第2話 初めての優しさ

菊はまじまじと、腕に絡む柔らかな袖を眺めていた。


白妙の生地に、純白の糸で小花が刺繍してある着物は、美しいの一言につきた。襦袢の赤色が薄く透け、まるで目の前で満開を誇っている桜から作られたようだ。

菊が座っている張り出した欄干囲いの縁側は、桜の最も美しいところだけを切り取って、一枚の絵のようにしている。

身に纏うものから目に入るものまで、美しいばかりの中、菊は、どうして自分はこのような場所にいるのだろうか、と呆然としていた。



「そんなに桜が珍しいか」



春風のような温か含んだ心地良い声が、菊の背にかけられた。

振り返れば、そこには真っ黒な着物を纏った青年が、眉間に皺をよせ佇んでいた。髪も着物も羽織も足袋も全て黒の中にあって、彼の赤い瞳は異様に際立つ。



「う、烏王様……!」



菊は慌てて、床に擦りつけんばかりに頭を下げた。

烏王の歩みに、ギシと床板が軋めば、菊の肩が跳ねる。



「そのように日がな一日眺めて、よくも飽きないものだな。果たして、何を思っているのか……。とにかく顔を上げろ。そこまで畏まる必要もない」



菊は恐る恐るといった様子で顔を上げた。しかし、まるで烏王の視線を避けるように、瞼は伏せられたまま。



「やはり、村に帰りたいか」

「そ、そのような事は……」



元より帰りたいと思える場所を知らない。ずっと、波間に漂い流され揉まれ浮いているだけ、という生き方をしてきたのだから。もう陸がどこにあるのかすら分からない。

村での生活を思い出せば喉が引きつり、菊はそれ以上言葉を紡ぐことはできなかった。



「不吉の象徴、屍肉漁り、死神の使い――人が我ら烏を表わす言葉はどれも卑しいものばかり。まあ、烏は嫌われこそすれ、好かれるような生き物ではないからな」



菊の曖昧に切れた言葉を、『言いづらい事』――肯定ととったのだろう。烏王は自嘲に鼻を鳴らした。

顔の近くで衣擦れの音がした。

視線を上げれば、烏王の手が頬の横にあった。思わず菊は、強く瞼を閉じて首をすくめた。

叩かれる、と思った。

しかし烏王の手は、菊の頬を通り過ぎ、背に流れ落ちる後ろ髪に触れただけであった。



「散り花が付いていただけだ」

「あ……、も、申し訳ありません」



烏王は摘まんだ薄紅の花弁を、涼やかな目を細め眺めていた。下瞼に長い睫毛の影が落ち、憂いの色が濃くなる。烏王はふっと花弁に息を吹きかけ、雛を親元に帰すかのような優しげな手つきで、欄干の向こうへと花弁を返した。


自分の態度が失礼なものだったと自覚のある菊。再び謝罪の言葉をかけようとするが、先に烏王の口が開く。



「侍女らに湯殿の手伝いをさせないらしいな」

「ひ、人に見られるのに慣れてませんで」

「人……な」



二度目の自嘲。



「人の姿かたちをとろうと、俺達は烏だからな」



烏王は自らの手をまじまじと見つめ、歪に口元をゆがめた。赤い瞳を向けられれば、菊の薄い肩が跳ねる。その瞳には全てを見抜かれてしまいそうで、自然と菊の顔も俯く。



「まあ、良い。だが、俺の花御寮となったからには、嫌でも慣れてもらうしかないぞ。当然、子は成さねばならないのだからな」



カッと顔に熱が集中する。

この状況にばかり気を取られ、花御寮の本来の役割のことまで気が回っていなかった。ましてや、自分の身を欲しがる者などいないと、そのような話にも一切興味がなかっのだから。

