第7話 犯罪の考え方
犯人がどのような考え方をしているのか分からない。だが、この時、新山刑事は、
「この3つの事件は、必ず、どこかで繋がっている」
という思いを持っていた。
もちろん、根拠があるわけでもないし、確証があるわけでもない。ただ、どこかに3つの事件を結び付ける何かがあると考えていた。
学生時代のミステリーサークルで、自分で小説を考えていたことが生きてきたのか、それとも、中学、高校時代に読んだ、戦前から戦後にかけての探偵小説を読んでいた時に感じていたものが、そう言わせるのかであった。
探偵小説を読んでいると、まず最初委感じるのは、今との時代の差であった。
普通では考えられないような時代背景。さらには、風俗の問題。さらには、コンプライアンスなどを考えれば、絶対に映像化ができないものだってあるだろう。
特に、差別用語などは、今江は明らかなコンプライアンスに反する。今でいう、身体障碍者と呼ばれる人で、昔でいえば、奇形であったり、不具者などという言葉も使ってはいけないということになっているのかも知れない。パソコンの返還で、「ふぐしゃ」と打てば、
「フグ者」
としか、変換されないくらいである。
これはいわゆる、
「放送禁止用語」
と呼ばれるものであろうか?
放送禁止用語というのは、別に法律で禁止されているものではない。放送倫理には反sテイルのかもしれないが、使ったからと言って、罪に問われるわけではない。
よく、昔の放送などで、一回目の放送は普通にされたが、再放送になると、その回の放送はカットされることが多い。
それは、基本的に、視聴者からの苦情や、指摘によって、自主的に放送局側が、コンプライアンスを認め、今後放送しないようにするという決定から、苦情を言ってきた人に対しての謝罪を混ぜての対応ということになるだろう。
ただ、最近のように、有料放送化が進むと、昔のドラマを放送する際、
「放送倫理にそぐわない内容もありますが、あくまでも、当時の時代背景等を考慮に入れ、なるべく番組制作時のオリジナルを尊重し、放送します」
というテロップを最初に出して、今では明らかなコンプライアンス違反であっても、放送しようというのが主流なのかも知れない。
もちろん、新作ではできないが、昭和の時代のドラマなど、今ではNGとなるような番組であっても、あえて最初にテロップを流すことで、放送している。それを問題なしとしているのは、
「最初にテロップを流しているのだから、嫌なら見なければいい」
という考えであろうか。
民放と有料放送の一番の違いを考えればわかることだ。
民放の場合の、資金源は、あくまでも、スポンサーである。スポンサーを怒らせてはいけないというのは、なんといっても、放送することで、視聴者に番組に対しての嫌悪感を与える。
それはまさに、スポンサーに対しての苦情でもあるわけだ。
せっかく宣伝のために番組を提供しているのに、なぜ視聴者を敵に回さなければいけないのか? そうなると、
「視聴者は神様です」
といわんばかりに、スポンサーは視聴者には完全に弱いのだった。
しかも、番組はそのスポンサーに完全に弱い。そうなってしまうと、放送できないということ一択でしかないだろう。
だが、これが有料放送ということになればどうだろう?
有料放送というのは、基本的に、民放のように、視聴料がただというわけではない。視聴者から月額でお金を取って、放送番組を制作し、提供するというもの、あるいは、昔の番組を流したりして、視聴者が、見たい番組をチャンネル側が作成し、お金を払うことになるわけだから、有料放送の場合は立場が逆転するわけだ、
今まではスポンサーが一番強く、スポンサーの意向で番組が作られるわけなので、視聴者はおざなりにされる。しかし、今度は視聴者がスポンサーなのだ。だから、視聴者のために番組を作る。だから、余計なコマーシャルはほどんどない。たまに、テレビショッピング系のものはあるが、それ以外は完全に視聴者優先なのだ。
そういう意味で、昔の番組で民放であれば、放送できないようなものでも、テロップを流すことで放送ができるというものである。
昭和初期の探偵小説というと、そういうものが結構あったりした。何しろもののない時代、戦前などは、ほぼ毎月といっていいくらいに、いろいろな事件が発生していた。世界は、植民地時代であり、日本はまわりの国に乗り遅れないようにしないといけなかった。
明治時代には、日清、日露の2大戦争を乗り切り、世界の大国に肩を並べた。何といっても、隣国中国への乗り遅れと、ソ連の脅威から、時代は、混迷を呈していた。
