第5話 明美のこと
今の世の中、実に、不可思議であった。そもそも、SNSでの匿名投稿は、プライバシーの保護の観点から、匿名にしているのだろうか? しかし、匿名をいいことに、中にはそこで、他人のプライバシーを曝け出すやつもいたりする。
今ではネットやスマホなどがあるから、いつでもどこでも、簡単にいろいろな情報をすぐに受け取ることができる。今から25年前、いわゆる四半世紀前というと、まだ、携帯電話すら、普及していない時代だったのだ。
今でこそ、誰かとどこかで待ち合わせをする時、遅れそうな場合や、急遽いけなくなったりした場合は、メールやLINEですぐに知らせることができる。電話したっていいわけだ。
しかし、携帯電話のない時代には、待ち合わせをしていけなくなった場合など、どうしようもない。ハッキリと分かったのが早ければ、相手の会社だったり、家だったりに電話を入れれば分かることではあるが、急遽の場合は、そうもいかないだろう。
例えば待ち合わせ場所が駅だったりすると、黒板や伝言板があったりする。そこに、前もって書いておくということができるくらいであるが、それも限界がある。どうしてもいけなければ、相手を待たせることになり、理由いかんによっては、けんか別れの原因になってしまう。実に悲しい結末ではないだろうか。
そういう意味では、今の時代、携帯電話があれば、どこからでも、連絡が取れる。実に便利な時代になったものだ。
しかし……。
それは、新しいものができて、メリット部分しか見ていないからだ。実はデメリットの部分も結構大きかったりする。
そう、何か用事ができれば、どこからでも相手に連絡を取ることができるということは、逆に言えば、
「どこから連絡を入れたか分からない」
ということだ。
「そんなことは当たり前じゃないか?」
と、一蹴する人がいるだろうが、これが何を意味しているのか考えないのだろうか?
つまり、
「アリバイ工作に使える」
ということである。
今のように、親が子供の安否のため、GPS機能で相手の位置を分かっていれば別だが、普通は絶対にありえないことだ。
だから、例えば、恋人同士が待ち合わせをしていて、
「今日は仕事で急にいけなくなったんだ」
と言ったとしても、相手には、
「彼は会社からっ仕事中に掛けてくれたんだ」
とは思うだろう。
しかし、その証拠はどこにもない。会社の固定電話から掛けて、その番号が彼女に通知されない限り、どこから掛けたのかは分からない。
ひょっとすると、浮気相手と、これからラブホにしけこむのかも知れない。つまりそれを信じるか信じないかは、彼女の裁量にかかっている。
もちろん、それだけ普段から、
「俺はウソをつかない」
ということを相手に刷り込んでおいたのであれば、分かるのだが、そうでなければ、あまり何度も同じことを繰り返していると、そのうちにバレてしまうことになるだろう。
そのことを、どちらも分かっているのかどうかが問題だ。
この後二人がどうなるかは知ったことではないが、要するに、携帯電話の普及が、便利なことは間違いないが、もろ刃の剣のように、一歩間違えれば、悪用されてしまい、それがバレれば、修羅場になることが分かり切っているということである。
その典型例が、SNSにおける、誹謗中傷ではないだろうか?
テレビタレントが、誹謗中傷を浴びて、自殺をしたなどということをよく聞いたりもする。
その時になって、まわりは、
「自分も同じような経験をしたことがある。だから、自殺した人が可哀そうだ」
というようなことを書きこむ連中がいるが、それを見ると、情けなく感じるのは、桜井だけだろうか?
