第4話 探偵小説談義

 朝食を終えてから、もう一度、盛岡に行くことにした。この村にいても温泉での療養はできるが、何も見るところがないからだ。確かに岩手県というと長期滞在には向かないかも知れない。確かに川北も田舎出身とはいえ、南国の方なので、生活環境がまるで違う。なんと言っても、一面を雪で覆われたこの街で、一日24時間は長すぎるというものであろう。

 川北は、ゆっくりとしたかったが、どちらかというと飽きっぽいところがあった。その性格を飯塚も分かっていたので、ずっとこの村に一日中いるというのも大変だとは分かっていた。せめて何かをするための道具くらいは与えなければいけないだろうと感じていたのだった。

 それは、例えば、本を読んだり、マンガを読んだりとかもいいし、何か芸術的なものを作るというのもいいだろう。

 川北は、システム開発の人間なので、本を読むよりも何かを作る方がいいに決まっている。飯塚が聞いてみると、川北は。ノートパソコンを持っては来ているという。

「退屈で仕方のない時は、ネットでも見ていようかと思ったんだ」

 ということであったが、せっかくノートパソコンを持ってきているのであれば、何かやろうと思えばできるだろう。

「推理小説だったら、俺がたくさん持っているので、いつでも本棚から好きなものを読んでくれてもいいんだぞ」

 と飯塚は言った。

 なるほど、飯塚の部屋を覗くと、本棚が3つもあり、そのほとんどにミステリーが、所せましと並んでいる。これは、少し小さめの本屋で、文庫本のコーナーいっぱいくらいの分量だ。ここまで集めたのは、大学時代からだったのか、それとも彼も田舎に引きこもってしまい、やることがなくなってしまったことで、また本を読もうと、集めたものなのかも知れない。

 新品が多かったが、中には中古を思わせるものも結構あった。今では本屋も、いや、書籍出版関係が、どんどん規模を縮小し、かつてあれだけ売られていた人気作家の本も、今では、店頭に並ばないばかりか、絶版になっているのも結構ある。

 今から思えば、昭和というのが、一番本があふれていた時代だったのかも知れない。

 ここまで、本が衰退したのは、活字離れがどんどん進行したこと、裏を返せば、マンガやアニメの文化が花開いたということ、そして、決定的だったのは、2000年代に入ってから、電子文庫なるネットの普及により、ペーパーレスが進んだことである。

 2000年代当初はまだ、紙の書籍もまだまだあったが、

「本にしませんか?」

 なる出版社、いわゆる、

「自費出版系の出版社」

 が蔓延ってきたことが大きかった。

 当時は、本を出したいという素人が、一番世の中にあふれていた。バブルが弾けて、それまで仕事ばかりしかしてこなかった人が、趣味を持たなければ、時間を持て余していた時期であり、主婦の方も、空いた時間を持て余すようになると、この自費出版系に飛びついたのだ。

「自分にだって、本を出せる」

 という思いを誰もが持ったために、少々高額でも、飛びつく人が多かった。

「本を出しさえすれば、いずれは作家のプロになれる」

 とでも思ったのか、先行投資のつもりで、よくも、数百万という金を一冊の本のためにポンと出せるものだと思うのだが、彼らのその時の心境は、想像を絶するものがあった。

 だが、そういう出版社は、しょせん自転車操業でしかなかった。歯車が狂えば、一気に破綻してしまう。まさにそれを絵に描いたように、全盛期を迎えた翌年には、破綻していき、同種の会社もどんどん同じ運命で落ちぶれていった。ブームとしては5年も続いてはいない。それこそ、

「バブル経済の短縮バージョン」

 と言ってもいいだろう。

 当時騙された人間に同情はしないが、人を騙そうとすれば、必ずどこかでボロが出る。人が増えれば増えるほど、そのリスクは高まるということを分かっていなかったのか。後から思えば、出版社の人間も、よくもこのようなやり方でうまく行くと思ったのか? と感じるほどの内容に閉口してしまうほどであった。

 そういうこともあり、今ではすっかり素人はネット上で公開するという形が多い。

「お金もかからないが、お金にもならない」

 自費出版のように、先行投資で数百万を投資しても、結局一円にもならないのであれば、書いたものを無料で公開できるのだから、この方が平和だし、よほど、問題になることはない。

