第4話 お願い気付かないで

すぐに否定しなければならないのに、菊の喉は全くと言って良いほど、その役割を果たさなかった。ひくひくと痙攣するだけで、まともな言葉が出ない。



「あなたは古柴レイカではないはず」

「っそ……ぁ……っ」



菊はレイカではない。若葉は間違っていない。しかし、菊にとってその正しさは、蜘蛛の糸を千切ろうとする刃も同じだった。



 ――追い出されてしまう……。



膝の上で震える菊の拳は、きつく握り込みすぎて色を失っている。俯いた顔は目がうつろになり、唇は小刻みに震えていた。

もし、レイカが菊と同じ状況に置かれていたとするならば、今頃若葉は頬を腫らして床に転がり、レイカはかなきり声を上げて、烏王の下へと駆け込んだろう。「この無礼な女を追い出せ」と。


しかし、あいにくとこの場にいるのはレイカではなく、レイカの身代わりとなった菊。菊にはそのような事はできない。顔を青くして黙ったままである。

この状況で否定ができなければ、それは肯定も同じ事だった。



「やはり、そうだったのですね」



若葉が近付いてくる気配に、菊は、ぶたれる、とぎゅっと目を瞑り、身を固くした。しかし、おとずれたのは痛みではなく優しい声。



「やはり、あなたは菊様だったのですね」

「え……」



菊の俯いていた顔が跳ね上がった。その正面にあった若葉の顔は、責め立てるようなものではなく、安堵の笑みを湛えていた。

咎められると思っていた菊は、混乱に目を白黒させる。レイカではないとバレた上に、本名まで知られていた。一度たりとも本名など、口にしたこともないのに。



「覚えておりませんか? といっても、人の姿でお会いするのははじめてなんですが」



言って、若葉は自分の前髪を指さした。真っ黒髪の中で、そこだけが一部鮮やかな緑に色付いている。



「緑? 緑……の……」



菊は「あ」と声を上げた。



「もしかして、村にいた緑の烏さんでしょうか!?」



座敷牢の窓辺に時折やって来ては、まるで菊の存在を確かめるように顔を覗かせていく烏。確かにその羽先は、彼女の前髪と同じ色に染まっていた。



「古柴レイカが花御寮になったと村人達の話を聞いたのですが、実際に現れたのがあなたで驚きました。あなたは菊と呼ばれていたはずなのに、と」

「あ、あの! どうかこの事は……っ、いえ、騙しているのは悪いことだとは分かっているのですが、その……どうかもう少しだけ……っ」



彼のそばにいさせて欲しい。

菊はしがみ付くようにして、若葉の袂を引っ張り懇願した。瞳の表面で揺らぐ水膜は今にも溢れそうで、何度も「どうか」とこい願う声は、掠れ掠れだった。


悲痛に眉宇を歪めれば、瞳の表面の水膜がぽろりと剥がれ落ちる。一度剥がれ落ちると、次から次へとどんどん後を追うように、ぽろりぽろり、と水膜の欠片が菊の頬を濡らした。

顔を覆い、圧し殺した涙声と共に肩を震わせる菊に、若葉の手が伸びる。



「大丈夫です、菊様」



抱きしめるように背に回された若葉の手は、優しいものだった。



「大丈夫です。私は古柴レイカの事はよく知りませんが、あなたの……菊様の事ならよく知っておりますから。あなたが名を偽ってこの場にいるのも、何か事情があってのことなのでしょう?」


上がった菊の顔は、驚きに涙が止まっていた。



「どうして……騙していたのに……」



なのに、どうしてこれ程に優しい言葉を掛けてくれるのだろうか。どうして、同じ村で育った者達よりも、数えるほどしか顔を合せていない彼女の方が、自分の言葉に耳を傾けてくれるのだろうか。

せっかく涙も止まったというのに、再び目頭がツンと痛くなる。



「森で翼を怪我して飛べないでいるところを菊様が見つけてくれ、わたしの為に沢山の木の実を拾い集めてくださいましたよね。お腹が空いているでしょう、と」



そう言えば一年ほど前、数少ない自由である夜の散歩をしている時、地面にうずくまる烏を見つけた覚えがあった。近付いても飛び立たず、ただぴょこぴょこと地面を歩いて逃げるばかり。よく見れば、片翼の羽根がいくらかささくれており、怪我をしているのだと分かった。



「それであなたの事が気になり、村中を探しました。まさか屋敷の地下に、隠れるように住んでいるとは思いませんでしたが」

「気になって?」

「烏に施しを与える人間は珍しいですから。その後も菊様は、私が訪ねると、『お腹空いてるの?』と色々な食べ物を下さいましたね。自分の僅かな食べ物さえも分けてくれて……」



