第一章 ミレと妖精の使い #6





闇の中にいると    とても落ち着く

闇はすべてを平等にしてくれるから

苦しみも  哀しみも  喜びも


自分の存在すらも   無に還してくれる

闇の中は  何かが潜んでいそうでこわいと

誰かが いったけど

本当は何もない

あるのは  すべてをおそれる

自分の弱い影だけ









まだ幼さが残る容姿の二人の前に、空まで届かんばかりの濃い霧の壁が現れました。

その霧の中に、小さな粒子のような光が、時々ふわりと主張しています。

「おーっ!この先!私行ったことなかったんだよねー♪すごい!」

隣の表情を盗み見る視線には気付かず、少女は霧の粒をつかもうと手のひらを振り回します。

「この向こうの住人じゃない者が一人で霧の先へ行こうとしてもたどり着くのは難しいよ。」

半ばあきれ顔で相手の自由さに合わせるように少年は呟きます。

「なぜ!?私行っちゃダメなの!?」

「外の人間が入っても、霧の中で迷って結局最初のところへ戻ってしまう。中の人間なら本能、…というか感でたどり着ける。と、離したらダメだよ」

少年は二つの質問を上手く合わせて返します。

「おーっ!?魔女の国楽しみー!ねーねー、そこって何か美味しいものある!?」

「痛い、振り回さないで…ブルーベリーケーキぐらいなら出るけど…」

二つの残像は、互いに引っ張り合いながら、霧の中に溶けて消えていきました。



この地域のこの季節の天気は、不安定だ。

晴れの日は油断するとすぐ喉が水気を失って、悲鳴をあげるほど乾燥しているのに雨の日は重く湿気が舞い降りて、村を

覆う木々の姿を奥へと隠してしまう。

一年が始まって二回目の今日のお茶会は、とてもいい晴れの日にあたり、そこに集まる村の住人達のお茶の入れ替わる速

度が増していく。

そのお茶のカップの畑の中を早足で抜ける四つの影は地面から浮遊しているようだった。

一人は時々声を掛けられるたび、″またあとで″と愛想よく会釈したり、

一人は時々自分とかつて森へ行ったことのある女性からせつない眼差しを送られたり、

一人は時々″結婚するの?″と問われて相手に嬉しそうな顔を向けたり、

一人は時々他の三人が誰かと話したりするたび落ち着かなくなって視線を迷子にさせたり。

「アリシスおばさん、どこへ行ったのよ?」

薄く流れる汗をハンカチで、しかし雑にぬぐいながらオルガスタがとうとうぼやき始めていた。

「分かんない‥てっきり新作のケーキでもお披露目するのに、どこかのテーブルに陣取ってると思ったんだけどな…」

そんな女二人の会話を男二人が今までの騒ぎの疲れを噛み締めながら聞いていた時、すぐ横にある、村の集会所の開け放たれた扉から大きな何かが飛び出してきた。

「わっ!!?」「ぶわっ!?」

驚いたティズが横へ飛び退って、その肘が隣のワイグの顔へもろに当たって反射的に腕を掴まれたナキィルはワイグと共に地面へ砂ぼこりを立てて転がり落ちた。

その一通りの音に驚いて振り返ったウィリアンとオルガスタの前には―

雨を吸い込んだ瑞々しさを忘れない土の色を馳せる髪とそれと同じ印象の瞳を包む穏やかなしわ。低めのほっそりした体。

「アリシスおばさん!」

ウィリアンは子どもの様に瞳をいっぱいに輝かせて、目の前の女性に向かって両腕を広げて近づいた。

「ごめんなさい、今手が離せなくて。そちらのお坊ちゃん達も大丈夫?」

アリシスは小柄な体に不釣り合いの、布巾をかぶせた大きな丸いかたまりを抱えて優しく微笑った。

「あ、私それ持ちます!」「お坊ちゃん…」「大丈夫です!」

それぞれのつぶやきを聞くか聞かないかの間にアリシスはゆっくりと話し始める。

「今ね、村長さんと中でお茶してたところなの。いろいろお話できて楽しかったわ。あの秘書の方も、今まであまり話したことなかったけど、意外と面白い方だったわ~貴重な意見が訊けたもの。」