朝鮮半島を手に入れ、満州を手中にしたと言っても、そこから南下して、北京攻略路線に走るか、満州を固めて、ソ連の脅威に対するかで、陸軍内部でも、もめていた李したものだ。
そんな状態から、大正末期に起こった
「関東大震災」
さらには、その混乱の中での、昭和恐慌、さらには、ニューヨークにおける株の大暴落からの世界恐慌と、混乱が続いたことで、資源の少ない日本が、中国に進出し、
「宣戦布告のないシナ事変」
を引き起こしてしまったことで、すっかり、日本は孤立していった。
大東亜戦争は、昭和16年から起こったが、その前のシナ事変などから、日本の国は、
「戦時体制」
に突入していた。
すでに、防空訓練であったり、国家総動員体制であったり、物資も配給制となり、
「欲しがりません、勝つまでは」
などという、戦時体制が確立していたといってもいいだろう。
そんな時代のことなど、普通は気にしないだろうが、新山刑事は、中学時代から、歴史が好きだった。
特に明治維新から以降、戦後すぐくらいまでの歴史に興味があったのだ。
新山刑事が、中学時代くらいに、親がテレビを有料放送が映るように、スカパーと契約をした。
元々は、野球が好きな父だったので、
「好きなチームのホームゲームを、試合開始から終了まで見ることができる」
という触れ込みで、契約したのだった。
その時代は父に限らず、結構まわりの人も、スカパー契約をしていた。
もちろん、野球だけではなく、サッカーなどのスポーツを始めとして、子供なら、アニメチャンネルや、奥さんだったら、昔のドラマなどの再放送が見れるということで、月額で、見たいチャンネルと見ることができる。
月に、千円から、数千円というリーズナブルな価格で、見たい番組が見れるというのは魅力だった。
録画もできるようにしておけば、番組の時間がかぶっても、喧嘩になることはない。それを思うと、スカパー契約も悪くはなかった。
途中で見なくなれば、そのチャンネルを解約すればいいのだ。そう思えば、気も楽だった。
そんな中で、母親が契約した、昔のドラマがあったが、ミステリーの再放送があった。本放送は、1970年代後半くらいで、映画にもなり、今でも伝説として残っている有名作家のミステリーシリーズとして、製作された番組の再放送があったのだ。
それを見て、新山少年は、自分でも、その小説を読んでみたいと思った。ちょうど、番組が放送されていた時代が最盛期だったようで、何と、百冊近くの文庫本が、本屋に並んでいたのだ。
百冊ともなると、一段では賄えない。二段目の途中くらいまでその作家の本が並んでいるという爽快さで、当時は、売れっ子作家であれば、本を出せば出すほど売れる時代だったのかも知れない。今のように、作家単位ではなく、売れる本は、平積みになっているが、同じ作家の本でも、今までだったら、たくさん並んでいたものが、数冊しかなかったりする。
それだけ、文芸界も様変わりしてきたということだろうか。
昔のような紙媒体ではなく、今はパソコンやスマホでの、いわゆる、
「電子書籍」
が主流になっているのである。
当時の探偵小説というと、トリックなどを駆使した犯行が多く、それを、探偵が解決していくという時代だった。だから、推理小説という言い方ではなく、探偵小説という言われ方をするのだった。
民間の素人探偵であったり、私立探偵と呼ばれるものであったり、時代を反映した探偵が活躍した時代だった。
今も、ライトノベルズの関係なのか、
「○○探偵」
と呼ばれるものが結構出てきたりした。
事件解決にあまり関係のないような雰囲気のものが多く、それはきっと、マンガが原作だからなのかも知れない。
最近の、民放で製作されるドラマなどは、そのほとんどは、原作が、マンガのものが多い。そうでなければ、脚本家のオリジナル作品であり、昔のような、小説が原作というドラマは、ほとんどないといってもいいかも知れない。
そのため、どこか少年物という雰囲気が強く、マンガに馴染みのない人は、昔の探偵小説を好んで読んだり、テレビ化や映画化をしたものを見たいと思うことだろう。
だが、小説に関しては、昔の本は、
「昔はあれだけ売れて、本屋に所せましと並んでいたのに」
という状態だったものが、今では、すでに絶版になっていて、本屋で予約をしようとしても、
「もう新刊はありません」
ということになる。
そうなると、古本屋で、
「運が良ければ見つかるかも?」
という程度でしか置いていない。だから、有料放送の再放送で見るしかないのだ。
