第5話 捜査経過内容

「じゃあ、警察に通報するまでのことを、お話していただきましょうか?」

 と桜井警部補は話題を変えた。

「ええ、あの時は、まず私は、ロビー階にある受付にいたのですが、そこに、708号室から内線が入ったんです。このマンションは、インターホンで、私どものいる管理人室や受付に内線電話を掛けられる仕組みになっているんですが、その内容として、救急車を大至急よんでほしいということだったんです。それで私は急いで救急車を呼び、救急車が到着してから、救急隊員と一緒に、708号室に入ったんです」

 と、杉本管理人がいうと、

「じゃあ、病人がいるから、救急車の手配をしてきたというんですね?」

 という桜井警部補に対して、

「ええ、そういうことなんです」

 と、管理人は答えた。

「部屋に駆けつけた時、通報した人は?」

 と聞かれた管理人は、

「それが、もうその人は部屋にはいなかったんです。それで私がカギを開けて中に入ると、救急隊員が、倒れている人を覗き込むと、私に対して、この人はもう死んでいるので、警察に連絡してほしいと言われたんです」

「なるほど、それで110番されたというわけですね?」

「ええ、そうです。だから、今日はまず119番に連絡を入れてから、そのあと、少しして110番に連絡したということになります」

 と、管理人は言った。

 普通であれば、そんなに一日に何度も119番や110番をするようなことはないだろう。もっとも、管理人という立場であれば、通報する可能性は高いかも知れないが、管理人の話によると、このマンションではそんなたいそうなことは今までになかったというような話のようだった。

「管理人さんは、最初に救急車を呼んでくれと言ってきた人に、心当たりはないですか?」

 と聞かれて、

「何しろ電話での声だけですからね。よくは分かりません」

「この部屋の本来の持ち主というのは、いったいどういう人なんですか?」

 と聞かれたが、

「川崎明美さんという女性の一人暮らしだったと思います」

「ほう、女性の一人暮らしというと、このマンションでは家賃も大変なのでは?」

 と聞かれたが、

「以前は旦那さんと住んでいたそうなんですが、離婚されたということで、今は一人暮らしをされていますね」

「今日は在宅されているわけではないようですね?」

「ええ、確か、2日くらい前だったでしょうか? 大きなカバンを提げていたので、旅行ですか? と声をかけると、ええ と言って、苦笑いをしていましたね」

「その時の様子は?」

「別に怪しむところはなかったですね。私には、普通に照れ笑いをしているようにしか見えませんでしたから」

 と管理人は言った。

「ということは、旅行に出かけた部屋の住民が留守である間。以前、マンションに住んでいた人が、死体となって発見された。最初は、生きていたのか、救急車を要請する依頼があり救急車を呼び、部屋に入ってみると、すでに患者は死んでいて、救急車を依頼した人はもういなかったということですね?」

「そういうことになりますね」

「じゃあ、結構、疑問点も多いですよね? まず、どうして発見者は、自分で通府せずに、管理人に通報を依頼したのか? ということですね」

「それは私も思いました。でも、私も気が動転していたので、言われるままに救急車を手配したんですけどね」

「それと、その人が誰で、どうして救急車が来た時にいなかったのか? ということ。まあ、ただ苦しんでいる人を発見したのだけど、放っておくわけにはいかない。だけどその人に、他に急用があったとも考えられなくもない。だから、管理人に後を託そうと思ったのだとすれば、辻褄は合うけど、少し疑問も残りますけどね」

