第2話 殺人未遂事件の目撃者

 令和3年の2月の寒い日、夜のとばりの降りた時間帯。杭瀬は、

「このあたりで、20年前にストーカー殺人があったんだよな。もう誰も意識をしている人なんかいないだろうな」

 と思っていた。

 あれだけ社会問題になったはずなのに、騒がれたのは、2か月くらいだった。それまでは、テレビの取材などで、連日マスゴミが訪れたりしていたが、一気にその熱も冷めてしまった。

「人のうわさも75日」

 と言われるが、75日というと、ちょうど2か月半というところか。

 それを思うと、2か月騒がれたのも、それだけ反響が大きかったということか。

 それから1年くらいは誰かが事件現場に花やお供え物をしていたようだが、それもなくなり、1年以上経ってしまうと、そこで事件があったということすら覚えている人はいないのではないかと感じるほどだった。

 さすがにトラウマが残った杭瀬であったが、それも、この1年くらい、尾を引いたという程度で、それ以降は、たまに思い出す程度だったのだ。

 高校生になって、大学受験を考え始めると、頭の中はいい意味で、リセットされた気がしたのだ。

 さすがに20年も経つと、あの時の犯人も出所しているだろうし、どこで何をしているのか分かったものではない。また犯罪を繰り返し、

「ムショとシャバを行ったり来たりしているのではないだろうか?」

 と感じるのだった。

 たまに思い出すのは、この20年という時間を感じるというよりも、自分が昔を思い出す時に、頭を掠めることがある。そんな過去を思い出す時に限って、なぜかこの場所が多いというのは、消えたつもりでも、意識としてトラウマが残っているからではないかと思うのだった。

 そんな事件を思い出したのか、これは、最近のことだったが、

「前にも、ここと似たような場所に行ったことがあったような気がするな」

 と感じたからだった。

 それは、社会人になってからのことなので、ここ10年以内のことであっただろう。もちろん、まったく同じというわけではなく、雰囲気として似ているところ。つまりは、真っ暗な通りで、横の塀が思ったよりも高くて、その間には、店もなければ、窓もついていない。まるで、大きな西洋の城の高い壁に挟まれたような場所だった。

 街灯も申し訳程度にしかついていない。今は、街灯もだいぶ明るくなったようだが、こんな気持ち悪いところを歩いていて、街灯だけだと、足元を見た時、その足元から放射線状になった自分の影が、三つくらい、自分の足を中心に細長く放射線状に伸びているのだった。

 そんなところを歩いていた時、あの時は、この場所を思い出したはずなのだが、この場所で、かつて似たところを通ったはずのその場所を思い出そうとした時、正確な日にちや、どこだったのかということを思い出せないのだった。

 しかも、それを思い出すのは定期的にであり、2か月に一度くらいの割合で思い出しているような気がする。最初はそこまで意識しなかったが、途中から定期的に思い出すのが気持ち悪くなって、思い出した日を手帳に記入するようにしていた。

 すると、定期的に、ほぼ2か月に一度くらいの割合だったのだ。

 1か月以内だと頻繁に感じるだろうし、半年に一度くらいでは、たまに思い出すという意識になるのだろうが、2か月というと実に中途半端な気がして、定期的に思い出すというのが2か月くらいだということが分かれば、中途半端な期間でも、定期的にという意識になるのだということを感じるのだった。

 それと、思い出す時のキーワードが、

「足元から3本伸びる放射状に広がった影」

 であった。

 それを感じた時、いつも、

「以前にも見たことがあるような」

 という風に思うのだが、それは逆にいうと、

「2か月に一度くらい、足元に伸びる影を意識してしまう」

 ということを意味しているのだった。

 その日は、

「ちょうど、その2か月に一度の日なのかな?」

 と思って手帳を見てみると、以前がちょうど年末くらいだったので、ちょうど、感覚に間違いはなかった。

「そうだな、確かに気忙しい感覚を覚えた時だった。街中のクリスマスの雰囲気から一転したことで、余計に、寂しさがこみあげてきたのかも知れない」

 と思ったような気がしていた。

 夏の間は、日が長いこともあって、ここを通る時は、夜のとばりの降りていない時が多い。それでも、たまに8月などの繁忙期で遅くなった時、足元が気になってしまうのか。冬に比べて数少ない光景に、意識が思い出させようという潜在意識になるのかも知れない。