ただ、運よく、友達のお兄さんに、同じように探偵小説が好きな人がいて、その人が古本屋で掻き集めてきたといって、昔の本を、その作家の分、ほとんど揃えていたりした。
それを借りて何度も読んだので、頭の中にセリフが入っているくらいであった。
しかも、ドラマの再放送を録画して見ることができるので、本当にセリフも結構覚えていたりしたものだ。
今回の事件は、まるで、そんな探偵小説の時代のような感じがするのだった。
何か、事件の裏に隠されているものがあると感じるのだが、それが、今の時代にありがちな、マンガに出てくるような陳腐なトリックではないような気がする。
ただ、
「リアルな事件ほど、まるで、マンガのようなトリックが使われていたりする」
というような話を聞いたことがあるので、マンガの世界もそれなりに侮れない。
しかし、やはり新山の頭の中には、探偵小説のような話であり、今回の謎に包まれた部分など、いかにも、探偵小説の時代を彷彿させるものがあるというものであった。
探偵小説について、大学時代に調べたことがあった。
その頃から、ネットの時代に突入していて、検索すれば、いろいろなことが分かる時代になってきていたのだ。
その中に書かれているものとして、トリックを用いた犯罪を探偵が解決すると書かれていたが、そのトリックも、幾種類かあるのだが、よく見ると、そのほとんどが、今の時代では、通用しないものが多かったりするのだった。
昔の探偵小説が流行った頃のトリックというと、
「密室トリック」、「アリバイトリック」
などのように今もあるトリックである。
昔は主流だったが、今では科学の発展とともに、使えなくなったトリックとして、
「顔のない死体(死体損壊)トリック」、
などがあり、実は、この顔のない死体のトリックと呼ばれるものと、類似の犯罪と言われるものなのだろうが、実はある意味で、ジャンルを違えなければいけないというトリックとして存在するのが、
「一人二役トリック」
というものだ。
顔のない死体のトリックと、一人二役が、同じジャンルなのかというと、顔のない死体のトリックには、一種の原則がある。それは、
「相手の顔を損壊させることで、身元を分からなくして、誰が殺されたのか分からないといいう点において、犯人と被害者が入れ替わるという種が含まれている」
ということである。
ある作家は、一人二役と、死体損壊をくっつけて、新たな犯罪を形成するというやり方を取った。実にセンセーショナルである。
しかし、今の時代において、死体損壊トリックは、なかなか難しい。顔を潰していた李、指紋のある手首を切り取ったりすれば、昭和初期であれば、絶対に身元は科学的に分かることはなかったであろうが、今の時代には、DNA鑑定などがあり、死体損壊トリックによる、入れ替わりの法則はほとんど使えないだろう。そういう意味で、アリバイトリックも同じかも知れない。交通手段もいろいろできてきたし、街中には、防犯カメラや、車にも、カメラがついていたりして、アリバイを工作するのも、なかなか難しくなってきている。
さらに、一人二役のトリックであるが、なぜ、これを、死体損壊トリックと別物にする必要があるのかというと、
死体損壊トリックは、最初から、
「これは、顔のない死体である」
ということが分かっての事件であるが、一人二役というのは、そのトリックが読者に見抜かれてしまえば、それで終わりなのだ。
最後の最後までこのことは隠し通しておかなければ、ミステリーの謎解きとしては、それで終わってしまうというものだ。
だから、一人二役だけは、ジャンルとしては別ジャンルであるということになるのであった。
そんなトリックを自分でも書けるようになりたいということで、ミステリーサークルに大学時代に入ったのだが、なかなかうまく書けるものではなかった。
小説を書くということ自体が難しいのに、そこに持ってきて、トリックなども織り交ぜるというのは、かなりの難易度だった。
だが、逆にトリックやストリー展開さえしっかりしていれば、小説を書くということにさほどの難しさ、ハードルはないような気がした。恋愛や、ホラー、ファンタジーなどは、さらなるフィクション性、オリジナリティが要求される。それを思うと、
「探偵小説は、ストーリーを考えた時点で、ある程度完成度が高い文学なので、意外とくみしやすいものなのかも知れない」
と考える人もいるようだ。
ただ、どうしても、トリックということになると、ハードルが高すぎる。最初は何をどう描いていいのか分からず、
「まず、ストーリーを考えてからのトリックなのか、それともトリックを考えてからの、ストーリー展開を考えるのか?」
ということが問題だった。
