第2話 白河という男

 そんな白河は、親が嫌いだった。もちろん、親のすべてが嫌いだったわけではないのだが、矛盾した態度を感じてから、嫌いになったのだ。

 子供の頃から常々言われていたのは、

「自分が何をしたいのか、その主張をしっかりしなさい。人には口に出して言わないと、分かってもらえないわ」

 というのが、母親の基本的な教えだった。

 小学生の頃からおとなしく、あまり友達もいなかったことから、母親はそういう言い方をするようになったのだろうが、なかなか自分からいけないのが、白河少年だった。

「母親はどうして、そんなに簡単に言えるんだ?」

 と思っていたが、なるほど、母親を見ていれば、それも分かるような気がする。

 いつも、近所の奥さんの輪の中に入って、大声で大げさなくらい笑っていたりしていて、子供の白河から見ても、

「明らかに、輪の中心にいたい人なんだ」

 と思ったものだ。

 今でいえば、

「マウントを取りたがっている」

 と言ってもいいだろう。

 特に母親は、父親と、あまり仲がいいわけではなかった。喧嘩になることもしょっ中で、下手をすれば、白河に不満がぶちまけられることもあった。要するに、

「子供に八つ当たりをする」

 ということである。

 そんな母親が、白河が中学になってから、少しずつ変わってくる。

 あれだけ、自分の言いたいことを主張しなさいと言っていたくせに、友達と喧嘩になって、学校で、派手な喧嘩になったことで、親が学校に呼び出され、先生から叱られているのを、ただただ、

「すみません」

 と平謝りをしているだけだった。

 その態度も正直気に入らなかった。子供の言い分も最初から聞こうともせずに、ただ先生に謝っている。これでは、まるで、

「自分の息子が悪い」

 と言っているのと同じではないか。

 今までの母親の教えであれば、息子が悪くないと思っていれば、先生にそれなりの話をしてもいいはずだった。

 それをすることもなく、ただ、平謝りをしている母親のその姿こそ、矛盾の塊だったのだ。

 そのくせ、先生の文句が終わってから、一緒に学校を出ると、帰り道、一切何も話そうとしない。家に帰ってからやっと、口を開いたかと思うと、信じられない言葉がその口から出てきたのだった。

「お前は、一体なんてことをしたんだい? お母さん恥ずかしくて、世間に顔を合わせられない」

 といったのだ。

 完全に、

「息子は恥ずかしい存在だ」

 と言い切り、息子がなぜそんなことをしたのかということは、まったく関係ないと言わんばかりである。

 これを聞いた時、

「この人は結局。自分がかわいいだけなんだ。俺の態度で、自分が世間に向けて作ってきたイメージを勝手に崩されたことが許せないんだ。それが息子であっても同じことであり。いや、逆に息子だからこそ、怒りに震えているんだ」

 ということだと認識している。

 親と言っても、いや、親だからこそ、自分の主張や立場を崩されると、完全に敵対してしまうというのが分かったのは、子供の頃に言っていた。

「自己主張をしなさい」

 という言葉と、先生の前でただ謝っているだけの態度に大いなる矛盾を感じたことで、母親の本性が見えたのだろう。

「しょせん、大人ってそういうものなんだ」

 と感じ、

「こんな大人だったら、なりたくなんかない」

 と感じるのだった。

 学生時代は友達もそんなにいる方ではなかった。中学高校時代など、友達らしい友達もおらず、いつも一人だったが、本人は、

「別にかまわない」

 と思っていた。

 それは別に強がりというわけではなく、どちらかというと、

「一人の方が気楽でいい」

 と思っていたからだ。

 大学時代になって友達ができたのも、別に自分から作ろうとしたわけではなく、自然とできた友達だった。きっかけが何だったのかと言われても本人たちも覚えていないくらいであり、きっと、

「似たような考えの人は、それなりに、くっつくものだ」

 ということなのかも知れない。

 学時代に友達になった人は少なかったが、それだけ、話が通じる人間だった。お互いに、

「まさか、俺と同じ気持ちのやつが、こんなに身近にいたなんてな」

 というと、

「ああ、まったくだ。探してみれば、もっとたくさんいるかも知れないな」

 いうくらい、お互いに似た考えの人がいたことに感動していた。

「俺は異端児だと思っているからな」

 というと、

「俺だってそうさ。まわりが人に気を遣っているのを見たりすると、イライラしてくるくらいだからな。なんであんなにまわりに気を遣う必要があるのか、まったく合理性なんか、無視じゃないか」