 冬ともなると、ほとんど毎日、夜のとばりの降りた時間帯にしか通らない。真っ暗なことには慣れているので、誰もいなくても、怖くはない感覚だった。

 このあたりはバス停の近くの住宅街を通り越し、さらに奥に入ったところなので、それも仕方がないだろう。

 このあたりに部屋を借りたのは、なんと言っても家賃が安いということが最大の魅力で、バス停から少し時間はかかるが、別に気になるほどではなかったのだ。

 ただ、ここを借りる時、この道をまったく意識していなかったのだが、なぜ意識をすることがなかったのか、自分でもその理由が分からない。

「どうしてだったのだろう?」

 と思ってみたが、

「無意識だったんだろうな」

 としか言いようがなかったのだ。

 意識をしなくなったというわけではないのは、部屋を借りてから、この道を通勤路として最初に通った時に感じたことだ。

「そうだ、あの時のストーカー事件の現場だ」

 と思ったのだが、その時の感覚は、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 ただ、思い出したというだけのことだったのだ。

 この道は、このあたりに引っ越してくるまでは、友達の家に遊びに行く時くらいしか通ったことはなかった。だから、20年前の事件が起こった時、親からは、

「遠回りになるかも知れないけど、他の道を通りなさい」

 と言われた。

 それは、マスゴミの攻撃を避けるという意味合いがあったのだろうが、そもそも、トラウマを感じていた杭瀬としては、親に言われるまでもなく、別の道を通ることにするとういうことが自分でも分かっていたことだった。

 親は、1か月も経つと、

「もうあの道も変に騒がしくはないだろう」

 ということで、そこを通ってもいいと言われたが、敢えて、自分からその道を通ることはしなかった杭瀬だった。

 これは後から聞いた話だが、事件があった、夜のとばりが降りてから少しした時間、いつもそこには、お供え物をして、手を合わせている老婆がいたということであった。

「被害者の身内なんだろうか?」

 と感じたが、その老婆が現れたのは、1年くらいのことだったということだ。

 実際に、見たことは、2,3度あった。1か月に一度くらいは通るのだが、意識しないわけではなかった。それを踏まえたうえで、敢えて通るようにしたのは、

「忘れることはないだろうが、忘れるということを感じたくないからだ」

 と感じたからだ。

 その老婆を見た時、話にあった老婆だと思って見ていたが、不思議なことに、見かけたその時の雰囲気が、毎回違っているかのように感じたのは、どういうことだろうか?

「気のせいだ」

 といえば、そうなのかも知れないが、その一言で片づけられるものではないような気がしたのだった。

 この通りを10年前からずっと歩いてきたが、最初から、ほとんど人通りが少ないところではあったが、どんどん人が減ってきているように思えてならなかった。

「毎年一人ずつくらい減っているのではないか?」

 と感じるほどで、最近では、

「まったく人を見ないような気がする」

 と感じるほどだった。

 これは、あくまでも、自分が通る時間、人が少ないだけで、別のバスの時間に、人が移動したのではないかと思うと、そっちの方がまだ辻褄が合っているではないかと感じるのだった。

