第3話 小説のネタ

 小説家を目指さなくてよかったと思っている。

 小説家を目指してはいながったが、心の中で、

「あわやくば」

 と思っていたのは事実である。

 否定はしない。しかし、小説家になるということがどういうことなのかということが分かってくると、

「やっぱりならなくてよかったよな」

 という意識である。

 小説家というのは、確かに、クリエイトな仕事で、自分が書かなければ何も始まらないという意味で、

「何もないところから一から生み出す」

 という意味で、実にやりがいのあることだ。

 しかし、本当にそうだろうか?

 小説家というものは、

「出版社あっての小説家であり、読者あっての小説家」

 なのだ。

 つまり、いくら自分で書きたいものを書いたとしても、売れなければ、ダメなのだ。まずは、出版社に認めさせなければ、売れないものばかり書いていて、誰が出版社から相手にされるというのだ。

 出版社も売れる小説がほしいのだ。売れるものを書く小説家がほしいのだ。だから、最初に小説家が、小説を案、どんな設定のどんな話という大まかなものを企画として出して、それを、出版社の方で、編集会議を行い、そこでゴーが出れば、そこで初めて小説を書き始めることができる。

 この際の編集会議には小説家は参加できないので、待っているだけである。ゴーサインが出て、初めてそこから、プロットを考えて、ストーリーにして、締め切りに向けて書き始める。雑誌のサイクルでの締め切りで、週刊誌であれば、週に一回。月刊誌であれば、月に一回というペースだ。

 そして、連載を始めてから、初めて読者が見ることになるが、そこで作家も、初めて、読者の反応を知る。

 少なくとも、自分で自信を持ち、編集部も、編集会議で許可をしたのだから、企画の段階では、少なくとも、出版社とは向いている方向は同じはずだ。そして結果として売れればいいが、作品の人気がなかったり、文庫本として発刊すれば、まったく売れなかったりすれば、編集部から、信用を一つ失うことになる。

 厳しい出版社であれば、

「君はもういい」

 ということになりかねない。

 そうではない出版社でも、次回からは、出版社の意向に沿った作品しか、許可を出してくれなかったりする。つまり、

「書きたい作品が書けなくなる」

 ということだ。

「書きたい作品を書けるという思いがあるから、苦しみながらでも小説を書いてこれたのだ」

 と思うが、実際にはそうもいかない。

 小説を書く苦しみの代わりに、書きたいものが書けて、できた時の喜びに浸れるのが、小説を書くという作業だったのに、それが仕事になると、主導権は出版社に握られてしまって、出版社の思う通りの一つの駒にしかすぎないっことを思い知らされる。

 そんな状態に果たして耐えられるのか? いや、答えはノーだった。

 最低限、好きなものを書く。それは譲れないところのはずだ。しかし、それができないのが仕事だというのであれば、小説を仕事にはできないということである。

 仕事にしてもいいような、自分にとって、どうでもいい、少なくとも信念とは違う世界のものを職業にすれば、意外とうまく行ったりするかも知れない。

 そんな風に思うのは不謹慎なのかも知れないが、皆だって、いつも、

「俺はこの仕事を続けていって、いいのだろうか?」

 と考えているではないか。

 早いうちに小説家として、趣味を仕事にすることの難しさやもどかしさがあるということに気づいてよかったと思った。趣味であれば、誰がなんと言おうとも、矛盾を感じることもなく、生きがいにするには、仕事としてよりも、少しでも身動きできる方がいいに決まっているのだ。

 恋愛や、青春小説を書こうとして書けなかったのは、特に恋愛小説などに多い、

「ドロドロとした世界」

 不倫であったり、嫉妬に塗れた世界を描く、一種の愛欲的な作品であったり、清純とはこれもかけ離れた、官能的な世界。これらを描くことができなかったからだ。

 世間では、

「官能小説ほど、難しいものはない」

 と言われるくらい、表現には制限があり、

「いかに想像させ、読者を興奮させることで、いかせることができるか?」

 というのが、実に難しいところだ。

「読者に射精させなければ、それは、官能小説ではない」

 という人もいるくらいだ。

 官能小説だけではない。小説というものは、書いていい部分と、表現してはいけない部分とがある。性的な言葉でもそうだが、男女や、障害者などに対しての、差別用語であったり、個人攻撃になるただの誹謗中傷などは、タブーとされている。小説にも一定のルールがあるわけだが、それが、

