第3話 桜の下で初めての恋を


 

烏王が菊を連れてきた場所は、ちょうどいつも菊が縁側から眺めている桜の木の麓だった。

足元は色濃くなった若草に覆われ、春の陽気に芽吹いた野花が、白、黄、紫、赤と、緑の絨毯を鮮やかに染めていた。空を見上げれば、ハラハラと薄紅の花弁が散り落ち、合間から見える青空が眩しかった。


菊はその景色に、ほぅとうっとりした溜息を漏らした。



「とても……綺麗です」



村の景色も綺麗だった。稲が青々と伸びた季節は、青と緑だけの清々しい世界になって美しかった。しかし、そのような世界も菊には遠い世界。村の中を自由に歩くことさえ許されず、許された夜の時間では鮮やかな色は総じて藍の帳を被せられていた。いつも、あの青い稲の葉や黄金の穂を触ってみたい、と屋敷から眺めるだけだった。


菊は恐る恐る、足を踏み出した。



「烏王様……あの、歩いても……?」



その問いに、烏王は苦笑した。



「ははっ、おかしなやつだ。聞かずとも、好きなだけ歩けば良いさ。好きなところへ行けば良い」



菊は歩き、屈み、見回した。見たいものを瞳に収め、触れたいものに触れ、行きたい場所まで歩いた。まるで幼子のように、見るもの全てに夢中になった。

うっかり、烏王が近くにいることも忘れて。



「そのような顔もできたのだな」



ハッとして、菊は、はしたなかったかと慌てて頭を下げた。



「も、申し訳ありません。子供のような真似を」



仮にも王と呼ばれる者。その隣に立つ者として、自分のような態度は相応しくないと叱責を受けるのだろうと、菊は身を強張らせた。しかし覚悟した痛みは、いつまで待っても来ず、代わりに静かな声が掛けられる。



「レイカ、頭を下げる必要はない」



烏王の手が、菊の肩を丁寧に押し上げた。



「むしろ、俺が謝らねばならないのだろうな」

「烏王様が? どうしてでしょう」



天国と思えるような扱いをしてもらい、まるで謝られる覚えはないのだが。

烏王は、ふいと菊に背を向け、草を踏みならしながら遠ざかる。どこにいても黒ばかりの彼の姿は、あでやかな景色の中で一際目立つ。どこに行くのだろうか、と不思議に思い眺めていれば、彼は一度屈み、そして戻って来た。



「人は、このような地味な野花など嫌いかもしれないが……俺がレイカにしてやれることは、これくらいしかないからな」



烏王は菊の髪に触れた。菊の胸に落ちた真っ直ぐな髪を、耳に掛けるようにして梳きあげる。手が髪から離れた後、菊の耳元には鮮やかな紫の花――スミレが飾ってあった。



「これ……は……」

「スミレだよ。俺からの気持ちだ」



菊は、耳元に触れる柔らかな花びらの感触に、喉を詰まらせた。誰かに花を飾ってもらえる日が来るとは。



「よく似合っている。綺麗だ、レイカ」



今まで感じたことのない様々な感情が身体を駆け巡った。それは胸を打ち、喉を震わせ、目を熱く、口の中を酸っぱくさせた。しかしその数多の感情を表わす言葉を、菊は知らない。


「今、人の世は多くの光であふれているのだろう? だが、我らの郷は夜になれば暗く、身を飾るものもこのような花くらいしかない。きっと人の世の暮らしに慣れたレイカには、物足りない思いをさせていると思う。それでも、来てくれてありがとう」



烏王の伸ばされた指先が、菊の頬に触れた。

瞬間、菊の肩がビクリと跳ね上がった。

菊が「しまった」と思った時には遅かった。


目の前の烏王の口元は笑っていたが、赤い目は悲しみに耐えるように眇められていた。菊に触れようと伸ばされていた手は、行き場を失ったように指先を震えさせ、そしてゆっくりと持ち主の元へと戻っていく。



「……やはり、それでも烏の手は怖いか……だが、烏王を次の代に引き継ぐには人の血が必要なのだ。我々烏は、精一杯レイカを大切にし、不自由ないようにさせると誓う。安心しろ、烏は愛情深い生き物だから」

