限らずであるが、よくあるのが、

「サービス残業」

 というものである。

 上司が仕事が終わらないので、帰れない。つまり、

「上司が帰るまで、部下も会社にいなければいけない」

 というものが昭和の頃にはあった。

 平成になってから、バブルが弾けると、

「残業など、経費の無駄だ」

 ということで、

「残業をすることが悪だ」

 ということになった。

 それまではイケイケどんどんで、業務拡大で、仕事は山ほどあったが、バブルが弾けると、仕事はどんどんなくなっていく。リストラなどで、人は辞めていくようになり、残業もしてはいけないということになる。

 それからしばらくすると、経費節減という意味で、

「非正規雇用」

 というものが増えてくる。

 つまりは、バイトやパートが、時間内で今まで正社員がしていた仕事を任せるようになる。

 中には派遣社員などというのが出てきて、それこそ、

「アウトソーシング」

 などという言葉が叫ばれるようになってくる。

 ただ、こうなると、問題なのは、あくまでも、誰にでもできる仕事を派遣社員やパートにやらせて、しかも、残業はしてはいけないということになる。

 だが、その仕事は今まで正社員がやっていて、月末月初や繁忙期などは、

「正社員が、残業をしてこなしていた仕事」

 なのだ。

 ということは、責任のない派遣やパートが、定時までしか仕事をしないのだから、仕事が終わるわけはない。そうなると、残った正社員にすべてしわ寄せがくることになり。それまで残業していなかった人間が残業に追われることになる。

 会社としては、正社員を切って、非正規雇用にせっかくしたのに、正社員が残業をするのでは、本末転倒である。

 そうなると、会社が行うのは、

「残業しても、残業手当を出さない」

 という方法しかなくなってくる。

 かといって、仕事が終わるわけはない。だから残業をしないといけない。

 なぜなら、仕事が終わらなければ、

「社員失格」

 の烙印を押されることになり、優先順位としては、

「仕事を終わらせる」

 ということが、最優先となってくるだろう。

 そうなると、残業手当は棒に振るしかない。

「クビになって、路頭に迷うよりもマシだ」

 ということになる。これも、一種のサービス残業だ・

 これは完全に、労働基準法違反。残って仕事をしているのに、残業手当が出ないのは、誰が考えても、違反なのだ。

 それでも、訴えることはできない。泣き寝入りの状態が続いた。

 だが、それ以外にも、コンプライアンス違反というのが、増えてきた。

 いや、前からあったものだが、それまでは、強く言われることはなかったものとして、

「ハラスメント」

 というものがある。

 実際には、コンプライアンス違反とは厳密には違うものなのかも知れないが、ハラスメントというのを、訳すと、

「嫌がらせ」

「苛め」

 というものになるという。

 前述の酒が飲めない人間に、酒を強引に進めるのは嫌がらせである。それはどんな理由をつけたとしても、通用しないものだ。

 しかも、アルコールというものを受け付けるかどうかというのは、個人差もあり、さらに遺伝性のものも大きい。そういうことになると、これはただの嫌がらせというだけではなく、体質などに関わるものであるということから、人権侵害ということにもなり、これは、一歩間違えれば、憲法違反と言えなくもない。

 もしこれで飲みすぎた人が急変し、死亡してしまうと、飲ませた方が悪いということになるのは、今の時代の考え方である。昔であれば、

「俺の酒が飲めないのか」

 という言葉がよく言われていたが、今では完全に、パワハラと呼ばれるハラスメントになるのだった。

 ハラスメントというと、このパワハラ以外にも、セクハラ、モラハラ、などいろいろ存在する。

 特に問題なのは、

「セクハラ」

 と呼ばれる、セクシャルハラスメントのことであり、

「どこからどこまでがセクハラなのか?」

 ということになると、大きな問題となることだろう。

 そもそも、時代は、男女雇用均等という問題が孕んでいることになる。

 そのために、

「男女平等」

 という言葉が叫ばれるようになり、今までの、女性が上司だなんて、そんなのありえないと呼ばれた昭和の時代とは違い、今では男の世界に女性が進出してくることも多くなった。

 以前であれば、名称に男女で違っていたものが、女性の進出できる仕事のように思われていた。

 スチュワーデス、婦人警官、看護婦などがそのいい例であろう。しかし、今は、男女雇用均等法の観点から、

「男女で言い方が違うのは差別ではないか?」

 などという輩が増えてきたことで、

「キャビンアテンダント、女性警察官、看護師」

 などと、女性差別のないような言い方をするようになったというが、作者は、

「そこまでする必要があるのだろうか?」

 と考えているのも事実だった。

 確かに、セクハラというのは問題であるし、犯罪においても、女性が迫害されてくるという歴史があったのも事実なのだが、それはあくまでも、それらの犯罪が起きないようにすればいいだけのことであって、過剰に反応しすぎなのだ。