 と、友達はいうので、

「そうそう、そうなんだよ。合理性を追求しないから、話に矛盾が出ていることに誰も気づかないんじゃないかって思うんだ。冷静に見れないのがいけないのか、それとも、当事者感覚で考えると、矛盾を感じないのか?」

「それこそ、自己中心的な考え方だと思うんだけどな。それを皆、優先するんだよな」

 と、友達が言った。

 要するに、二人とも、

「人に気を遣うということよりも、合理性を重視する」

 と思っているのだ。

 子供の頃によく見た、奥さん連中がよくやる、レストランなどでの、レジでの会話。見ていて虫唾が走るほどに腹が立つのだが、

「奥さん、今日は私が払いますわ」

 と言って、伝票を持ってレジに急ぐ一人の奥さん。

 皆で4,5人くらいの仲間内でのランチのようだが、一人がそう言って、出しゃばったようにレジにいくと、別の奥さんが、

「あら、奥さん、いけませんわ。今回は私が」

 と言って、伝票を奪おうとする。

 すると、他の奥さんも負けじと、先を争って、醜い争いが始まるのだ。後ろで待っている人がいようがどうしようが関係ない。

 要するに、この場のマウントを取り、今後の自分の立場を、グループ内で確固たるものにしたいという下心が見え見えなのだ。

 そんなのを見ていると、誰も文句を言わないのは、きっと、下手に文句を言って、変な因縁をつけられて、さらに時間が経ってしまうことを嫌うからだろう。

「別に、こんなおははんたちが怖いわけでもなんでもない。要するに、時間が無駄に過ぎるのが嫌なだけだ」

 と思っているのだろう。

 こんなおばさんどもと口を利くことすら、ヘドが出ると思っていることだろう。だから、なるべく関わらないようにしようとする。白河も最初はそうだった。しかし、途中から、

「こんなおばはん連中を、一時でも見るのが嫌だ」

 と思うようになり、一度文句を言ったことがあった。

「すいません。こっちは待ってるんですけどね」

 というと、案の定、おばはん連中は、

「何言ってるのよ。今は私たちの時間でしょうが、部外者は引っ込んでおいて」

 とあたかも、正義は自分たちにあるとでも言いたげな態度に出てきた。

 少し面白くなり、どんな会話になるのか、腹を立てずに、進めてみた。

「いやいや、こっちは待ってんだ。あんたらだけの店はないんだよ」

 と、わざと神経を逆撫でするようなことを言った。

 もちろん、本人は冷静で、言っている言葉を冷静に聞いていたのだが、

「何、あなた、私たちに文句でもあるの?」

 と、明らかに胸を突き出すようにして、恫喝してきた。

 思わず吹き出すのを堪えたが、それは、こっちが、想像したのと寸分狂わぬような返事が返ってきたからだった。

 いかにも、これだけでも、もう手詰まりを感じさせたのに、相手はさらに、

「あら、どうしましょう。奥様方、この人が私に因縁を吹っかけてくるんざますよ」

 というではないか。

 もう完全に笑いを堪えることができなくなった。

 会話で興奮してくると、方言が出るという人は結構いるが、こんなマンガでしか見たことのないようなセリフを本当に話す人がいるなんて、想像もしていなかった。もう、これは笑いを抑えておけないのも当たり前というものだ。

 それでも、顔が緩んでいるのを分かっていながら、

「本当にあんたら、どうしようもないな」

 とそれだけいうと、まわりからもくすくすと聞こえてきた。

 その笑い声が自分に向けられているものなのか、相手に向けられているものなのか、白河は、この時だけは、

「自分に向けられている笑いでも構わない」

 と思っていた。

 自分に向けられているということが、相手にも向けられているということであり、この時ばかりは、

「このおばはんたちを道連れにするのも悪くない」

 と思ったのだ。

 白河は、時々このような理不尽な相手と言い争いになったり、その時のように、わざと怒らせるようなことをした時は、相手を道連れにしていいと思っていたのだ。

 最初から覚悟の上であれば、復活は簡単にできると思っていて、その分、相手は最後まで、自分が正しいと思っているのだから、まわりの目がどういうことになっていようが、事情を理解もしていないだろう。