「――っ!」



菊は、踵を返し遠ざかろうとする烏王の腕を、跳びかかるようにして掴んだ。突然のことに目を丸くする烏王をよそに、菊は掴んだ烏王の手を、自分の頬へとあてがった。



「こっ、怖くありません!」



「決して」と、菊は自らの頬を、烏王の掌にすり寄せた。

この気持ちを表わす言葉を知らない。ならば、言葉以外で気持ちを伝えなければと思った。



「私は、烏王様の事を、烏たちの事を、怖い……とは思いませんから」



烏は菊の唯一の友人でもあった。座敷牢を訪ねてくれる、優しい友人。怖いと思った事すらない。

頬に触れられようとする度に身が竦んでしまうのは、過去の叩かれてきた記憶が、知らずに身を守ろうとするからだった。決して烏王を厭っての事ではない。



 ――むしろ、私は……。



「もっと触れて欲しい」と言いかけて、己の言葉の大胆さに菊は頬を赤くした。そう思えば、自分が今やっている事も相当はしたないのではないか、と菊は我に返り、飛び退くように手を離す。



「も、申し訳ありません、急に触れてしまいまして!」



郷に来てから初めて見せる菊の機敏な動きに、烏王は口をまるめて、ふ、と笑みをもらした。



「お前は謝ってばかりだな」

「申し訳ありません……」

「ほら、また」



烏王が喉をクツクツと鳴らせば、菊は恥ずかしそうに眉尻を下げた。

菊が退いて空いてしまった距離を埋めるように、烏王は一歩踏みだし菊と距離を縮めた。



「なあ、そのスミレは気に入ってもらえただろうか」



烏王の指が、菊の耳元を指していた。



「気に入るなどと、滅相も……このような気遣いをしていただき、申し訳ないほどで――」

「違う。俺が聞きたいのはその言葉ではなくて」



菊の言葉を遮った烏王の声は、少々不服そうであった。顔を見れば、口をへの字に歪めているだけでなく、柳のような眉までも不格好に歪めていた。

菊は自分の持ち得る言葉の中から、懸命に烏王の求めるものを探す。そうして、滅多に使わず、使われた事もないある一つの言葉へと辿り着く。



「あ……ありがとうございます」



確かめるように口にした言葉に、烏王は正解だとばかりに目を細くし、口元に綺麗な弧を描いた。降りそそぐ春陽のような温かな笑みに、菊の表情もつられて柔らかくなる。

その菊の笑みは控え目なものであったが、その野花のような楚々とした笑みは、烏王の胸を高鳴らせた。



「……っ身体も、充分に温まったようだな」



烏王は菊に手を差し出した。しかしその顔は、身体ごとそっぽを向いている。菊は気付かなかったが、この時の烏王の耳はその美しい目と同じ色に染まっていた。

烏王の「帰ろうか」との言葉に、菊は「はい」と、差し出された手に、今度は自ら手を重ねた。



 

        ◆



 

菊を部屋に送りとどけると、烏王はさっさと自分の棟へと戻って行ってしまった。黒く大きな背中が遠ざかっていくのに、索漠さくばくとした気持ちを抱いたのは初めてだった。



「あぁ、どうしたら」



 頬を両手で包み込めば、じんわりと熱を帯びている。



「私は、まがい物だというのに……」



だというのに、髪を飾ってくれた気持ちを、向けられた温かな眼差しを、壊れ物に触れるように優しく握る手を、菊は嬉しいと感じてしまった。そして、嬉しさと共に発生した欲深い願いもまた、菊を悩ませる。



 ――このまま、ここで……



「ずっと、彼の隣にいたい」



口に出てしまった願望に、菊の目尻が赤くなる。

この願いは、烏王を欺き続けることにもなるというのに。それでも一度もってしまった感情を消すのは容易ではない。

それに、菊がそう望んでしまうのも無理からぬ事であった。


烏王の屋敷に来てからというもの、菊は会う者皆に好意的な目を向けてられていた。向けられる笑みに嘲りなど一切ない。菊を見つけては「花御寮様」と微笑みかけてくれる。それが菊には嬉しかった。『ここにいてもいい』と言われているようで。