 と、桜井警部補は言った。

「それに、この部屋が密室だったということが気になります。カギは私が開けましたからね」

「ここは、オートロックではないと?」

「ええ、違いますね」

「じゃあ、発見者が、自分でカギを持っていて、それでカギをかけていなくなっていたということでしょうか?」

「そういうことだと思います」

「それにしても不思議ですね。何もわざわざカギを掛けることもないのに」

 という桜井警部補の疑問ももっともだった。

 カギをかけておかなければならない理由でもあったのか、それは、いなくなった人に聞いてみるしかないことだったのだ。

「他に何か、気が付いたことはありませんか?」

 と、桜井警部補は、再度管理人に聞いたが、

「とりあえず、そんなところでしょうかね」

 と、管理人も、まだ気が動転したままなので、落ち着くのを待つしかないと思い、

「もし、何か思い出したことがありましたら、K警察署までご連絡ください」

 と、桜井英富浩は言った。

 ここの警察管轄も、消防署と一緒で、隣のK市を中心とした管轄で、このA市も網羅するようになっていた。K警察というのは、ちょうど、A市との境界線に近いところでもあるので、このプラザコートまでは、パトカーであれば、10分で到着できたというわけであった。

 桜井警部補は、捜査一課の警部補で、以前は、県庁所在地のある警察署の捜査一課で、刑事だったのが、警部補昇進と同時に、このK警察への赴任となった。

 別に左遷というわけではなく、ちょうどK警察の警部補が、定年ということで、一枠空いてしまったことで、桜井に白羽の矢が立ったというわけだ。

 県庁所在地の警察署では、警部補はすでに三人いた。そういう意味では、誰か一人ということでの桜井だったのは、別に左遷ということではないだろう。

 それに、K警察の署長が、桜井を自ら指名したという。K警察の署長は、以前、桜井が刑事をしていた警察署で、副署長をしていた。その時に刑事課のウワサで、

「桜井刑事は、実に切れる」

 ということを聞きつけていたので、当時から注目していた。

 そこで、今回桜井が警部補に昇進したということが分かったので、すぐに、彼の転属を希望したのだった。

 それが、人事の方と合致したこともあって、とんとん拍子に話が進み、もう他の人との間での選択肢はなくなっていた。

「桜井君には、K署に行ってもらいたい」

 と、署長に言われ、

「喜んで」

 と答えたのは、桜井警部補の方も、以前から尊敬していた元副署長が署長をしているというK警察への赴任だったので、この、

「喜んで」

 と言った言葉もまんざらではなく、本心からのことだったのである。

 人事において、ここまで相思相愛の赴任というのも、実に爽快で、まるで竹を割ったような潔さが感じられ、

「人事って、いつもこうだったらな」

 と、思われるほどだったのだ。

 署に戻ってしばらくすると、鑑識から正式な報告が上がってきた。

「死因は、毒殺、青酸カリによるもの。そして、青酸カリが入っていたと思われるものが現場から消えていることで、殺人であると断定。そして、死亡推定時刻は、初見のように、通報があった午後五時の一時間くらい前、それが、ちょうど、管理人の話していたような、救急車の要請があってから、少ししてのことだということで、証言との辻褄は合っている」

 ということであった。

 それを聞いて、桜井刑事は口を出した。

「ということは、この事件を犯人は、殺人事件にしたかったのかな?」

 と言い出した。

「というのは?」

「わざわざ青酸カリの混入したものを持ち去っているわけだろう? そんなことをしなければ、自殺の可能性だって警察は考えるはずなのに、何も凶器になったものを持ち去るということは、殺人事件になったとしても、それを持ち去らないといけない何かがあったということになるんじゃないかな?」

