第3話 ブームの興亡
風俗街に通い始めた桜井は、馴染みの店はできたが、相手をしてもらう女の子を決めているわけではない。いわゆる、
「おきに」
というのがいるわけではなく、フリーで選んでいた。
その日は、いつもよりも早い時間にお店に行ったのと、時間が夕方にもなっていないほど早かったことで、まったく待たされることもなかったことで、その日、退店した時間は、まだ、夜のとばりが降りる前であった。
普段であれば、すっかり夜のとばりが降りている時間で、かなりお腹が空いているので、歓楽街のあたりで、食事をしていたのだった。その時間帯になると、すでにディナーのピークも過ぎているので、店もゆったりとしていた。しかし、この日は、ディナーの時間帯に見事に嵌っているので、かなりの客がいて、待たされることも必至に違いない。しかも、それほど空腹な状態ではないということで、
「どこかで少し時間を潰そうか?」
と思った。
普段なら、一切気にすることもないはずで、実際に今までに何度も目の前を通り過ぎていたのに、そこにあるという意識すらなかった店が存在していた。ソープ街から、完全に抜けてはいるが、歓楽街までは入っていないという微妙なその場所に、まわりはキレイなソープ街とは対照的な、いかにも昭和を残した、いわゆる、
「小屋」
と呼んでもいいような、劇場があった。
ネオンサインは、煌びやかであるが、それだけに、鄙びた小屋が、いかにも昭和を感じさせるのであった。
その小屋というのは、ストリップ劇場であり、確かにこの場所にはいかにもふさわしくないような佇まいであったのだが、逆にいえば、どこにあっても、明らかに違和感しかない建物は、この場所だから、いつもの桜井のように、
「見ていたとしても、意識されない」
という場所という認識になるのかも知れない。
「路傍の石」
という言葉があるが、まさにその通りである。
「路傍の石」
というと、目の前に石ころが落ちていて、そこに視線を向けたとして、
「こんなところに石がある」
と言って、わざわざ意識する人がいるだろうか?
普通の人は、足元を見ながら歩く人はあまりいないだろうから、意識するどころか、目が行くということも珍しいのだろうが、人によっては、くせで足元ばかりを見て歩いている人もいる。
子供の頃から、
「ちゃんと前を見て歩きなさい」
と言われるであろうが、それは、親など大人が見て、足元ばかりを見て歩いている人の姿がみすぼらしく、情けない人間に見えるからだろう。
「自分の子供にはそんな風になってほしくない」
という思いから、親はいうのだろうが、その言い方は、あたかも、汚いものを見ているかのような雰囲気であった。
だから、子供は余計に、自分に対して卑屈になる。
「俺のことを、ごみや汚物のようなものだと思って見ているんだ」
と思い、
「そんな汚いものが自分の息子だとまわりに知られたくない」
ということで、子供ことを思ってというよりも、あくまでも、
「保身のために言っているだけなんだ」
と、思うことだろう。
そんな親なんて、誰が親と思うものかと感じたとすると、お互いに、それ以降、気持ちが通じ合うことはないだろう。
親子なだけに、行動パターンや性格が似ていることで、一度すれ違ってしまうと、決して平行線は交わることはないということで、修復不可能な関係になることだろう。
そういう意味で、親子関係というのは、ドラマや映画などで、
「親子だから分かり合える」
などということをいうが、あくまでも、フィクションなのだろう。
そんなに甘いものではないに違いない。
足元を見て歩く人は、親では変わることはない。一歩間違うと、余計に殻に閉じこもってしまうだけだということになる。
下を向いて歩くくせは、桜井にもあった。子供の頃に注意はされたが、その時は親が言っていることを、ほとんど、右から左にスルーすることができた。
これが、桜井の長所であり、
「俺って、親が言っていることを怒らずに聞き流せるんだ」
と思うと、他の人の言っていることも聞き流せるようになった。
親からすれば、生意気に見えるかも知れないが、どうせ、親だって保身しか考えていないのだ。だったら、お互いに変な波風を立てないに越したことはない。だから、親子喧嘩もほとんどなく、平和(に見える)な家族だったのだ。