 人が少ないわけではなく、分散していると考えると、不思議でもなんでもないのだが、逆に、

「自分が避けられているのではないか?」

 という歪んだ考えをするようになった自分が少し気持ち悪いくらいだった。

 その道をその日も、いつものように歩いていると、その間の場所に差し掛かろうとしたところで、

「キャー」

 という女の人の声が聞こえた。

 明らかに悲鳴である。思わず、トラウマが頭を掠め、二の足を踏みそうになったが、かろうじて意識を保ったことで、次の行動は、身体が勝手に動いてくれた感覚だった。

 とるものもとりあえず、急いで角を曲がると、先の方に女性が倒れていた。

「おい、こら」

 と恫喝すると、黒ずくめの男が、倒れている女を見下ろしながら、黙ってその様子を見ているだけだった。

 一瞬にして、その男が女を襲ったということは分かった。手には何か鋭利なものが握られていて、ナイフであることは明白だった。街灯に照らされて、ナイフが乱反射しているところを見ると、その男も、震えていたに違いない。

 こちらが叫ぶと、その人物は急いでそこから走り去った。その様子を見ていた時、

「あれは男だとばかり思っていたが、女だった可能性もあるのではないか?」

 と感じた。

 想像していたよりも、踵を返して逃げ出すその姿が、かなり小さかったのが分かったからだ。

 逃げ方もぎこちなく、敢えて男を装うような大きなストライドだったことから、その不自然さからも、

「女の可能性も十分にあるな」

 と感じたのだった。

 急いで逃げるその姿に、気を取られていて、どうせ追いかけても無駄なのは分かったことで、今度はそこに倒れている女性の心配がこみあげてきたのだ。

 その人が女性であることは間違いない。こちらに足を向けて倒れているので、スカートが膝くらいまでまくれているのが分かったからだ。くの字に曲がったその足が、痛い痛しさを感じさせた。

 杭瀬は急いで駆け寄り、

「大丈夫ですか?」

 と語りかけた。

 幸いにもその女性は、意識があった。

「ええ、大丈夫です」

 と言って、本人は起き上がろうとしていたが、どこかケガをしているのか、起き上がることができない。とりあえず救急車を呼んだ。

 その時に救急隊員に説明するのに、彼女に話を聞いたが、どうやら、歩いているところで、後ろから襲われたらしい。背中に痛みを感じて、そのあと息苦しさがあったので、何かで刺されたということが分かったのだという。

 叫び声を聞いたと、杭瀬がいうと、その女性は、

「私が叫んだんですね? 無意識だったのか、それとも気が動転して叫んだことすら忘れてしまっていたのか、そのどちらかだったんだって思います」

 と言った。

 その話を救急隊員に伝えると、すぐに来てくれるという。警察に電話を入れるべきか迷ったが、犯人が逃走している以上、なるべく早く知らせる必要があると思い、警察に電話した。110番である。

 110番から、たぶん、所轄に入電という形で、通報され、すぐに所轄の刑事が飛んでくるだろう。救急車と警察、どっちが早いかということだが、とにかく急ぐのは救急車であろう。

 意識はしっかりしているとはいえ、刺されていて、立ち上がることもできないのだ。精神的にも心細くなっているだろうから、一刻も早く病院に運んでもらう必要があると、杭瀬は思った。

 救急車が間もなくやってきて、救急車で近くの救急病院に運ばれることになった。

「警察にも連絡はしているんですが」

 というと、

「分かりました、警察にはこちらから連絡を入れます」

 ということで、救急車の運転席から、警察に連絡され、警察は直接、救急病院に救急するということだった。

 その時に、患者の現在の状況が簡潔に報告されたこともいうまでもないだろう。

 被害者の女性の意識は比較的安定していて、杭瀬もだいぶ安心できていた。

「正直、人が殺される場面に出くわさなくてよかった」

 と感じたのだった。

 救急車が病院に着いたのは、10分後だった。事件が発生してから、30分くらいのことだったので、実に早い対応だといえるだろう。

 彼女は担架で救急処置室に運ばれ、応急処置を受けている。その間に警察が到着し、先生と話をした後、病院の受付の人に聞いたようで、二人の刑事がこちらに近寄ってきた。

「あなたが通報してくださった方ですか? 今回は、緊急な対応、警察への通報と、ご協力ありがとうございます。いくつかお伺いしたいことがあるのですが、今から少々お時間の方大丈夫でしょうか?」