「作者と読者の間に結ばれた暗黙の了解」

 と言えるだろう。

 白河は、大学を卒業してから、探偵小説なるものをよく読むようになった。それも、戦前から、戦後すぐくらいの作品で、いわゆる、

「探偵小説」

 と呼ばれていた時代である。

 この時代の探偵小説を読んでいると、官能小説に結びつく共通点のようなものがいくつか感じられた。その一つが、

「耽美主義」

 と呼ばれるもので、

「秩序や道徳的な考えよりも、何においても、美というものが最優先される」

 という考え方である。

 探偵小説における、

「耽美主義」

 というものは、猟奇的な犯罪とイコールだと考えられた。

「死体を芸術作品のように飾るという犯罪者の美学のような考え方を描いた作品であり、犯罪者から見れば、耽美であり、捜査員や一般市民から見れば、ただの猟奇、あるいは、閉室者的な犯罪にしか見えない」

 という考えである。

 戦前、戦後という、戦前であれば、関東大震災や、経済恐慌などのような、激動の時代だからこそ、

「何が起こっても、不思議はない」

 と言われたり、

 戦後などでは、崩壊した母国が、戦勝国によって支配されるという屈辱的で、食事も住まいもまともにないという異常な時代だからこそ、余計に、

「何が起こったって、必然のことだ」

 とでもいうような考えが芽生えていたに違いない。

 その日一日一日、

「今日は死なずに済んだ」

 と、戦時中からずっと考えていることだろうからである。

 白河が、探偵小説に興味を持ったのは、この時代に興味があり、味わうことができるとすれば、当時書かれた小説を読むのが一番ではないだろうか。

 しかも、

「何が起こっても必然だ」

 と思われた時代である。

 あくまでも、読んで想像することはできても、自分で書くことはできない。そんなギャップから、次第に、当時のトリックや、それを使うことができる時代背景に敬意を表しながら読んでいると、

「トリックというのは、実際には今の時代でも、バリエーションを利かせれば使えるものもある」

 と思うようになった。

 科学捜査が行き届いてきたこの時代で、アリバイトリック、死体損壊トリックなど、科捜研などで調べれば、一発で露呈するような小説は、なかなか書けないと思っていたからだ。

 ただ、そうは言っても、実際のトリックはあらかた出てきてしまっている。そのせいもあって、

「これからのトリックは、いかにストーリー性であったり、エンターテイメント性において、読者をひきつけるかが問題で、トリックに関しては、叙述的なものが大きいのではないか?」

 と言われている。

 小説は、ドラマや映画のように、映像があるわけではない。視覚で捉えることができない感覚だからこそ、想像力が生きるのだから、それだけたくさんの可能性が秘められていて、いかに文章が読者の想像を掻き立てられるか、ある意味、騙しのテクニックでもいいわけだ。最後の最後で、読者が、

「やられた」

 と言えば、作者の勝ちなのだ。

 だから、探偵小説には、

「ノックスの十戒」

 などと呼ばれるものがある。

 あくまでも、探偵小説というものは、作者が読者に対して、挑戦状を叩きつけていると言ってもいいものであり、実際に探偵小説家の中には、小説の中お、

「起承転結」

 における、探偵の謎解きの前に、

「読者への挑戦状」

 というものを叩きつける作家もいた。中には、

「自費で懸賞金を出す」

 とまで言った作家だった。

 その作家とすれば、そういう触れ込みをしておけば、

「探偵小説のファンであれば、必ず挑戦したくなる。そうなれば、本を買うだろう」

 と考えたはずだ。

 その本はその作家の中の作品の中で、ベスト5に入る作品になったことはいうまでもない。

 逆に一番ではなく、ベスト5ということは、

「それだけ、上には上の優秀な作品が、この作家にはたくさんあった」

 ということになるのだ。

 探偵小説というものが、日本では、まだ黎明期だった頃で、戦後間もない頃の小説家である。

 もちろん、その頃の作家の活躍をリアルでは知らない。名前としては、

「日本三大名探偵」

 の一角を担う探偵の生みの親だ。

 ということは知っていた。

 しかも、トリックにしても、デビュー作でいきなり、センセーショナルな作品を書き上げ、日本作家クラブ賞の最終選考にまで残り、僅差で敗れたというだけの実力の持ち主であった。