ただ、烏王に「レイカ」と呼ばれると現実に呼び戻される。本来なら自分は場違いなのだとチクリと胸が痛む。まるで、レイカが「あんたはあたしの身代わりに過ぎないのよ」と、嗤って刺してくるようだった。


しかし、『レイカ』でいないとここにいられないのなら、それくらいの痛み、耐えられる。村では、もっと多くの痛みが、心だけでなく身体も襲っていたのだから。

もしかすると、地獄に垂らされた蜘蛛の糸は烏王だったのではないか、と散り桜の美しさを目に映していれば、背に「花御寮様」との声が掛けられた。


振り向けば、一人の侍女が立っていた。肩口で綺麗に切りそろえられた髪は、彼女の気の強そうな面立ちに、よく似合っている。一見すると、冷たい印象を抱きがちだが、菊は彼女がそのような者でないことを知っているう。いつも丁寧に世話をしてくれる侍女だった。



「どうかしましたか、若葉さん」



しかし、侍女――若葉からの返事はない。若葉は目利き人のような鋭い視線で、菊をつぶさに観察するばかり。その眉間には皺が寄っている。

若葉は、前髪の一部が、彼女の名のように鮮やかな緑色をしていた。どこかでその色を見た気がするのだが、はたしてどこだったか。


菊が思い出を探り始めたとき、漸く若葉が口を開いた。



「古柴レイカ様――」

「はい、何か……」



ご用でも、と伺いの言葉を口にしようとした次の瞬間、その言葉は「ヒュ」と風音を立てて、喉の奥に引っ込んだ。



「――ではありませんよね」



知らずの内に、菊は袂をくしゃくしゃに握り締めていた。




        ◆




『古柴レイカ』という村娘が、花御寮に選ばれたと知らせを受けた。


村に放っていた烏たちの報告では、随分と気性の荒い娘だと聞いていたが、実際に輿入れされた者を見て驚いた。やってきた花御寮は、気性が荒いどころか、むしろ気性というものがあるのかと首を傾げたくなるほどに静かな娘だった。

綿帽子を脱がせ、俯いた顔が上げられれば、再び驚くこととなった。


人間が、自分達烏を嫌っていることくらい知っている。

真っ黒な身体に鋭利な嘴、目は常に何かを狙うように妖しく輝き、鳴き声はささくれ立っている。これで好意的に捉えろという方が無理だろう。

だから烏王は、花御寮の自分に向けられる目に、期待はしていなかった。どうせ、恐れか、怯えか、嫌悪の類いだろうと。


しかし、彼女の目は予想していたどれとも違った。


春光が射し込む湖面のようにキラキラと輝き、何度も目を瞬かせていた。これは、と思った。もしかすると、上手くやっていけるのではないかと。

手を差し出せば、おずおずとだが小さな手を乗せてくれた。その時の胸の高鳴りを、烏王は未だに覚えている。望外の喜びだと、気持ちを込めて彼女の名を丁寧に呼んだ。この先、何百何万と口にする名だからこそ、その最初は心を込めて呼びたかった。

ところが、その喜びは長く続かなかった。


彼女に触れようとすると、いや、ただ手を近付けるだけで、彼女は身を縮こめて怯えた。そして、自分を見る目はいつも不安に揺れている。最初に向けられた、あのキラキラしい眼差しはなかった。

 あまりの変わりように、やはり花御寮が嫌になったのかと思ったが、侍女達の話では、どうやらそういうわけでもない様子。彼女は、辺鄙な場所だと憤慨することも、「帰りたい」と泣くわけでもなかった。一日中、縁側から外を眺めるばかりだと言う。唯一、彼女が自分の意思を示したのが、「湯殿の手伝いはいらない」ということだけ。


ますます彼女が分からなくなった。

最初の輝くような瞳をもう一度向けて欲しかった。あの、こんこんと湧き出る清水のように澄んだ真っ黒な瞳。烏たちの色であり、自分の色でもある黒。

ただ、その瞳で見つめて、そして、もっと笑ってほしいだけ。



「嫌われてはいない……とは、思うのだがな……」



ただ、好かれているかと問われれば、実に怪しいところではある。

それでも烏王は、もう一度、彼女のあの顔が見たくて毎日足繁く通った。その成果が、今日漸く実った。

彼女から手を握られ、しかも頬にあてがわれ『怖くない』と言われた。そしてスミレを贈れば『ありがとうございます』と言って彼女は笑った。優しく、心に沿うような穏やかな笑みだった。