 と聞かれたので、

「ええ、大丈夫ですよ。帰りは送っていただけるのであれば」

 とくぎを刺しておいて、

「それは大丈夫です。ご心配にはいりません」

 ということだったので、

「彼女の方、大丈夫ですか?」

 とまずは一番気になっていることを訊ねた。

 それをハッキリさせておかなければ、気になって事情聴取どころではないからだ。

「ええ、それは大丈夫のようですね。傷口は比較的浅いようです。急所も外れていたということですね」

 と刑事がいうと、

「そうですか。私も悲鳴を聞いて急いで飛び出したので、犯人は臆したでしょうね。そのあと彼女に次の一撃を加えようとしているわけではなかったからですね」

 と杭瀬がいうと、

「そうかも知れませんね。そういう意味でいうと、あなたがいてくれたことで、彼女は殺されずに済んだのかも知れません。そういう意味では感謝しかないですね」

 と、もう一人の刑事がいうと

「そう言っていただけると助かります」

「ところで、あなたは、犯人をご覧になったんですか?」

 と聞かれて、

「ええ、犯人は見ましたが、ただ、逆光だったので、顔や服装の詳細は分かりません。分かっているとすれば、背が比較的低かったように思うので、男だとは言えないような気もします。逃げる時も、走り方がぎこちなかったので、わざと男だと思わせようとしたという見方もできると、ひょっとすると、犯人も方でもけがをしているのかも知れないと感じました」

 と杭瀬は言った。

「なるほど、確かに女性の可能性もありますね。そうだとすれば、傷口が比較的浅かったのも分からなくもない。犯人が女性であれば、何回か刺すつもりだったのかも知れないが、彼女の悲鳴を聞いてあなたが駆けつけたことは、計算外だったのかも知れないですね」

 と刑事は言った。

「でも、襲うのだったら、何も、こんな中途半端な時間に襲わなくてもいいように思うんですけどね。ということは犯人は、通り魔ではなく、彼女本人を狙った犯罪だということになるんでしょうか?」

 と、杭瀬がいうと、

「そうですね、我々は今の状況では、そうだと思っています。通り魔であれば、何かを奪おうとしたのか、それとも、一気に殺そうとしたのかですが、最近、この付近で通り魔が出たという話は聞いていないので、可能性的には通り魔の可能性は低いかも知れないですね。でも、これが初犯で、最初に成功したとすれば、こういう犯罪は繰り返すでしょうから、犯人逮捕に時間をかけるわけにはいかない。犯人が次を虎視眈々と狙っているとすれば、未然に防ぐためには、次の犯行を起こす前に、犯人を逮捕する必要がありますからね」

 と刑事は言った。

「その通りだと思います。だけど、私も、犯人をハッキリ見たわけではないので、どこまで協力できるかだと思うんですが、あのあたりは人通りも少ないところなので、防犯カメラとかあるんですか?」

 と杭瀬が聞くと、刑事は複雑な表情になり、

「あ、いや。あのあたりにもカメラが防犯必要だということは申告はしているんですが、なかなか設置をするという話にならないのが実情で」

 と刑事がいうと、杭瀬は呆れたような表情で、

「何言ってるんですか? 刑事さんはあそこで、以前にストーカー殺人事件があったのをご存じないんですか? 一度犯罪が起こっている場所の防犯を躊躇するなんて、警察って、本当に、何かが起こらないと動かないと思っていたけど、今回は、事件が起こってお動かないんですね?」

