ずさんで曖昧な事件
森本 晃次
第1話 騒音問題
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年二月時点のものです。ただ、今回のお話は、途中において、捜査に関して、少し、「個人的な意見」というものも入っていますので、そのあたりは、大目に見ていただきたいと考えております。ただ、今回の作品は、下手をすると、「ノックスの十戒」に抵触するかも知れません。
マンションなどの集合住宅に住んでいると、どうしても、ご近所の騒音問題を始めとして、いろいろなトラブルがつきものである。特に子供がいたりなんかすると、たまらないくらいの騒音に悩まされることも結構あったりする。
しかも、昔と違い、今は近所づきあいなどというのもほとんどないので、騒音を立てられても、泣き寝入りをしてしまう例が少なくないだろう。
マンションと言っても、壁の場所によっては、コンクリートが埋め込まれていて、ほとんど音がしないところもあれば、まるでべニア板でも貼っているだけで、中は空洞なのではないか? と思うような個所も結構あったりする。
隣の部屋からだけではなく、部屋を子供が走り回ったりなどすれば、下の階では、たまったものではない。
独身者や、新婚が多いマンションであれば、結構、騒音に関しては。そこまででもないつくりのところが多いのではないかと思う。もちろん、不動産屋は、
「騒音対策はバッチリです」
としか言わない。
一応、検査には合格しているのであろうが、しょせんは、家賃分の加工しかしていないのは当たり前のことで、家賃が安いなら安いだけの理由があるというものだ。
K市というと、人口は10万人前後という、中規模級の市であるが、ちょうど、都心部への通勤圏内としては、電車で、20分程度の最適なベッドタウンであった。
そのK市に拠点を持つ、地域では業界トップと言われる会社の就職した白河は、数年前から、K市のマンションに一人暮らしをしていて、最近まで約1年間くらい、隣の部屋は空室だった。
と言っても、部屋は一番端の305号室で、隣の303号室が空室だったのだ。
入居して数年間は、時々隣の部屋から喧嘩が聞こえてきて、鬱陶しい思いをしてきて、
「さすがにそろそろ堪忍袋の緒が切れてきた頃だ」
と思い、管理人に文句を言いに行こうと思った矢先、隣人が、転勤ということで、そそくさと引っ越していったのだ。
そこに住んでいたのは新婚夫婦で、共稼ぎをしていたのだが。どうやら、奥さんが、浮気癖があるようだった。夏の間など、ベランダに通じる扉を少し開けておくと、隣からの喧嘩の様子が聞こえてくる。
いつも怒鳴っているのは旦那の方で、奥さんは、必死に言い訳をしていた。
内容は、奥さんの浮気の話ばかりで、
「よくも、毎回同じ話題で喧嘩ができるものだ」
と感心したほどだ。
ただ、浮気の相手はいつも別の人で、どうやら浮気がバレて、浮気相手と別れることになるのだが、すぐにまた別の相手を奥さんは見つけてくるようだ。
そんな奥さんに、旦那は愛想を尽かしているのかも知れないが、必死になって怒っている。怒りの矛先は、奥さんに向かっているのか、それとも浮気相手なのか、旦那の方も分からなくなってくるのか、最初の怒りが激しいだけに、怒りの収まりも早いようだ。
それでも、怒りを持続させておかないと、怒っている意味がないと思うのか、必死になって怒りをぶちまけている。
奥さんもそれを分かっているのか、旦那の怒りが収まるまで、一言の話さない。そして怒りが収まってくると、奥さんは、旦那に甘えるのだった。
気力がほとんど失われている旦那には、奥さんの甘えが心地よいのか、簡単に許してしまう。
旦那としても、怒りを一通りぶちまけると気が楽になるのか、必要以上に怒ることをしなくなるのだった。
そんな状態を何度も繰り返していると、隣で聞いているとパターンも分かってくるし、毎回の茶番に、次第に慣れてくるのだった。
「好きにやってくれ」
と言いたいくらいであった。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」
というほどであるが、放っておくしかないのだろうか?