陽光に温められた頬が、ほんわりと赤く染まっている姿がまた可憐で、思わず抱きしめたくなったものだ。しかし、その欲は理性でもって必死に押しとどめた。やっと少し心を開いてくれたというのに、いきなり抱きしめて、また心を閉ざされては困る。彼女には忌避でも嫌悪でもない、ただ、どこか一枚隔てたような、これ以上踏み込んでくれるなとでも言うような壁があった。



「我らが怖いわけでないのなら、何なのだ」



その壁の理由はまだ分からない。

烏王は返事する声はないと知りつつ、「レイカ」と呟いた。そして釈然としない顔で首を傾げる。



「どうも、この名も彼女には合っていない気がする」



彼女には、もっと穏やかな響きの名の方が似合っていると思う。しかし、人間の名付けなど詳しく知るよしもない。あまり耳慣れない響きに、単に自分が違和感を覚えているだけだろう。人世は今急激に変わり始めていると聞く。この耳馴染みのない名も、その影響だろうか。

烏王は「あー!」と頭を掻きむしった。ただでさえ無雑作に跳ねている毛先が、より一層派手に跳ねる。

不完全燃焼な思考に「分からん」とぼやけば、今度はその言葉に返事があった。



「何が分からないので?」



丸みを帯びた柔らかな男の声だった。声がしたのは、部屋の入り口ではなく窓の方から。

烏王が横目に窓辺を伺えば、一羽の烏が窓から部屋へと飛び込んでくる。次の瞬間、大きく広げられた両翼は薄墨色の袂になり、平筆のような尾は長衣となった。床に伏せた烏が顔を上げれば、そこにあったのは烏ではなく人の顔。



「なんだ、灰墨はずみか」

「なんだとはなんですか。それがこうして懸命に飛び回っている近侍にかける言葉ですか」



灰墨と呼ばれた青年がわざとらしくへそを曲げれば、烏王は「悪い悪い」と苦笑した。当然本気で憤慨などしていない灰墨は、「許しましょう」と近侍らしからぬ物言いと共に、顔を烏王に戻す。

烏王と同年の近侍。彼にはスッと他人の懐に入れるような愛嬌があり、烏王への親しすぎる態度も、彼ならば許されるという雰囲気があった。



「それで、何が分からないのです?」



途端に、緩んでいた烏王の表情に険が混ざる。



「レイカだ。どうもお前達から聞いていた像と、かけ離れている気がするのだが」

「あー確かに。わたしも村人達が口にする話とは、随分と違うなと思っていました」

「村に行ったのなら、お前はレイカの姿を確認しなかったのか?」



灰墨はやれやれと肩をすくめ、両手を上げて首を振った。



「人間に烏の区別がつかないように、わたし共も人間の容姿の区別はつきにくいんですよ。まあ、烏王には分かりづらいと思いますが」

「はは、お前達も難儀だな」



同じ烏の妖だと言っても、烏王とその他の烏たちとでは性質が違う。烏として生まれ、妖力による変化で人間の姿をとる烏に対し、烏王は人間の血を半分もって人間の姿で生まれる。この違いが烏王たる由縁でもあった。



「多少の違いならば気にもしなかったが、正反対と言えるほどに違うとなるとなあ」



彼女の怯えの正体や壁の理由を無理に暴きたくはなかった。時間をかけて距離を縮め、それによって怯えも壁もなくなるのなら、それが一番である。

しかし彼女のそれは、恐らく時間をかければなくなるようなものではないと、烏王は薄々感じていた。



「灰墨、悪いがもう一度村でレイカの噂を集めてきてくれ」

「夫婦事情に首を突っ込まない主義ですが……まあ、わたしも気になるので、やぶさかではないですね」

「それじゃ頼んだぞ。それと、お前は窓から出入りするな。入り口を使え」



灰墨は「はーい」と、気前の良い返事をして、窓から烏の姿になり出て行った。





 

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