マミー

瀬戸安人

マミー

 八月の午後の陽射しの中、しょわしょわとセミの鳴き声が響いていた。いや、響きまくっていた。ちょっと都会ではなかなか耳にできない、それは見事な蝉時雨。

 んーっ、とうなりながら大きく伸びをする。

 夏なんだし、決して涼しいなんて訳ではないけれど、都会に比べれば結構マシだと思う。暑い事は暑いけれど、タクシーの冷房でちょっと固くなるくらい冷えた体には気持ちいいくらいだ。

 どっちに目を向けても見事なまでに緑色の山肌が目に入る。

 杉が植林された山なので、季節が春だと花が咲いて山全体が真っ黄色に染まる。子供の頃から杉花粉アレルギーだったあたしは、春先に強い風が吹いて山から黄色い煙がぶわーっと巻き起こるのを見ては、鼻をくしゅくしゅさせながらげんなりしたものだ。今でもあの光景は思い出すだけで、うへぇ、って感じになるので、春頃に「帰って来なさい」なんて言われても、断固として拒否する事にしている。春以外ならいいんだけどね。さすがに夏真っ盛りの今とかなら、杉花粉の心配もないし。

 電車を三回乗り換えて、そこからバスで一時間。その後、もう一回バスを乗り換え――ようと思ったら、いつの間にかバスの運行表がすっかり変わっていて、二時間も待たされる羽目に。こんな風になっちゃってるんなら、ママも電話した時に教えといてくれれば良かったのに。

 結局、この暑い中をそんなに待たされるのは嫌なので、タクシーを呼んでしまった。タクシー代が予想外の出費だ。うーん。

 実家に帰って来るのはお正月以来だ。一応、お盆とお正月だけは顔を出すようにしている。

 セミの声が大きくなる。あたしも少し汗ばんできた。暑い中にいつまでも無駄に突っ立っていても仕方ないので、半年ちょっとぶりの我が家へ向かう。

 綺麗に掃除してある庭を通って、ガラガラと音を立てて玄関の引き戸を開けた。田舎の家なので、鍵なんて掛かってもいない。

「ただいまー」

 と、家の中に声を掛けながら、次の瞬間にはサンダルを脱いで上がり込んでいた。

「由紀、おかえり。暑かったでしょ?」

 台所の方からママの声。

「うん。東京ほどじゃないけどね」

 と答えて、あたしは居間に荷物だけ置くと、そのまま仏間へ直行した。

 年季の入った堂々たる仏壇が鎮座している部屋なんて、田舎の家でもなければちょっとお目にかかれない、んじゃないかな、と思う。仏壇の前には茄子と胡瓜に竹串で足をつけただけの牛と馬の飾りが供えられている。多分、ママが作ったのかな。子供の頃はあたしもよく作ったっけ。お盆に帰って来たご先祖様の霊が、帰る時に乗っていく乗り物なんだけど、こういう風習って今どのくらい残ってるのかな、なんてちょっと思った。

 仏壇に置いてあるマッチでロウソクに火を点けると、線香を三本ばかり取って火を移す。線香とロウソクの火を手でぱっとあおいで消す(吹いて消すのはお行儀が悪いからNGなのよ)と、線香を立てて、二年前に死んじゃったおばあちゃんに手を合わせる。

 おばあちゃん、ただいま。

 ちなみに、あたしはロウソクとか線香とかあおいで消すのが得意なんだ。みんなは大抵ぱたぱた何度もあおいで消すけど、あたしはいつも一発。まあ、自慢になるような事じゃないけど。もし、線香の火をあおいで消すコンテストがあったら、あたしは相当上位に食い込む自信があるわね。……まあ、そんなの絶対にないだろうけどさ。

 ついでに、チーンて鳴らす奴(名前、何て言うのか知らない)を一つ鳴らした。これってイマイチ鳴らすタイミングとか良くわかんない。作法とか違ってたらごめんね、おばあちゃん。

 居間に戻ると、ママが麦茶を出してくれていた。

 びっしょり汗をかいたコップから良く冷えた麦茶を一気にあおる。

 うん、美味しい。市販の特売品を普通にヤカンで煮出してるだけなのに、ママの麦茶は何故かやけに美味しい。あたしが煮出しても(って言っても、普段は手軽なのでコンビニで1リットル入り紙パックのとかを買って来ちゃうけど)何かちょっと違う。きっと、何か秘訣があるに違いない。いずれ習得してやろう。