 と桜井がいうと、

「そうかも知れないですね。指紋がついていたりしたのかな?」

「だったら、拭き取って、その後で被害者に握らせえるとかできたでしょう?」

 と、部下の黒岩刑事が口を挟んだ。

「よほど時間がなかったのか、それとも、死後硬直が始まっていて、握っていたのと同じような場所に指紋をつけるのが難しかったのではないかな?」

「それは考えられると思いますね。でも、これで殺人事件と断定されたわけなので、捜査本部ができることになりますね」

「うん、そうだな」

 ということになった。

 その言葉通りに、翌日には、捜査本部がさっそくできることになった。とりあえず、捜査官は、8名ほどで編成されることになった。

「では、黒岩刑事から、今回の事件のあらましを説明していただきましょう」

 ということで、黒岩刑事は、分かっていること、事情聴取したことを、時系列に沿って話した。

 話の内容のほとんどは、前述のような、管理人の杉本が話したないようだった。

「この話のほとんどは、管理人の杉本氏の話からです」

 ということを、黒岩刑事はいうのを忘れていなかった。

 そして、これも前述のような鑑識の話も織り交ぜる形で報告が行われ、桜井警部補が口を開いた。

 桜井警部補の立場としては、

「現場責任者」

 ということであり、本部長には、警部の門倉氏が就任していた。

「この事件では、まだいろいろな謎があると思います。言い換えれば、分かっていないことがたくさんあるのではないかということですね。まず一つは、被害者が殺された708号室という部屋は、被害者の部屋ではなく、一年前に引っ越していった男だということですね。そして、ちょうどこの部屋の住民である女性は、2日前から旅行に出かけているという。それともう一つは、管理人にインターホンで連絡を入れ、救急車の手配をさせた男がいるということ。どうしていなくなったのかということもありますね。死んだのを見て怖くなったというのは、逆だと思うんです。消えてしまえば、却って疑われますからね。まだまだ他にもいろいろ疑問点はありますが、とりあえず、ここからになりましょうか?」

 と桜井警部補は言った。

「一年前に引っ越していったということですが、その時に何かのトラブルがあったというような話は聞いていないということです。これは管理人と、マンションの数部屋に聞き込みをしたところでの話ですけどね。そして、被害者の山岸という男ですが、実に暗い目立たない人物だったようで、一年前まで住んでいた部屋の近くの住民によれば、顔も覚えていないほどで、挨拶すらしたことがなかったと言います。それほど、陰気で人を避ける性格の男だったようですね」

 と黒岩刑事が報告した。

「その山岸という男が住んでいた部屋というのは?」

「508号室で、今度の殺人のあった、ちょうど2階下の部屋になりますね」

「なるほどそういうことなんだね? じゃあ、そんな陰気な山岸だから、管理人が顔を見ても分からなかったというのも、理屈に合うかも知れないね」

「そうですね、あの管理人は結構下の受付にはなるべくいるようにしているということなので、住民の顔は認識しているということでした。でも、さすがに山岸さんだけは1年経ってしまえば、忘れていても無理もないと私も感じました」

「ところで、肝心の708号室の川崎明美さんですが、その後、どこに旅行に行ったのか分かりましたか?」

 と聞かれた黒岩刑事は、

「それが、部屋の中をいろいろ物色したのですが、妙なことに、旅行のパンフレットや連絡先のメモなどに、どこか旅行に行くようなことを書き残しているわけではないようなんです。川崎さんという人は、カレンダーに予定があれば、それをちゃんと書いているんですが、2日前の日付のところには、花丸というんですか? 目立つように日付をデコレーションしているんですが、肝心の予定については、アルファベットのTという文字が書かれているだけで、それが何を意味しているのか分からないですね」

「旅行先のイニシャルじゃないのか?」

 と桜井警部補は言ったが、

「でも、旅行先をわざわざイニシャルで書きますか? イニシャルで書くというのは、何か後ろめたいことがあって、その名前を書けないからイニシャルでごまかすというのはよくありますけどね」

「じゃあ、今度の旅行が不倫旅行で、不倫相手がすべて計画しているから、あの部屋に旅行関係の資料がなかったとも言えるんじゃないか?」

「そうかも知れません。私はそこから先を想像していて、今回の旅行は、彼女にとって、いや二人にとって、あまり楽しくないものではないかと思えるんですよ。旅行にいくのかと聞いた人に対して、苦笑いをしたというのは、あまり気が進まない旅行だったのかではないかと思ってですね。だからカレンダーにもイニシャルだけを書き込んだとかですね」

「それは言えるかも知れないな。ひょっとすると、不倫の清算のための旅行で、ひょっとすると、思い出作りのつもりだったのかも知れない」

「私もそんな気がします。一種のお忍びでもあったんでしょうね。楽しい思い出になるのであれば、旅行を楽しむオーラみたいなものを感じることができるでしょうし、せめて、相手の名前はイニシャルだけでも、旅行先や、時間の記入くらいはするでしょうからね」