 例えば、会社で、

「彼氏できた?」

 と、今までなら、社交辞令くらいの感覚で話をしていたものが、

「それ、セクハラです」

 と言われるのだ。

 上司が部下に歩み寄った結果が、セクハラなどと言われるのであれば、その部署のコミュニケーションや、調和をどのようにして保てばいいのか、実に困ったものである。

 さらに、犯罪なども、女性が、

「この人、痴漢です」

 などと言った場合には、まわりはすべて、男を白い目で見て、男の言葉を誰も信用しないだろう。

 そのために、冤罪事件もかなり増えてきているであろうし、下手をすると、痴漢被害を装って、金を脅し取ろうとする、

「美人局」

 のような手段に訴えてくる人だっているの違いない。

 そんなことを考えると、男女平等を通り越して、男が迫害されていることになってしまうだろう。

 法律を遵守するというのも、モラルをただすというのも間違ってはいないが、いきなり改革を早めてしまうと、それまでの、モラルや倫理が覆され、今度はターゲットが男に変わるというだけで、世の中が平和になるわけでもなんでもない。

 結果、本末転倒なことになり、

「揺れている振り子は、そのまま永遠に揺れ動き続ける世の中でしかない」

 ということになってしまうだろう。

 ちょうどいいところで手を打とうとすると、行き過ぎてしまうということが、世の中には往々にしてあるというものだ。

 それを考えると、

「何がコンプライアンスなのか、そして、ハラスメントなのか、本当はじっくり考えないといけない時期があったはずなのを、見過ごしてきたのではないか?」

 と感じるのであった。

「これが世の中のパワーバランスだ」

 というのであれば、せめて、ある程度の時期に検証をしてみるくらいのことがなければ、やりっぱなしということになり、本末転倒甚だしい世界になってしまうのではないかと思うのは、無理なことなのだろうか?

「ブラック企業」

 などという言葉も言われるようになり、コンプライアンスが厳しくなり、セクハラ、パワハラを厳しく取り締まるところもあるかと思えば、旧態依然として、セクハラ、パワハラが渦巻いている会社もあるのだ。

 実際に裁判になったりもして、弁護士事務所も、

「コンプライアンス違反に、敢然と立ち向かう」

 という形で、宣伝しているところもある。

 とにかく、時代は両極端であることは間違いない。

 ハラスメントを取り締まり、男女差別をなくすという意味で厳しくしすぎての冤罪や、逆に男性の肩身の狭さであったり、バラック企業と呼ばれるものが、今でも幅を利かせていたりする時代、正直、

「何が間違いで、何が正しいのかということが、分からなくなっているのではないだろうかあ?」

 要するに、

「コンプライアンス違反だ」

 と言って騒ぐ人間は、ウワサや状況だけを見て騒いでいるだけで、どこまで、本人たちのことを分かっているのかということなのだろうか?

 それが、今の時代における、SNSというものによる、

「誹謗中傷」

 であったり、SNSを利用しての、

「フェイクであったり、根拠のないウワサをいかに、もっともらしく言うか?」

 ということが、大きな問題になっているのである。

 不知火の会社は、そこまでひどいことはなかった。

「うちの会社は、小規模な会社だからな」

 という人がいたが、ハラスメントなどは、正直、人数には関係ないのではないか? と思うようになっていた。

 却って、人数が少ない方が、まわりの目が少ないだけに、我慢している方は、味方がいないと思い込み、言いなりになるしかないと思うことだろう。

「ハラスメントをしている方も、上司は自分しかいないわけで、しかも、人数が少ないだけに分かりやすい構図になっているにも関わらず、知らないはずはないのに、それでも何も言わないのだから、もう、まわりはあてにならない」

 としか、言いようがないだろう。

 ただ、不知火の事務所では、そんなセクハラ、パワハラの臭いがしているわけではない。この街の営業所の従業員は、十名たらずであった。

 所長がいて、その下に、営業部、庶務、経理とそれぞれあるが、庶務と経理関係を、3人で回しているのが現状で、それ以外は皆営業社員。営業課長に、5人の営業員がいる。

 営業員5人のうち、2人が女性だということだった。

 彼女たちは、セクハラ、パワハラとはまるで無縁とその態度が言っているかのようで、営業をしているだけに、考え方もしっかりしていて。

「男性社員よりも、男前だ」

 と言われるほどであった。

「竹を割ったような性格だ」

 というのは、彼女たちのことをいうのだろうと、皆思っている方で、特にハラスメントに関しては、かなり神経質いなっているようだ。

 課長が自分たちの仕事より遅かったりすると、

「課長、しっかりしてください」

 と逆に部下がはっぱをかけるくらいだ。

 それだけのことを言えるのは、自分たちがしっかりしていることが大前提である。

「竹を割ったような」

 と言われるのは、まさにそういうことからなのではないだろうか?

