第5話 こんなに愛しているのに


「嘘を吐くな!!」



灰墨はずみが持ち帰った報告を聞いた途端、烏王はかつてないほどの怒声を灰墨に降らせた。


勢いよく立ち上がったせいで、派手な音をたてて脇息は倒れ、そばにあった文机までも震動でカタカタと揺れた。文机に載っていた筆が床に落ち、物寂しい硬質的な音を立てる。

余韻が消えれば、それを待っていたように灰墨が口を開く。



「わたしが烏王に嘘などつきますか」

「――っそんな……レイカが、身籠もっているだと……!?」



ふらり、とよろめく烏王は、顔を覆った手の下で悲痛に唇を噛んだ。



「村はその噂でもちきりでしたよ。何しろ、その相手だという男が、声高に『レイカの子は俺の子だ』と叫んでおりましたから。まあ、武勇伝のように語るその様は、実に阿呆っぽかったですが」

「…………っ嘘だ」



膝から崩れ落ちるようにして座った烏王は、繰り返し手の下で嘘だと呟く。

いつも凜然として、多少のことでは取り乱さない主人が、見ている方が痛々しくなるほど憔悴していた。これには報告を持ってきた灰墨も、後悔に眉を寄せた。



 

花御寮についてもう一度調べてきてくれと頼まれてから、灰墨は村にいる烏たちを使い『古柴レイカ』について情報を集めた。といっても、聞き込みなどするわけでなく、村人達の話に耳を傾けるだけなのだが。


灰墨は当初、もう村を出た花御寮の事を話す者はいないだろう、と思っていた。きっと集まる情報も前回と同じようなものだと。しかし意外にも、村人達はまだ花御寮の名を口にしていた。これは良かったと思ったのも一瞬、聞くのではなかったと思う羽目になった。



『レイカって妊娠してたらしいわよ』


『え、あの古柴家の娘がか!? 確かあそこの娘は花御寮に選ばれたはずじゃあ』


『まあ正直、レイカならあり得そうかなって思う。よく村の男達にちょっかいかけてたし、僕も誘われたことあるしな』



村の至るところで聞いた花御寮に関する話は、どれも耳を疑うようなものばかり。しかも極めつけは、相手だという男自ら、村のど真ん中でその事を誇らしげに吹聴して回っていたのだ。



『レイカの子が生まれたら、そいつが次の烏王になるんだろ? だったら、俺ァ烏王の本当の父親なわけだし、烏どもの王になれるかもなあ!』



いつ選ばれるか分からない花御寮候補の村娘達に手を出してはならない、というのが村の掟でもある。しかしこの男は、自分が『王の父』になれるという甘い夢に陶酔しきり、村の掟を破ったことさえ英雄気取りで話していた。

話を聞いた者は当然の疑問や批難を口にする。『流石にバレるのでは』『村に迷惑が掛かったらどうするつもりだ』と。



『なぁに、卵で生まれるような烏が、人間様の生まれ方なんか知るわきゃないさ。烏王がどんな奴か知らんが、レイカの腹から生まれるんなら、人の形をしていてもおかしくはないだろ。それに、レイカも死にたくはないだろうから上手く隠し通すさ』



灰墨は、その場で男の首に嘴で風穴を空けてやろかと思った。掟破りを自慢し、自分達の王までも愚弄する、その汚い声を元から絶ってやろうと。

しかしそれよりも今は、この最悪で最重要な情報を報告する事が先だった。

こうして灰墨は、烏王の予想をはるかに超える報告をする事となった。




 

「村人の口にのぼる花御寮様と、あの花御寮様が一致しなかったのですが、よくよく考えれば、花御寮様は輿入れされてから一度も、身体を見せることがなかったはず。侍女にも、烏王にも。湯殿で侍女を追い払うのは、もしや腹の膨らみを隠す為では?」



あの吹聴男は、烏だから人間の生まれ方を知るわけがないと言っていたが、どれだけ短絡的なのか。人間である花御寮を今まで何代迎えてきたと思っているのか。ましてや、烏王は人の身をもつ。人間の事など、当然のように皆が知っている。

烏が頭の良い生き物だと忘れているようだ。馬鹿な夢を見ている吹聴男も、だまし続けられると思っている花御寮も。



「花御寮様の生家の方も伺ってみましたが、使用人全てを解雇したらしく、火が消えたように静かなものでした。さすがに噂が恥ずかしく、大人しくせざるを得ないのでしょうが」

「もういい……聞きたくない……」

「烏王、花御寮様は村に突き返してやったらどうです。そして別の村娘を――って、烏王!?」



烏王は灰墨の言葉も最後まで聞かずに、部屋を飛び出していった。







若葉や他の侍女達と押し花を作るのが、ここ最近の菊の日課となっていた。



 ――ああ、なんと穏やかな日々でしょうか。



花を丁寧に伸しながら、会話に花を咲かせる。侍女達は、烏王と菊がこの間も仲良く散歩しているのを見た、と菊をわざと赤面させては、それを微笑ましいと楽しんでいた。

しかしその穏やかな時間も、荒い足音を立ててやってきた烏王によって、突然の終わりを迎える。


いつもなら菊を驚かせないように、静かに扉を開け、ゆっくりと近付く烏王。しかし今は、扉を邪魔だとばかりに乱暴に開け、侍女達など目に入らぬと、一直線に菊に詰め寄っていた。肩を掴むその手の強さに、思わず菊も「きゃっ」と小さな悲鳴を漏らす。