 自費出版社の破綻が、詐欺として社会問題になると、もう、本を出したいという人間はほとんどいなくなり、結局、それまでの単純に小説を書きたいと思う人間だけの人口になり、

「これが平和というものだ」

 と感じるようになったのだ。

 だから、自分たちが大学でミステリー研究をしていた時に集めた本は、中古が多かった。ミステリー研究会には、結構部員はいた。幽霊部員のような人も結構いたが、マジでミステリーが好きで、評論をしてみたり、自分で執筆する人もいた。それぞれ、両方という二刀流もいたが、二人とも、小説を読む方に所属していた。評論をするなどというのは、なかなかおこがましいと思っていたので、ただ読んで感想を話し合ったり、自分たちで、トリックを研究してみたりした。

 ただ、ミステリーのトリックというのは、いくつかの種類に分かれるが、もうほとんど、その種類は出着きしていると言われている。それは、日本では探偵小説と言われていた、ミステリー小説黎明期のことであり、すでに、そんな状態でのミステリー界では、

「出尽くされたトリックを生かすには、バリエーションを利かせて、いかにうまく設定であったり、背景等にうまくトリックを絡め、あとは小説の書き方でカバーするかということが大切だ」

 と言っている人がいたが、まさにその通りだろう。

 そのためには、少し邪道と言われるかも知れないが、他のジャンルに抵触するような作品があってもいいかも知れない。昔であれば、タブーだと言われていたのかも知れないが、恋愛と結び付けたりすることである。

 昔の探偵小説は、

「探偵小説に恋愛の要素を結びつけるのは邪道」

 と言われ、探偵の恋愛物語は御法度のように言われていたが、有名作家が、自分のレギュラー探偵に恋をさせてみたりしたことが読者に新鮮味を与えた作品もあることから、今では探偵の恋愛のパターンも結構あったりする。

 ライトノベルであったり、BL、GLなどと言った。恋愛に幅ができたり、小説というものが、気軽に読めるものだという発想になったことで、ある意味、小説界が、まるでマンガを読んでいるような感覚になってきたのかも知れない。

 逆にマンガが、今ではドラマや映画の原作に取って変わったことから、小説のようなストーリー性を重視したものが出てきたことで、マンガと小説というものが、内容的にあまり変わらないという感覚にもなってきた。

 これは、マンガも小説も、世界が膨張してきて、接触面が増えたことからの現象だと考えると、納得がいく。

 小説の場合は、衰退を免れるために、広げた幅なのだろうが、マンガの場合は、そこmで切羽詰まったというよりも、マンガ家志望がたくさんいて、そのことがジャンルを増やしてきたことで膨れ上がってきたのだろう。

「マンガは日本の文化だ」

 と言われるが、まさにそういうことなのだろう。

 そういう意味では、ミステリー研究会では、小説だけではなく、マンガのミステリーを読んで、それについて研究している人もいる。ミステリーなど、マンガが小説化してきたというのが顕著に表れているジャンルだといえるのではないだろうか。

 だが、それでも、

「ミステリーというのは、シャーロックホームズに始まる小説の世界でこそ成り立つのではないか?」

 と思っている人も多く、それだけ、二人も小説の世界に造詣が深かった。

 小説にはまんがにはないものがある、それは、

「想像力」

 であり、文字を拾って、頭の中で情景を考える。

 これこそが、小説の醍醐味であり、マンガで表現するには、限界があるというものではないだろうか。

 それは、残酷シーンなどは、カラーで見るよりも白黒映像の方が、ドロドロした感じで、映像作品には、残酷シーンをモノクロで表現する演出もある。

 カラーにすると、あまりにもリアルだから、放送しにくいということもあるのだろうが、逆にリアルさを表しているようで、それを二人はよく考えさせられる。

 そんな小説をイメージしていると、ドラマ化された過去の映像を見たりすると、

「やっぱり、原作の方がいいよな」

 と思う。しかし、それはあくまでも小説の世界のことであって、マンガを映像化しても、そこまでは思わない。映像が色あせないという意味ではいいのかも知れないが、結局。小説が一番だということを証明したに過ぎないような気がしてくるのだった。