長くなりそうな話の気配を読み取って、アリシスの持つ丸いかたまりが隠された皿の端をつかんだままウィリアンは割り込む。

「アリシスさん、今お暇でしたらお茶しましょう!みんなで五人になるけど‥」

アリシスは五人?とゆっくり首を見回して、ウィリアンの後ろで控えめに佇むオルガスタを見つけると笑顔を浮かべて、皿の上の布巾を取り去ると

「みんな食べざかりだから多めに作って良かったわ。薔薇のジャム、嫌いな人いる?」

丸いガラスケースの中に少し欠けたはくしょくのケーキが輝いていた。


視界に収まりきるか分からない、見る者に少しだけ不安を与える真っ直ぐな青い空。

その不安を優しく覆い隠すように広げられた緑の血管が浮き出る光のカーテン。

軽い食器の重なる鈴に似た音。葉の擦れる音と響音きょうめいする人々の笑い声。

それらのもとに存在する、女王のような静かな風格で場をつくりあげていく、美しく老いた女性。

お茶に招かれることは多くても、用意をすることに慣れていない青年が隙なく動く女性達の前で右往左往していると

「そうぞ、お座りなさい。ウィリアンも、オルガスタもありがとう」

アリシスが目元に薄いしわを浮かべて気遣いの心を見せた。

年長者に従うのが当たり前の風習で育ってきた子ども達は、逆らう意志もなく適当な席へと足を休める。

五人のテーブルは普通の立食形式のテーブルの群れよりも広場の入り口から見て奥の方、気のあった人達同士で座り合い、より親睦と友好を深めるために設けられた一角にあった。