そういう意味で、新山青年は、まずは、ストーリーを考えてから、トリックを考えた。そっちの方が楽な気がしたからだ。
しかし、そうなると、結局最後はトリックで引っかかってしまう。
それでは、
「今度は、まずトリックから考えて……」
と思うと、完全に、最初から進まないのである。
トリックが難しいのに、そこにストーリーも考えられていないものをぶち込むというのは、どれほど無謀かということである。
だが、新山は途中で気が付いた。
「何もトリックを杓子定規に、法則のジャンルだけで考える必要はない。もっと広く細分化して考えたところで、それぞれの場面をストーリーに組み込むことで、今度はストーリーまでできてくる。すなわち、ストーリーとトリックを切り離すこと自体が難しく考えることになる」
ということであった。
そう思って、探偵小説を読んでみると、細かいところは、トリックと言えない状況のものをつなぎ合わせることで、時系列や、他に亀裂が生じれば、そこを他のストーリーと絡ませることで、深みを帯びてくる。
それが、探偵小説の醍醐味で、それを一つ一つ明かしていくのが、探偵の役目である。だから、探偵が必要なのであって、そこから探偵小説が生まれたと考えると、小説は、成り立っていくのだ。
つまりは、前述のトリックのジャンルに必ずしもこだわることはないのだ。
きっと、今のマンガやアニメなどのミステリー小説のトリックを思い浮かぶのは、そういった、
「トリックのジャンル」
というようなものにこだわらないということが大切なのだろう。
それを思うと、細かく細分化したトリックを、今度は組み合わせることで、事件ができているのかも知れない。
つまりは、本人の意識にないところで、新たなトリックが生まれ、そのトリックをちゃんと隠すための材料も整っていて、探偵小説を書くには十分な余裕が広がっているものなのかも知れない。
トリックというのは、ジャンルという意味では前述のようなものだが、犯行方法であったり、捜査員を混乱させるなどの意味合いでのトリックなどを考えると、もっとたくさんあるだろう。それは、それだけ、細分化されたトリックが渦巻いているということになるに違いないのだ。
新山が書いた小説は、あまり描かれないものだった。
というよりも、リアルさに欠けるもので、
「基本的にはミステリー小説の中でしか実在しないものではないか?」
と、言えるものではないかと思えるのだった。
というのは、これはトリックというよりも、犯罪方法とでもいえばいいのか、ある意味、
「成功すれば、完全犯罪になるのだろうが、基本的には成功する可能性は限りなく低い」
と呼ばれるものではないかと思われるのだ。
それだけ、もろ刃の剣と言ってもいいだろうし、とにかく、現実性がないである。
人間の感情的に不可能な部分があるというべきであろうか。というのは、この犯罪も、
「一人二役」
と同じで、この犯罪が、その種類の犯罪だということが分かってしまっては、犯人側の敗北になるのだ。
それは、どういう犯罪かというと、いわゆる、
「交換殺人」
と呼ばれるものである。
「死体損壊トリック」
が、被害者と加害者が入れ替わっているという公式があるように、交換殺人というのは、「お互いに利害のある死んでもらいたい人間を、利害のない相手に殺してもらうことで、警察の捜査本心から決して捕まることはない」
というものである。
警察は犯罪捜査を、まずは、
「利害関係のある人間」
から攻めることになる。
何と言っても、被害者と加害者の間に何の利害関係がないのだし、元々殺したかった人間と、実行犯とが、表向きで、まったく関係がなければ、実行犯に行き着くことはない。
しかも、実行犯にその時、完璧なアリバイを作っておけば、疑われることもないだろう。
当然警察は、
「共犯者」
というものを考えるだろう。
別に実行犯がいるとすれば、その人は共犯であり、共犯なのだから、必ずどこかでつながっているはずなのである。
そのつながりがないとすれば、警察が疑うことはない。もし、現場にいたとしても、一切の利害がないのだとすれば、疑う余地などないのだ。
だから、お互いに利害のない相手を殺し、利害のある人間は、その時に完璧なアリバイさえ作っておけば、完全犯罪は成立する。
だが、そうは額面通りにはいかない。
まずは、二人はどこかで必ず知り合うことになるのだから、それを誰にも知られていないということがありえるのかということだ。
犯行後に、お互いに、まったく知らない人間にならなければいけないわけだが、本当に長い人生の間で可能なことなのだろうか?