 こっちとすれば、

「世間は、その時、俺にも変な目を向けるだろうが、時間が経つにつれて、相手の方が印象深くなるので、俺のことはすぐに忘れてしまうに違いない」

 と、考えていた。

 だから、こんな時。敢えておばはんたちを煽ったとしても、自分が損をするということはないと思うのだった。

 実際に、この方が本人も苛立ちが残らずに済むし、おばはん連中に対して、鉄槌も食らわせることができたと思うことで、満足できるのである。もちろん、そんなことを考える人がいるはずもないので、白河は、

「俺のようなやつはいないだろうな」

 と思っていたが、大学に入ると、同じような考えで、また同じような行動をするやつが結構いて、潜んでいることが分かったのだ。

 しかも、そういう連中とは、

「出会うべくして出会った」

 と思えるような仲になるのであって、結構、話をしているだけでも、時間が経つのも忘れて、楽しい時間を過ごせるというものだった。

 他の人から見れば、

「なんて変な連中なのだろう?」

 と見えることだろう。

 しかし、実際にやつらは、自分で行動もしないで、

「おばはん連中なんか放っておけばいい」

 といいながら、精神的に苛立ちが残っていて、自分よりも立場の弱い人間を口撃する形でストレスを発散させるという、これが上司であれば、

「パワハラ」

 ということになるのであろう。

 本当は、そんなおばはんたちは無視するのが、

「大人の行動だ」

 ということなのだろうが、そのために、余計なストレスをため、人に八つ当たりをしてしまっては、本末転倒というものだ。

 怒りの矛先を見失ってしまうと、結局、最後には自分に返ってくる。しかも、後悔というおまけつきでである。それを思うと、考え方においての、

「合理性」

 がいかに大切であるかということを感じた白河だった。

 白河は、友達と一緒に、レストランに行った時、たまたま、そんなおばはんたちを見かけた。

 初めて見るおばはんたちだったのだが、その時は、自分たちが、そのおばはんたちの前に入って、おばはんのやるようなことをしてみたのだ。

 すると、案の定、おばはんたちは、

「あんた何してんのよ。早く払いなさいよ」

 と、いつもの恫喝をしてきた。

 その瞬間、白河と友達は目を合わせて、にやりと微笑んだ。

「まあまあ、焦らずに」

 と、相手をサラリとかわすような言い方をした。

 こういう時は、決して怒りをあらわにしてはいけないのだ。

「何言ってるのよ。一体、あんたたち、どういう育ち方をしてきたの? 親の顔が見たいわ」

 というではないか。

 さすがにここまで無様な回答が返ってくると思ってもいなかったので、本当に笑いがこみあげてきそうだった。そして、心の中で、

「あんたらの子供も見てみたいわ」

 と、一瞥したいくらいだったのを、必死で堪えた。

 今のセリフが聞ければ満足で、レジで困っていたお姉さんに、

「ごめんね、これでスッキリしたので、これ、二人分」

 と言って、一万円札を出した。

 お姉さんも、苦笑いをするだけだったが、同じ気持ちになってくれているといいのにと思ったが、そこまではないだろう。

 おばはんたちはというと、

「何、それ、最初から二人分払いなさいよ」

 と、心の中で叫ぶならいいものを、口出していうのだった。

 さすがに、レジの女の子も、おかしかったのだろう、必死で笑いを堪えていた。ひょっとすると、彼女も、おばはんたちの回答を想像していて、想像通りだったことで、笑いが出たのかも知れない。

 それでも、おばはんたちは、ここにいる全員が、自分たちを嘲笑っていることに気づいていないようだ。

 ただ、おばはんたちは、自分たちの考えが通らないことだけに、苛立っているのだ。それだけ考えが浅く、自分たちが中心でいれば、それだけで満足な単純な人種だということが分かった。

