第二章 私の命の速さ#1

私は母が大好きだ。

暗い部屋の中でも目に優しく輝く金茶色の髪の色。 母の姿をいっぱいに映すことのできる大きな瞳。母が抱きしめやすいようにつくられた華奢な骨格。

どれひとつとして私の中に父の姿はいない。

世の中は屑ばっかりだったけれど母さえいればそんなことはどうでもよかった。

母は私にとって全ての愛だった。母がいることが私のすべてだった。


母と父はあまり豊かでない村で家庭を築いた。

病弱だけど美しい母に父は一目惚れし結婚を申し込んだそうだ。

ほどなくして私が生まれ引き換えに母はますます病弱になっていった。私のわずかな力では母の病気を治す事は出来なかった。

父は自分が仕事から帰ってもベッドに臥せがちな母に嫌気が差して村の外に女をつくった。

もう子どもの産めない母は欲しがっていた女の子の代わりとして私を育て私はますます誰がみても女の子にしかみえない容姿になっていった。

元から私を嫌っていた父はそんな私を見てますます気味悪がり時々は金だけ置きに帰っていたのがぱったりと止んだ。

女に子どもが出来たらしいとどこかで耳にした。

村からも孤立していた私達に助けの手などあるはずもなく私と母は自分達だけで生きていかなければならなくなった。

畑仕事をしても元々土壌の悪い土地のうえ、まだ子どもだった私だけでは食べることのできる野菜など作れるはずもない。

母はベッドに臥せることが増えていった。

私はせめて母には笑顔を忘れて欲しくないと思い、母が元気な頃に行ったことのある村から少し離れた場所にある花畑へ出掛けた。

とても美しい花々が咲き乱れるなか夢中でかごへ花を詰めていると後ろから『お嬢さん、花を売って下さい』と声を掛けられた。

汚い恰好かっこうをした花の匂いでも消しきれない悪臭が漂ってきそうな旅人が花を踏み散らしてやってきた。

妙に思いながら『花なら買わなくてもここにいくらでもありますよ』と答えると旅人は、へはっ、と変な笑い方をしてから『私が欲しいのはあなたの持っている花だよ』と言って押し倒してきた。

私が抵抗しても大の男の力に敵うはずもなくあっという間に服を乱された。

旅人は私が男であることに気付くと逆上してあちこち殴りつけてきた。

私が意識が朦朧としながらも渾身の力で相手の胸を殴り返すと襤褸ぼろのコートの胸元から金貨が何枚か滑り落ちた。

銅貨ばかりしかみたことのない私は初めてみるその輝きに目が釘付けになった。

この屑ばかりしかいない世界にもこんな美しいものが存在していることに衝撃を受けた。

暴れるのを止めて金貨を見つめ続ける私に気付いて旅人も殴るのを止める。

『欲しいのか?これ』

明らかに馬鹿にした口調で金貨をつまみ上げて自分の舌へ乗せる。

『お前が女だったらこれをやってもよかったんだけどなぁ』

女だったら?私と…女の違いって何だ?

 私がもし女だったらと何度も思った事がある。

私が女でさえあったなら母を救えたかもしれない。 何から?