これが、まず、第一の問題である。
しかし、最大の問題は、犯行に及ぶ場合である。
自分の死んでほしい人間を、利害関係のない人物に殺させる。
その間に自分は完璧なアリバイを作っておく。そして、殺してほしい人物が無事に死んでくれて、自分の目的は達成された。
となれば、次に、今度は自分が、殺してくれた相手のために、人殺しをしなければならない。
そう思った時、
「果たして、俺が殺人を犯さなければいけないのだろうか?」
ということである。
いくら約束をしたとはいえ、相手が約束を破ったといって、警察に駆け込むことなどできるはずなどない。問題は、相手が一人殺しているのだから、逆恨みをして、自分を殺そうとするかも知れないということである。しかし、これだって、
「彼が殺した」
と言って、警察に匿名で進言すれば、警察も捜査に乗り出すことだろう。
もちろん、そうなると、自分も終わりなのかも知れないが、証拠があるわけではない。そうなると、最初に殺しをした方が、圧倒的に不利なのだ。これが、交換殺人という殺害方法の一番の欠点ということになる。
そういう意味で、
「交換殺人は、リアリティに欠ける」
ということになるのだ。
そんな交換殺人の話を敢えて書いたのだった。
正直、どんな内容だったのかということまでは覚えていないのだが、交換殺人をすることによって、それぞれの考え方がいかなるものであったのかということを描いたものだった気がする。
当然、前述のような計画で、完全犯罪を見越して、犯行を行うのだが、やはり、それでも、第一の殺人が遂行された後に、第二の殺人の実行犯になるはずの男が、怖気づいてしまう。
いや、怖気づいたというよりも、我に返ったというべきか。
「俺が、リスクを犯してまで、殺人をしなければいけないのか?」
ということを感じたからである。
犯行を計画した人間は、最初に自分が犯行を犯した。つまり、第一の殺人の実行犯だったのだ。
彼は、自分の計画に酔っていた。
「俺の計画は完璧なものだ」
と考えることで、完全犯罪が成り立つと思っていたのだ。
もちろん、それは、机上の空論にしか過ぎないのだが、もう一人の犯罪者になる男も、実に感動してくれたではないか。自分たち二人なら、完璧な完全犯罪を成し遂げることができるというものである。
これだけ完璧だと思ってしまうと、どうしても、おろそかになってしまう部分が出てきてしまう。それが精神的な部分で、相手がまさか、我に返るとは思ってもみなかった。
自分が計画通りに犯行を行った。なのに、相手は、行動を起こそうとしない。
この計画は、実行に入ってしまうと、お互いに連絡を取り合ったり、相談などはしてはいけないことになっていた。なぜなら、
「二人は、まったくの赤の他人でなければいけない」
というのが鉄則で、計画が出来上がって、実際に行動に入ってしまうと、あとは計画通りに進めるだけだった。
そのことも、念には念を入れて、何度も話し合ってきたことだった。
だから、時計が回り始めると、相手が動かないからと言って、相手を促すこともできない。
しかし、このままでは、自分だけがリスクを負って、相手は、自分の死んでほしい相手を殺してもらえたのだから、もう安心でしかない。主犯の男は焦り始めた。
だが、いったん、冷静さを取り戻した共犯の男は、今度は、自分が絶対に安全な場所にいることで、今度は気が楽になったことで、その思いをさらに完璧なものにしようと、今度は欲をかいてしまった。
つまりは、今までは、実行犯が表に出てきていないので、今のままでいれば、主犯が捕まることはない。だが、共犯とすれば、自分が完璧なアリバイがあることから、早く実行犯が捕まってくれる方が安心なのだ。
だから、自分から主犯に近づくようなそぶりを見せる。
それによって、共犯と実行犯が知り合いだと警察に思わせ、今まで出てこなかった主犯がクローズアップされてくる。
ただ、共犯も、そこから先のことは考えていなかった。何しろ動機がないのだ。膠着状態に風穴を開けたというだけのことだった。
だが、警察はそれでも膠着状態が崩れたことで、少しずつ分かってきたこともあった。
警察の地道な捜査と、一人の刑事のずば抜けた推理力にて、交換殺人ではないか?
ということが、考えられるようになった。
だからこそ、第二の犯罪が起こらないことも説明がつく。ただ、証拠がないので、逮捕することができない。
もし、逮捕することができても、動機がないので、証拠不十分ということで、不起訴にしかならないことも分かっている。
推理はできるが、警察にはそれ以上のことは何もできない。
それが、新山が書いた小説だった。
自分が大好きな探偵小説とは、おもむきがかなり違っているが、こういう小説も、なかなかいいものだと思っている。
あくまでも、学生のアマチュア作家が書いた作品という感じで、
「なかなか面白い」
とは言ってもらえたが、それ以上のことはなかった。
「事実は小説よりも奇なり」
と言われるが、刑事になってから、もっと大がかりな犯罪もあったというものだ。
だが、大学時代に書いていた小説が、今の刑事生活に少なからず役に立っているとは思っている。
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