恥ずかしさに菊は目を潤ませ、一段と顔を俯かせた。



「村に帰してやることはできんが、不自由はさせないつもりだ」



下げた頭の向こうで、再び床板の軋む音がした。一緒に烏王の声も遠ざかる。



「ではな、



烏王は部屋を去って行った。菊の名ではない名を呼びながら。

菊は、烏王には『レイカ』と呼ばれていた。

烏王だけではない。屋敷にいる侍女や下男、果ては烏の郷にいる全ての者達に、菊は『古柴レイカ』だと思われていた。



「……っ何で、こんなことに……」



不意に瞼の裏に蘇る、烏王の真っ赤な瞳。

全てを見透かされてしまいそうな、一点の曇りもない真っ直ぐな瞳。

菊は背中を走る悪寒に耐えるように、自らの身体をきつく抱きしめた。自分の体温では、自らを温める事などできないと知りながらも、不安を癒やすためには、そうせずにいられなかった。




        ◆




『あ、そうだ』と薄ら笑いと共にレイカが言った事。

それは、『菊にレイカのふりをさせ、花御寮に仕立てる』というものだった。


年は一つしか離れておらず、従姉妹という事もあり背格好も似ていたレイカと菊。婚儀は、花嫁衣装のおかげで花御寮の顔は見えない。日頃より菊の姿を見ていない村人達なら、だまし通せるだろう。使用人もその日は家に帰らせれば良い。

ましてや烏王側は、誰が選ばれたのか知りもしないのだから。別人に花嫁衣装を着せ差し出しても、疑うことはないだろう。



『ね、良い考えでしょ! あたしは菊のふりして、地下で身を隠していれば良いんだし』



『不本意だけど』と、レイカは床で気を失ってしまった菊を、忌々しそうに一瞥した。

途端にレイカの母親の顔が輝く。『名案だわ!』とレイカを抱きしめる。

しかし、それにレイカの父親が待ったをかけた。



『ならん! そんな事をしてバレれば、今度はこの古柴家も終わるぞ!』

『どうしてよ! そんなに娘を、化け物の生け贄にしたいわけ!?』

『そんなことは……っ、俺だってできるものなら…………いやしかし、やはり……』



村を欺くだけではない。強大な力を持った烏王という相手まで欺く事になるのだ。父親が二の足を踏んでしまうのも当然だろう。身代わりも、菊は村の血が半分しか入っていない忌み子であり、他の村娘の方がまだ問題は少ない。しかし、誰だとて自分の娘を、好んで得体の知れない相手に差し出すことはしたくないだろう。



『お父さん、何を迷う必要があるの。あたしが花御寮で差し出されたら、この古柴家の跡継ぎはいなくなるのよ。それか、この女を養子にするかだけど……』



レイカの足袋に包まれた真っ白な足先が、菊の背中をトンと蹴った。『ぅうっ』とくぐもった声が響く。



『大丈夫よ、お父さん。しばらく菊のふりしたら村の外に出ていくから。菊がいなくても誰も気にしないし。それでほとぼりが冷めた頃に、菊のふりして戻ってくれば誰もあたしって思わないし、古柴家も守れるでしょ』



確かにそれならば村人も欺けるかもしれないが、それでもやはり綱渡りだった。



『っていうか、あたしは元から花御寮なんてなれないんだから。だって、あたし――』



その言葉を聞いた瞬間、父親の顔から血の気が引いた。死人ではなのかと思う程に青白い。父親だけでなく母親までも瞠目して青くなった唇を震わせていた。

両親の反応を差し置いて、『じゃあ決まりね』と嬉しそうに笑うレイカに、二人は頷くしかなかった。



 

        ◆



 

『花御寮にはお前がなってもらう』と、菊は目覚めた座敷牢の中で聞かされた。拒む時間さえ与えて貰えなかった。その日から、地下の座敷牢は本来の役目通りの使われ方をすることとなった。しっかりと牢には鍵が掛けられ、一切の外出を禁じられた。


そうして、絶対に着ることはないだろうと思っていた花嫁衣装に身を包み、初めて伯母と伯父に手をひかれ、菊は烏王の花御寮として輿入れした。

菊が座敷牢から出て行くとき、入れ替わるようにして残ったレイカに、「感謝しなさい、相手は烏王だけど」と言われた。「そんな綺麗な衣装に身を包めて、嫁げることを感謝しろ」ということらしい。