桜井に悪いところがあって、親に注意されたからと言って、
「ああ、親に注意されたんだ」
と思うだけでいいのだ。
そこで変に余計なことを考えて、逆らってみても、親子の口喧嘩では、どちらが勝つということもない。
親の興奮が冷めるか、
「言い過ぎた」
と思って、親が辞めるかしかない。
親が、
「この子には言っても無駄だ」
と思ってくれた方が気が楽なので、なるべくそう思わせるようにしようと、思春期から以降は、親のいうことを聞き流すようになった。
しかも、その素質が自分にあるということが分かったのもよかった。まわりの連中が、
「よかれ」
と思って言っていると言われても、冷静になって考えれば、本当にそうなのかとしか思えない。
まわりは、決して、
「よかれ」
と思っているわけではなく、自分が注意することで、相手に対してマウントを取りたいだけだ。親の保身とレベルは一緒で、
「優位に立ちたい」
という思いからの言葉であろう。
そう思うと。そんな助言も聞き流すようになった。
桜井としては、
「そんなこと、いまさら言われるまでもなく分かってるって」
と言いたいのだ。
さらに、
「今の時点で自分が分かっていないのであれば、まわりから言われたくらいで分かるようなことではないだろう」
と思うのだ。
「今の時点で自覚できていないのであれば、一生自分には理解も納得もできないことであろうから、俺に対しては、誰が何を言っても同じなんだ」
という考えで、これこそが、
「個人至上主義」
ということになるのだろう。
まわりから、自分のことで何かを言われると、急に冷静になれた。冷静になると、まわりが何を言っているのか、他人事のように見えていて、そうなると、イライラもしないというのと、まわりの目的が何なのか分かるというものであった。
保身であったり、マウントを取りたいという思いが、そのほとんどであった。そう思うと、
「路傍の石」
を、なぜ自分が意識しないかということが分かってきた。
それは、路傍の石に限ったことではないのだ。
目の前に見えていることでも、意識しないことって、結構たくさんある。そのうちの一つが石だというだけのことで、それはきっと、
「路傍の石という存在が、誰でもいえる共通点だからではないだろうか?」
と感じたからであった。
他のことであれば、気にする人もいれば、気にしない人もいる。ただ、全体的な割合からすれば、そんなに比率としては変わるものではない。
そう思うと、路傍の石は、誰もが認める、
「見えているのに、意識をしない」
というものの代表選手なのだ。
このストリップ小屋も、意識をしてしまうと、
「なんで、こんなところにポツンとあるんだ?」
と感じることだろう。
これは、桜井の勝手な思い込みなのかも知れないが、ほとんどの人が感じる共通の思いであるかのような、
「路傍の石」
くらいのレベルで、見えているのに、意識しないものなのではないかと思っていることであろう。
ただ、路傍の石との明らかな違いというのは、
「いったん意識してしまうと、今度は意識の中から違和感が離れない」
と感じるものだということだ。
路傍の石はあくまでも路傍の石であり、意識をした時があっても、次の機会で路傍の石を見たとしても、前と同じで、見えているのに、意識をしないことだろう。
前の時に意識をしてしまったということすら、忘れてしまっているに違いない。
それを思うと、やはり、
「老棒の石というのは、本当に特別なものなのだ」
といえるに違いないと感じるのだった。
今までストリップ小屋を意識していなかったということは、これらのことでも分かるというものだ。
一度でも意識をしていれば、いまさら初めて気づいたような感覚になることはないはずだ。いったん意識してしまうと、それを意識した時の記憶が消えるはずがないからだ。
そのストリップ小屋は、本当に昭和のようだった。
ストリップ小屋に入った経験はなかったが、以前に一度、成人映画の映画館には入ったことがあった。
あれは、学生時代だったが、大学の友達と一緒に旅行に行った時、その友達が、
「面白そうだから見てみようか?」
と言ったことで入ることにした。
これが旅行でなければ、そんなことはなかっただろう。
「旅の恥は掻き捨て」