喧嘩の内容は些細なことなので、それほど原因を気にすることもなく、次第に、
「やれやれ」
と思うようになってきた矢先の転勤だった。
引っ越していくとなると、最初は、
「よかった。これでせいせいした」
と思ったものだが、隣の部屋が空いてしまうと、今度どんな人が入ってくるのか分からない。ロクでもない奴に入ってこられるのも困ったものだ。
と思っていると、結局3年くらい、隣に誰も入居者がいなかったので、気が楽だった。
そう思っていると、隣に3年ぶりに隣人が入ることになった。
今回は男が一人の入居のようで、自分と同じ一人暮らしであった。
「一人暮らしだったら、騒がしいことはないな」
と思って安心していたが、実はそれは甘い勘が和えだったのだ。
引っ越してきてから、数日はそこまで気にならなかったが、一週間もしないうちから、
「こりゃあ、臭いわ」
と感じるようになっていた。
その臭いというのは、タバコの臭いで、初日から、
「こいつ、タバコを吸うやつなんだな」
とは、分かっていた。
タバコを吸わない人間には、ほんのちょっとの臭いでも分かるのだ。その場で吸っていなくても、10分ほど前にどこかの喫煙所でタバコを吸ったとしても、横を通り過ぎただけで、
「こいつ、どこかで吸ってきやがったな?」
と分かるものだ。
本当に敏い人間は、その人がタバコを吸ったわけではなく、喫煙所にいただけで、身体にしみついた臭いが分かる。吸っている人間には分からないものなのだ。
それが身体の中から沁み出してくる臭いなのだからどうしようもない。
「嫌煙権」
というのは、本当によく言ったものだ。
ただ、それだけならまだいいのだが、最悪なのは、自分が玄関前まで吸ってきたタバコを玄関先で捨てるのだ。最初は1本だったものが、翌日には2本になっていて、1週間経てば7本になっている。
さらにひどいのは、自分の部屋にたまり出してくると、今度は露骨に、奥の方にタバコの吸い殻を足で、こちらの玄関策の方に蹴っているようだった。
1度管理人に、文句をいうと、管理人の方から注意をしてもらえたようで、しばらくはタバコが落ちていることはなかったが、半月もすると、またタバコの吸い殻が、本人の玄関先に落ちるようになってきた。
今度はこっちに吸い殻を寄せることはなかったが、どちらにしても、臭いは残るし、相手の玄関先を通らないと、出られないので、どうしても通ることになる。まるで踏み絵でもさせられるかのような心境だ。
踏み絵とは逆なのだが、踏まなくてもいいものを踏まされるという意味では同じである。そう思うと、また我慢ができなくなって管理人のところに行くと、さすがに管理人もウンザリするようで、
「分かりました」
とはいうが、そのあとまったく変わることはなかった。
さらにエスカレートしてきて、また前のように吸い殻をこっちに寄せるようになったのだ。
こうなってくると、管理人もあてにならない。どんどんイライラしてきて、
「どうして、俺だけがこんな思いをしなければいけないんだ?」
という苛立ちが襲ってくる。
しかも、そのうちに隣から、それまで聞こえなかった物音が聞こえてくるようになった。
それは、完全に部屋の壁の薄い部分を叩く音であった。薄い部分というのは、まるで乾いた木のような感じなので、本当に、響くという感覚である。寝ている時にそんなことをされると溜まったものではない。完全に嫌がらせをしているのであった。
「あの音は他の部屋だっていやなはずだよな」
と、今度は音に関して、管理会社に直接話に行くと、管理会社の方は、完全に嫌な顔になっていて、
「他の部屋からも文句が来ていませんか?」
と聞くと、
「いいえ、そんなことはありません、あなたが神経質すぎる」
と言われてしまった。
こちらとしては、
「それを管理会社が言ってはいけないだろう」
と思い、もう完全に管理会社が信用できなくなったのだった。
もう苛立ちは最高潮に達し、普通なら我慢できていたような些細なことにも、イライラして、我慢ができなくなった。それは完全に、まわりに味方がいなくなり、自分が四面楚歌に突入したと感じたからだった。
隣の住人が引っ越してきてから、半年も経つと、またしても引っ越していった。トラウマだけを残して引っ越していったのだが、結局、隣人の顔を一度も見ることはなかった。どんなやつがいたのか、まったく分からない。さぞや、
「チンピラのようなチャラい男だったのだろう」
と思っていた。
ここまでくると、
「果たしてどうすればいいのか?」
と考えた。