 だからこそ、合理性など二の次で、自分たちの狭い社会が、すべての世界に通用し、共通なのだと思い込んでいるのだ。それこそ、まるで宗教的な考えではないだろうか。

「こういうおははんたちって、宗教にコロッと騙されたりするんだろうか?」

 と考えてみた。

 宗教も、おばはんも似たようなものに見えるというと、失礼かも知れないが、(と言って何に失礼なのか分からない)どちらも一緒にされたくないと思うことだろう。

 一般の人からすれば、宗教もおばはんたちも、

「必要のないもの」

 という意味で、五十歩百歩で、

「どっちもどっちだ」

 と思っていることだろう。

 ちょうどその時、レジに他の客が入ってくることはなかったので、やってみた、一種の茶番劇であったが、実に楽しかったことを覚えている。

「こんなこと、大学生じゃなければ、できっこないよな」

 というと、

「だけどさ、あのおばはん達だって、きっと、何十年か前は、俺たちのような大学生だったのかも知れないよな」

 と友達がいうと、思わず、ゾクッとしてしまった。

 キャンバス内で、輝いて見える女の子たちの将来が、

「あれ」

 だと思うと、それだけで、ゾッとするものがある。

「おばはんなんて、ずっとおばはんだったかのように思っていたよ。そんな自分が恥ずかしい」

 というと、

「それはもっともだ」

 と言って、二人で笑うのだった。

 そんな白河は、自分のことを。

「勧善懲悪だ」

 と思っていた。

 まるで、水戸黄門や当山の金さんのように、悪を懲らしめるという考えである。

 最近では、そのような時代劇も、再放送でしか見なくなったが、ちょっと前までは、ゴールデンタイムの午後8時台にやっていたものである。

 そういえば、テレビの番組も、相当様変わりしたものだ。昔のゴールデンといえば、シーズン中は、プロ野球中継であったり、子供番組であったりしたものだが、今はすっかり、プロ野球中継もなくなってしまったり、子供番組などのアニメもなくなった。

 原因としては、野球の場合は、

「試合終了までスポンサーの関係や、後続番組の関係で放送されないこと、さらには、後続番組を見ようとしている主婦などは、時間がずれることで、予定が立たずに、どちらに対しても不満だけが残る」

 という状態になった。

 しかし、20年くらい前から、それを、有料放送が解決してくれるようになった。つまり、

「月々、数百円で、ひいきチームの試合を、試合開始から終了、ヒーローインタビューまで見れる」

 ということである。

 元々テレビ番組は、

「スポンサーありき」

 だったのだ、

 放送の資金源はすべてスポンサー。だから、客がお金を払えば、スポンサーも問題はなくなる。

「お客様ファースト」

 の番組が作れるというわけである。

 そのおかげか、ケーブルテレビとして、それぞれに特化したチャンネルの放送局ができてくる。バラエティー専用、映画専用、ドラマ専用などの番組で、同じように月々いくらという契約である。そうすれば、ドラマは懐かしのアニメなどが、好きなだけ見れるというのが売りだったのだ。