 そういう意味では、彼女たちには、

「ハラスメントなどと言う言葉は、私たちには関係ない」

 と言わんばかりに、自分の仕事、あるいは、仕事に対する姿勢に、自信を持っていて、誇りを持っていることだろう。

「自分に、自信も誇りも持てないから、セクハラやパワハラって言われるんだ」

 と上司に言いながら、自分にも言い聞かせているに違いない。

 それこそ、

「自分は自分。他人は他人」

 と思うことが大切であり、

「変に距離を縮めないと仕事ができないなどと勘違いしている上司がいるから、ハラスメントなどという問題が出てくるのだ」

 ということなのだろう。

 コンビニで買いこんでかあら、駅に向かおうと、いつもと違う道を歩いていた。

 こちらの道の方が、実は会社から駅に向かう一本道よりも少し寂しいところを通ることになる。本来であれば、メイン道路の歩道を歩けばいいのだろうが、途中の近道として、完全な田んぼのあぜ道のようなところを歩いた。

 その道は舗装もされていない道で、普通なら、ちょっと怖いと思う道なのだが、その日は、気分転換をと考えて、わざとm寂しい道を通ることにした。

 昼間には、今までに2度くらい通ったことがある。昼と言っても、夕方近くで、調整休のために、3時上がりだったので、まだ、1時間に1本の時間だった。少し時間があったので、コンビニやスーパーに寄って時間を潰し、駅までの道のりを気分転換を兼ねて、ゆっくり歩いたのだ。

 ほとんどが田んぼなのだが、途中に、浄水場のようなところもあり、クリークのようなところと平行で歩いていると、途中にちょっとした民家があるだけで、あとは、何もないといってもいいだろう。

 いや、一か所森のようなところがあり、そこに何があるのかと思って歩いていくと、そこには、鳥居のようなものが見えた。

 さほど大きくはないのだが、鎮守の森としては、まあまあではないかと思えるようなところだった。

 実際に中にまでは入らなかったが、

「これが真夜中だったら、怖いよな」

 と感じたのだ。

 だが、その森を抜けるとすぐに、いつもの駅と会社の往復に使っている道に出ることができる。

 逆にいえば、

「ここまでくれば、一安心」

 と言ったところであろうか。

 コンビニから、駅までの道と重なるあたりまで、普通に歩いて、20分くらいであろうか? そこから駅までは約15分くらい。明らかに遠回りをしていると感じる割には、時間的にはさほど変わりなないのだった。

 さすがに駅までの一直線の道と違って、角度のある道だと、何回、角を曲がったのか、分からなくなるくらいで、真っ暗な中歩くので、大丈夫だろうか? と考えたりもしたが、その日は、満月で回りが明るかったので、それほど意識することはなかった。

 最初に、裏路地に入った時に、すでに、

「今日は明るいな」

 ということが分かっていた。

 ゆっくりと歩いていくと、足元を見て歩けばいいのか、せっかくだから、空を見て歩いたほうがいいのか、実に迷ってしまうのだった。

 空を見ると、そこには、まん丸ば月が浮かんでいて、そのあたりを包んでいる雲が、光の加減によって、白黒に見えてきて、その立体感が、まるで、空を作りものであるかのように映し出しているのが、印象的だった。

 以前、学校で見た、影絵を思い出した。

 影絵はキツネだったが、月面というと、ウサギが有名だ。

「ウサギが、餅をついているような月に、真っ白い雲がかかっていると、次第に雲に影が映ってきて、光の反射がまるで空をウソのように見せる」

 と感じたのだ。

 それが、小学校で見た影絵に似ているというのは、キツネとウサギという動物繋がりの印象からだろうか? それとも、影絵が思ったよりもちゃちく見えた感覚を思い出したからであろうか?

 見えている光景は、地面にも同じものを印象付けるようで、足元の小石に影が映っているように見え、本当は浮かび上がっているはずのない小石が浮かび上がって見えるというような不可思議な状況に見舞われたのだ。

 ただ、足元を見ていても、空をずっと見ていても、危ないことに変わりはない。

 歩きながら、上を見て、下を見下ろしてと、定期的に見る方向を変えることで、見えているものが、小さいのか大きいのかという錯覚を植え付けてしまうのであった。

 たまに下を見下ろしているのに、まるで空を見ているような錯覚に陥るのは、足元の小石に、影ができているからではないだろうか?

 影というものは、光の恩恵であるということに変わりはない。ただ、影がなければ、光というものも、自分の存在を示してくれる力を発揮してくれる存在もないのだった。

 それを思うと、光と影は、その名の通り、それぞれを補って余りあるものなのかも知れない。まるで男女のようではないか?

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