「こんな管理会社のマンション、さっさと引っ越した方がいいんだろうか?」
とも思ったが、もしまた引っ越した先で、さらにひどいところだったら、
「引っ越しに金も時間も手間もすべてがかかるのに、そう何度も繰り返すわけにはいかない」
と感じ、さらなる引っ越しができるわけもない。
会社を転職する場合もいうではないか、
「転職すればするほど、今までよりも条件は悪くなるって」
という言葉を思い出した。
今でこそ。キャリアアップなどと言われているが、それだけの実力のある人間ならまだしもそうではなくて、特に嫌で会社を辞める場合は、条件面では、前の会社以上のものを求めてはいけないことになるだろう。
このままいるということになると、このまま我慢していなければいけないわけだが、いつ隣にまた誰かが入ってくるかも知れない。転職の時と同じで、
「前よりもいいと思うのは、希望的観測でしかなく、限りなく悪い方であり、どんなによくても、前と同程度と考えると、考えるだけ無駄だということになるだろう」
と思わざるおえないことになってしまう。
こういうのを、
「沼」
というのではないかと思うのだった。
一度嵌ってしまうと、抜けることができなくなり、あがけばあがくほど、深みに嵌ってしまう。
よく、
「底なし沼」
と言われるが、果たしてそんなものが本当に存在するのであろうか。
そこがなければ、沼の中の液体は、どこにいくというのか、それこそ、昔の漫才ネタではないが、
「地下鉄はどこから入れた?」
という発想と同じになってしまう。
これを言葉で表すとすれば、
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
というのと同じである。
それに一度嵌ってしまうと、捻じれるようにして深みに落ちていく。それはまるで螺旋階段のようであり、それをどのように表現するかというと、
「負のスパイラル」
という表現しかないだろう。
ただ、長いトンネルのようなものだとするならば、
「抜けないトンネルなどありえない」
という発想であれば、どこかに抜けるのは間違いない。
ただ、それもポジティブに考えるから、トンネルを抜けたところに幸せが待っているなどと思えるのだ。今回のような負のスパイラルでは、抜けた場所が今までロクでもない場所だったという意識から、一歩踏み出せないのではないか。そう思うと、
「トンネルというものは、抜けた先が必ずしもいいものだとは限らない」
と言えるのではないだろうか?
隣が引っ越してから、真剣、他のマンションに引っ越そうかと考えたが、家賃や給料、さらに不便さなどを考えて、マンションを移るということは、当欠した。
やはり、実際問題と、
「どこに移っても、根本的な問題は解決しない」
ということである。
「根本的な問題を解決しようとするなら、マンションに住まずに、一軒家を探すしかない」
ということになるのである。
「マンションというのは、あれだけ音が出るのに、どうして、誰も文句を言わないのだろう?」
と考えたが、結局は、自分も音を出すかも知れないということで、他人にだけ文句を言うわけにはいかないということだ。
自分のように一人暮らしであれば、自分が気を付けていればいいだけだが、家族と住んでいると、どうしても、音は出てしまう。特に子供などできてしまうと、音を出さないようにすることなど、不可能だと言ってもいいだろう。
そうなると、自分から文句をいうことが、なかなかできなくなる。夫婦二人だけの時はそうでもないが、子供ができて、子供が小学校などに上がったりすると、今度は、父兄会などがあり、どうしても、近所づきあいをしなければいけなくなる。
そうなった時、自分たちの意見だけを押し通してしまうと、子供の世界では、立場が逆になる可能性もある。そして、子供の間でギクシャクしてくると、大人の世界も、それにともなって、おかしくなってくる。それだけは避けなければいけないのだ。
したがって、マンションに住んでいて、子供の問題が絡んでくると、簡単に動くことができなくなってしまうのだ。
しかも、マンションの古株の人がいれば、その人が主導権を握ることになるだろう。年功序列であったとしても、古株の方が年齢が高い場合が多いので、新参者は、従うしかないのだ。
それこそ、嫌なら、出ていくしかないということになるのだった。
中には、
「マンショントラブルに何度も巻き込まれて、ジプシーのように、彷徨っている」
という人もいるかも知れない。
マンションのトラブルは騒音だけではない。