 ただ、白河は、その作家の小説の数冊は読んだことはあるが、それ以外となると、少し二の足を踏む。最初がセンセーショナルだっただけに、飛びぬけすぎていて、それ以降の作品が色褪せるほどだったのだろう。

 この作家は、社会派と呼ばれる小説も書いていて、そちらの方でも第一人者としての実力があり、平成の時代にも、テレビ化されるくらいだったのだ。

 ちなみに、白河は、社会派の小説であれば。戦後の混乱の中、大学生が作った金融クラブで、ふとしたことから、詐欺のようなことがうまく行ったことで、まわりを巻き込んでの、詐欺を繰り返していた。

 彼らは、大学でも、数十年に一度の大天才とまで言われていただけに、なかなか尻尾を出すことはなかった。

 ただ、人間的なことで、少しずつ、精神を蝕んでいく社員が出てくることで、ギクシャクしてきたりした。

 後半は、人間臭さと、詐欺への呵責のようなものから、果たして、果たして、どうなっていくかという、そういう作品だったのだ。

 当時は、結構社会派小説には、そういう人間臭さや、差別問題などが絡むことで、犯罪が露呈したりというような、一種の、

「ヒューマンドラマ」

 が、流行ったような感じだ。

 この作家も社会派ミステリーの先駆者であり、黎明期を支えたと言ってもいいだろう。

 白河はそれでも、その作家は探偵小説が好きだった。今でも、大きな本屋にいけば置いてあるので、最近、買い直して、読んだりしていたのだ。

 だが、あくまでも小説を書くのは趣味なので、

「ノックスの十戒」

 であっても、基本的に守りはするが、あまり気にしないようにしていた。

 意識をしないと言っても、普通に書いていれば、十戒に背くことはないというのが、彼の思いで、実際に、書いている内容は、ある程度ずさんではあるが、最低限のマナーは守れているとは思っていた。

 さすがに、人に見せたこともなかったが、最近では、少しずつ友達にも見てもらうようになった。

 一つは、小説を見てもらえるような自信ができてきたことと、もう一つは、今まで小説を見せる気になるような友達がいなかったということであった。

 小説を見てもらうような自信が生まれたというよりも、書き始めてから、一定の時間が経ったということで、

「そろそろ見せてもいいんじゃないか?」

 と感じたことが理由だった。

 だから、書いた小説に自信がある、ないという意識というよりも、

「この年月が自分をどれだけ成長させてくれたのか?」

 という、時間に対しての薄い意味での意識だった。

 そして、そんな小説を読んでくれる友達は、彼は彼で、音楽をしている人だった。別にそれぞれ、造詣が深いという話をしていたわけではなく、知り合ってから、どこか話がつながり、馬が合うというところがあったことで、友達になることができたのだが、そんな彼が音楽を、そして自分が小説を嗜んでいるということをお互いに知ってからというもの、二人の仲が急速に深まっていったのだ。

「仲が深まるって、本当に距離が縮まる気がするんだね?」

 というと、友達も、

「そうだよな。これも、お互いに芸術を嗜んでいるという意識がそれぞれにあるからなのかな?」

 と、いう話に対して、頷いている白河だった。

 彼の名前は、芦沢という。

 年齢は、今年で、35歳になる白河よりも、2つ下の、33歳だった。年齢が近いことも、話が合う理由かも知れない。

「けど、面白いよな」

 と、芦沢君は言った。

「どういうことだい?」

「もし、これが大学時代だったら、2歳の年の差って、結構差があるような気がするのに、30歳を過ぎてしまうと、本当に近いと思うんだからね。学生時代なら、絶対に敬語を使っていたはずなのに、今ならため口でも、そんなに違和感がない。いいことなのか悪いことなのか」