例えば…私が女でさえあったら、母が私を″女″にしようと女装させることもなかった。

女の恰好をしなければ父も私を嫌って家から離れることもなかった。

村のやつらが私達を阻害することもなかった。

女に…生まれなかったから。

『私は、女だよ』

私は女だ。

『は?』

私のどこが女じゃないというんだ。

『私は、女なの』

私は男の舌に金貨ごと噛み付いた。そのままゆっくり吸い付いていく。

最初は何が起きたのか理解出来なかったらしい旅人は何度かまばたきしてまたあの変な笑いをして同じ様に返してきた。

そのまま男と″女″は二人分の体重で花達を激しくすり潰していった。


『お前…本当に女だったら良かったのにな。』

旅人の言葉が再び後ろで聞こえる花畑を出て、唾液で濡れきった金貨を服で拭きながら私は家への帰り道を急いだ。

『お母さん、ただいま!』

『リルティーヌ…おかえり』

『今日っ、あの花畑へ行ったんだけど、そこで金貨を拾って‥』

母の目がすっと細められていく。

私はそこでようやく自分の今の姿に気付いた。

花の汁で汚れきった服。殴られて熱を持ちひりつく顔。行く時に持ち出した花のあまり入っていない籠。

母はゆっくり視線をベッドのシーツへ下げるとそのまま顔を押し当てて声を殺して泣き続けた。

かねはそれそのものが美しくても人の手に渡った途端、一瞬で汚れる。

私は女にはなれても大人にはなれなかった。


 花売りのふりをして旅人が通りそうな道を何度もかよった。

最初の時みたいに男だと分かると怒りだす奴もいたけれど色々覚えた手管を使うと大抵はいけた。逆にその恰好が良いと褒めてお金をはずんでくれる時もあった。

旅人が少なくなる冬の季節になると少し遠くの村へ行って親に捨てられた孤児のふりをして男女問わず同情を向けてくる者の家へ上がり込んだ。

出来そうならそこで体を使って相手を支配して金を巻き上げて逃げた。

無理そうならあまり高過ぎず片手で持ち運べそうなものを盗って闇市で売って足しにした。

ずっと母を医者にみせたいと思っていたから、貯めたお金でそこそこ良いという医者を呼んだ。

私が言われた金額をつけもなしに一度で払い終えると不審な目を向けてきたけど結局は何も言わなかった。帰り際にコートのポケットに金貨を一枚だけ入れてやった。

それから時々暇つぶしに来るように母の診察にやって来て少しはましになるという薬を置いていく。所詮医者も人間汚い生き物だ。

それらが私の日常に馴染んで来るのとは反対に母はゆっくり弱っていった。

時々私の目をじっとみてただ薄く笑う。私がどうしたのと訊いても何も答えない。

母が亡くなった日の朝もそうだった。

いつもの仕事を済ませて、最初の記憶に残る辺りの花の群は避けて母の好きな花ばかりを摘んで籠に入れる。

心に余裕ができるようになってからの帰り道にみつけた香りの良い草も傷めないようにゆっくりむしってゆく。

『あんたか?噂の可愛い男のむすめってのは?』

先の道からしていた足音をやり過ごすつもりで道の外れの岩に隠れて手に残った草の香りを楽しんでいた私をあっさりみつけて、旅人らしき男が声を掛けてきた。

『やっぱりそうか。いや、二日前に会った旅人仲間にあんたのことをきいてな。…いや、可愛いな、本当に男か?…違うなら』

『溜まってるの?』

私は自分の仕事に自信を持っていた。男も女も酔わせ、時を金に換えることが出来る。私は母と生きていく事が出来る。

『はやく終わらせましょう。花がしおれちゃうから‥』


 予定より食った時間と花の活きを取り戻すつもりで走り続け、玄関の前で一度止まっていつもの習慣で自分の姿を確かめる。母を驚かせないように同じく練習した音のしないぐらいの強さのドアの開け方で中に入る。

『ただいま、お母さん』

母は最近私からの呼びかけにあまり応じてくれない。

どこか…上の空というか、段々と芋虫がさなぎになり最後は蝶を目指している過程をみているようだ、と馬鹿な事を思ってしまう。今もお気に入りのロッキングチェアに全身を預け暮れて傾いた陽を浴びて目を瞑っている横顔は特に。

私は母が起きているのか確かめようと肩に手を掛ける近付いた。

ふわ、と靴先に白い羽が触れる。羽?

羽の出どころを反射的に視線で探す。

母の足元に水溜まりのように集まる羽の中に浮かぶ見覚えのある数個の黒い粒の薬。そのすぐ側には中身がなくなりただの布になった枕。

テーブルの上には少ししか入っていない水のグラス。

それらが導く恐ろしい仮説が私の呼吸を訳の分からない状態にしていく。

 そんなはずはない。でも確かめなくてはいけない。そうだ、ただ母のぬくもりを感じればいい。こんなに綺麗な母が…

今もこんなに美しく輝いている母が……

肌の白さが夕暮れのあかを映えさせるせいで本当の色が知れない母の首。

首は私の知っている温度で暖かかった。でも脈は無かった。

『あああああああ!!!』

『どうしました!?』

あの医者の声がきこえる。ドタドタと入って来て肩を掴まれるのを夢中で突き飛ばして外へ走り出す。

その後は記憶が曖昧だ。

頭をめぐっていたのは、この薬は一度にたくさん飲むと毒になるから飲み過ぎないよう気をつけなさいと言った医者の言葉。

すぐに母が粉薬は飲みづらいから錠剤にして欲しいと言ったこと。

私を苦しめた母の曖昧な微笑み。

ずっと前から?ずっと前から…死のうと考えていたの?