自分は、その嫁ぎ先を『おぞましい化け物』と罵っていたというのに。


しかし、たとえ村に残ったとしても地獄の日々が続いただけだろう。同じ地獄なら、別の地獄に行くのも変わらない。もしかすると、別の地獄には蜘蛛の糸が垂らされているかもしれないのだから。


そうして、菊は烏王の屋敷へと連れて来られたのだが。

そこからは、驚きと、戸惑いと、後ろめたさの連続だった。



「花御寮様、お食事はお口に合いますでしょうか」

「花御寮様、本日は少々暑いので、こちらの紗の羽織でよろしいですか」

「花御寮様、水菓子などいかがでしょうか」



誰しもが、菊を下に置かぬ殊更に丁寧な扱いをした。しかも世話をしてくれる侍女というのも皆、人の姿をしており、菊は自分が烏王に嫁いだという事を忘れそうだった。



 ――ここは、天国でしょうか。



もしかしたら、輿入れと同時に自分は食べられて、既にあの世に来てしまったのではないか、と菊は本気で思った。天国とは自分でも図々しいとは思うが、何しろ天国としか思えないような日々だった。


『人を食べたいがために、花御寮を欲しがっているに違いない』――とは、誰の言葉だっただろうか。


食べられるどころか、菊に出される食事は古柴家の伯父母が食すものより、はるかに豪華なものばかりだった。丸々と太った鮎の塩焼き、蕗の煮付け、豆腐の山椒和え、冬瓜の煮物、蕪の味噌焼き、山盛りの木苺、そして目にも眩しい炊きたての白い米。古柴家でも祝い事の時くらいしか白米は使わない。


菊は初め、出された食事が自分用のものだとは思わず、手も付けず眺めているだけだった。誰かの配膳を手伝えということなのだろうかと。

菊が「どちらへ運べば」と、膳を持って立ち上がろうとしたところで、侍女達に慌てて「花御寮様のです」と止められた。そこで菊はその豪華な膳が自分の為に用意されたものだと知った。

驚きすぎて、初日の料理の味は覚えていない。口に入れたもの全てが驚きだった。この世にこれほど美味しいものがあるのかと。


屋敷もいくつものむねが渡殿で繋がっており、迂闊に歩けば迷子になってしまいそうなほど広かった。

そのうちの一棟が、菊に与えられている。

広々とした板張りの広間に、美しい織り模様の几帳があちらこちらに立ててある。風が吹き込めば、目もあやな薄絹が視界を占めた。棟の中にもいくつもの部屋が連なっており、各部屋に置いてある調度品はどれも白木の木目が美しく、香りも爽やかで良いものばかり。

まさに、神代の空間に紛れ込んだのかと思ってしまうほど。


そして何よりも驚いたのが、『烏王』だった。

おぞましい化け物とはとんでもない。

烏王の屋敷に連れて来られ、初めてその姿を見た時、菊は腰を抜かしそうになった。

花嫁衣装の綿帽子を烏王の手で脱がされた時の、その触れ方の穏やかさにも驚いたが、露わになった視界に入った彼自身に何より驚愕したものだ。


菊の真っ白な花嫁衣装とは正反対の、漆黒の羽織袴姿のうら若き青年。

菊より頭二つ分は背の高い烏王。菊は目を瞬かせ、彼をゆっくりと見上げた。

烏の羽のように艶のある黒髪は後ろで束ねられ、まるで瑞鳥の尾のように風に靡く。差し出された手は、傷一つないきめ細かな陶器肌。見つめられる瞳は、熟れたアカモモのように赤かった。


今まで見てきたどのような人間の男よりも、菊は彼こそが一番美しい人間だと思った。

冷酷な台詞が似合いそうな薄い唇がおもむろに開けば、しかし、その口から発せられた言葉は、とても温もりのある言葉だった。



『ようこそ、我が花御寮殿』



その時の、烏王のはにかんだような笑み顔を思い出せば、菊の頬は自ずと熱くなった。誰かに笑みを向けられたのは、いつぶりだろうか。もしかすると、生まれて初めてかもしれない。