「皆さん、好きなジャムを選んで付けてね。私は薔薇のジャムをオススメするけれど」

真ん中で真夜中の月に似た白さで輝くケーキがあり、その近くに四種類のジャム。

薔薇のジャム、ナッツのペースト、オレンジのジャム、ブルーベリーのジャム。

「ふふっ。アリシスさん、その薔薇のジャムって遠くの村から貰ってきた薔薇の株で作ったのよね。今年は初めてきれいに咲いたって何度も言ってたもの。」

アリシスは年老いても若き頃より色あせない美しさを持つ笑みを浮かべる。

「さすがウィリアン。あなたは良いお嫁さんになれるわ!」

「その言葉も聞き飽きましたよ」

溜め息混じりにつぶやくウィリアンの言葉セリフに、その場の五人が声を上げて笑う。

そしてそれぞれが好きなジャムの瓶を掴む。

ウィリアンは薔薇。ワイグはナッツ。オルガスタはオレンジ。ナキィルはブルーベリー。

始めにアリシスがナキィルやワイグへ脈絡のない質問をして、それからウィリアンの子どもの頃の話をして、

そこからオルガスタの結婚の話へ移り変わる。

アリシスは目の前の、くすんだ色をしたティーカップの口を触れるか触れないかの境目でそっと撫でた。

「私の夫…ロイズがいたらオルガスタにあの人が得意だったペアカップを結婚祝いに渡せたんだけど…、

また私新しいケーキを考えるからそれで良いかしら?」

アリシス達の場所の暖かい空気をざざっと吹いた風が急激に冷やしていく。

風が去ろうとしても、舞ったまま踊り続ける葉をわざと観ている若い三人、それとは別の一人はもう一人のゆれる波に映す月のような瞳を見つめる。

その瞳が相手の深い湖の底のような瞳を見つめ返して微笑んだ。

静かに呼吸をしたウィリアンは自分のエプロンのポケットに手を入れ、包みを開いて代わりに手で包むようにしてテーブルへ置く。

「アリシスさん…ごめんなさい。」

聞いていた風の音とは違う涼しい響きの声に三人が自分の場に意識を戻す。

そこにある状況を素早く読み取ったワイグが、イスをがたつかせて中腰で立ち上がる。

「あ、…アリシスさん!これは!俺が悪いんです!俺がケンカして、落としたから」

「喧嘩の相手は俺です。ウィリアンは関係ないです。俺達が悪いんです。」

ナキィルは座ったまま、冷静に、しかし揺らがない目でつけ加える。

「そうっ!こいつらが悪いんです!でもっ、日頃からこんなバカな奴らをちゃんと注意しなかった私も悪い、というか! …」

オルガスタの言葉に、普段なら言い返すはずのワイグも黙ったままで、調子の狂った子ども達は俯いたまま顔を上げない。

 「みんな…大丈夫よ?」  待っていた反応にその場だけ木陰が震えた気がした。

「ウィリアンも、このカップ、私の夫のだって、覚えててくれたのね?」

「ええ、でも…ロイズさんのこの花の模様見るの、久しぶりで…」

静かなお茶会の人々のざわめきがウィリアンの意識と溶けて分解していく。

「あのね、のろけてもいいかしら?」

え?という心の声を顔に出した四人だったが、精霊祭の主役を務めた乙女だった頃を思わせる、照れながらも誇り高い様子で呟く女性をみて居住まいを正した。


どうして時は戻らないのだろう、 どうして


「これは、私の亡くなった夫が、最初に私のために作ってくれた作品なの。 私達は親のすすめで二回ほど会った後に結婚してね‥正直に言うと、あまり喋らない人だったから何を考えているのか全然分からなくて。」

アリシスは湯気の出ているティーポットの蓋をあけて、中の紅茶の色を確かめるとゆるくまわして斜め左のオルガスタのカップに注ぎ入れた。

「仕事熱心な人なのは知っていたけど…結婚しても仕事場にこもり切りであまり話すこともないまま一週間ほど過ぎてね。それである日、私の畑仕事の休憩中に夫がふわふわした足どりでテーブルへやって来て自分の分と私に紅茶を差し出したの。

何も言わないし、目の下にくまは張ってるしで恐かったんだけど…″ばら、きれいに出来なかった″っていきなり独り言みたいに呟いて、当時は家に薔薇なんてないし何のことか分からなくて、目を合わせてくれない夫は諦めて紅茶のカップを見たら繊細な薔薇の絵が描かれていて…彼は伝統模様を専門にしている人だったからとても驚いたのよ!

そして私のカップにも同じ絵が… それで気付いたの。この人は二回だけ会った私が少しした薔薇を好きな話をちゃんと覚えてるほど私が好きってこと」

ケーキの舌触りのようになめらかに続くのろけ話を堪能して、ウィリアンは微笑み、ナキィルは苦笑いし、オルガスタは首をかしげ、ワイグは感動の涙を浮かべていた。

そんな彼らのカップを、円を描くようにアリシスが紅茶で満たしていく。

「これは、私とロイズの多くの想い出の一つ。…昔は、ロイズが死んだばかりの時は、これを見る度に悲しい気持ちで胸がいっぱいになったけど…私、気付いたの。

私のまわりには、私を支えてくれる人達がいる。私を元気づけようとしてくれる人達がいる。

ロイズが亡くなった事はとても悲しい。だけど…悲しいばかりじゃ前へ進めない。

私の大切な人達のためにも、そして、愛するロイズのためにも…頑張って生きていこうって。

 ロイズだって、泣いてばかりの私なんて好きじゃないわよね。」

ここでアリシスはウィリアンに可愛らしくウインクをして、二人の間は秘密を分け合った友達の様な甘酸っぱい空気で満たされた。

「 だから一人で塞ぎ込むんじゃなくて、私の大切な人達と、夫を知る人達と、ロイズと私の大切な日々を分けあっていけたらいいなと思ったの…

ウィリアン。あなたは私の大切な人よ。だから…どうか遠慮しないで私とロイズのお茶会に、参加してほしいの。」

最後に、年老いた妻は優しく笑って、夫婦の話は終わった。

「‥もちろん。こちらこそお願いします。」

ウィリアンは自分から手を差し出して、相手の手のひらのしわを確かめるように触れる。

「あら、もちろんみんなも参加してね?ケーキはロイズのお手製じゃないけれど」

照れたアリシスなりの気遣いの冗談が振舞われて、

「もう参加してますよ。アリシスさん、ケーキは精霊のお手製ですか」

ナキィルが代表して微笑んで合いの手を添える。

彼の微笑む口元目掛けて反対側ワイグから投げられたクッキーを彼はこぼすことなく食いつきにいったり、それを真似てオルガスタがスプーンですくったジャム付きクッキーを続けと彼に投げようとしたところをあわてた反対側ウィリアンから食いつかれて、にぎやかさが止まらずに続く。