母が自ら私の元を去ろうとするなんて、そんな事、認めない。



母との思い出すら踏み躙る花畑の真ん中を通ってその先へ行く。

村の奴らの下らない噂では霧の壁の向こうには魔女がいるとか妖精がいないとかで子どもをさらって食べていると聞いたことがある。

噂はどうだっていい。母のところへ行けるなら狼でもいい。

私はひたすら歩いた。右も左も森の暗さで足元がよくわからなくなっても。

 霧で出来た謎の威圧感がある煌めく壁。

夜のとばりさえ吸い込んで自分の美しさにするその姿をみたら普通の人間なら心を動かされるんだろう。

でも私は違う。 ずっと前にそんな心は死んだ。 母の心が死んだ時、私の心も死んだんだ。

 霧に反射してわずかに映る私の中の母の姿に逢いにいく。 今いくからね、お母さん。

 何度も何度も母の姿を追いかけた。 母はどこにでもいて、どこにもいない。

やがて母の残像は消えて霧の外で元の所へ戻る。

これが霧なのに壁と例えられる侵入者を拒む魔女の仲間。霧のはずなのに何よりも強い意志を感じた。

 …私も意志に関してなら絶対負けたことは無い。

金がなくても望んだ愛がなくてもそれだけを武器に生きて来たのだから。

「諦めるわけないわよ」

霧の向こうへを連れていくまでは。



  霧の水滴まみれになった私はついに膝が折れて何度も来たその場に転がるように倒れた。

服が吸った霧と汗の混じった水分が、深くなる夜更けの空気で冷やされてどんどん体温が下がっていく。

ゆっくり体の感覚が無くなっていくのにともなって心も何も感じなくなるのが分かる。 本当はとてもおそろしいことなのだ

ろうけど私にはそれが新鮮で仕方なかった。

初めて母のことがどうでもよくなった。 同時におかしさが込みあげてくる。

「あははははは…あは、はははははは!!はは‥」

涙も体を包む水分に加わって口に混じった泥さえあたたかいと錯覚する。

  「――♪―♬―♪.」

ビスケットの甘さを思い出すような懐かしい旋律。でも少し音程がおかしい。

死にかけていた体がはっきりと目覚め、頭を上げて霧の壁を見つめる。

霧の粒が今までにない動きで細かく震えていた。

呼ばれている、と思った。 立ち上がろうとして何度も足をすべらすのは妖精に体を引かれているせいかもしれない。

再び霧の壁を見透かすために目の前に立つけれど、霧全体が音を生み出しているように聞こえて正体が分からない。

震える手を延ばして霧に触れる。

この震えが消えないうちに行かなければ二度と母には逢えない気がした。

自ら身体を差し出して霧の魔女に取り込まれていく。

 私が何度も目の前に現れては崩れて消えその繰り返し。

さっきと違うのは、聴こえてくる歌がはっきり耳に届くことだ。

その歌声に囲まれていると目が効かなくてもどこへとどりつけばいいのか分かる。

ふいに霧の闇の中に永く人の形が留まる。 私のようにも見えて母にも見えるけど違う。これは……

みたことがないような輝きに彩られた木々。

霧の壁を抜けた先のその森の様子は美しさよりも言葉に出来ない不安を私に与える。

生き物の気配を感じられない世界で、目線の少し先に命があるものをみつけた。

波打つ金髪。淡く染められた蒼の服の袖からは女にしても細い腕がぶら下がっている。

後ろを向いているせいで顔は分からない。

「‥あなたがこの森の魔女?」

私のゆっくりした口調に合わせて女は振り返る。

完全に服が負けているとしか思えない濃く迫力を秘めた蒼い

「こんにちは。ようこそ。ここへ迷い込んだのかしら?」

「先に私の質問に答えてないわ。あなたは魔女なの?」

私は女から出る森と同じ得体の知れないの力に負けるまいと精一杯睨みつけた。

女は逸らすことなくもじっと見つめ返すと、ふっ、と息だけで笑って

「そういうことを訊くってことは、やっぱり私に用があって来たのね。」

睨んでいるのか馬鹿にしているのか曖昧に眼を細めた。

 「私を食べてもいいわ」

「え?」

「魔女は子どもの肉が好きなんでしょう?望みどおり食べさせてあげるわ」

お母さん。愛してる。私はここにいるから。

「「………」」

魔女は一瞬だけ目を逸らしたけど

「そうね。あなたは若くて食べ頃そうだけれど、まだまだ痩せていて歯ごたえは悪そうね。あと汚れていてまるで濡れネズミみたいだわ。」

金色の毛先をさぞ自慢げにはらいながら、癇に障る事を言った。