 と皮肉を込めていうと、刑事の方も、申し訳ないという顔になって、

「何を言われても、反論できないです」

 と、委縮しているようだった。

「まあ、今はそういうことを言ってもしょうがないんだけどね」

 と、言ってすぐに話をそらせた。

 刑事の方も、

「助かった」

 という顔になったが、これは、杭瀬のいつものやり口で、悪い癖でもあった。

 自分に少しでも、有利なことがあれば、それで恫喝し、マウントを取ることで、その場の自分の位置を保とうとする。

 しかし、それは決していいことではないが、彼が言っていることに間違いがないということを示している。間違いがあれば、相手を恫喝することも従わせることもできない。ただのわがままだと思われても仕方がないからだ。

 だからこそ、彼のモットーは勧善懲悪なのだ。自分の言っていることが正しいのだから、自分が正義だと思い、勧善懲悪に走ったとしても、それは無理もないことだ。だから、今回も、最初は女性を助けたことを鼻にかけるようなことをせずに、

「当たり前のことをした」

 ということをまっとうしようと思っていたのだが、それなのに、勧善懲悪の代表である警察が、こともあろうに、上に忖度し、悪に屈する形で、正義を振りかざさなければいけないはずのその時に、何もせずに悪に屈するのであれば、勧善懲悪などどこに行ったというのだ。

 警察が公務員であるということを忘れているのか? だから、税金泥棒と言われても仕方がない。

「どうして、政治家も公務員関係も、こうも税金泥棒ばかりなのだろう?」

 と市民から思われても仕方がないだろう。

 せっかく、警察権力というものがあるのに、勧善懲悪のために使うのが警察ではないのか?

「強気を助け、弱気をくじく」

 などという今の警察を、正直垣間見た気がした。

 本来なら、市民の盾になってでも、勧善懲悪を完遂するのが警察というのではないか、それができないのであれば、誰がやるというのか。せっかく今回は殺人事件にならなかったというだけで助かったといえるのに、このまま犯人を逮捕できずにいれば、警察尾権威も地に落ちたと思われても仕方がないだろう。

「ところで、あなたは、被害者の方と面識はおありでしたあか?」

 と聞かれて、ふと自分のことを話していないのを思い出した。

 普通なら警察が先に聞くはずなのに、なぜここまで聞かなかったのか分からないが、

「ああ、そうだ。申し遅れましたが、私は杭瀬というものです。普通の会社員なんですが、今日は最近いつもこの時間の会社が終わっての帰宅時間でした。被害者の女性とは面識がありません。もっとも、どこかでつながっていたかも知れませんが、少なくとも最近は知らない人です。いきなり倒れているのを見つけて、事情が分からないまま救急車と警察に連絡したわけです」

 と、説明し、そこから自分の形式的な紹介になった。

「じゃあ、ナイフを持っていたことには気づいたんですか?」

「ええ、だから、彼女は刺されたと思い、苦しそうだったので救急車を呼んだんです。浅い傷でも、いきなり襲われたりしたんだから、ショックは大きいでしょうからね。そうなると傷口以上に深い傷が残っている可能性もあるのではないかと思ってですね」

 と、杭瀬は言った。

「それは助かりました。あなたの機転が彼女を救うことに繋がったのかも知れません」

 と、刑事は心底嬉しそうに言った。

 そういう態度を取ってくれると、先ほどまでこみあげていた怒りだったが、もう少し警察を信用してみてもいいのではないか? と感じるのであった。

「彼女の傷は背中からありましたので、逃げようとして刺されたのか、それとも、いきなり後ろから刺されたのかのどちらかだと思うんですが」

 と刑事がいうと、

「それは、逃げようとしたんじゃなくて、後ろからなのではないかと思います」

 と杭瀬は自信をもっていった。

「どうしてそう言い切れるんです?」

「彼女は、うつ伏せで向こうを向く形で倒れていましたからね。後ろからでないと、あんな倒れ方はしないと思うんです」

「なるほど」

 と、刑事も納得していたのだ。

「ところで、あなたが見たという、その人物。見覚えはありませんか?」

 と聞かれた杭瀬は、

「いいえ、ありません。先ほども申しましたが、逆光になっていましたし、顔どころか、性別も分かりかねるくらいでしたからね。でも、あれは女性の可能性も十分にあると思いました。逃げる時の走り方が、少しぎこちなかったからですね。もし、男性だったとすれば、犯人はどこかケガをしていたんじゃないですかね? かなりぎこちなさそうに逃げていきましたから」