と言われるが、まさにそんな感じで、しかも、友達が行くというのに断ると、自分が旅先で一人になって、不安に苛まれそうに思ったからだ。
どうしても嫌だと思うところであれば、断っているが、
「どっちでもいいや」
と思ったことで、賛成したのだ。
別に敢えて断る理由もない。見たいということでもないが、
「社会勉強だ」
という言葉を聞き流してみたことで、
「まあ、いいか」
と感じたのだ。
相手の自分本位な言い訳を、軽く聞き流すことができれば、それは、自分が嫌ではない証拠だったからだ。
実際に中に入ってみると、真っ暗な中に、本当に汚い映画館だった。真っ暗だから意識しないだけで、それほど広くもない。百人ちょっとくらいしか入れないのではないかという程度の広さでしかなかった。
表から見た広さと中に入って感じた広さには一切の違和感はなかった。それだけ、シンプルなつくりで、どこか懐かしさを感じさせる。もちろん初めてなのに、どこかデジャブを感じたのは、
「過去に見たデジャブではなく、ここのストリップ劇場で感じることになる未来のデジャブ」
というものを感じたからではないかと思うのだった。
未来に起こることをデジャブで感じるというのは、いまだデジャブというもののメカニズムが解明されているわけではないので、このパターンを、心理学者や科学者は、一体、どう証明しようというのだろう?
そんなことを考えていると、あの時に感じたデジャブを、今のデジャブとして感じていたのであり。まるで、人形の中に人形が入れ子になっているという、
「マトリョシカ人形」
のようではないかと感じるのだった。
今までなら意識もしなかったことを、何かの偶然かも知れないが意識をしたというのは、
「見て行けよ」
と言われているような気がした。
しかも、その日は、どこかで時間を潰さなければいけないわけだし、時間潰しには浄土いいような気がした。
どうせ、中の人は皆常連であろうし、そんな変な人たちではないというのは、分かった気がした。
実際にお金を払って、中に入ると、踊り子のファンが、前の方で歓声を上げている。まるで小さなファッションショーでもやっているかのように、舞台から、中央部の突出口が完全に舞台になっていて、かぶりつきの客が、どこに座っていても、一番先頭であれば、触ることができるくらいの位置である。
踊り子が出てきて、隠微な踊りを披露している間、奥から男のナレーションが聞こえる。
「いかにも、これがストリップというものだ」
と、以前ドラマで、ストリップ小屋の様子が描かれていたが、さほど変わりはないようだった。
風俗ではないが、流行りのものとして、以前に何度か、メイドカフェに行ったことがあった。
以前ドラマなどで、もう10年くらい前になるか、メイドカフェの女の子がわき役として登場する話として登場したメイドカフェというと、いかにも、
「萌え萌えキュンキュン」
と言った感じのロケであったが、最近のメイド喫茶に行ったことがあったのだが、テレビでやっていたメイド喫茶とは、明らかに違っていた。
テレビでやっていたのは、まるでハーレムでもあるかのように、一人の客に、二人か、三人のメイドが張り付いている光景だったのだ。
「メイドカフェってこんなにケバいんだ」
ということで、元々、引っ込み思案な自分には、さすがにこの雰囲気に一人でいくのは無理だろうと感じていた。
しかも、自分一人に数人のメイドがついてくれているのだから、誰かと一緒にいける雰囲気ではないと思ったのだ。
「まるで、お酒のないキャバクラのようではないか?」
と感じた。
「正直、メイド喫茶に行くくらいだったら、キャバクラの方がいいのではないか?」
と感じたほどの雰囲気は、ちょっとあざといのではないかと思ったが、まんざらウソというわけではないように思えたのだ。
だが、実際に行ったメイドカフェはそんな雰囲気ではなかった。嫌がる桜井を、一度悪友が強引に連れてきたことがきっかけだった。
実は贔屓の女の子がいるようで、一人だと恥ずかしいから、ついてくるだけでいいから、一緒に来てほしいということで、半分、断り切れないのを知ってか、ほとんど、強引に連れてこられたのだ。
もっとも、そんな悪友がいたからこそ、ソープなどに一人で入ってみるという勇気が養われたのかも知れない。なんでも、食わず嫌いではいけないということを、その悪友が教えてくれたのだった。