そんな自らが望んで手に入れた平和なお茶会を眺めて、アリシスは薄く微笑み目を細める。

「ロイズ……」

アリシスは真っ直ぐに手を伸ばし、白地に浮かぶ小さな花柄のの中にある亡骸なきがらの様なカップをすくい上げる。

周りが止める間もなくそれを自らの頬に寄せ、冷たいとうきの感触を確かめると、その場所から鮮血が雫を作り首を伝って服の胸元へ消えていく。

雫の軌跡が二、三回生まれた時、

「アリシスさんっ!」

我に返ったウィリアンが叫んでアリシスの腕を掴み、他の三人も慌てて席を立つ。


私は両親の言いつけを破った。それが正しかったのか、今でもよく分からない。


腕を掴まれた反動かアリシスはびくっ、と一度震えると緩やかに手を降ろして頬からカップの破片を離す。血にまみれた想い出のかけらに赤ではない雫が何度か落とされる。

オルガスタが″これで押さえてあげて!″と自分のハンカチをウィリアンに差し出した。

  その声をどこか遠くに聞きながらウィリアンは大きな仕草でハンカチを払いのけた。


圧迫された腕とは違う優しい仕草で私の傷に触れる。

恐れるように上げた視界に映ったのは蒼く澄みきった湖だった。

ぼやけた思考がそれを目の前の人間の瞳の色だと判断出来た時、血が流れる熱さとは違う暖かさが私を襲った。


傷が、何色にも定められない光に覆われていく。

 温かい命がこぼれていく様な切ない光は傷が塞いでいくと空気に舞い、溶けて消えていった。

その場の誰もが、自分の心臓の音さえも訊き逃した。


アリシスの頬からウィリアンの手の感触が離れた。

指のすき間から最後の光の粒が逃げていくと傷のあった場所が現れる。

 そこは裂けた皮膚が塞がり、周りの肌よりも艶やかになって張り付いた血を紅く輝かせた。

ウィリアンとアリシスは目が合って、ウィリアンのは感情の波にさらわれる。

  アリシスを含め固まった空気の中にいる仲間達だったが、ナキィルが久しく思える口を開こうとした時

「魔女だ!!」

木が割れる様な濁声の男の叫びが人々の間に響いた。

「何を言うんだ!」

噛み付くように反射的に叫んだワイグ、

「見たわっ!!私!この子が…変な光を出してっ、アリシスさんの傷を治したの!」

「人間に出来ることじゃないだろ……ついにこの村にも、魔女が…」

その声を遮る連なる叫び。

始まった叫びが叫びを連れてその場で観ていた人間の闇をり起こして行く。

 ナキィルが口を開いた。

「ウィリアン…今のはどういうことなのか、説明して欲しい」

冷静に見える表情だが微かに震える体と目に怯えの色が浮かんでいた。

「―そうだな。わしにも解かるようにはっきりと」

重く、どこか底に冷たい音を持つ年老いた声に皆が振り返った。

「村…長…」

誰かの呟きなど聞くこともなく、しわの中に潜む鋭い金色のがウィリアンを捉える。

「はっきりとは見えなかったが、何か光っていたようだな。そして傷が治ったという声が…本当か?」

「‥‥‥‥」

 多くの眼の中に映されるその少女は息を吸い込もうとして失敗し、そのまま話す術を飲み込んでしまう。

しばらく待っても何の主張もしない人間に

「本当か?ラーザント夫人」

『村長』らしくはないいらついた態度を隠さず、杖で土をぐっ、と抉ってそのを血の跡にまみれたアリシスへ向ける。

アリシスは反射的に頬を指先でさすって

「……はい…」

血の跡を何度も水の流れが辿り、淡く肌に溶けていく。

「…一度この目で見てみたいものだな。」

村長は視線を鋭くして皺と共に伸びた首を素早く半回転させ、近くにいる男にどけとばかりに杖で足元をはらうと、後ろにあったテーブルへ近付く。

似たり寄ったりのテーブルセットの一つ。

少ない紅茶に欠片と粉のクッキー。ケーキがなくなって汚れたお皿。食べかけのお皿と闘う幼い少女。チーズの切れ端が不安定に数個盛られたお皿。

視線は彷徨さまよってチーズを切るための柄の短いナイフに止まる。

それに手を伸ばそうとしたとき、子ども用に作られた足の長い椅子に座った少女が察して、奪うようにナイフを取ると母親の前と同じ笑顔で差し出す。