「ママ、ちょっと太ったでしょ? 顔、丸くなってるよ」

 久し振りに会ったママはちょっとボリュームがアップしていた。元から丸顔だったけど、更に真ん丸。でも、何か丸っこくて可愛いかもね。

「大きなお世話よ。顔が丸いのはあんたも一緒でしょ」

 あう。長めのシャギーで誤魔化してるけど、あたしの顔も相当丸い。しょうがないでしょ、ママの娘なんだから。骨格から丸いのよ。

 それにしても、この骨格で太っちゃうと、こんなに丸くなるか。……気をつけなきゃ。

「そうそう。由紀、庭に水撒きしといてね」

 一息吐いた所でママが言った。

「えー。帰って来たばっかなのに、早速、働かせるの?」

「何言ってんの。お客さんじゃないんだから」

 ぶーたれるあたしをママがにこにこしながら追い立てる。しょうがないなあ。

 外に出ると、庭の片隅にあるホースがつながった蛇口をひねる。水をちょっと強めに出して、ホースの先を指でぐいっと押し潰すと、潰れて細くなったホースの先から勢い良く水が噴き出した。

 ホースの水に太陽の光が反射して小さな虹になる。うん、綺麗。ちょっと感激。こんなちょっとした事で感激できてしまう辺り、あたしのハートもまだまだピュアなもんだわね(なんちって)。

 乾燥した地面に満遍なく水がかかるように大きくホースを振り回すと、乾いた色の地面がどんどん黒く染まっていく。

 実はホースで水撒きするのって結構好きだったりする。何で、って言われても困るけど、何となく楽しいんだ、これが。

 小さい頃もよく庭の水撒きをやってたなあ、なんて思ってたら、ちょっと童心に返ってしまった。ホースを途中でぐっと折り曲げて押さえる。そうすると、折り曲げた所で水が堰き止められてホースの先から水が出なくなり、押さえる手に感じる圧力が段々強くなっていく。ふふふ、来たわ、来たわよ。

「そりゃっ!」

 頃合いを見計らって、ホースの折り曲げていた所から手を離す。

 バシュッ、と音を立てて、物凄い勢いで水が噴き出し、直撃した地面を思い切りえぐった。

 これよ、これ。これが楽しいのよね。

 と、いう事で再チャレンジ。

 今のはほんの小手調べ。今度は本気でいくわよ。

 再びホースを折って水を堰き止める。水の出口を失ったホースがパンパンに張り詰めていく。弾けそうに膨れ上がって、パンパンって言うよりも、ガチガチに固くなるホースを押さえてじっと我慢。溜めて、溜めて、一気に発射するのが醍醐味なのだ。

 うずうずしながらひたすら溜め。限界までチャレンジ。ここは一つ、バズーカみたいなのをお見舞いしてあげようじゃないの。

 溜め。ひたすら溜め。ホースの張り詰め具合も半端じゃない。さすがにそろそろ限界っぽい。これ以上やってると、ホースが破裂するか、留め金を弾き飛ばして蛇口から外れちゃうかも知れない。よし、発射!

「とりゃっ、うっひゃあ!」

 思わず素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。

 結論から言うと大失敗。

 溜め過ぎた水の勢いが強過ぎて、思わずホースが手からすっぽ抜けてしまったのだ。

 物凄い勢いで水を撒き散らす制御不能の暴走ホース。おかげであたしもずぶ濡れ。

 ……ああ、何やってんだろ。もうあたしもいい年なのに……。


「ごっはんっ♪ ごっはんっ♪ ごっはっんっ♪」

「何、はしゃいでんのよ。子供みたいに」

 脳天気に歌うあたしに、すかさずママのツッコミ。

「いいじゃない。久し振りのママの手料理だもん。こんなに楽しみにされてるんだから喜びなさいよね~」

「はいはい」

 と、軽く流しながらママはテーブルに料理のお皿を並べていった。

 今日の晩御飯は野菜中心のメニュー。ゆで卵の輪切りや赤と黄色のパプリカで彩りが綺麗なたっぷり野菜サラダ、ズッキーニとかの野菜と豚肉の炒め物、ほうれん草のおひたし、揚げ茄子の煮びたし、鶏肉と冬瓜の煮物。随分いっぱい並べちゃって、ママ、何だかんだで張り切って作ってくれたのね。うん、美味しそう。あ、お味噌汁の具、茗荷とお豆腐。あたし好きなんだ、茗荷のお味噌汁って。ママ、ありがと♪

 ……でも、この大量のお料理、あたしとママの二人で食べるの? ママ、ちょっと作り過ぎ?