 という芦沢に。

「確かに。でも、それはそれでいいんじゃないか? いいことなのかどうかまでは分からないけど、お互いにそれでいいんだから、気にすることもない」

 と、白河は言ったが、芦沢という男が、思っていたよりも、神経質なのか、細かいところを気にする男だったのだと思った。

 話をしていくうちに、芦沢というのは、

「他の人と違って、他の人なら気にしないことを気にしてみたり、逆に、気にすることに関して、寛大であったりする」

 という、ちょっと変わったところがあった。

 それを、

「天邪鬼だ」

 とまでは思わないが、少なくとも、自分とは違ったところがあるのは分かったのだ。

 だからと言って、白河は、自分が、普通の人のようだなどとは思っていない。

 むしろ、

「俺は、他の人と同じでは嫌なんだ」

 というところがあり、そこが、自分の特徴だと思っている。

 だから、自分とは違う芦沢に興味を持った。なぜなら、芦沢が、自分とも、いわゆる。

「普通の人」

 と言われる連中とも違う人間だということが分かったからで、そんな芦沢を見ていると、人間というのは、

「マイナス×マイナスが、プラスになる」

 というような、数学の公式になど当て嵌まるものではないと思っていた。

 人それぞれに性格が違い、同じに見える人でも、どこかが違っている。

「血の繋がりのある人は、どうしても似ていて、親子などは、基本的に似ているものではないか?」

 という話をよく聞くが、白河は、自分が、最初から、皆似ているはずがないと思っているからなのか、その言葉を信じていなかった。

 白河には、妹がいて、その妹が、数年前に交通事故で死んだのだが、その時までは確かに、

「肉親は、性格もよく似ている」

 と思っていた。

 だが、妹が死んでからの白河は、何か自分の中で感情が変わってしまったのか、

「俺たち兄妹は、似ていなかったのではないか?」

 と思うようになっていた。

 それは、妹が死んでから、思い返してみると、

「俺って、妹のことを知っているようで、ほとんど知らなかったんだな」

 と感じたからだった。

 妹の名前は、白河景子と言った。そして、妹とは、一緒には暮らしていなかった。

 白河が大学を卒業してから、一人暮らしを始めた白河だったが、妹の景子も、大学を卒業してから、一人暮らしを始めた。

 親は、

「大丈夫なの?」

 と、少し心配していたが、

「何言ってるのよ。大丈夫よ。仕事に行くのに、なるべく近い方がいいから」

 と言って、実家からは、白河の家から反対になるところに、景子は部屋を借りて、一人暮らしを始めていた。

 お互いに一人暮らしを初めてから、そんなに連絡を取ることもなかったが、事故で死んだ妹の話を聞いて、ショックからか、しばらく、放心状態のようになり、何も手につかなくなった白河だが、

「時が解決してくれる」

 という言葉通り、あれだけ、何をしていいのか分からなかった時期が続いていたにも関わらず、ある日を境にぷっつりと、糸が切れたように、前の白河に戻っていたのだ。

 だからと言って、白河は、妹のことを忘れたわけではなかった。たまに夢に出てくることもあるくらいで、ただ、その夢というのは、あまりいい夢ではなかった。

 そうであるにも関わらず、その見た夢を、目が覚めるにしたがって、忘れていくのだった。

 白河が夢に対して持っている意識というのは、

「覚えている夢というのは、悪い夢が多くて、逆に、覚えていたいと思うようないい夢は、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」

 という意識であった。

 それなのに、妹が夢に出てきた時は、確かに怖い夢だったり、思い出したくないと思うような夢であるはずなのに、実際に目が覚めるにしたがって忘れていくという、意識まで、おまけでついてきたのだった。

 これは、忘れてしまったから、本当は楽しい夢だったものを、怖い夢だったと、勝手に解釈しているからなのか、それとも、本当に怖い夢であっても、妹に関係していることは、漏れなく忘れてしまうという、何かのスイッチがあるのかのどちらかではないかと思っている。

「それは、俺にとっての妹を考えるからなのか、俺が自身が、妹にとってどういう存在なのかということを必要以上に考えるからなのか」

 そういう理屈であれば、理解できないこともないような気がしたが、なぜかそれ以上考えることをしなかった。

「いまさら考えたってどうしようもない」

 という意識なのか、

「考えても妹は戻ってこない」

 という意識なのか、

 もし、後者であったとすれば、白河自身に、何か後ろめたいことがあり、それが、夢に出てきた妹の意識が、目が覚めると消えているということへの解釈として、自分を納得させられることではないかと感じたのだった。

 白河という男がそういう人間だということを、友達の芦沢は分かっているのだろうか?