「あい」

「おぉ、優しいな」

村長は笑顔でナイフを受け取りながら少女の頭を優しく撫でる。その大人の笑顔はウィリアンへ振り返ると消えていた。

「お前は何者だ?」

予想を超えた見世物に集まった人々が目を見開く中、細い光を撒くナイフを握り、もう一方の腕へ置く。

少し離れた場所から見ていた秘書が何をしようとしているか察して駆け出したが間に合わず骨がナイフへ反抗する音が聴こえて、潜血が散る花びらの様に零れ落ちた。

散った似せの花びらの一枚が少女の食べかけのケーキの新たな飾りになってその甘辛い味を楽しむ。

自分が先ほどまでいた日常せかいが崩れた光景に、ウィリアンの頭痛は一気に酷くなっていく。

「ウィリアン、はやく私を助けてくれ。このままだと血が止まらなくて死ぬかもしれない。…それとも、お前は村長を見殺しにするのか?」

傷口を押さえる秘書のハンカチはどんどん血を吸い上げ添えられた手さえも染めあげていく。秘書は替えを取りに行こう

とするが、手をひねるように掴まれて、身動きがとれない。

気分の悪くなる沈黙の中、ザリッ、ザリッ、と待っていた一人だけの足音が浅く響いた。

脂汗をまとう秘書の前まで来ると、掴まれてしびれた手を優しくほどく。

少しずつ乾いても次へ溢れ出る血の腕を弱々しく掲げて、その傷口に貼りついた重いハンカチを剥がして秘書に渡した。

「痛いかも知れないけど、我慢して下さい」

「…あぁ」

二人は事務的に短い言葉を交わすと、少女の方は目を合わせるのを避けて、男の傷口を手のひらで拭う。

ウィリアンが溜め息に似た呼吸を止めると、アリシスのに焼き付いた光が息を吹き返すように舞い降りた。

輝きは何度も甦って、消えていく、繰り返す。

村長は、光と同調する針で刺してしまったような痛みと、一気に速くなる体を巡る血の動きを感じていたが伝えずに黙る。

「もう終わりか?」

 村長は言って、傷のあった部分を乾いた血の上から手のひらで押さえた。確かに傷が無くなっているのを確認する。にじんだ汗が血をわずかに溶かす。

無言で首を落とすウィリアンを観て、感情の抑揚のない声で告げる。

「お前には訊きたいことが色々ある。私と来てもらおう。」

そして近くの呆然とした秘書に小さな声で再び告げる。

「この魔女を逃がすな」

ウィリアンと秘書の互いに限界まで見開いた目が合う。

どちらの目にも怯えの色が拡がって相手へ映し返すが、先に勝ったのは秘書だった。

「どうか大人しくお願いします」

「っっ!」

男にしては細い指だがそれは確実にウィリアンの腕を締め上げて上半身の力を引かせていく。

「やめろ!!」

村長と目配せをして連れて行こうとする秘書の前に躍り出た姿はウィリアンには見慣れたものだった。

「ワイグ、そんな事をしても何も意味がないぞ…ナキィルもだ」

「何がですか?」

口を開きながらワイグのすぐ後ろまで来ていたナキィルを視界から逃がさないように黄金の目の奥をひらく。

「お前達は子どもだから分からないだろうな…この娘のことだけを言っているのではない。」

「年老いた方の話は難しいので何を言いたいのか解りません。」

その場にあたる陽の傾きも温度も変わっていないはずだが、流れる湿気は得体の知れない冷たさを伝える。

「とにかく!ウィリアンには俺たちが話をききます!いいよな?」

ウィリアンは黙って頷く。俯いていた顔が一瞬上げられワイグとウィリアンはが合う。

ワイグは自分が好きだった女性のの奥底に、ずっと息づいていた哀しみを見つけて、唇を噛んだ。

秘書の手を叩くように振りほどかせると、大きくて暖かい手で掴み直す。

互いに寄り掛かりながら歩む二人の影を守るようにナキィルが後ろへついていく。

「…やれ」

決して大きくはない声に秘書はわずかに震えてあるじを振り返ろうとしたが、その前に足元に杖で土をかけられて、止める。

「ところで、ワイグどこで」

ナキィルが声を掛けて突然、ワイグの頭が前のめりになりウィリアンが悲鳴をあげる間も無く、巻き込まれて地面へ引き摺り落ちた。