ふ、と若葉の口元がほころぶ。



「本当は、それほどお腹は空いてなかったのですがね」

「えぇ!? そ、そうだったのですか。やだ、私ったらてっきり、訪ねてくるのは食べ物を貰いにかと……」



菊は申し訳なさそうに背をまるめたが、「そんなに毎度毎度空腹だったら、烏は生きていけませんって」と若葉は苦笑した。その笑みはどこか嬉しそうでもある。



「あなたに会いたくて、あなたが心配で、あなたがどうしているか気になって、伺っていただけですから」

「でも、どうして私の名まで分かったのです」



自分の名を呼ぶ村人などいないというのに。



「あなたの部屋にやって来た金切り声の女が、そう呼ぶのを聞きました。あなたが彼女をレイカ姉様と呼ぶのも……あなたに辛く当たるあの女が、古柴レイカでしょう?」



ここまで知られてしまっては、と菊は素直に頷いた。



「……それで、私が本物の花御寮じゃないと分かって……烏王に報告しますか」



若葉は間髪入れずに、いいえ、と言った。



「私達は、人間がどのようにして花御寮を選ぶのか知りません。こちらからすれば、村娘であれば誰だって良いのですから。菊様の様子をみていると、入れ替わったのには何か事情があったのでしょう? どうしてこのような事になったのか、話して下さいませんか」



菊は、レイカが花御寮に選ばれてからのあらましを話した。若葉は「なんと……」と唖然としていた。



「やはり私は、本物の古柴レイカより、烏王の隣には菊様にいてほしいです。……そんな女を様付けで呼びたくない」



最後に言葉を付け加えた時の若葉の顔は、これでもかと言うほど、眉も目も口も全て歪んでいた。いつも涼やかにして、表情を大きく崩すことのない彼女がみせた本心に、思わず菊も大きく表情を崩して吹き出した。



「大丈夫です。烏は愛情深いのですから、受けたご恩は忘れません。菊様がずっとここにいられるよう、お守りいたします」



広げた両翼で雛を守り囲う烏のように、若葉は小さな菊の身体を両腕で抱きしめた。

守られるというのは、これ程に頼もしく心安らかになるものか、と菊は若葉の胸に頭を預け、静かに瞼を閉じた。



 ――どうか、この安らかな時間が少しでも長く続きますように。



『村娘であれば』という若葉の台詞は、今だけは考えないようにした。



 

        ◆




外を一緒に散歩した日から、烏王の何かが変わった。


日中に訪ねてくるのは変わらないのだが、会話をすれば以前のような菊への一問一答ではなく、彼の生い立ちや好きなものの話題。散歩をしに庭へ出ることも増えた。しかし、屋敷の外へはまだ出ては駄目らしい。理由を尋ねれば、「今はまだ俺だけに……」と、よくは聞こえない声でそっぽを向かれた。

彼だけ何なのだろうかと思ったが、菊も特に屋敷の外に出たいとは思わなかったので、今でも散歩と言えば庭の散策が主だ。


そして一番の変化が――



「……あの、烏王様。私の顔に何か……また散り花でもついてますでしょうか?」

「いや……」



そう答えたきり、烏王はまたじっと菊を見つめるのだ。沈黙が気まずいわけではないが、こうもただひたすら見つめられ続けると、首の後ろも痒くなるというもの。

部屋に満ちる空気はどこか面映ゆく、菊はいつもソワソワとしてしまう。



「レイカ、そろそろ同じ棟で暮らさないか」



烏王が口を開いたことで、漸くこの空気から逃れられると思ったのも束の間、彼の言葉を理解した菊の顔が火を噴いた。



「っああぁあの、その、つまりは、ええっと――」



菊の頭は熱暴走によりまともな思考ができなかった。ただ『子を成さねば』という以前の烏王の台詞が、よりなまめかしい響きをもってグルグルと脳内を駆け巡っている。



「レイカには俺の事をもっとよく知ってほしいし、俺もレイカの全てが知りたい。駄目か?」



烏王が目の前で、覗き込むようにして答えを待っている。何か答えなければと思うものの、煮えた頭でもどうにか残った僅かな理性と感情がうまく噛み合わない。

心は頷けと言っているのに、理性がそれは危険だと首を横に振らせようとしていた。期待と不安のこもった烏王の眼差しに、これ以上耐えられなくなった時、まさに天の助けかと思う声が部屋に入ってきた。