ゴミの問題、普通の人間関係。
そこには、グループが最初からできているところに飛び込むことになる場合は、圧倒的に不利である。
なんと言っても、主婦のウワサ話というのは、かなりの影響力があり、ウソであっても、多数の人が、あたかも本当のことのように、あちこちで触れ回ってしまえば、それを否定することはほぼ不可能。先手必勝で、負けが確定してしまうことだろう。
これが、男女の関係の問題ともなると、
「マンションを出ていく」
というだけでは済まなくなる。
デマであれば、マンションを出ていけばまだいいが、それが事実で、他人に迷惑をかけてしまっていると、逃げ出すことすらできなくなってしまう。そうなると、誰からも相手にされなくなり、孤立してしまうことになる。孤立した後で、出ていったとすれば、完全に逃げ出したということになるのだ。
プライドも何もあったものではない。元々自分が悪いのかも知れないが、
「まさかこんなことになるなんて」
と言っても、取り返しがつかないのである。
特に不倫ともなると、たぶん、最後は逃げるようにして、マンションを出ていくことになるのが関の山だろう。ただ、その間に、慰謝料だったり、離婚だったりと、流さなければいけない血は、果てしないのかも知れない。
身体中の血液がすべて出切ったとしても、それでもまだ済まないというほどの代償を払わなければいけなくなるだろう。
そうなってしまうと、
「人生終わりである」
ということになるだろう。
これは冗談ではなく、ドラマで起こることは、実際に起こっていることだと言ってもいいだろう。ドラマだからこそ、まだ、刺激が少ないように作られているが、リアルな不倫問題の結末は、
「血で血を洗うような結末」
になりかねないに違いない。
マンション問題で、人生を棒に振りたくはないものだ。
まあ、そんなことは、稀のまた稀なことであろうが、決してありえないことではないということだ。
ひとつの光明は、
「そんな嫌な住民は、短い時期で引っ越していく」
ということが二回も続いたことだった。
それが、仕事による引っ越しなのか、それとも、何か他のトラブルでいられなくなったのか。もし、そうだとすれば、自分の知らないところでのトラブルであり、それだけのトラブルメーカーだったということで、自分の思いが正しかったということであり、
「天罰が下った」
という意味で、せいせいすることになるのだが、それなら、その理由を知ることができればどんなにいいかと思うのであった。
とにかく、いつもそんなに長く滞在することもなく引っ越してくれるのはありがたいことだったのだ。
ただ、空室ができると、また、誰かが入ってくるというのは、自然なことで、またしても、1年ほどしてから、別の住人が入ってきた。その人は、引っ越してきてから、初めて、引っ越してきたということで挨拶に来た。
今の時代、隣に引っ越してきたからと言って、挨拶に来ることをいちいち気にしてはいけないのだろうが、挨拶されることがなかっただけに、実際にどんな挨拶なのかというのもよく分からなかった。
昼間、引っ越し業者が荷物を入れ、夜近くまでかかったようだ。
白河が仕事から帰ってくる時間まで、業者はまだいたのだ。
帰宅する時間は、午後7時くらいだったので、すっかり、荷が入るまでには、すっかり日が暮れていたのだった。
白河は、自炊を今はほとんどしなくなっていた。弁当を買って帰ることもあれば、食べてくることもある。自炊をする時というのは、
「外食に飽きた」
という時だったのだ。
正直、ここ1年くらいは、食事に飽きることが多くなってきた。
学生時代までは、好きなものがあれば、それをずっと続けても、ほとんど飽きることはなかった。半年、毎日好きなものであれば、食べても飽きることなどなかったのだ。
どちらかというと、肉類が好きだった。まだ、30代前半の白河なので、差かな料理はどちらかというと苦手だと言ってもいい。
「魚のあの青臭さが嫌いなんだ」
という理由から、野菜も種類によっては嫌いなものがあった。
そのくせ、ピーマンやニンジンと言った、普通の人が嫌いな料理を嫌いなわけではない。青物と言っていいのか、玉ねぎ以外のネギ系統は嫌いだったのだ。
特にニラや漬物は嫌いで、高菜やキムチなどの辛いものも苦手だった。
「ラーメンや、チャーハンに高菜を入れる人がいるが、何がうまいんだ」
と思っていた。
紅ショウガも嫌いなので、そうやって考えれば、チャーハンや九州ラーメンなどのトッピングで、ただだからと言って、いっぱい盛っている人を見ると、ついつい、顔をしかめてしまう自分を感じてしまうのだった。