実際に入ったメイドカフェは、本当に普通の喫茶店という雰囲気といってもよかった。テレビで見た時のような、あるでメルヘン王国の王子様にでもなったかのような錯覚も店だったが、確かにピンク色を貴重にした壁だったりはするが、そんなに派手というわけでもない。
壁がシックな色だったら、バーだといってもいいくらいの店の作りで、カウンターに7~8人が座れるくらいで、テーブル席の2人がけが3つほどあると言った、
「土曜か日曜だったら、いっぱいで入れないのではないか?」
と思うようなこじんまりとしたところで、そもそも、土日でも、フロア担当が3人体制で、奥の厨房が一人ともんあると、これ以上客が入れば、パニックになってしまう。
メイド服に身を包んだ女の子は、ただの給仕だけではなく、お客さんの会話の相手であったりをしなければならない。まるでスナックの女の子をイメージしてくれればいいのではないだろうか。
客は、どうしても、ほとんどがヲタクと言ってもいいだろう。あまり近づきたくない雰囲気の人たちばかりだが、そもそも、こういうお店は、
「コンセプトカフェ」
の括りになる。
だから、店にはそれぞれのコンセプトがあり、実際にテレビで見たような、いかにも王国であるかのような、
「萌え萌えキュンキュン」
と言った店であったり、
「この店のように、客とメイドが会話を楽しむ雰囲気の店の大きく分けて二つになるのではないか」
というのだ。
前者の店は、正面にステージがあったりして、メイドが定期的な時間になったら、簡単なショーのようなものをやったりして、全体で盛り上がる感じの店で、後者の店として、全体で盛り上がるわけではなく、本当にスナックのように、客とスタッフがそれぞれ会話をし、自分に女の子がついていない時間は、店にあるマンガを見たり、スマホをいじっていたりという客も少なくはない。
ただ、これだけで、他に何もないのであれば、客は来ないだろう。だが、食事がおいしいとか、スイーツがおいしい。あるいは、紅茶の種類が、紅茶専門店顔負けなくらいに揃っているなどと言った。普通の喫茶店のコンセプトを生かした店も結構あったりする。
実際に、こういうメイド喫茶のような店は、10年から15年周期で、ブームが訪れるという。その間は、細かいマイナーチェンジを繰り返しながら、周期が巡ってくると、また昔のようなブームがやってくるというのだ。
最近でこそ、風俗に行くことが多くなったので、足が遠のいてしまったメイド喫茶であったが、
「たまにはいいかな?」
と思うようになった。
最後の方でよく言っていたメイドカフェは、メイドという総称のような形で言われているが、そのコンセプトは、ナースであった。
ナース服で出迎えてくれるところで、そこは、ヲタクも多かったが、それ以外には、芸術に造詣が深い人が多かったのだ。
趣味で、絵を描いているとか、マンガを描いているという人、さらには、ポエムなどを書いている人もいるということで、そういう人と話をするのが大好きな桜井は、一時期よくいっていた。
半年くらいは通っただろうか?
店には最近あまり行かなくなったが、そこで知り合った人と、LINEなどで話をすることがあり、情報をくれたりはしていた。
その頃から、桜井も絵を描いてみることにした。へたくそではあるが、描き上げると結構満足感があるものだった。
描き上げたものを、ネットに上げたりもしていた。無料投稿サイトの中には、小説が基本であるが、マンガであったり、絵画を上げられるところも、数は少ないがあったりする。それを思うと、自分が、その店に嵌った理由が後になってから分かったような気がしたのだ。
そういう意味で、芸術的なことに造詣が深かったのだが、この時ストリップというのを見るまでは、
「セクシーなお姉ちゃんのちょっとエッチな踊りを、おじさんたちがかぶり付きで、見ているだけのものだ」
としか思っていなかった。
だが、考えてみれば、おじさんたちは、毎日のように来ているという。
「毎回同じ踊りだったら、何度もその子の踊りを毎日のように見ているのだから、普通なら飽きるのではないだろうか?」
それなのに、毎ステージ、毎日、そして、連荘でやってくるのだ。よほどの暇人か、踊り子のファンを自認しているということであろうか?