 この日は久しぶりに、サークル時代のことを思い出して、バスの中で、ミステリーの話をしようということになった。最初に言い出したのは、飯塚の方で、川北は、それを受けて立つという感じだったのだ。

「トリックっていろいろあるけど、君はどれが好きだい?」

 と、飯塚が切り出した。

「うーん、そうだな。俺は、密室トリックというのが、何か好きだったりするかな?」

「密室トリックというのは、プロのミステリー作家であれば、誰もがやりたいジャンルだよね。でも、実際には密室殺人などというのは、物理的に不可能なことなんじゃないかな? だから、密室を作るのではなく、密室ではなかった時間を探して、その時間に被害者が殺されたということにしないといけないという意味で、アリバイトリックのような、時間的なものを考えるか、それとも、針と糸を使ったりして作る、機械トリックのようなものかのどちらかではないかと思うね」

 と飯塚が言った。

「うんうん、それは僕も賛成だね。それに、密室トリックというと、機械トリックだけでは弱いよね。そこに、何かエッセンスを加えないといけない気がする」

「そうなんだよ。そのエッセンスが、さらに奥を深めて、犯人や他の登場人物の心理状態と結びつくことで、エッセンスが全体を覆う芳香剤になったりするんだ。昔の探偵小説で密室を扱ったトリックがあったんだけど、そこに出てきた、心理の密室という言葉が僕には印象深いんだ」

 と、飯塚が言ったが、二人がミステリー談義をしている間に一つの取り決めがあった。

 話の中で、ある小説を引き合いに出したとして、その話をしている間、それがなんという作家のなんという小説なのかということは、言わないルールになっていた。

 気になったらあとになって聞いてみるというのは許されるが、最初からそれを言ってはいけないことになっている。そういう意味でも、二人はミステリー談義をしている時、必ずメモを持っている。気になったことを書き出すという額面上の使い方だったのだが、そのうちに、このルールのために、生かすメモとして活用するようになって、メモの使い方も少し変わってきたのだ。

 さすがにこれがミステリー研究会らしさということになるのだろうが、部員が多かったのは、こういうちょっとした工夫を皆が言い出すことで、盛り上がっていったサークルだからだろう。

 特に、飯塚と川北の二人は、よくサークルに参加していて、こういう会話を皆とよくしていた。今懐かしいといって始めたのも無理もないことで、本当は昨夜してもよかったのだろうが、これまでの自分たちの事情を話すのが最優先ということで、ミステリー会話は今日になったのだ。

 それを思い出しながら、ミステリー談義は続く。

「心理の密室か、なるほど、あの小説は確かにすごかった。さすが、日本三大名探偵の一人と言われる探偵のデビュー作だといってもいいだろう」

 と、川北は言ったが、この会話だけで、心理の密室という言葉が、どの作家のどの作品かということは、判明したも同然だった。

「俺は、あの小説もそうなんだが、戦前の話として戦後に書かれた密室で、当時、日本家屋で機械的な密室トリックはなかなか難しいと言われていたのを、見事に覆した、あの作品をすごいと思っているんだ」

 と、飯塚がいったが、川北はそれが何か分かったうえで、

「うん、俺もあれはすごいと思う。何がすごいといって、あの作品は、本当は密室になんかしたくなかったんだよな、事情があって、密室にしなければいけなかっただけで、それが却って犯人の命取りになった作品という意味で、俺はすごいと思っているんだ」

 と飯塚は言った。

(実は、この作品の今の部分、これが今回のこの話と酷似するところが出てくるわけだが、ここは一種の伏線ということを申し上げておきたい作者であった。)

「密室もいいが、俺は、トリックというわけではないが、話の内容として、あたかもたくさんの人間が死んでいるかのように見えていて、実はほとんど誰も死んでいないという設定であり、しかも、しかもその中に、表に出てきていない殺人があり、その話が微妙に絡んできていることで、犯人が想定もしていなかったトリックになってしまうというような作品もあったよな。あれが、俺の中では結構すごい作品だと思うんだ」