さらに、料理に野菜を混ぜるのも嫌いだった。
「せっかくの肉の味が野菜で消されてしまう」
というものだ。
「野菜も食べないといけないじゃないか」
という人がいるが、逆に白河は、
「それだったら、最初から、野菜を別に食べればいいじゃないか」
という。
しかし、それを聞いた人は、
「何言ってるんだ。料理に混ぜた方が食べやすいじゃないか?」
というのを、聞いて、開いた口がふさがらないくらいになってしまった。
その理由は、
「そんな発想は思いつかなかった」
というものだ。
言われてみれば、
「なるほど」
と感じるが、明らかに。白河の発想から逸脱したものであり、最初から出発点が違っているのだった。
他の人は、まず、
「自分は野菜が嫌いだ」
というところから出発し。
「だから、料理に混ぜると食べることだってできる」
ということになるのだろう。
しかし、白河は違う。
「俺は別に野菜が嫌いというわけではない。確かに嫌いな野菜もあるが、それ以外は。普通に生野菜としても、野菜サラダとしても食べることができる。ただ、好きな料理に混ぜてしまうと、せっかく、100のおいしさが、野菜を入れることで、50いや、30くらいになってしまうことが許せない」
と考えるのだ。
そもそも。他の連中が、料理に野菜が混じっていることを容認しているのは、子供時代に、好き嫌いがあり。それを親が、
「どうすればいいか?」
ということを考え、ニンジンなどは、小さく刻んで、チャーハンや、中華料理に入れたりして、食べさせ、そのうちに他の料理に入れても食べられるようにしようという思いから来ているのだろうと思うようになった。
まあ、料理屋においての料理は理屈が違うのだろうが、白河の場合は徹底していた。
店に食べに行った時も、味が混ざって嫌な料理は、最初から、
「〇〇抜きで」
と言って注文する。
それを、
「それはできません」
と言われれば、他のものを注文する気にもならず、即行で店を出ることにしている。
そして、その店には二度といくことはない。もし、妥協して他のメニューを頼んだとしても、自分が望むような料理が出てくるとは思えないからだ。
わがままだと言われればそれまでなのだが、それくらい徹底していた。
そして、もし、注文したものに、自分の気に食わないものが入っていれば、取り皿を貰い、それを全部避けてから、食べるようにしている。これも当然のことだが、もう二度とその店にもいかない。
たぶん、そんな食べ方をしていれば、まわりからは白い目で見られることだろう。
しかし、何が悪いというのだ。
「こちとら、金払って食べてるんだ。おいしいはずのものをまずいと分かっていて、どうして食べなきゃいけないんだ」
ということである。
おいしいと思ったから注文したのに、まずかったら、誰だって怒るだろう。もちろん、ほとんどの人は、
「なんだ、このまずさは」
と感じ、嫌だと思いながらも、最後まで食べはするが、
「もう二度と、こんな店にはこない」
と思うのではないだろうか?
大好きなものをまずいと思って食べさせられて、しかも金まで取られて、
「じゃあ、今度は違うものを注文すればいいんだ」
などという、聖人君子のようなことを思う人っているだろうか?
「どうせ他のものだって、もっとひどい」
と思うのが関の山ではないだろうか。
怒りがこみあげてきて、その怒りから、
「もう二度と来ることはない」
と感じるに違いない。
結局、最後はどちらであっても、結果は同じなのだ。
「二度とこない」
と思うまで、最初から文句を言って食べずに出てくるか。それとも、嫌なおのを食べさせられ、怒りを感じながらも、食べた以上、怒ることもできなくなった自分に、少なからずの後悔を抱きながら、結局は二度とこないということに落ち着くのだ。
白河も、最初から、ここまでハッキリした考えを持っていたわけではない。他の人のように、怒りを隠して、我慢して。最後には同じ思いに至っていた。
ただ、後悔と怒りのチャンポンは、かなりきついものだったのだ。
要するに、
「怒りをぶちまけて、後悔をしないか。我慢させられる形で、後悔をするか?」
というだけの違いだったら、前者の方がいいに決まっていると自分で納得したのだ。
要するに、泣き寝入りは嫌だという性格になっていたのだ。
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