第2話 結婚離れと風俗営業

 昔であれば、

「結婚適齢期というものがあり、みんなその年齢になると、結婚を一度は考え、そういう結婚したいと思う相手に必ず巡り合うものだ」

 という話を聞かされた。

 しかし、今は、結婚適齢期などという言葉は、死後ではないだろうか。

 会社の上司や同僚から、

「結婚適齢期」

 などという言葉を言われると、セクハラ、パワハラに近いと思われるかも知れない。

 結婚適齢期という言葉を使って、

「結婚すれば、会社を辞めることになる」

 ということを連想させることで、男女平等という観点が崩れてしまうのではないかというのが、コンプライアンス側の考え方に違いない。

 昔であれば、結婚適齢期になれば、男女とも、その時期がまるで、大学生の就活時期でもあるかのように、売れ残らないようにしないといけないということで、必死になっていたことだろう。

 それも、結婚ということが、家庭を作ることであり、その家庭が、今度は子供を作ることになり、

「家系」

 というものを、存続していくのが、当たり前だという考えがあった。

 昭和であれば、おばあちゃんが、

「自分たちの代で、家を絶やしてしまうと、ご先祖様に申し訳がない」

 と言っていただろう。

 大きな家に、2世代の家族が同居していたり、嫁姑の問題を抱えながらでも、家庭を作っていくのが、嫁の役目であった。しかも、男尊女卑の時代にも関わらずである。

 そんな時代から、次第に、田舎から都会に出ていく人が増えてくると、田舎では過疎になり、東京などの大都市では、若者が増えてくる。特に、

「集団就職」

 などという、高度成長時代に対応するための、労働力を田舎に求めたことからの問題であった。

 高度成長の時代で、景気が上昇している時はいいが、景気が悪くなってくると、今度は、今までの労働力がいらなくなる。社員を首にできるところはいいが、社員を残したまま、何とか頑張ろうとした会社は、会社自体に無理がかかって、倒産の憂き目に遭ってしまう。

 そうなると、結果、社員もろとも、路頭に迷うことになってしまう。そんあ景気の良しあしを繰り返しながら、今の時代になってきた。

 当然、文化や、生活というものも、その時代に対応する形で変わってきた。

 親との同居をしないかずくが増えてきて、家族がバラバラに暮らすようになる。

 そのうちに、家庭内でも、会話がなくなっていき、理由はいろいろあるだろうが、子供の、

「引きこもり」

 などという問題も出てくる。

 いつの時代にも、家庭を持つことで、少なからずの問題を抱え、それが社会問題となってきた。

 そうなると、

「家庭というのは、何なのだ?」

 と考えることになるだろう。

「結婚しない」

「結婚しても、子供を作らない」

 という家庭が増えてくるのも当たり前というものだ。

 社会問題を見ていくと、家を存続して何になるというのか、これからはどんどん住みにくい時代になってきて、生きていくことが困難な時代になっていくことは目に見えているのだ。

 環境問題、年金問題、少子高齢化、パッと思い浮かべただけで、家庭というものに絡む社会問題がいくつ出てくるというのか。まるで、

「家を存続させることが、罪だ」

 と思わせる世の中になってきたということなのかも知れない。

 自然現象や、避けて通れないこともあるのかも知れないが、そのほとんどは、

「人災」

 だといってもいいだろう。

 特に、年金問題などそうではないか。

 10年くらい前に、年金を消したという明らかな、政府の怠慢が招いた事件があっただけではなく、政府がしっかり取り組んでこなかったり、バブルが弾けてから、民間企業が経費節減ということを必死になって取り組んできたのに、政府は無駄な人員や事業ばかりを増やして、血税を無駄にしてしまっている。

 そんな時代に、さらには、地球温暖化などの環境問題であったり、どこかの組織なのか国なのかによる、細菌テロが起こったりと、もう、デタラメである。

「もう先が見えているような時代を、自分の子供に背負わせていいのだろうか?」

 と考える。

 それに、自分が生きていくだけで精一杯の今の時代に、子供を成長させたとして、子供からの見返りが期待できるわけでもない。

「老後を子供に養ってもらう」

 などという、今までの時代とは明らかに違うのだ。

 それも、すべてとは言わないが、政府の責任といってもいいので、そんな政府が、少子高齢化であったり、将来についてをいくら語ったり政策を打ったりしたとしても、もうすでに時は遅いのである。