 と、いうと、

「なるほど、それがあなたの見た印象だったわけですね?」

 と刑事に聞かれて、

「ええ、そうです。私がそう感じたということですね」

 と杭瀬がいうと、

「分かりました。我々も、杭瀬さんの話を参考に捜査を行ってまいります。また、ご足労願うことになるかも知れませんが、その時はよろしくお願いいたします」

 と言って、その日はお開きにあり、若い刑事に、車で杭瀬の部屋の近くまで送らせた。

「今日はご協力ありがどうございました」

「いいえ」

 と言って挨拶を終わって、杭瀬は部屋に入っていく。病院に戻ると、先輩刑事が待っていて、

「どうだい? やつの言葉には信憑性はあると思うかい?」

 と聞かれた若い刑事は、

「ええ、あると思います。彼にウソをつく理由はなさそうですからね。先輩は何か気になるところがあるんですか?」

「くん、杭瀬氏に関してはそうでもないんだけど、気になるのは、犯人なんだよ」

「どういうことですか?」

「被害者を、狙った犯行だと思うんだよね? 相手は彼女限定なのか、誰でもいいのかは別にして、手にナイフを持っていたということは、最初から、人を刺すつもりで待ち伏せていたわけだよね?」

「ええ、そうだと思いますが」

 と、若手刑事は先輩が何を言いたいのかを分かりかねていて、

「そうだとすると、あれだけ傷が浅かったというのが、どうも気になるところなんだ。最初から、殺そうと思っていたのであれば、一気にやるはずだよな? ナイフまで用意しておいて、こんなに浅い傷というのもおかしい気がするんだ」

「でも、犯人が寸でのところで思い誤ったと思ったんじゃないですか? 後悔があったとか」

「それも考えられるんだけど、それ以外に何か理由があるんじゃないかと思ってね」

「危険を犯してまで、殺すつもりのない傷害事件を起こそうとしますかね? 障害だって、十分に前科が尽くし、捕まれば人生が終わってしまうと考える人は多いはずでしょう? あっ、そういうことか、だったら一思いにとか思いますよね。それが先輩には不自然さを感じるわけですね?」

「そういうことだ。それを思うと、彼女を狙ったはいいが、最初から殺すつもりもなく、まるで通り魔か、ストーカあー犯罪か何かだと我々に思い込ませる必要があったんじゃないかな?」

「それじゃあ、何かの事件のカモフラージュだと?」

「それもないとは言えない気がするんだよ。とにかく、何か違和感があるんだよ。今回の事件にはね」

「まるほど、じゃあ、さっきの杭瀬という男は、目撃者か何かに仕立て上げられたか、それとも彼の仲間の一人で、目撃者になることで、これから警察に事情も聴かれるだろうから、その機会に乗じて、警察の考えを知ろうという考えかも知れないですね?」

 と、若手が聞くと、

「勘ぐればいくらでも想像できるのだが、どこかからは、明らかな考えすぎにあるはずなんだ。それを見極めて、考えていく必要があるじゃないかな?」

 と、先輩刑事は言った。

「やはり、被害者の回復と、杭瀬氏の証言が問題になってくるでしょうね。それと、鑑識からの詳しい報告ですね。ただ、ハッキリと言えるのは、被害者が無事で本当によかったということと、さらにそこから生まれた疑惑が、何かの事件の発端にならないことを期待するしかないということではないでしょうか?」

 と、若手刑事は言ったのだ。

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