 と、川北が言ったが、飯塚が少し考えていた。

 きっと、どの作品なのか、考えていたのだろうが、それは無理もない。この作家の作品は、結構似たような作品がある。ただ、これは、トリックをバリエーションだと表現したその人であるだけに、似たシチュエーションは、トリックのためのバリエーションを生かすという意味もあったようだ。

「他にもいろいろなトリックがあるけど、どれがいいかな?」

 と川北が聞くと、

「そうだなぁ、一人二役なんていうのも面白いよね、たぶん、それだけでは難しいから、いかに伏線を敷くかというのが、このトリックの難しさだからね」

 という飯塚に、

「うん、それはきっと、顔のない死体のトリックといわれる、死体損壊トリックに由来するところがあるんだろうね、従来から言われていることを覆すという意味で、センセーショナルだった」

 と川北がいうと、

「うんうん、そもそも、死体損壊トリックには定番の公式のようなものがあって、犯人と被害者が入れ替わっているといわれるものが多かったよね。つまり、死体の身元が誰なのか分からないという状態にすることで、犯人が行方不明になると、どっちが犯人でどっちが被害者か分からない。だけど、状況証拠などから、大体分かったところで、犯人と被害者が実は入れ替わっていたというのが、よくある考え方だけど、でもそれをさらに発展させて、実は一人二役だったということで、被害者はまったく別の人物で、被害者と思われていた人物と犯人とが同一人物だったとすれば、これは完全犯罪が成立する可能性がある。なぜかというと、被害者と犯人が一緒だということは、被害者は死んでいるわけだから、死んだ人間を探すということはしない。だから、完全犯罪なんだよ」

 と、飯塚は言った。

「そうだね、ただ、これは諸刃の剣だ。そして諸刃の剣というと、もう一つ考えられることがあって、何だと思う?」

 と、川北が聞くと、飯塚はしばらく考えていたが、さすがの飯塚もすぐには思いつかなかった。

「それはね。交換殺人なんだよ」

 というと、飯塚は少し唸りながら、

「交換殺人か、思いつかなかったな。でも、それもしょうがないことだと思うんだ」

「どういうことだい?」

「交換殺人というのは、一番難しい犯罪ではないかな? なんと言っても、利害のない人間を殺すというわけだから、いわゆる、実行犯と計画した犯人が違っているというわけだよね。だから、利害関係のある人は別の人に殺人をさせて、自分はアリバイを作っておくというものだよね? だから、犯行は露呈しにくいかも知れないけど、逆にいうと、交換殺人は、実行犯、つまり計画した犯人同士に接点があるということが分かってしまうと、容易に解決されてしまう、だから絶対に二人が知り合いだということを知られてはいけない。連絡だってつけてはいけないことになるんだ。実際にそんなことを半永久的にできるかという問題だ。いずれは何かの理由で頼らなければいけなくなるかも知れない。そこが問題ではないかな?」

 と川北が言ったが、今度はしたり顔をしている飯塚が、

「確かにそれもあるんだけど、大前提として、俺は交換殺人などというのは、絵に描いた餅ではないかと思っているんだ。なぜなら、この犯罪には致命的な欠陥があってね。というのは、最初に実行した方が絶対的に不利だということなんだよ。というのは、先に自分の殺してほしい相手を被害者と利害関係にない赤の他人が殺してくれたわけだろう? そうなれば、いくら約束をしたといって、自分が危険を犯してまで、人のために殺人を犯す必要がなくなるのさ。相手は怒るだろうが、かといって、相手が警察に行くわけにはいかない。何しろ実行犯として、すでに人を殺しているわけだからね。かといって、二人が同時にそれぞれのターゲットを殺すということも無理なんだ。だって実行犯が殺してもらっている間に、自分には完璧なアリバイを作っておく必要がある。アリバイがあるから、交換殺人が成立するわけであって、そうなると、同じタイミングで犯行を犯すことはできないんだ」

 と、言った。

「うんうん、その通りだ。そして、この交換殺人や一人二役トリックと、密室や死体損壊トリック、さらにはアリバイトリックというのは、単独のトリックだったとすれば、この二種類には決定的な違いがあるんだ。分かるかな?」