 このままいけば、今の若い人たちには、年金がもらえる時代ではなくなっていく。今でも、定年を55歳から、60歳にされ、しかも、年金受給を65歳からというとんでもないことをしてくれているので、65歳まで働くのは当たり前のようになっていた。

「60歳定年などという言葉は、欺瞞でしかない」

 ということなのだ。

 そのうちに、

「死ぬまで働け」

 ということになり、年金などというのは、

「過去の遺物」

 となることだろう。

 そんな時代に、どうして子供を晒すことができるというのだろう。

 どうせ先のない世の中だったら、自分の関係者をそんなところに晒したくないと思うのは当たり前のこと、自分が生きるだけで精いっぱいの世の中を、ただ生きているというのが、今の時代なのだろう。

 そして生きていくためには、仕事はしないといけない。そのためにたまったストレスは自分で何とかしなければならないのであるから、なりふり構ってはいられないということだろう。

 男である以上、性欲があるのは当たり前のこと。癒しを求めるには、公営風俗を使うのが、一番いいだろう。

 下手に彼女など作ってしまうと、結婚問題が出てくると、厄介でしかない。

 特に相手が、

「子供がほしい」

 などと言い出すと、自分の計画がまるっきり変わってしまうことになるだろう。

 だから、彼女が欲しいとは思わない。今のいわゆる男女ともに結婚適齢期と言われるこの時期であれば、特にそうである。

 桜井の家族は、結構あっさりとしていた。母親は実の母親なのだが、父親は再婚相手だった。

「お母さんの結婚適齢期の頃には、成田離婚などと言って、離婚する夫婦が急増していた時代だったんだよ」

 と母は言っていた。

「どうしてなんだい?」

 と聞くと、

「結婚には、自分たちの価値観が大切だと思っている人が多かったんだろうね。付き合っている頃には分からなかったことが、結婚して一緒に暮らし始めると、それまで見えていなかったことが、一気に見えるようになってきて、そうなってしまうと、お互いに離婚ということに抵抗がなくなってしまって、簡単に離婚する人が増えてきた。前は、戸籍に傷がつくなんて言って、躊躇うことが多かったけど、成田離婚などと言われるようになると、離婚をためらう人は減ってきたんだろうね。そのうちに、バツイチの方が恰好いいなどと言われるようになっていってね。離婚したことを棚に上げて、なんて時代になったんだって感じたものだったよ」

 と、母親は言ったのだ。

 そんな母親の話を聞いていて、しかも、10年前の年金を消した政府への諦めの心境。

「政府をあてになんかできない」

 という思いがあり、さらに、環境問題などを考えていくと、とても、子供たちに、

「未来がある世の中」

 などということをいうことができるわけのない時代になってきたのだ。

 きっと政治家も分かっているのだろう。

 だから、自分が権力を持っている間、いかに自分のためにということを各々が考えてしまうことで、世の中を動かしていく立場として、血税で暮らしている分際にも関わらず、自分勝手に生きようとするのだから、よくなるわけなどないというものだ。

「政治家が最後は、世の中に引導を渡すことになるんだろうな」

 と、桜井は感じていた。

 そうなると、結婚や、子供を作ることにどんな意味があるというのか、逆に結婚したり子供を作ることは罪だと思うようになってくると、あとは個人でいかに、この世を楽しむかということになるのだ。

 どんなに政府や、マスゴミがきれいごとを並び立てようとも、結局は、滅亡しかなく、それがいつになるかというだけのことだ。

「盛者必衰のことわりを表す」

 という言葉、まさにその通りである。

 そういう意味では、現代人というのは、ある意味、

「平家一門」

 といっても過言ではないだろう。

 源氏によって滅ぼされるわけではなく、自分たちで自分たちの首を絞めていた。知らなかったことも多かったとはいえ、良かれと思っていろいろな開発が、自分の首を絞めてきたのだ。

 権力を持ったものは、いくら民主主義の時代だとはいえ。いや、民主主義であるからこそ、余計に、自由奔放になることが、正義ということになり、誰も気づかないという自由の弊害が、