「はい、ご飯ね」

 って、ママがあたしに渡そうとしたお茶碗を見て、思わずちょっとずっこけた。

「……そんな大盛りご飯食べられないよ」

 大盛り、って言うより、むしろ山盛りって言うか、てんこ盛りって言うか。その盛り方は、もはや漫画だって。

「だって、お腹減った、って騒ぐから」

「だからって、てんこ盛りにしなくたっていいじゃない。半分でいいわよ、半分で」

 さすがにそんなにたくさんは食べらんないって。

 ママは今度は半分くらいにしてくれた。うん、そのくらいでちょうどいいよ。

「いっぱい食べなさいよ。お父さん、急に遅くなるなんて言うんだもの。お父さんの分までご飯炊いちゃったのよ」

 やっぱりね。明らかに二人分じゃないもの。三人分……じゃないわね。頑張って作り過ぎて四人分ってトコかな。まあ、折角だから、たくさんいただきますか。お腹もペコペコだしね。

「いただきまーす♪」

 久し振りのママの手料理はやっぱり美味しい。それに、ちょっぴり懐かしい。

「あ、このズッキーニの炒めたの美味しいね」

「裏の畑で作ってるのよ。今朝摘んだんだもの。新鮮さが違うわよ。帰る時、少し持って帰る?」

「うん。ちょーだい」

 畑、って言っても、ウチは別に農家じゃないから、そんな立派なものじゃない。自分の家で食べる分を作ってるくらい。でも、家庭菜園なんて言葉でイメージするようなものにしたら、ちょっと広過ぎるかな。

 前はおばあちゃんが畑の世話をしてたんだよね。達者な人だったから、八十過ぎても平気で畑を耕してたっけ。今にして思えば、ホントにすごいよ。感心しちゃう。おばあちゃん、あなたはすごい人でした。あたし、尊敬してます。ホントだよ。あたしは将来、おばあちゃんみたいなおばあちゃんになるのが目標だわ。

 今はママが畑の担当。まあ、おばあちゃんが生きてた頃から一緒にやってはいたんだけどね。休みの日にはパパと一緒に、夫婦二人で野良仕事らしい。仲良き事は美しきかな。なんちって。

 ま、パパもアクティブな人だしね。ビニールハウスなんて、すっごい本格的なの作っちゃって。基礎からキッチリ作ってあるから、去年、台風でも全然平気で飛ばなかった、って自慢してたっけ。

「それで、由紀はいつまでいるの?」

「うん、二泊して日曜に帰る」

「たまにしか帰って来ないんだから、もっとゆっくりしてけばいいのに」

「ごめーん。そうもいかないのよ」

 あたしものんびりしたいんだけどね。そうもいかないのがオトナの事情なのよ。

 明日はパパも家にいるんだから、二人して愛しい娘をかまってね♪

 あたし、甘えたくって帰って来たんだから。


「それで、最近はどうなの? 音楽の方は?」

 晩御飯の後でしばらく経って、お茶を淹れて居間でのんびりしてる時にママが訊いた。

 あたしはインディーズで音楽活動なんてものをやっていたりする。あたしより一コ年下の、りっちゃんていう子と一緒に『Teeny Tea Party』という女の子二人組のユニットで活動してる。あたしがヴォーカルで、りっちゃんが演奏と編曲。作詞・作曲は二人ともやるけど、あたしは編曲がイマイチ苦手なので、そっちはもっぱらりっちゃんの役目だ。りっちゃんは編曲スゴイ上手で感心しちゃう。りっちゃんの方は自分の声だと思い描いてる歌にならないという事だそうなんで、歌はあたし。お互いに苦手な所をカバーして頑張ってる。

 ちなみに、りっちゃんは、少しぽやーっとしてるトコもあるけど、芯の強いとってもいい子だ。それに、りっちゃんは輪郭がキレイなの。スッキリした卵形のちっちゃい顔してて。丸顔のあたしからしたら、実にうらやましいのよね。

「うん。コツコツやってる。まだまだだけど、ちょっとずつ聞いてくれる人も増えてきてるよ」

「そう。良かったわね」

 ママはにこっと笑って言った。こうやって、ママはすごくシンプルな言葉で言ってくれる。あたしはこういう言い方されるの好きだな。

「色々と大変なんでしょ?」

「……まあ、ね」

 あたしなんて、まだまだ知名度も人気も低いペーペーだ。インディーズでどうにかこうにかやってるけど、やっぱ大変。夢の印税生活なんて遥か彼方だ。

「あのね、あたし、テレビに出られるかも知んなかったんだけど、駄目だった」

 と、あたしは切り出した。

「インディーズの紹介やってる深夜番組でね、あたし達の歌を放送してくれるかも知んない、って候補に上がってたんだけど、最後にはねられちゃって、別のバンドになっちゃった」