「花御寮様、また面白そうな本を見つけたので、お持ちしましたよ――って、あら……もしかして、私ったらお邪魔しました?」



頭の上に湯気が見えそうなほど湯だった菊の顔を見て、若葉は踵を返そうとした。それを菊が慌てて止める。



「ああああ待ってください! ほ、本がとても気になりますので!」



若葉がチラと烏王に視線を向ければ、烏王は瞼を重くして「全く」と唇を尖らせいていた。




若葉が持ってきた本を、子供のようなキラキラとした目で確認していく菊。



「何なのだ、この本の数々は?」



そう言えば、と烏王は菊の文机を一瞥する。そこにも、以前にはなかった本が、やはり何冊も積まれていた。



「あの、私ったら皆さんの事をくわしく知らないので、少しでも学べたらと。烏たちに関する歴史やお話などの本を、若葉さんに集めて貰っているのです」

「今、花御寮様がお読みになっている本は、よく私共が子供の頃に読んだ『虹色ぬばたま』ですよ」

「童話か」

「その、あまり読める文字が多くなくて……」



烏王は、文机にポンと一冊置かれていた読み掛けだろう本を手に取ると、懐かしそうに頁をパラパラと捲る。すると本の合間から、スルリ、となにかが抜け落ちた。

「あっ」と、しまったとばかりの菊の声が飛ぶ。



「ん? 何だこれは」



組んだ足の上に落ちたそれを烏王が拾い上げれば、それは和紙で作られた栞だった。くるりと裏を返せば、烏王は「これは」と先ほどと同じ言葉を口にして目を見開いた。

紫色の見覚えのある花が、白地の和紙に挟まれている。

驚き菊を見遣れば、菊は袂で顔を隠し、小さくなっていた。袂の隙間から見える菊の耳は真っ赤だ。

それは、烏王が菊の髪に飾ったスミレの花。



「ああ、それはこの間、花御寮様が作られた栞ですよ。和紙と紐が欲しいと言うので差し上げたら、こんなに可愛い栞を作られて」

「わ、若葉さん……」

「しかも、紐は赤いものが良いというこだわり仕様で」

「若葉さん、あのっ、もう……本当に……っ!」



自慢げに語る若葉の隣で、菊はどんどんと赤く、小さくなっていく。


「赤?」と烏王は訝しげな声を漏らす。手の中にある栞には確かに赤い紐が通してあった。若葉の言うとおりならば、この紐の色にも意味があるのだろうが、と菊を見遣れば、潤んだ瞳と目が合う。

菊は気恥ずかしいのか、「え、あぅ」と言葉にはならないようで、ついには瞼を伏せてしまった。しかし「実は……」とか細い声を出すと、ゆっくりと伏せた視線を上げる。下から這わせた菊の視線は、烏王の目を捉えるとピタリと止まった。


次第に菊の瞳が、恥ずかしさに耐えらないのか潤みを増していく。しかしそれでも目を逸らそうとしない菊に、漸く烏王もその視線の意味を理解した。



「――っな!? いや、そんなまさか……っ」



菊の見つめる先――烏王の瞳も確かに『赤』だった。

栞と菊を交互に見遣る烏王。その顔は、彼の瞳と同じくらいに赤い。



「あらあら~、お邪魔烏は去りましょうか」

「も、もう! 揶揄わないでください、若葉さん」



若葉は袂で口元を隠していたが、しっかりと目は笑っていた。下瞼を押し上げている頬は、きっと口端も引き上げているのだろう、と菊は頬を膨らませて若葉に遺憾を伝える。

しかし、若葉はそれさえも愉快だと笑みを濃くするばかり。何と言っても暖簾に腕押しだろう、と菊は若葉の口を止めるより、烏王への釈明を優先させる。



「あ、あの、烏王様にいただいたスミレがとても綺麗で、それで、どうしても手元に置いておきたくて、このように勝手な事を……お、お気を悪くされたのなら――」



しどろもどろで、しかし懸命に説明しようとする菊。眉は情けなく垂れ下がり、その顔は真っ赤。身体を小さくした菊が、鼻の前で合わせた袖先から、見上げるように見つめてくる様は、烏王の身体を熱くした。

烏王は額を押さえ、「はぁぁ」と長い長い溜め息をついた。



「……我慢しているこっちの身にもなってくれ……」

「え」



次の瞬間、菊の額に烏王の甘やかな熱が落ちた。

口づけをされたのだと気付いた時には、烏王は菊に背を向けて、ちょうど部屋を出るところだった。パタンと気遣いの感じられる音で扉が閉まれば、若葉が「きゃー」と、小声で悲鳴をあげ、目をかつてないほど輝かせていた。

菊は烏王の唇が触れたところに触れ、ぽうとして烏王の去って行った方をしばらく眺めていた。




それから数刻後、菊の部屋に大量の花が届けられた。シロツメにスミレに蓮華にナズナ。



「……これは、たくさん赤い紐を用意しないといけませんね」

「たくさん、読みかけの本を作ってしまいそうです」



菊は花束を潰さないようぎゅうと抱きしめ、その幸せの香りにしばし酔いしれた。



 ――私、こんなに幸せで良いのでしょうか。

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