一瞬にもならない後、ナキィルの足の間を目の前の二人が倒れた辺りから曲がって跳んできた木の実ほどの石が速度は衰えずに一気に通り過ぎる。

「つっっ‥」

とっさにウィリアンの体を庇って打ち付けた右肩の腫れと呼吸の仕方を間違えそうな強烈な頭痛にワイグは苛まれる。

それを、近付きながら見下ろすのは死神の鎌をさするように自分の腕の感覚を確かめる秘書の姿。

その鎌が首を刈るようにウィリアンの襟元へ延びて

「どういうつもりだ!あんたも村長も!!」

武器を奪う様な乱暴な動作で引き戻される。

「相手にするな。邪魔するようなら、もう一度やれ」

ナキィルの叫びを牽制するために、村長の言葉には先ほどまで無かった感情がこもる。

秘書も覚悟を決めたようにナキィルに掴まれた腕を器用にひねり返して襲い掛かった。

「ナキィルッ!!」

ウィリアンが不利な体勢に追い込まれたナキィルを助けるため不安定に座り込んだ姿勢から秘書に飛び掛かろうとして、

「逃げろっ!!」

ナキィルの貫く眼つきに体が急激に固まる。

「逃げる必要などない」

心臓以外活動が鈍くなる身体にはナキィル友人の声も村長の恐れる声も音としてしか入ってこない。


目の前に見捨ててはいけないものがあるのに足が動いてしまう時がある。

それを本能で理解すると、自分が驚くような脚力でそこから跳んでいた。

周りの景色がめぐる。白いテーブルクロスも見慣れた顔も森の中の光の迷彩のように。

 「ウィリアン!!」

再度響く音の向こうには心配を表情から溢れさせるオルガスタの姿。

佇むのは友人のはずなのに、本で見た、精霊に祈りを捧げる女神の様に視えて、現実を考える事も出来ずに彼女の両腕を掴んでしがみ付いていた。

すぐに我に返ったウィリアンはその暖かさの中でつぶやく。

「っ…ごめん!なんで来たんだろ…」

オルガスタが表情をやわらげて何か言いだそうとしたとき、

 「皆の者!その女は魔女だ!どんな言葉にも耳を傾けるな!」

村長の朗々たる声が響き渡る。

村の者達の目が恐怖、猜疑、好奇、いくつもの色を強めていく。

「オルガスタ…ウィリアンをここへ」

男の村人何人かが少しづつ二人へ距離を狭めていく。

「嘘!!ウィリアンが魔女なんて、ありえない!!」

激しく頭を振りながら答えるオルガスタだが、ウィリアンのを意図的に見ようとしない。

それを見て小馬鹿にしているのを隠さずに村長は再び告げる。

「傷を一瞬ひとときで治せたのにか?魔女に手を貸す者は同じとみなすぞ!‥捕まえた者は私から何か優遇しよう。誰でもいい、早く引き渡せ」

オルガスタは何も言い返せないまま、ウィリアンを隠す様に背後の森然しんぜん退がっていき二人は闇へにじんだように木々の影に覆われる。

ウィリアンは無意識にオルガスタの後ろ襟首の服の生地をぎゅっと掴むとその内側に在る肩の筋肉が細かく震えて

「こわい…」

確かなかすれたつぶやきは後ろの森に届く前に ヒュウッ、 という放射線状に風を切る音にかき消される。

ガジャアン!!!

固い木がぶつかり合う音とカップや皿が割れる細かい音が滅茶苦茶に混ざり合い目の前のテーブルが激しく左右に揺れ、一人用の椅子がくるっと一回転し過ぎて遠く離れた地面に無様に落ちた。

言葉を発することすら思いつかない二人が瞬きせずにゆっくり周りを見ると、異様なほど怯えながらもぎらついた双眸で視線が縫い付けられる。

「魔女は災いを呼ぶんだ…その前に火炙ひあぶりにしないと!」

三十代に見えるが白髪の目立つその男は叫んだ後、もう一度椅子を手に取って胸の位置までかかげだす。

「嫌っっ!!」

ウィリアンは短く鋭く声をげて禿げようとするようにきつく絡めた指と髪の間から止めどなく汗をこぼす。オルガスタのひたいと首にも止めどなく汗が流れていくが自分にすら体温が分からない。

村の者達は少しずつ囲む様に近付いて来る。

「生きて捕えろ!殺すでない!!」

村長の金切り声を合図に『魔女』に目が眩んだ者達は走り出す。

「近付かないで!!!」

オルガスタが狂気にとりこまれまいと勢いよく腕ごと体を前に突き出した。

ガシャアーン!!!