いつもの自分なら言い返すはずだけれどそそがれたことのない視線を向けられて口が動かなくなる。

「まずは体をきれいにして、それから肥えてもらわないと。そうだわー下働きもさせましょう。適度な労働は質の良いお肉をつくるの。」

口がきけなくなる魔法がとけて私はやっと口にする。

「好き放題言わないで。 私は―」

「この森に迷い込んだ時からあなたは魔女のものよ。生かすも、殺すも私が決める」

また私と魔女の間に無言が落ちる。でも目をそらすつもりはない。

「ようこそ」

魔女はさっきまでの気迫を消して微笑んで手を差し出した。

「―!」

無視しようと決め目線を外した私の手が強引に引っ張られて慌てて魔女の顔を睨む。左の手が魔女の唇に寄せられたけれ

ど触れたのはまつ毛の影だけだった。

魔女が顔を上げて小馬鹿にしたようなが見えると私も馬鹿らしくなってきて手を払いのける。

「――♪―♬ ~♪.」

霧の向こうで聞こえた旋律が魔女の口のすき間からもれてくる。

それは″銀の妖精の花″―私の村に伝わる昔話を分かりやすくにした誰もが知る唄だった。でもやっぱり音程がおかしい。

「魔女はそうやって子どもを呼び寄せるのね。」

軽蔑を込めた私の物言いにも反応する事なく魔女は腕を広げて宙を見ながら

「そうよ。魔女の美しい歌声に引き寄せられて子ども達は集まるの。」

「いや、あなたおそらく音痴よ」

調子に乗った魔女が癪に障るので鼻をへし折ってやる。

「え!」

その時の顔を見て自覚が無かったことを確信する。

「そ、そんなことないわ!今日は少しのどの調子が悪いだけで」

「それ、前の子にも言ってないかしら?」

何度目かも覚えていない沈黙が訪れる。

「あなたも一緒に歌う?」

「知っている歌だから遠慮するわ」

短くきいてきた魔女に短く私は返す。

また続くと思った話さない間は来ず魔女は普通の口調で言う。

「もう夜も深くなってきたしこのままいたら風邪をひきそうだわ。早く行きましょう。」

最初から何かがおかしい。これじゃまるで――頭で考えをまとめる前に言葉が口を出る。

「あなたは私が望んだ魔女じゃない。」

魔女の歩みがぴたりと止まる。振り返った目の印象は湖から小川に変わった。

「あなたは、魔女と妖精どっちに攫われたい?」

魔女の意味の分からない突然の質問に答える気はわかなかったけれど、何を考えているのか気になる欲には勝てなかった。

「妖精は魔女の手下なんじゃないの?…それともあなたが妖精手下なの?」

私の挑発する言葉セリフに魔女はあざける視線をどこかへやる。

「いえ…そうとも言えないかもしれないわ。」

こたえる気の無い答え。

鳥の影が目の前の地面を縦に通り過ぎたので見上げると、カラスが二羽、鳴き声も無く木々の上を飛び回っていた。

私はこの時思った。

この女は本当に魔女なのか? 魔女と呼ぶには何かが違うと心の声が囁く。

「まぁ‥どちらに攫われても悲惨なのは同じだけど」

魔女の言葉の余韻が消えるか消えないかのうちに、

「ウィ、リアン様…!」

子どもの震える小声が聞こえてきて、泥の上を走る足音のすぐ後から声のとおりの少女が木と薄暗い影の狭間から姿をみせた。

あわてて魔女を見ようとして間違って私と目が合った少女はぶるぶる震えて近くの木の背中に隠れる。

「クロデア、何かあったの?」

「……ウィリア、ン様はすぐ、戻ってくるってっ、たのに。」

「だからって一人で探しに来たの?怖い大人に出くわしたら命はないかもしれないのよ?」

「でも、ウィリアン様、も恐い大人に襲われ、るかも、しれないし…」

何だろう、この吐き気のするやり取りは。あと、ウィリアン?

「その、人、新しい人…?」

木の影の幅が揺らりと広がって私に質問を投げ掛けてきた。

「……人にものをたずねる時は姿をみせたら?」

影の中から怯えるような息づかいが返って来る。

「……ウィ、リアン様…」

「『友達づくりには″あいさつ″が大切』」

ウィリアンという名前らしいこの魔女は少女クロデアに鳥肌の立つ響きの呪文を唱えたようだ。

堂々という風に出てきた魔女の奴隷少女の姿は羽織った黒いマントのせいで、輪郭が背後の木々が作った闇に混ざって分からない。

けれど闇から離れようとしない影が震えているので虚勢を張っているのが分かる。

「…こん、にち、わ」

「こん、にち、は」

…‥何か言えよ?