というのも、
「誰かが死ななければ、社会問題にならなければ、そいつらは、黙っていたということになる」
と考える。
つまりは、まるで善意の第三者のごとくに書き込んでいるが、誰かが身を挺して訴えてくれたから、自分たちが言いやすくなったのである。
「人の死を踏み台にして、その人たちは、いかにも自分が善人であるかのように、その時になってやっと出てくる」
それこそ、最悪の偽善者ではないかと思うのだ。
だから、誹謗中傷で自殺をした人の関係者などは、皆同じことしか言わない。この時とばかりに、自分を正当化しようと必死なのだ。
どうせ、そんな連中に、自分が何をしているかなどという意識があるわけもない。それを思うと、実に虚しく感じるのだ。
そんな時、民主主義の限界を感じる。
民主主義の基本は、
「自由競争と、多数決」
だといってもいいのではないだろうか。
この多数決ということ、これこそが、差別を生む原因ではないか。自由競争では、格差社会を生み出し、多数決では、差別を生み出す。だからこそ、社会主義という考えが生まれたわけで、ただ社会主義は、恐怖政治の元にしか存在できないようなところがあり、そこには自由はありえない。
「果たしてどちらがいいのか?」
ということになるが分からない。
ただ、民主主義というものが、一番いいのだといって胡坐を掻いていると、結果、今のような社会を作りだしてしまう。
「多数決」
聞こえはいいが。
「少数派意見は、握りつぶす」
ということである。
2万人が投票して、2票差で決定しても、9999票は、まったく無視されることになる。それが民主主義というものだ。
確かにそうやって今までやってきたのだろうが、それによって、まったく違った社会が作られることになるのかも知れない。
10001票の中の半数以上が、
「あの時、反対に入れていればよかった」
と後悔しても、もう遅い。
あの時点で決めたのは、自分たちの一票だったのだ。
なぜなのか、社会は歴史に学ぼうという意識のある指導者が今はいない。結果はどうあれ、昔の指導者は、過去の歴史を鑑みて、真剣に、国を憂いて動かしてきた。大東亜戦争に突入した時だってそうだ。何度も机上演習を行い、無謀な戦争に突き進んだ場合、いかに有利に講和を結ぶかということまで青写真を練ってから、突入したはずだった。ただ、緒戦での勝利があまりにもすさまじく、世論を敵に回すことができないことで、停戦の機会を逸したのが、あの戦争の失敗であり、戦争に突入してしまったことが、そもそも悪いと思っている人が、たぶん、ほとんどであろう。
それは勉強をしないからそう思うのだ。
いろいろな本を読んだり、それこそ今であれば、ネットでいくらでも出てくる情報である。
そもそも、今の教育は、占領軍によって、それまでの天皇中心の、
「立憲君主制」
で、軍部の力が強かった日本ということで、アメリカ式の民主主義というものを植え付けられたことで、そんな教育になった。
ある意味、それも極端である。
日本の将来、国の行く末を憂いて、戦争に突入した真相を間違った認識で教わることが、どれほどの罪なのか。さらにもっと悪いのは、占領軍から独立した国家において、政府も占領軍の教育をそのまま受け継ぐ形でここまで来たのだ。占領軍、連合国の理屈というのは、あくまでも、
「勝者の理論」
でしかないのだ。
第一次大戦の際、その、
「勝者の理論」
で、20年もしないうちに、世界がまた大戦争に突入したことを、踏まえたとしても、それでも、結果は、
「勝者の理論」
でしかないのだった。
現代は、どんどん世の中が便利になってきているが、一歩間違えれば、その先にある踏み込んではいけない領域であったり、開けてはいけない「パンドラの匣」を開けてしまうということになりかねない。
そのことを、どこまでの人が分かっているかということである。
原子力だって、平和利用のために開発されるべきものを、いくら時代の流れだったとはいえ、戦争に爆弾として使われてしまった。
それが、結局、東西冷戦において、核開発競争という、いたちごっこが始まり、
「使わなくても平和は守れる」
などという神話は、最初の核爆弾が落とされてから、20年も経たない間に、
「絵に描いた餅だった」
ということが証明された。
それが、キューバ危機だったわけである。
そういう文明の発展とともに、出てくる社会問題というのは、いつの時代にもはらんでいるのだ。
「重工業の発達と、公害問題」