テーブルが一気に傾いて回転しながら食器やお菓子だったものを撒き散らして地面に着き、オルガスタがテーブルクロスを引っ張ってその散状はさらに拡大する。

「ウィリアン‥今から…私がもっと暴れるから、‥大通り外れの‥、″ねずみ小路の林″まで突っきれば隣の村へ」

「オルガ 行かないよ」

「どうして!?」

「もう…」

走り慣れていない者が色々な破片に気を取られている間に、ウィリアンの震えるをオルガスタは共鳴した震えるで見返す。

 ウィリアンは目を伏せた。二度と人とを合わせないことを精霊と自分に誓う。


背後の、ずっと入ることを禁じられていた、この森の奥にある霧の壁の向こうを思う。

ずっと、行ってみたいと思っていた。そして叶うことがないと解かっていた。

霧、いや森とひとつになりたい――はしれる。ここにいる誰よりも速く。

          「ウィリアン」   

最後に呼ぶ声は誰か分からなかった。 誰でもよかった。

魔女の姿は森がひそかに呼んだ声に誘われて緑の闇へ消えて行った。







キラキラした、蝶の鱗粉を撒いたかのような様相の木々が立ち並び、息をするごとにその鱗粉が体に入って来るのではないかと思える、深い、森の中。

「おーっ!すごいっ!でもくらいね!」

霧を抜けるなりミレはひとりごとのように大声で言って、シルバから返事が来ないので、

「きいてる?魔女くーん!君わざと無視してる?」

ほどいた手を再びつかみ、引っ張って

「え?ああ、何でこんなにキラキラしてるのか、だろ。

それは――よく分からない。」

「訊いてることとちょっと違う~、ていうか知らないんだね。」

「分からないらしい。けど、これは魔女にとって大切なものなんだ。」

「へぇー、…あ!」

小難しい話をしそうな気配を察知して他に気を向けていたミレが、森の中の数少ない大きめの木漏れ日の中の人影を見つけて声をあげました。


 金茶色の長めの三つ編み。ミレと同じか少し上にみえる少女の容貌。

「こん、にち、わーっ!あれシルバの友だちで魔女だよね!」

遠くにある木漏れ日の中のに手を振りながらミレは興奮を抑えきれずにシルバを強く見つめます。

「…友達じゃない。魔女ではあるけど…」

ミレの視線から逃れるように逸らして、三つ編みの少女を睨んで視界に捉えます。

そんなシルバの様子などかまうことなくミレは少女のもとへ駆けて行きます。

そのうるさい足音に気付いたのか目を瞑って木にもたれ佇んでいた少女は髪より薄い色のまつ毛をゆっくり上げます。

ミレから見て横だった顔を向けると、薄曇りの空に近い、青の瞳。

一瞬だけを細めた少女ですが、ミレの後ろからゆっくり追いついてくるシルバを見ると儚げに笑顔を浮かべます。

「あら、色々楽しそうな声が聴こえると思ったら…新しい子をつれて来たのね」

「……‥」

沈黙を通すシルバを押しのけてミレが話を継ぎます。

「私!ミレって言います!シルバについて遊びに来ました!」

「遊びに来た?」

少女はまたを細めてシルバを眺める様に観ます。

「…まぁ、ミレ、ここは他にも仲間がいるし、馴染めばそれなりに楽しいところよ。頑張ってね」

「うん!頑張ります!」

ミレの話し掛けには応じますが、少女の眼の中の薄曇りの風景はシルバを浮かべたままです。

「シルバ、まだウィリアン様にはきちんと紹介してないでしょう?この奥の花畑で子供達と遊んでいるから、行って来たら?」

「分かってる。」

シルバは一度も少女と目を合わせることなくそれだけ言うと、ミレに付いて来るよう顔を振ると歩き出します。

「シルバって愛想ないねーあっ!あなたの名前は!?」

ミレがシルバの背中を叩こうとした手を止めて少女を振り返ります。

「‥リルティーヌ。リルでも良いわ。」

「リル、リルティーヌ…えへへ」

リルティーヌは美少女といえる愛らしい笑顔をミレに渡して、ミレも笑顔を返します。

「じゃあ、ミレ。また夕食の時に。」

「ご飯食べてっていいの!?やった♪じゃあねー!」

ミレは手を振りながらシルバの背中を追いかけて、追いつくと背中をおもいきり叩きます。

怒るシルバと笑いながらのらくらとかわすミレの後ろ姿に小さく手を振りながらリルティーヌはひとりごとを言います。

「あの子…ウィリアンはどう使うのかしら?」


「リル、すごく可愛い女の子だね♪」