「時すでに遅し」

 という状況を作りだしてしまうのであろう。

「たぶん、とっくに、ピークという意味の飽和状態は過ぎてしまい、それがバブルが弾けた時とは違い、今度は徐々に萎んでいく」

 そうなると、何も知らずに、どんどん小さくなってきていることに気づかずにいると、気づいてしまったその時には、もう誰にもどうすることもできなくなってしまうのだ。

「どうせ、助からないのであれば、自分たちが生きている間、何もなければそれでいい」

 と考える人が増えてくるだろう。

 年配の人は、

「ある程度生きてこられたのだから、もういいだろう」

 と思っているかも知れないが、若者とすればたまったものではない。

 親の代、いや、その前の世代から、世の中を少しずつ壊していったのだから、

「そのつけを、どうして自分たちが払わされることになるんだ?」

 と考えると、もし、自分たちの代が大丈夫であっても、その先の代が破滅に向かうのだとすれば、

「世の中、自分たちの代で終わればそれでいいではないか?」

 と考えるようになり、子供を育てるという、そんな面倒なことをしたくないと思うのは当たり前のことだ。

 だが、今の若い連中にそこまでの考えがあるのだろうか? 単純に、結婚しても、子供ができれば、面倒臭いだけでhないか。

 と考えているだけなのかも知れない。

 問題は本能として残っている性欲をどうするかということであるが、それは、金が解決してくれる。

「お金で、時間と癒しを買うんだ」

 と思えば、別に問題はないではないか。昔は、

「お金で女を買う」

 ということへの罪悪感のようなものがあったというが、今は逆に後腐れがないという意味で割り切っているといってもいいではないか、

 好きになってしまうと、精神的にきついかも知れないが、お互いに、

「疑似恋愛」

 として、癒しを求めると考えれば、ある意味、友達感覚であったり、恋人気分を味わうということであれば、割り切ったという意味で問題もないだろう。

 下手に出会い系などを使って、素人と出会ったりすると、少し前であったりすれば、美人局などがあったりして、問題になることだってあっただろう。

 その点、ソープランドであれば、公的に市民権があるものなので、風営法という法律の定める範囲内であれば、合法なのだ。そういう意味では、煩わしさもないし、お金さえあれば、癒しを受けることができる。マッサージであったり、アロマテラピー、さらに、リラクゼーションなどというものと変わらないといってもいいのではないだろうか。

 昔からある、

「売春防止法」

 という法律との間で、判断が難しいところもあるのかも知れないが、風俗営業という意味で、

「法律の範囲内」

 であれば、問題ないのであろう。

 ただ、金銭的にそんなに安いものではない。普通のサラリーマンであれば、月に一度いければ、いい方なのではないだろうか。

 そんな、給料から無理のない範囲で、

「遊んでいる」

 桜井であったが、最近、古風なものに興味を持つようになった。

 最近では、かなり減ってきた、

「ストリップ劇場」

 というものである。

 あまりきれいなイメージもなく、昔からの固定ファンがいて、その人たちが支えているというイメージしかないのだが、そのイメージから、ずっと避けてきた。避けてきたというよりも、近寄らないと言った方がいいのかも知れない。

 避けるというと、興味はあるというのが前提であるが、近寄らないというのは、最初から興味もないし、近寄ると、何かされるかも知れないと思うほど、怖がっているという意味では、近づかないという感覚の方が、数倍、気を付けなければいけないことのように思えたのだ。

 それに、避けてきたというと、昔からそばを通っていて、存在を知っていたということであり、近づかないというのは、昔から知っていたのか、最近になって初めて知ったのか、どちらともとれるであろう。

 風俗街というところに足を踏み入れたのは、今回、

「癒しを求める」

 という意味で初めて訪れたことが最初だったのだ。

 風俗街というところは、どこの街も同じなのだろうか? 桜井の住んでいる街の中心部にも、大金風俗街と呼ばれるところがある。

 ここは、歓楽街として有名な場所の南部に位置しているところで、北側に海が面しているので、北側に向かって、川が流れているのだが、その下流が支川のようになっていて、その大きな川に挟まれた部分が、歓楽街になっていた。

 その歓楽街は、JRの玄関駅になっているところと、街の中心の繁華街との間に位置していて、ちょうど、商人の街と、城下町と言われた部分をちょうど分割するあたりに位置しているのだった。