「ネットの発達と、個人情報、コンプライアンスの問題」
「バブル経済と、その崩壊後の世界」
他にももろ刃の剣がたくさんあることだろう。
桜井が、特に最近、昭和の古き良き時代を気にするようになったのは、歴史に学びたいという気持ちがあるのかも知れないと思うのだった。
ストリップ嬢の明美を見ていると、あまり楽しそうにしている雰囲気はない。というのは、他のダンサーは、本心からというよりも、妖艶に笑うのである。それが、ぎこちなく感じないのは、それだけ、彼女たちが、一生懸命に踊っているからだと思った。
踊りに対しての自分なりのこだわりを感じるのだった。それは、彼女たちがどうしてダンサーになったのかにもよるのだろうと思うが、元々、どこかの劇団に所属していて、そこで挫折してしまい、ストリップに流れたという人もいるかも知れない。
いや、それよりも、ストリップに対して何か感じるものがあって、自らこちらに移籍してきた人がいるとも思いたい。
だから、仕事とはいえ、ぎこちなくない雰囲気で、妖艶な笑顔を見せることができるのだと感じるのだ。
明美という嬢についている男性は、おじさんというよりも若い人の方が多い気がした。それに若い男性は、おじさんたちのように、かぶり付きで見ていることもないし、いやらしい目で見ているわけではない。できるだけ無表情になっているのだが、だから、
「明美が踊りの最中に笑顔を見せないのではないか?」
と思うのだった。
やはり、あの妖艶なスポットライトを浴びて、隠微な踊りを見せている最中に、微笑みを浮かべないというのは、気持ち悪いといってもいいだろう。
明美の踊りをずっと見ていたが、結局最後まで、彼女は無表情だった。彼女に対する声援も、前のステージの女性に比べて、まばらなものしかなかった。明らかに、
「この踊り、見るんじゃなかった」
と思われても仕方がないレベルである。
そこまで考えるのは、彼女たちが、
「客を楽しませる商売を営んでいる」
ということが前提だからだ。
笑顔のない、見せるショーというのも、中にはあるだろう。だが、ステージがあって、そこでパフォーマンスを行うものであれば、必ず、最初と最後くらいは、見てくれた客に対して笑顔を向けるのが当たり前だといえるのではないか?
それができないと、エンターテイメントで飯を食っている人間とすれば、最悪ではないか。
もっとも、笑顔を見せてはいけないパフォーマーもあるかも知れないが、ストリップは、
「笑顔が命だ」
といってもいいかも知れない。
桜井は、自分が特に最近、何をやっても歯車が噛み合っていないということを自覚しているだけに、癒しを求めて、風俗街にいるのだということをいつも痛感していた。
癒しというのは、笑顔一つでも違ってくる。ただ、変に媚ってしまうと、相手をその気にさせてしまい、自分の首を絞めることになるので、難しいところである。
「ひょっとして、明美という女性は、過去にそんな思いをしたことがあったのではないか?」
と感じた。
もしそうであれば、明美や、そのまわりのファンなのか、取り巻きなのか、まさか見張りでもあるまいが、そんな連中が無表情なのも分かる気がした。
要するに、明美がストリッパーになった理由は、あきらかに他の人たちとは違い、今までの歴代のダンサーの中でもさらに特殊な理由があったのかも知れない。
そんな明美のダンスを最後まで見てしまったことを、
「見るんじゃなかった」
と言って後悔し掛けた桜井だったが、最後の瞬間に、その思いを一気に壊されてしまった。
もう少しで明美から視線をそらそうとした、その時だった。
明美は、キリっとした顔つきで、桜井を見つめたかと思うと、急にニッコリと微笑んだのだった。
一瞬だったが、ビックリして明美の顔から眼が離せないでいると、その後は、今まで通りの無表情だったのだ。
明美に集中していたので、桜井は分からなかったが、明美に集中していた取り巻きの数人は、明美のその顔を見逃すわけはない。桜井の方に一気に視線が集中したが、桜井の方では、そんなことが分かるわけもない。完全に気持ちは明美に奪われていた。
反射的ではあったが、顔が赤くなったのを感じた。明らかなテレである。さっきまで、純粋な感じだとは思っていたが、その無表情さがそう思わせているだけなんだと思っていた自分が、まったく別人になってしまったかのようである。
もし、この状況を桜井が、他人として、まわりから見ていたら、どんな感覚になるだろうか?