 と言われた飯塚は、

「トリックの基本だね。一人二役や、交換殺人、というのは、トリックがその種類の犯罪だと分かってしまえば、犯人側の負けなんだ。そこから推理も捜査も順当にいけば、すぐに真実が分かるはずだからね。だけど、密室や死体損壊、アリバイなどのトリックは、最初にそういうトリックだということを捜査員に示すことで、そのトリック自体の謎を解くことから始まるという意味での違いなんじゃないかな?」

 と答えた。

「それは確かにそうだ。そういう意味でトリックにもいろいろあるけど、大きく分けると、意外と二つか三つくらいにしかならないのかも知れないな」

 と川北がいうと、

「いや、中には単独でのトリックのようなものもあるんじゃないかって最近は思うんだ」

「どういうやつなんだい?」

「俺が思うに、叙述トリックというのがそのうちの一つではないかと思うんだ。これは、実際の事件ではありえないけど、あくまでも、探偵小説という読みもののジャンルとしてのトリックだね。これに関しては、マンガの世界では難しいかも知れない」

 と飯塚は言った。

 叙述トリックというのは、書き手が、読者への挑戦とでもいうような小説作法である。元々、探偵小説には、

「やってはいけないこと」

 というのがいくつかあり、たとえば、

「いきなりラストシーンで出てきた登場人物を犯人として指摘してみたり、まったく事件とは関係のない人間を犯人だったかのようにしたり、事件を偶然、第六感などで解決に導いてはいけない」

 などというのがあり、それを、

「ノックスの十戒」

 と言われるものが存在する。

 ただ、このノックスの十戒で一つ疑問に感じることとして、

「登場人物に、中国人を登場させてはいけない」

 というのがあるのだが、その心が実はよく分からない。

 要するに、そのほとんどは、

「書き手が読み手にヒントも何もなしに、勝手に解決してはいけないということであり、探偵小説は読者への謎解きも加えたところの娯楽小説だ」

 ということだ。

 つまり、サッカーでいう、オフサイドのようなものがあってはいけないということで、あくまでも、読者に考えさせなければいけない。そこで、いきなりラストの登場人物が犯人だったなどというのが許されるわけはないのだ。

 叙述トリックというのは、そういう意味で難しい。

「読者をいかに、欺くか?」

 ということが、叙述トリックなので、ある意味叙述トリックというのは、

「心理トリック」

 と言ってもいいだろう。

 そのため、小説の中で、伏線をいかに敷くかというのが問題になってくる。ちゃんと伏線さえ敷いていれば、叙述トリックがいかに読者に対して少し卑怯に見えることであっても、

「最初に、ヒントを与えている」

 と言えるものがあれば、それは叙述トリックとして、十分に生かせるものであるといえるのだ。

 そのあたりの話を、二人はじっくりとしていた。

 その代表例として、一つあげられた作品に、戦前の探偵小説であったが、内容としては、完全に死体損壊トリックである、

「顔のない死体のトリック」

 が根幹だったのだが、それを暈すために、必ず、証人を立てていて、警察も探偵も、その人のいうことであれば、誰もが信用するというような人であった。

 その人は素直で純粋な人間なのだが、逆に神経質で、見たもの聞いたものを、哲学の講師をしていることもあって、彼自身が、かなり歪んだものの見方をしてしまう人間だった。それを表す内容として、冒頭のプロローグにて、空を見た時、まるでオペラに出てきた生首を形容する表現をしたことで、犯人は、

「彼を自分たちの計画に必要な証人に仕立て上げる」

 という発想を思いついたということであった。

 この話は、伏線として、最初の1ページのところで、大いなるヒント、いや、挑戦状を作家から与えられていたのだ。そのことを最初に読者が感じるかどうか、これが問題なのだ。ある意味、まだストーリーの全貌が見えてこないところで伏線を敷くというやり方は。実に画期的で、ある意味的を得ているといってもいいのではないだろうか?