いくら自認しているとはいえ、そんなに毎日のように来ていれば、普通なら嫌になってしかるべき、何か引き付けるものがあるということなのではないだろうか?
と感じていると、ダンスや、そのパフォーマンスには、絵画に通じるような芸術的なものが感じられた。
もちろん、それだけで、毎日のようにというのは、説明がつくものではないが、芸術的な踊りに、踊り子に対しての個人的なこだわりがあるのであれば、ずっと見ていられるものなのかも知れない。
そんなことを考えながら、中に入ろうと、入り口の受付でお金を払おうとした時、その横を、一人の小柄な人が帽子をかぶって通り抜けていた。
顔は見えなかったが、歩き方がひ弱な感じに見えたので、明らかに女性だった。
ちらっとこっちを見た時、その眼だけが見えた気がしたが、服装に似合わないような、あどけない雰囲気に感じられたのだ。
男のような恰好をしているので、普通は分からないかも知れないが、却ってそのギャップが、女性であると分かった。
彼女は入り口とは別の螺旋階段を昇って行った。どうやら、スタッフなのか、もしかすると、踊り子なのかも知れないと思うのだった。
中に入ると、ちょうど、今の時間のショーが佳境に入っていた。踊り子が、ステージの突出口で、
「ご開帳」
していたのだ。
いきなりのクライマックスを見てしまったので、それまでの経緯も分かっていないこともあり、
「一番見たくないものを見せられた気がする」
と感じたことで、
「このまま帰ってしまおうか?」
と感じたほどだったが、せっかく来たのだし、どうせこのまま表に出てもすることはないんだと思ったことと、入り口で見かけた女の子の正体も分からずに帰るのは、ちょっともったいない気がしたのだった。
この時間のショーは適当に見逃して、インターバルの間に気持ちを切り替えることにした。そこから、今のショーが終わるまでの時間が、長かったのか短かったのか、自分でもよく分からなかった桜井だった。
次のショーは、ダンサーを明美というそうだが、
「さっきの女の子であったら嬉しいな」
と思った。
しかし、同時に、客を後ろから見ていると、
「こいつらも、それぞれに女の子のファンがいるんだろうな?」
と思うと、何か嫉妬めいたものが頭の中に浮かんできたのを感じ、不思議な気がするのだった。
いかにも、昭和の刑事ドラマの再放送で見たことのあるようなストリップ劇場、そのままだった。
メイドカフェのように、時代時代で、少しずつ変化していき、ブームのピークになった時、また一周回って、以前のブームに戻ってくるようなことは、昭和の時代ではなかなかないことだった。
一度人気が出たものは、ブームの間は華やかであるが、それに代わる何かに取って変わられると、ロウソクの炎のように、パッとついて、あとは消えていくだけなのだった。
「昭和のブームというのは、一度火が付くと、パッと賑やかではあるが、ブームが去ると、再度10年後にまた戻ってくるというようなことはない」
というのは、平成以降のブームというのは、その形を少しずつ変えていくことで、ブームが消えてしまうことはなく、次のブームまで生き残っていれば、また復活することができるというものであった。
それが、昭和までと、平成以降では違っていて、ブームによっても、その流行り方の種類も変わってくるというものだった。
メイドカフェなどというものは、その時々でのマイナーチェンジを、その時代のブームに乗っかるようにうまく乗り切っていき、息の長いものとなっているのだ。
一度ブームが去っても、また復活するものがあるなどということを、昭和に生きていた人が、想像もついたであろうか?
逆に言えば、昭和の、特に戦後の焼け野原からの復興は、
「何もないところから、新たなものを生み出す」
という意味で、先に見えるものは、滅亡か、発展かしかないというハッキリしたものであった。
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