 ここは、大都会には珍しく、空港が、街中にある。そういう意味で、飛行機で来た人たちが街の中心部に出るのに、地下鉄で数駅という実に便利の良さでもあった。

 風俗街として制定されている風営法というのは、基本的には、

「当たり前のことを当たり前に書いている」

 というだけのことであった。

 詳しい法律というのは、本当は、都道府県のような自治体が制定している、

「条例」

 と呼ばれる法律で規定されているのだ。

 つまり、風俗の法律というのは、全国共通のものではなく、その自治体において、バラバラに制定されているといってもいいだろう。

 特に、ソープランドのような店は、作ってはいけないと規定されている場所が確立していて、それに沿って、開業しなければならない。町名から、番地まで細かく決められた地域があるのだった。都道府県の中には、

「一切の土地での開業は許さない」

 と決まっているところもあったりするのだった。

 逆に、全国共通の法律としては、

「新規で、店を開店させてはいけない」

 というものがある。

 改築などや、すでに進出している会社の、新店という形ではOKだということである。

 こちらは、風営法に定められていることなのだ。

 桜井は、アルコールもあまり強くないので、歓楽街にもあまり足を踏み入れることはなかった。

 それこそ、会社の忘年会などで出かけるくらいで、年末に一度来るくらいのものだった。だから、ある意味一番人手の多い時に来るわけなので、

「年から年中賑わっているんだ」

 と、思っていたが、実際にはそうでもないようだった。

 そこは、他の企業と同じで、忙しい時期と、閑散とした時期があるのも当然のことであり、閑散とした時期がどれほど寂しいかということを、知る由もなかった。

 風俗街にも、同じように賑やかな時と、閑散とした時があるだろう。風俗街には、一人で来る客もいるが、昔から、歓楽街から流れてくる客、さらには、出張でやってきた土地で、風俗を楽しむ人も結構いる。風俗街には、いくつかの、

「無料案内所」

 なるものが存在し、客が流れ込むと、そこで客の要望を聞いて、それに似合う店を選んで、店側と交渉してくれるというところがある。

 どういうコンセプトの店がいいのか? たとえば、若い子が多いところがいいのか、熟女系で、ベテランの技を味わいたいのかなどであり、さらに重要なのが、お財布の具合である。

 軍資金がいくらまでなら大丈夫なのか、時間設定は、どれくらいがいいのかなど、個人で選ぼうとすると、初めての土地では迷ってしまうようなことを、交渉までしてくれるのだからありがたい。近くであれば、店からスタッフが迎えに来てくれたりもして、店までの間、他の呼び込み(基本的には禁止なのだろうが)に引っかかることなく、一直線で店まで行けるのはありがたいことである。

 店側もありがたい。呼び込みが禁止されている以上、路上営業もできないことから、お客のニーズを聞いて、客を連れてきてくれるのだから、実にありがたいものだ。

 たぶん、店からの共同出資などで、無料案内所を経営しているのだろうから、コンセプトが違えば、競合することもない。今の風俗は、基本的に、コンセプトと呼ばれるものがある。

 コスプレ専門だったり、マットプレイを売りにしていたり、素人感を前面に出している店などである。

 一つの町内に、ソープランドが、数十軒ひしめいているのである。客が迷ったり、分からなかったりするくらいなので、コンセプトがハッキリしていないと、やっていけないというものであろう。

 女の子も昔の映画などにあったように、

「借金のかたとして」

 というような、やくざ映画に出てくるようなことは少ないのではないかと思える。まったくないわけではないだろうが、正直、女の子も、学生だったり、普通の主婦だったりと、見た目も、

「風俗にいなさそうな子」

 というのが、結構いたりするのだ。

 だから、コンセプトにあった女の子が人気があったりする。今では、ネットも普及しているので、昔のように、店にいかないと、初めての店では、どんな子がいるのか分からないということもあり、無料案内所というのが重宝されたのだろう。

 今から思えば、ネットが普及する前といえば、店に入ってから、受付で、女の子のパネルと呼ばれるカードのようなものを見せられて、

「今なら、この子がいけるよ」

 と言って、選んでいた時代もあった。

 桜井は、そんな古い時代は知らないが、初めて入ったその店の常連のようになっていた。今では、常連というのも珍しくないので、スタッフと仲良くなるというのは、珍しいことなのかも知れないが、よく話すスタッフも結構いたりして、女の子との時間だけではなく、スタッフと軽い会話をするのも、密かな楽しみの一つだった。