 誰にでも話をするわけではない芦沢も、白河が、

「俺だから話してくれているんだ」

 ということを分かっているからこそ、白河の話を真剣に聞いているのだ。

 白河は、ずっとそういう相手を探していて、他の人だって、人生の中で何度そんな人に出会うか分からないというほど、希少価値な相手を見つけることができて、幸運だと思っている。

「これだったら、奇跡と呼んでもいいかも知れないな」

 と思っているほどで、そんな白河に対して、芦沢も同じようことを考えている。

 しかも、同じようなことを考えている二人だが、その考えるタイミングは少しずつずれている。

 普通、まったく同じタイミングという方がおかしいのだろうが、二人の場合には、その考えるタイミングに一定のインターバルがあり、そのタイミングはいつも同じだったのだ。

 つまり、自分が先に考えたことを、1時間後に、芦沢が考えるというタイミング。ただしそれはすべての感覚がそうだというわけではなく、考えていることの中でも、どちらかが重要だと思っていることの場合にあるようだ。

 このことは、白河は意識していた。

 といっても、二人の間にそんな感情があるということを感じていたわけではなく、人間関係の中で、そういう感情を持ち、そして、その感覚で暮らしいる人が、一定数はいると思っていたのだ。

 どこか、都市伝説やオカルトっぽいような話であるが、この感覚を思いついた時、まるで、

「目からうろこが落ちた」

 かのように感じ、自分の小説にそんな話を書いたものだ。

 最初は、

「五分前を絶えず歩いているもう一人の自分」

 ということをテーマに小説を書いたことがあったが、その発想の発展形がこの発想だと思ったのだが、実際には、この小説を書いている時、

「感情でもあり得ることなのではないか?」

 ということで、それをノートに書いておいて、いずれ新作のネタにしようと、考えていたのだった。

 しかし、今のところ、そのネタを使って小説を書いたということはないようで、

「五分前の自分」

 という内容の小説を書いてから、1年以上経っているにも関わらず、このネタに手を付けようとは思わなかったのだ。

 それは、彼の中で。

「これをネタにして小説を書くというのは、タブーではないか」

 と思ったのと、

「これを書くには、何か覚悟が必要なんだ」

 という思いからなのだが、その覚悟というものがどういうものなのかと考えたのだが、考えれば考えるほど分からなくなってくるのだ。

 まるで、

「底なし沼に嵌ってしまう」

 という発想からくるもので、そのうちに、

「自分がどうして、今まで人に自分のことをなるべく話そうとしなかったのか?」

 ということが分かったような気がする。

 それは、自分を自分で怖がっていたということが理由だと思った。

「何かを怖がっている」

 という意識があったのだが、それがまさか、

「自分で自分を怖がっている」

 ということだったとは、思ってもみなかった。

 それを教えてくれたのは、芦沢の存在で、芦沢からそれを教えられたわけではない。あくまでも存在というだけで、芦沢はむしろ、この感覚を分かっていないと思う。だからこそ、芦沢と友達になれたのであって、

「近づぎすぎず、遠すぎない仲を友達というのではないか?」

 と考えていたのは、二人とも同じで、

「二人を近づけた要素は、考え方と、感性が近いからだ」

 と、それぞれに思っていた。

 どうせ、こんな感覚は、誰に言っても受け入れがたい考えであることは分かっている。だが、受け入れてくれるとすれば、芦沢だけだということも分かっているくせに、それを敢えて芦沢に言おうとしないのは、

「芦沢には自分から感じてほしい」

 と思っているからであった。

 白河は、芦沢のことを、

「そういう関係の親友だ」

 と思っているのだった。

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