何か危険な臭いを感じるのではないだろうか? それは、やはり、
「歴史に学ぶ」
という意味で、きっと、12世紀後半の平安京を思い出すのではないだろうか。
当時の平安京は、藤原氏による摂関政治の力が衰えていて、天皇の皇位継承をめぐって始まった院政というものと、藤原氏の内部争い、さらに、それに武士が絡むことで起こった、
「保元平治の乱」
において、最終的に残った、平清盛が率いる平家が台頭していた。
そして、清盛は次第に公家化していくのだが、その時、平時忠という人物が、
「平家にあらずんば人にあらず」
と言ったという話が伝わっているが、本来の意味とすれば、少し違う。
しかし、時忠の考え方として、京都の町で、
「禿(かむろ)」
という集団を組織し、京の街に放ったという。
彼らの正体は、身寄りのない子供を集めてきて、食べ物による洗脳が行われたのか、髪をおかっぱにし、赤い服を着ていた。
役目というのは、
「平家に対して、よからぬことを口にするものを見つけ、それを密告することで、彼らには、厳重な処罰がある」
ということであった。
まったくの無表情で、人が惨殺させるのを平気な顔で見ているというような子供の集団である。
だから、京で平家に逆らったり、クーデターを計画している者は、密告されて、惨殺されるのが、普通だったようだ。
その密告者が、子供というのが衝撃であるが、子供の前なら安心して、秘密を漏らすとでも考えたのか、そのわりに、衣装も髪型も一緒なのだから、彼らが禿であるということはすぐに分かりそうなものだ。
当時の京では、平家の天下であった。しかし、初めての武家による政権といってもいいので、清盛は自分の死後、平家一門がどうなるのか憂いていた。
特に、後白河法皇の存在が恐ろしく、とりあえずは、公家化することと、皇室とのかかわりを深くしてさえいれば、平家は安泰だと考えたのだろう。
しかし、実際には後白河法皇のやり方の冷酷さには、さすがの清盛も一目置いていたことだろう。
清盛の子供の重盛が亡くなった時、その所領をすぐに没収したのが、後白河だったからだ。
昭和の香りがするストリップ劇場と、過去の歴史で勉強した約800年前の平安京を比較するというのも何か不思議な気がするが、それだけ、桜井は、歴史に造詣が深いということであろう。
桜井が、まったく無表情な明美に興味を持ったはずなのに、印象に残ったのは、まったく無表情の禿である、取り巻きの連中だったというのは皮肉だったというべきなのだろうか?
その日、明美のことを見かけたことで、桜井は、風俗に来た時の帰りに、必ず、ストリップ劇場に行くようになった。
それも、明美のステージを見計らってである。
明美は別に全国を行脚しているわけではなく、この場所をホームグラウンドにしているようだった。だから、そのパターンを知ることで、大体明美のステージが見れるようになったのだ。
座る席はいつも決まっている。さすがにかぶり付きの場所は、いつも決まっているようで、桜井は入ることはできない。だが、別にその場所に座ろうとは思わない。少しだけ離れた方が、神秘的に感じられるからだった。
明美のステージを見るようになって3カ月くらいが経った頃だっただろうか? 明美のパターンが変わったようで、他の人に話を聞いてみると、
「明美さんは、最近ちょっとあって、今までのように、ステージに出れる心境ではなくなったんだよ」
ということだった。
なかなか教えてくれそうにもなかったので、さすがにそれ以上は聞かなかったが、ウワサというのは待っていれば、向こうから勝手に来てくれるというもので、その話を聞いた時は、半信半疑だったのだ。
その話というのは、
「明美の元、取り巻きの男が、先月、ラブホの一室で殺されたらしいんだよ」
ということであった。
さすがに、その人もそこまでしか知らないらしく、分かっていることとすれば、明美はしばらく、自粛の意味を込めて、ステージから離れることにしているということであった。
元々明美というのは、ダンサー上がりではない。以前は、どこかの小さな放送局で、ADのようなことをしていたという。だから、自粛中には、ADのようなことをして、収入を得ているという。
もう一ついえば、
「明美というのは、大学時代に、脚本などを書いていたので、本当は、そっちの道に進みたかった」
ということであったようだ。
しかし、それを断念しなければいけなくなったのは、細かいことは分からないというが、まわりの影響というよりも、明美自身が、ストリッパーになりたいということで、自分からこの劇場に売り込んできたという。
最初は素人同然の踊りだったが、彼女は努力家で、劇場の人もそのうちに明美を受け入れるようになっていった。
「あんなに真剣にやっているんだから、何とかデビューさせてあげたいよな」
という人が増えてきた。
しかし、その反面、