烏王のあまりの変化に、驚きと怯えの悲鳴を侍女達が漏らせば、烏王は横目に一瞥し『出て行け』と、その眼光の鋭さで伝えた。震え上がった他の侍女達は飛び去るように消え去ったが、若葉だけは菊を気遣い、躊躇いがちにまだ部屋に残っていた。

若葉だけは、菊がレイカではないと知っている。烏王の剣幕から、身を偽ったのがバレたかと思い、せめて菊が悪い扱いを受けないようにと取りなすつもりだった。



「何をしている、若葉。去れ」



聞いた事もないような、『王』としての烏王の声に、若葉の全身からドッと汗が噴き出す。それでも若葉は食い下がろうとした。しかし、菊がそれを望まなかった。

「若葉さん、私は大丈夫ですから」と、血の気の失せた顔で言う。

そのように弱々しい笑みで何が大丈夫なものか、と思えども、そう言われてしまえば、若葉にはその場に残る権利はなかった。




二人きりになった途端、拙速に烏王は核心の言葉を口にした。



「身籠もっているというのは本当か」

「――っ!?」



菊は眦が裂けんばかりに目を瞠った。

そんな馬鹿な。この身体は誰一人として触れたことがないというのに、一体どのようにして身籠もるというのか。

菊も若葉同様に、レイカとの入れ替わりがとうとうバレたのだろうと思っていた。それに激怒して烏王がやって来たのだろうと。しかし彼の口から問われたのは、身の偽りなど些細に思えるほど衝撃的な事。



 ――ああ、そういう事だったのですね。



同時に、菊は全てを悟った。

なぜ伯父が、バレてしまえば古柴家さえなくなってしまうような、『花御寮の交換』という危険な選択を許したのか。あれだけ伯母やレイカが懇願しても、首を縦には振らなかった人が。

あの人達は、レイカが妊娠しているのを知っていたのだ。娘の掟破りの尻拭いに、菊も烏王も村さえも全て巻き込んで騙したのだ。



「……っどうして……何も言ってはくれないのだ……」

「そ、れは……っ」



肩を掴む烏王の手が震えていた。

しかし、菊には答えようがない。否定すれば自分がレイカではないと言っているようなものであり、レイカで居続けるために肯定しても、結局は彼に捨てられるだろう。

『捨てられる』という自分の言葉に、菊の目が熱くなる。


遠ざかっていく背を見るのが、どれだけの喪失感を抱かせるか菊は知っていた。もし、その背が愛しい者だったら。考えただけで胸が苦しい。

まるで全身を苛む苦しさを追い出すように、菊の目からは雫があふれ、頬を滑り落ちる。


罰が当たったのだろうか。神事で決めた事に逆らい、まがい物が嫁いだから。

縋るように菊の胸に頭を寄せる烏王。肩を掴んでいた彼の手がズルリと力なく床に落ちた。



「この身体に、他の男が触れたと思うだけで頭がおかしくなりそうだよ。この甘い香りを吸い、この華奢な手に抱きしめられた男が俺は憎い。そしてここに……他の男と愛し合った証が宿っているなどと……」



烏王の指先が菊の腹を撫でた。しかしそれは着物の表面をなぞったのみ。こんな時でさえ、彼の指先には優しさが滲んでいる。

そしてこんな時でさえ、彼の切なる愛の告白に菊は喜びを感じてしまった。辛く、甘く、切ない思いが菊の内側で暴れ、身を引き裂かれるようだった。



「言えっ! 男の名を……消し炭にしてくれる!」

「し、りませ……っ」



本当の事だった。菊はレイカの相手など知らない。

しかしその言葉は、烏王からすれば相手の男を庇っているようにしか聞こえない。烏王の僅かに残っていた理性が瓦解した。



「――んぅ……っ!?」



菊の唇を烏王のそれが塞いだ。突然の噛み付くような荒々しい口づけに、菊の涙も止まる。



「……っ、ぁ…………う、っ様……っん」



初めて交わされる甘やかな熱に、菊の意識は白くなった。角度を変えては何度も落とされる口づけ。次第にその唇は顎を下り、首を這い、そしてより深くまで下りようとした。

烏王の手が着物の肩を脱がせようとする。



「――っ嫌!」



しかし我に返った菊によって、その手は弾かれてしまった。手を払った痛々しい音が、言葉以上の拒絶を表わしている。



「あ……す、すみ、ま…………っ」



自分が何をしてしまったか理解し、止まっていた涙が、後悔に再び頬を濡らす。

烏王は打たれ赤くなった手を眺め、ふ、と歪に笑った。



「やはり、その男の事が好きなのだな」

「違……っ」

「俺に向けてくれたあの笑みも、栞も、怖くないと言ったあの言葉も、全て俺を欺く為の芝居だったわけか。ははっ、ならば成功だよ。まんまと騙されて……っ、こんな状況なのに、未だにお前が愛おしくて堪らないとはな……っ!」



烏王の哀切な叫びは部屋にこだました。

くしゃりと前髪を握りこみ、背を丸める烏王。



「……村へ帰してやる」

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