ミレが遠くなっていくリルティーヌを時々振り返って見ながらシルバに同意を求めましたが、

「そんなことない。」

シルバは抑揚のない声で否定しました。

「なんでっ!?シルバ‥リルティーヌと仲悪いの?」

「良くも悪くもないけど…どちらかというと苦手なんだ」

「なにそれー?それ、ただのシルバの人見知りでしょー?」

「……」

黙り込むシルバにミレは内心あきれながら次の話を思いつきでしようとした時、清々しい花の香りがわずかに鼻をくす

ぐりました。

ミレは風が運んできた香りの便りの送り主を探して

「シルバっ!あそこかなーウィリアン様がいるお花畑!」

森が一部ひらけた白い花が見えかくれする所を指差しました。

「ん、そうだ。 みんなの声もするしね。」

その場所を目指して進むにつれて、花の香りと子ども達の声もふくらむように伝わってきます。

 しばらく歩くとやっと花畑の入り口らしきところにたどり着き風景が広がりました。

  差し込む太陽の光を白い花の色がいっぱいにはね返して、その眩しすぎて淡い色あいの中に浮かぶ金色の髪の女性。

両腕に子ども達がしがみついて、思い思いに作った花のおもちゃを渡します。

女性はひらけた木々の入り口に立つ二人を見留めて、周りにいる子ども達の頬にキスを繰り返しながらやんわりと向こうへ

追いやります。

そしてゆっくりと立ち上がって、深い湖の底を馳せる様な蒼の双瞳りょうめで二人を見つめました。

しばらく三人の間は無言でしたが女性が口をゆっくり動かします。

「ようこそ。二人ともこっちへ」

二人は花を踏み散らさない様に気遣いながら女性の目の前までやって来ます。

「ウィリアン様、この子はミレと言って、ここに遊びに来たトリスアイン村の子どもです。‥しばらくここに居たいそうです。」

「…トリスアイン?…遊んでいて、森に迷い込んだの?」

「いえ、僕がトリスアイン村に行った時、勝手に付いて来ました。」

シルバが語るミレの自己紹介を淡々と聞いていたウィリアンでしたがシルバの締めくくりの言葉セリフを聞くと一瞬で顔を赤く

させて、シルバの頬を平手で打ちました。

「わあっ!?」

驚いたミレが声をげましたが、ウィリアンは気に留めずシルバを問い詰めます。

「どうして?なぜその村に行ったの?理由は何なの?」

「…‥このあいだの朝食の時、トリスアイン村のジャムの味を懐かしがっていたので、買って来ました。」

シルバは黒い服のふところとフードの中からジャムをすべて取り出しました。

ジャムは二種類、みずのりで貼り付けられたキレイなラベルと、泥を吸い込んだ汚いラベル。

それには触れずにウィリアンはシルバをゆっくり睨みつけます。

「私はあなたにジャムを買ってこいなんて頼んでいないわ。それに、お金はどうしたの?」

「リルに前にもらったお金です」

途端にウィリアンは諦めたような顔をして盛大にため息をつくと、シルバから目を逸らしました。

ウィリアンは気まずい沈黙の中で居場所を失っているミレに顔を向けると、

「ミレ、あなたはいつまでここにいてるの?」

先ほどとはまったく違う優しい表情でたずねました。

「え?えーと、いつまでとかは、決めてないです‥」

「そう?…なら好きなだけいてると良いわ。家が恋しくなって、帰りたくなるまで。」

シルバは何か言いたそうな目つきでウィリアンを見つめ、ウィリアンはその視線に気づいても、取りあうことはありませ

ん。

「ありがとーございます!ウィリアン、様!さっそくですけど、今日の夕食は何ですか?」

「まあもう夕食のお話?せっかちさんね。 でも残念ながらここのご飯は食べ盛りの子には物足りないかもしれないわね。ところで私ミレの話が色々訊きたいんだけれど、今から一緒に私達の家に来てくれないかしら?シルバもその泥だらけの服を着替えないといけないから一緒にね。」

ウィリアンは少しかがんで、うやうやしい手つきでミレの手をとります。

「もちろん!すごく喜んで!」

ミレがウィリアンの手を強く握り返してウィリアンは、あはは、と声を出して笑います。

「それでは、改めて。私は光の森の魔女、ウィリアンよ」

花で作られたティアラ、ネックレス、ブレスレットを付けた魔女はスカートをひるがえしておじぎをしました。

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