 割と期待してたんだ。チャンスだったし。でも、駄目だった。期待してた分、がっくり来ちゃって、結構へこんじゃったんだ。

「残念だったわね」

 そっとママが言った。

「今回はちょっとついてなかったかも知れないけど。由紀の歌を好きだ、って言って、聞いてくれてる人がいるんだったら、またチャンスはあるわよ。まあ、しっかりやんなさい。由紀が好きでやってる事なんだから。応援してくれる人だっているんでしょ。

 それでも、辛くなったり、疲れたりしたら、いつでも甘えに帰って来なさい」

「うん、ありがと」

 やっぱりママはお見通しだ。甘えたい時に甘えさせてくれる。苦しい時や疲れた時、優しさが欲しい時に、ママはいつでもあったかい。

 ありがと、ママ。親不孝で、心配かけてばっかりだけど、ママはあたしに『頑張れ』って言ってくれる。足が止まったら背中を押してくれる。うつむいてたら前を向かせてくれる。あたし、ママに頼ってばっかだ。ありがと、ママ。ごめんね、ママ。

 と、不意に鳴り響く電子音のメロディ。あたしのケータイにメールが届いた。テーブルの隅っこに置いてあったケータイを手に取って確かめる。頼りになる相棒りっちゃんからのメールだ。

 で、りっちゃんからのメールに目を通す。後でママから聞いたけど、この時のあたしは本当に目が飛び出しそうな顔をしてたらしい。

「嘘っ! ええっ? ホントに?」

 素っ頓狂な声を出しながら視線を上げると、怪訝そうなママの顔が目に入った。次の瞬間、あたしはママに抱きついてた。

「ちょっと、何よ、どうしたのよ?」

「やった! ママ、あたし達の歌、テレビで流れるよ!」

 あたしはすっかり舞い上がって笑い声を上げながら言った。

「さっき言ってた話、最初の話は駄目だったけど、何週か先の放送であたし達の歌を使ってくれるって! 局の人から連絡があって、りっちゃんが急いでメールしてくれたの! やったよ!」

「本当に? やったわね、良かったじゃない!」

 あたしとママは親娘で抱き合ってきゃあきゃあわめきながらはね回った。きゃあきゃあ言うような年じゃないけど(あたしはともかくね、って、そういう事にしとこうよ)、そんな事を気にしてる場合じゃなかったもの。とにかく嬉しくって。

 あたしはすぐにりっちゃんに電話して話を確かめて、電話口でわいわい騒いで、その後もずっと、ママと二人して大はしゃぎ。とにかく興奮しちゃって。でも、本当に嬉しい♪ 最高!


 そんな訳で、その日はずっとママと大騒ぎ。

 やめて、って言ってるのに、近所に言いふらしたり、親戚に電話したりするから、ちょっと(いや、やっぱ、かなり)恥ずかしかった。でも、喜んでくれるのは嬉しいな。

 次の日も、お祝いだ、なんて言ってご馳走作ってくれて、パパも大騒ぎして、何かバタバタしっぱなしだったな。いっぱいかまってくれたのは嬉しかったけど。

 あたしが帰る時も、ママはまだテンション高くって、はしゃぎながら見送ってくれた。いい年して何やってんのよ、とも思ったけど、あたしの方もついついニヤニヤしちゃってたんじゃ、あんま偉そうな事は言えないよね。


 ありがと、いっぱいかまってくれて。甘えさせてくれて、元気をいっぱいくれて。

 ママの事、大好きだよ。悩みの種の丸い顔も、ママ似だと思えば、ちょっと悪くない気もするんだ。

 あたしね、ホントはもっとちょくちょくママに会いに帰って来たいんだよ。こんなたまにしかじゃなくって。

 でもね、ママは優しくてあったかくて、甘えさせてくれるから、あたし、ついつい甘え過ぎちゃうんだ。

 だからね、なるべく帰って来ないようにしてるの。いつまでもママに甘えてられないから。もっと、しっかりして頑張らなきゃいけないもの。

 でもね、ママ。時々は帰って来るよ。元気が欲しい時には、ママに甘えるのが一番の特効薬だから。

 だから、その時にはまたいっぱいかまって甘えさせてね♪

 ありがと、ママ。

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マミー 瀬戸安人 @deichtine

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