 桜井は、最初、無料案内所からの勧めで、今は馴染みになった店に入った。最初はフリーで入ったので、どんな子に当たるかというのは、不安だったが、最初に入った女の子の優しさが、癒しに直結したことで、ソープに嵌ってしまった。

 プレイだけでなく、癒しを求めて行っているので、時間は結構長めだった。90分コースくらいを大体選択する。値段は、3万円くらいというから、こういう業界ではリーズナブルな、

「大衆店」

 と呼ばれるレベルのお店であった。

 店のコンセプトは素人系、当然若い子も多く、ほとんどが、20代。中には現役女子大生もいるということであった。

 もっとも、プロフィールをどこまで信じていいのか分からないが、基本的は疑わないよういしている。相手は別に彼女でもない。癒しを与えてくれるというだけの人だということなのだ。しいていえば、

「友達以上、恋人未満」

 という感じであろうか。

 だからこそ、自分なりの礼儀を示すことで、喜んでくれればいいと思い、いつも差し入れを持っていくことを忘れなかったりする。

「あくまでも、疑似恋愛なのだ」

 という意識を持つようにしていたのだ。

 そうは言っても、一緒にいれば、

「まるで自分の恋人なのではないか?」

 と勘違いしてしまうことがある。

 マジ恋と言ったりするらしいのだが、一歩間違うとストーカーになってしまわないかということも怖い。部屋に入る前に、たいていは、禁止事項を確認して入っているが、毎回のことなので、いちいち覚えているということもない。

 逆に言えば、覚えていないということは、それだけ、

「世間一般の倫理に反しさえしなければいいのだ」

 というようなことだ。

 基本は、女の子を守るというのが禁止事項なので、ストーカー行為や、嫌がる行為などは厳禁なのも当たり前、特に嫌がる行為というのは、説明文を見ながら、スタッフが声に出すというほどの基本中の基本だ。

 客の方としても、女の子にお金を払ってサービスをしてもらうわけなので、女の子の機嫌を損ねれば、せっかくお金を払ってのサービスも、心が籠っていないということになるだろう。

 そうなると、まったく楽しくないといってもいい。

 客は癒しを求めに行っているのであって、別に女の子を蹂躙したいという思いで行っているわけではない。もし、自分がSで、女の子にMの関係を求めるのであれば、そういうサービスがコンセプトの店にいいわけである。

 実際にそういうコンセプトの店は存在しているのだ。

 そもそも、SMというのは、中世の貴族の遊びだったっという。

 ある意味、

「高貴な遊び」

 だといってもいいだろう。

 特にSMというのは、相手を傷つけるところまではいかない。性的な興奮を、SMという感情で、満たそうとするものなのだ。つまりは、

「とても、危険な遊び」

 なのだ。

 つまり、ルールを守り、キチンとした知識やプレイ技術のようなものを持っていないと、危険なのである。そういえば、江戸川乱歩先生の、

「D坂の殺人事件」

 のような真相を思い出させるのであった。

 読書を趣味にしている桜井だったが、最初に読むようになったのは、昔の、

「探偵小説」

 だった。

 時代は、大正から昭和、つまり、戦前から戦後にかけての探偵小説も、結構面白いものがあった。

 しかし、時代が時代なだけに、当局から、

「探偵小説のようなものは、書いてはいけない」

 というお達しがあり、すでに出版されているものは、絶版にされたり、探偵小説を書けないということで、違うジャンルの作品を書いたりしていた。

 有名な探偵小説家が、一部時代劇を書いていたりするのは、戦争中の出版規制に遭い、仕方なく、路線変更せざるを得なかったということである。

 それを思うと、戦前の混乱やドロドロしたものが好まれた時代から、180度変わったといってもいいだろう。

 江戸川乱歩は、そんな大正時代から、昭和初期に活躍した作家で、それ以降は、少年物などや、探偵小説評論などと言った多岐にわたる活躍を示していたのである。

 この作品も、大正時代に書かれたもので、時代背景としては、まだ、大震災からの復興真っ最中で、時代としては、暗い時代だったといえるだろう。あの時代も今同様、マスクをしている人が多かったのである。

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