口には出さずに腰を屈めて相手と同じ位置で目を覗こうとしただけなのに、目を合わせた時にはすでに葉に溜めた霧の露が落ちたと間違えそうになる大粒の涙がこぼれていた。

深く何かを思うより素早い影が横から歩いてきて、魔女が自分の奴隷の涙を手ではらうと胸に頭を引き寄せてそのままかかえた。

忘れていた体の寒さが戻ってくる。特に背中がひどい。 この寒さから遠のきたくて足が勝手に後ろへ動く。

魔女の力は強いようで苦しんで首を振った少女の頭から黒いフードがすべり落ちると濃い茶色の髪が晒される。その髪もあっけなく動いて現れた眼が目の前の眼と合う。

流れて目に刺さる長めの前髪のせいでけいれんするまぶたに魔女はキスをした。

どちらといわず、目を細めて相づちを交わしながら喋ってはいる様だけれどこの距離だと話が聞こえない。

そうこうしているうちに奴隷が魔女の背中に回りこんで飛びつき、魔女は背すじをまるめて奴隷を乗せる。

細めている視界の中で少女をおぶったウィリアンが私に顔を向けて、一瞬だけ目の中の光を暗くさせた。よく村の人間に向けられていた仕草だ。

「クロデアも頑張って疲れたみたいだから、はやく帰りましょう。」

帰る? かえってもいいの? 何処へ?

場所は分からなくてもそうながくはないんだ―そんな予感がかすった。

二人に続こうと歩き出す。足が…

「ひあ?!」

靴底が泥を踏みそこねて胸から地面に着く。たしかクロデアが悲鳴を上げた。

起き上がろうと腕に力を入れてみてもおもうように動かない。体力が限界だった。

魔女達すべての気配が遠ざかっていく。ここの土は村よりも懐かしい味がする気がしていた。

  手に何か感触があってゆるく手を引っ張られる。

正体何かを眼に捉えるため、ぐらつく首に力を入れて精一杯顔を上げた。

クロデアが私の片手を持ち上げていた。その傍らに魔女も佇んでいる。

「お、姉ちゃん、‥わた、しのかわりに乗ってい、いよ…」

は?と口に出す気力さえない私の前で魔女が背を向けて屈む。

急かしているつもりなのかクロデアがもう片方の手も触る気配がして、条件反射で手をはじいたら眉を下げて言葉をださず私を見てくる。

本当は人間魔女になんか頼りたくない。けどここで拒否すると私はやがて死ぬ。

「…おもっ」

差し出された背中に体をゆっくり乗せる。

おんぶをしてもらったことは無くていつも抱っこばかりだったのを思い出した。

歩いている毎に生まれる揺れが段々意識を夢の中へ誘ってくる。

「その掴まり方だと落ちそうだから、もっと肩に腕をまわして」

言われた通りにした後、魔女が一瞬私を振り返る。

「…何」

「……え、え、…と別に何もないわ…」

夢か現かと思うような声で応えたら後は背中を通して一定の温度と身体の音を感じさせていた。

「クロデアもお姉さんぽくなったわね」

「えっ‥この人‥のほう、がお姉ちゃん、だよ?」

「そういうことじゃなくて、心がね」

ココロ、がお姉ちゃん?」

「そう、心を成長させることが魔女にとって大切なの。人間は、体の成長ばかりで心を省みないから非情なのよ。」

「かえ…、わた、し魔女、にうまれ‥変われて、良かったな!」

「…‥魔女も油断してると人間に戻ってしまうとしたらどうするの?」

「 !?そんなの、嫌!」

「冗談よ‥」

肩の骨がかすかに揺れて笑っているのが分かる。生暖かい水滴が自分と目の前の髪に降り注いでいる。

「霧が雨に変わっているわ」

「大、変!走ろ、うウィリアン様!」

「いいえ。きっと着くまでに止んでいるわ」

そうなんだ。じゃあなんで急がないんだ?

分かるわけないか、魔女の事なんて。他人の事すら分からなかったのに。

人間はこれからどんな風に殺されるんだろう。

豚のように飼われて最後はソースをかけて食べられるんだろうか?

下から振り返る視線を感じたけれど想像すると笑いが止まらなかった。

きっと人として生きようとすると私は頭がおかしくなるのかも知れない。―ヒト以下になれたら。 普段祈りもしない精霊を頼って目を閉じた。

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