「――っどうしたのでしょうか、私は」



熱を冷ますように、菊は両手でパタパタと顔を扇ぐ。

しかし、次に思い出した烏王の言葉によって、その熱はいともあっさりと消える。



『これからよろしく、レイカ』



 ――そうです、私は本来ここにいるべき人間じゃないのです。


あの穏やかに差し出された手も、優しい声音も、面映ゆそうな笑みも、全ては『花御寮に選ばれたレイカ』に向けられたものである。まがい物、しかも花御寮になり得る資格さえ持たない自分には、本来向けられるはずのないものだった。

勘違いしてしまわないよう、その優しさに喜んでしまわないよう、ズキリと痛む胸を強く押さえ、菊は自分に言い聞かせた。この痛みもまがい物だと。




烏王は、日が高くなると菊の部屋を訪ねてくる。



 ――何を話して良いか分かりません……。



朝日が春の陽気を帯びだした頃に烏王はやってきて、今も、菊の隣に腰を下ろしている。

会話らしい会話はない。好きなものや、彼がいない時どのようにして過ごしているのか、など烏王が尋ね、それに菊が一問一答のようにしてこたえるのみ。とても夫婦の会話とは言い難い。

二人の間には、いつまで経ってもよそよそしい空気があった。



 ――それも仕方ないですよね。本当の夫婦ではありませんし。



菊は烏王とまだ初夜を迎えていなかった。烏王は別の棟で生活し、今はこのように通い婚のような状況にある。



 ――もし本当に……そういう事をする時になったら……。



色々とバレてしまうだろう。その時、果たして彼は、今と同じ目を自分に向けてくれるだろうか。

村人達の冷めた目や、古柴家の者達が向ける憎悪の対象を見るような目を思い出し、菊は全身を粟立てた。震えそうになる身体を抱きしめ、懸命に平然を装う。

絶対にバレるわけにはいかなかった。

すると、突然身体を小さくして押し黙ってしまった菊を見て、烏王は首を傾げる。



「どうした、寒いのか」



寒い。身が、心が、凍てつきそうなほど寒かった。


しかし、菊はへらりと力の抜けたような笑みで「大丈夫です」と言った。不信感をもたれるわけにはいかなかった。

烏王は「ふむ」と形の良い顎を撫で一考すると、突然、菊の手を取り立ち上がった。



「えっ!? ああぁあの、烏王様!?」



戸惑いの声を上げる菊。しかし烏王は菊の手をひいてズンズンと扉へ向かう。



「部屋に籠もってばかりいるから、身体も冷たくなるのだ。侍女達から聞いているぞ。ずっと、そうして縁側から外を眺めているばかりだと」

「そ、それは……」



それは、あまり出歩くものではないと思っていたから。勝手に出歩けば痛い目を見るというのが、菊の身体には染みついていた。



「大丈夫だ」



肩越しに振り向いた烏王と目が合った。


「大丈夫、誰もお前を襲わない。襲わせない。烏が怖いのも分かるが、お前は大切な存在なのだから。だから……そう、我らを怖がってくれるな」



「俺を含めて」と、最後にポツリと添えられた言葉は、一際声が小さかった。

烏王は、菊が烏を怖がり、烏王に嫁いだ事を後悔して、その抵抗として部屋に籠もっていると思ったようだ。そのような事はないというのに。



 ――彼らよりずっと……。



人間の方が怖い。


既に烏王は前を向いてしまっており、背後で泣きそうな顔で首を横に振る菊には、気付かなかった。

菊は、自分の手を包むように握る烏王の手を見つめた。

婚儀の日、初めて伯父と伯母に手を引かれた。だがその手は冷たく、握るというより、ぎりぎり触れている程度だった。

しかし、今自分の手を握る手はとても優しく――



「…………温かいです」



烏王は「春だからな」と言った。



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