 ただ、最近では、それがさらに進み、配信という形で、テレビでなくとも、スマホなどで見れるようになり、テレビ離れが深刻になってきている。

「ユーチューバーなる、わけのわからない連中が、月数千万も稼ぐ」

 という、おかしな時代になってきたのだった。

 子供のアニメだって、今の子供はアニメよりも、ゲームに夢中になっているので、そういう意味でも、子供がテレビ画面で見ているのは、ゲームということになる。

 今のゴールデンというと、それこそ、よく分からない芸人などが出てきて、情報番組に近いのか、それとも、やらせに近いようなバラエティーが主流になってきている。

 昼の情報番組で、シリアスなニュースなどでも、MCや、レギュラー出演者のほとんどが、芸人という、

「何が情報番組なんだ?」

 と思うようなものも結構あったりする。

「芸能番組じゃないんだから」

 と思わせることも多いが、どうしても、チャンネルを変えてしまう人は結構いるのではないだろうか。

 そんなテレビを、白河は結構見ていた。どちらかというと、ドラマが好きで、最近は、録画してまで見ることが多くなっている。

 白河の趣味は、大学時代からであるが、

「小説を書くこと」

 だった。

 大学に入るまでは、本を読むことすらなかったのに、大学で友達になったやつが、

「俺は趣味で小説を書いているんだ。小説を書いていると、結構スッキリするんだぞ」

 というではないか。

「どうしてだい?」

「だって、どうせフィクションなんだから、書きたいことを書きたいように書けばいいんだ。この間の、おばはんたちのことだって。俺は好き勝手に小説にして書いたものだよ」

 というではないか。

 なるほど読んでみれば、あの時のことを思い出すことができて、また気持ちがせいせいしてくる。

「ストレス解消にはちょうどいいんだ」

 というではないか。

 そんな彼に影響を受けて、小説を書き始めた。最初はテレビドラマなどのような、青春小説系や、恋愛小説系を考えていたが、どうもうまくいかない。特に恋愛ものというと、ドラマなどでは、どうしても、不倫系であったり、重たい話が多くなり、自分自身が、そんな重たい話が好きではないので、好きでもないものを書けるはずもなく、結構早い段階で挫折した。

 次に考えたのが、オカルト系の小説であった。

「やはり、ドラマを見るよりも、実際に活字を見る方がいいに決まっている」

 ということで、本屋の文庫本コーナーで、結構見てみたのだが、その中に、短編集を得意とする作家がいて、読みやすそうなので買ってきて読んでみると、

「嵌ってしまった」

 その小説は、奇妙なお話が書かれていて、しかも、最後の数行で、どんでん返しが起こるという実に興味のある話だったのだ。

 それですっかり、その作家の本をほとんど読破した。いくつもの文庫からたくさんの本が出ていて、一冊に10作品くらい書かれているのだが、そんな本が、全部の文庫を合わせると、100冊以上もあるのだ。

 ざっと見積もっても、1,000作品もあるのだと思うと、ゾッとする。作品数はそのまま、それだけのアイデアがあるということなので、内容に関係なく、

「小説をたくさん出版している人は、それだけでも、すごいことなんだ」

 と思うようになった。

 もちろん、中には似たような話もあるかも知れないが、限られたテーマの中で書いているのだから当たり前のことだろう。

 確かに、可能性が世の中には無限にあるのだろうが、小説にできるような内容ともなると限られている。それでも書けるということは、

「作家というのは、本心では、限られていると思いながらも、本人の感触として、無限にあるものだと思っているからこそ、これだけの話が書けるのではないか?」

 と考えるようになった。

 つまりは、

「天才には、凡人にない発想が潜んでいるんだ」

 ということである。

 いかに小説を書き上げることができるのかということだけではない、他に何かを絶えず考えているから。小説というのは書けているに違いないのではないだろうか。

 白河は、大学で、友達と一緒に、小説サークルに入っていた。そのサークルでは、年に何度か、同人誌のようなものを発行していた。もちろん、自費になるのだが、皆でサークルとして出すのだから、実際には結構安く上がっていた。

 アルバイトで賄えるだけの部費で、自分の書いた話が、いくら同人誌とはいえ、本という形になるのだから、こんな嬉しいことはない。

 個人でも、できないことはないのだろうが、出版社を探して、さらに、値段交渉をしたりして、結構面倒くさいことだろう。

 しかし、サークルでは、今までの実績があるので、出版社も、ちゃんと見てくれるのだ。そのおかげで、本を出すことができる。個人での自費出版も安くあげてくれるようだった。

 何冊か、自分の本を作ってもらったことがあった。その時は、粗末な本ではあったが、実際に、値段をつけて、フリーマーケットで売ったりもした。

 数冊は売れたが、フリーマーケットで売ったわりには、ほとんど売れなかったと言ってもいいだろう。それでも、買ってくれた人がいたのは嬉しかった。

「本当に感謝しかないよ」

 と言ったが、まさにその通りである。

 友達も同じように出版してフリーマーケットに出したが、売れ行きは、若干白河よりもよかった。

「お前よりちょっとよかっただけか」

 と言っていたが、本心は結構喜んでいるようだった。

 とりあえず、自分たちの本を出版し、売るということにチャレンジもした。これは大学時代の一つの成果だったと思っている。

 大学を卒業するまでに、

「プロになりたい」

 という気持ちにはならなかった。

 もし、少しでもそんな気持ちがあったなら、無理だとは思っていても、目標として掲げていたに違いなかったのだ。

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