 それを思うと。

「叙述トリック」

 というのも、トリックとして十分にありえることなのだ。

 そんな探偵小説のトリックの話をしていたが、川北が、少し話の矛先を変えた。

「探偵小説というのは、今でいうホラーや、SF、などの要素も踏まえたところのような気がするんだ。今ではミステリーや推理小説とか言っているけどね。でも、そんな探偵小説と呼ばれていた時代に、本格派探偵小説であったり、変格派探偵小説などという言われ方をしていたのを知っているかい?」

 と言い出した。

「ああ、聞いたことがある。誤解されやすい言葉のようだけど、本格派というのは、トリックや謎解きなどを、優秀な探偵が解明していくという話であり、いわゆる探偵小説の正統派と言ってもいいような話だよな。でも、変格派というのは、それ以外の小説で、トリックや謎解きというよりも、ストーリー性であったり、猟奇殺人や。耽美主義と言った、今のミステリーにはあまりないようなものもあったという。SF、ホラーなどを織り交ぜた小説をいうのではないかな?」

 と飯塚がいうと、

「まあ、そういうことだね。俺が考えるのは耽美主義というもので、いわゆる、モラルや理性、秩序というものよりも、最優先で美というものがあるという考え方だよな。確かに。美というものは、大切であるが、考え方が歪んでしまうと、犯罪としてのストーリーになりやすくもある。そもそも耽美主義というのは芸術社会の中から生まれたもので、芸術自体が、美を至上主義にしていることもあり、芸術の耽美主義は当たり前のことなんだ。そのうちに犯罪を耽美主義に置き換えることで、猟奇犯罪を正当化する考えも出てきたのかも知れない。特に。猟奇犯罪であったり、異常性癖による犯罪などは、美を追求するために、美を自分だけのものにしておきたいという発想から生まれた心理学的な犯罪心理ではないかと思うんだ。耽美主義こそが、変格小説の礎だと思っている意図もいるかも知れない。そこまで歪んでしまったのは、探偵小説に責任があるということなんだろうか?」

 と、川北は言った。

「そんなことはないと思う。人間、少なからず、敵対する人間がいるというもので、逆に仮想敵がなければ、人間は張り合いをなくし、生きる支えを失ってしまう動物であり、それを、「必要悪」 という形で表現していたりする」

 と飯塚が付け加えた。

 それを、今度は飯塚が、

「必要悪というものが、本当にあるとすれば、どうなんだろう? 警察の中には、本当の極悪を成敗するため、あるいは、中和する効果を求めて、そこまで世間を苦しめない悪とされているものを容認していたりする。たとえば、パチンコ業界であったり。やくざの中でも、巨大な組織との間の仲介役のような形で容認していたりする組織もあったりする。大きな悪を抑えるために、小さな悪を利用するというのが、必要悪というものであって、勧善懲悪の人間は、それを認めようとしないとするならば、完全に融通が利かないといってもいいのではないだろうか?」

 というのだった。

「それは難しいところだよな。抑えのために悪を使うというのは、現実的に考えると仕方のないことだが、すべての悪をこの世からなくしてしまうというのが勧善懲悪の考え方だとするならば、この争いは、永遠に終わることはない。なぜなら、必要悪を滅ぼして、悪をゼロにしてしまったとすれば、強い悪は必ず蘇る。そのために、また必要悪をよみがえらせようとしても、もう無理なのだ。そうなって気づいても後の、祭りであり、必要悪というものが、細菌やウイルスの世界でいうところの、集団免疫が、一種の必要悪だという考え方がある。これは、ことわざでもあるように、「毒を持って毒を制する」という言葉に表されるがごとくのことだよな」

 と、川北が言った。

「目には目を歯には歯を」

 という言葉もあるが、まさしくその通りである。

 それらの発想をいかに考えるか、それが必要悪というものをいかに扱って、本来駆逐しなければいけないものが何かを見極めないと、本来の敵をやっつけてしまい。墓穴を掘る形になってしまうのは、実に情けないことであろう。

 そんなことを考えながらバスに乗っていると、次第に都会の光景に車窓が変わっていき、盛岡の街に入ってきた。

 盛岡の街は、村とはまったく違い、ほとんど雪は残っていない。きれいな晴れた天気で、太陽が眩しかった。

 それだけに、村での雪崩の危険が現実味を帯びてきたということでもあろうし、気にしなければいけないところであった。

 川北はともかく、飯塚はどうしても気になっていたのだ。

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