「どうしてストリップなんだろうね? 彼女くらいの努力家だったら、舞台女優だって夢ではないと思うんだけど、何かが足りないということなんだろうか?」
という見方もあったようだ。
ただ、彼女はストリップをやりながら、一部の人には自分の将来のことについて話をしていたという。
「私は、やっぱり脚本家をあきらめきれないの。独自に勉強したりしているんだけどね。別に地上波のドラマを目指すということでなくてもいいの。ちょっとした宣伝映画でもいいから、そういうのを積み重ねていければいいと思うの。とにかく、書けるようになったら、どんどん書いていくつもりでいるわ」
という。
それを聞いた人は、
「だったら、脚本ではなく、小説の方がいいんじゃない?」
と言われたが、
「私もそうかなと思ったんだけど、今のように、自分が主役の舞台を持っているので、それを脚本に生かせればと思うの。特にストリップって、舞台の上から見ていれば、次第に男性の考えていることが分かってくるのよ。きっと、他の舞台では感じることのできないものだって思うの。だから、私はここで、ダンサーをまだ続けていきたいと思っているの」
というのであった。
明美は、自分のかつての取り巻きが殺されたということで、最初は劇場から、
「申し訳ないけど、自粛という形で、しばらくステージを休んでくれないか?」
と言われたという。
こういう世界では、裏に暗躍している連中がいるようで、どうも、殺された男が、実はそういう組織の一員だったかも知れないというウワサが流れたことで、劇場側がすっかり、ビビッてしまったのだ。
もちろん、根も葉もない話ではあったが、何かあった時、関係者を自粛させているということになれば、劇場にあからさまで露骨な嫌がらせをしてくることはないだろう。
そういうわけで、最初は明美はしばらく劇場に入らなくてもよかったのだが、
「じゃあ、劇場の裏方の仕事のお手伝いということならできますよ」
ということをいうので、
「それならば」
と、ADのような仕事をやりながら、家では、脚本を書いていた。
裏方の仕事をしていると、意外と想像以上に、いろいろな裏の話を聞けることができた。それこそ、脚本を書く上での題材を集めるには苦労しないと思わせるくらいだった。
男と女の嫉妬や、妬みの話など、盛りだくさんで、しかも、こういう業界ではよくあるのかも知れないが、レズであったり、SMプレイと言った変態的なプレイを、誰々がしているなどというのを、
「あくまでも、ウワサレベル」
ということで、聞きたくない話まで入ってきたりした。
以前の明美であれば、
「そんな余計な話、聞きたくもないわ」
と感じることだろう。
だか、今はいろいろな題材に飢えているということもあって、それが本当であれ、ウワサの範囲であったとしても、どうせ、架空の話をして脚本に書くのだから、別に問題はないはずだ。
小説であれ、脚本であれ、事実を元にして書けば、ノンフィクション、架空の話であれば、フィクションという風に別れている。
明美はあくまでも、架空の物語を書くことを自分が脚本を書く理念だというように思っていた。
確かに、物語の場面場面では、事実であったり、実際にある場所を想像して書いているわけなので、すべてが架空というわけではない。
極端な話、99パーセントが事実であり、残りの1パーセントが架空であれば、その小説はフィクション小説だと思うのだった。
もちろん、その1パーセントというのが、その話の肝でなければいけないということに変わりはない。もし、小説を書いていたとしても、発想に変わりはないだろうと思っているのだ。
明美は、今度の脚本を、自分の以前の取り巻きが殺された事件を題材に書こうと思っていた。
本来であれば、不謹慎なのだろうが、あくまでもフィクションであり、事実と認定されるようなことさえ書かなければいいと思ったのだ。
しかも、明美が書く脚本はあくまでも、公開するものではない。どこかのコンテストに応募くらいはするかも知れないが、今のところ、どこかに持ち込んだりするわけではないのだった。
「明美の取り巻きが殺された」
ということが明美の耳に入ってきたのは、実際に殺人があってから、3日後のことだった。
警察の捜査では、現在の人間関係から少しずつさかのぼっていくうちに明美に辿り着いたのだろうが、明美としては、
「日本の警察がいくら優秀だとはいえ、結構早いんじゃないかしら?」
と感じたのだが、案の定、今の関係者に、いろいろな裏事情に関わっている人がいて、殺された男の身辺について警察に話したのだ。その中で明美の名前も出てきたということだ。
殺された取り巻きの男は、明美のところにいる頃から、裏の世界と通じていたようだ。
まさに、彼のことを、
「現代の禿」
と呼ぶ人もいるようで、
「あいつの前ではうっかりしたことは言えない」
と、皆ウワサしていたのだった。
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