「じゃあ、花丸というのは、どういうことだったのかな?」

「私が考えるに、花丸というのも、赤い色のマジックではなく、黒色だったんですよ。彼女は楽しみなイベントと思しき日には、必ず赤などの明るい色を使っていましたからね。それを思うと、重要な日ではあるけど、決して嬉しくも楽しくもない。決意の日だったのではないかとですね」

 と黒岩刑事はいうのだった。

「とりあえず、そのTというのが、旅行先なのか、彼女が不倫をしているとすれば、その相手なのかを調べる必要がある。黒岩君、お願いしよう」

「分かりました」

 ということで、黒岩刑事の報告が、桜井警部補の最初の疑問に対して行われた。

「さて、次に気になったのは、この部屋から管理人室に連絡を入れていたにも関わらず、救急車が来てから、消えてしまった人のことであるが」

 と桜井刑事がいうと、黒岩刑事の隣に控えていた山崎刑事が口を開いた。

「実はその件では、私が調べてきました。部屋の中に残った指紋から、該当するようなものは発見できませんでした。管理人に聞いても、声に聞き覚えはないというし、どちらかというと、若い人で、声の感じは上ずっていたので、慌てているようには聞こえたけど、そんなに支離滅裂な状態になっているほどではないということでした。ただ、管理人が気にしていたことなんですが、そもそも、部屋からのインターホンというのは、部屋の呼び鈴の横にあって、普通に知らない人であれば、それが管理人室や受付に直通になっているとは分からないのではないかと言っていました。確かにそれを聞いて確認しに部屋に行きましたが、確かにそうですね。しかも、慌てているのであれば、なおさらそんなことが分かるわけはない。だからその人は、このマンションのことをよく知っている人ではないかということなんですよね」

 という。

「じゃあ、このマンションの住人ということかな?」

「そうかも知れませんが、そうだとは限らないというのもありますね。例えば、よくあの部屋に遊びに行っている人だったり、実家の家族などはわかっているんじゃないでしょうか?」

「そうだな。その線から捜査を続けるのも大切かも知れないな。だけど、その人がなぜ救急車を管理人に呼ばせたのかという疑問があるよな。部屋のことをよく分かっているのであれば、部屋から電話を掛けることもできるだろうし、自分の携帯から掛けることもできるだろう? まさかケイタイ電話を持っていないとか、そういうことなのか? あるいは、壊れていて使えなかったとか?」

「それは、あまりにも考えすぎではないかと思います。そこまで都合のいいように壊れたり、持っていなかったりするものでしょうか?」

「まあ、確かにそうだよな」

 と桜井警部補も、自分が考えすぎていることを感じた。

 それは、自分が、

「犯人の立場になって考える」

 ということを今まで考えてきたことで、数々の事件を解決してきたという自負があったからだ。

 何もすべてのことに犯人の立場に立って考えるという必要はないのだろうが、他の連中にはなかなかできないことなので、

「せめて自分が」

 と思っているうちに、

「犯人の立場で考えさせれば、桜井刑事の右に出るものはいない」

 と言われるようになり、いつしか、それが署内でも有名になり、桜井刑事という名前を県警内でも有名にしたのであった。

 だから、桜井警部補が刑事の頃は、

「うちの署にほしい」

 などと言ってくるところも結構あったが、地元署の方で手放すはずもない。

 それが分かっていることで、ほとんど転勤はなかったのだが、今回は、署長が元副署長ということで、警部補に昇進したタイミングを狙って、見事にヒットしたのだった。

 転勤に関しては、最初から分かっていることなので、それほど気にはしていなかった。ただ、今まで第一線で捜査してきた中で、自分に逮捕されたことで更生した人たちのことだけが気がかりだった。

 転勤に際して、先輩の警部にそのことを話、

「くれぐれもお願いします」

 と言って、その人に託してきたのだ。

 桜井警部補のそんな性格や捜査方針を、下々の刑事は知らない人も多いだろう。だから、中には、

「桜井警部補って、どうも甘く考えすぎるところがないだろうか?」

 と感じている刑事もいるようだった。

 今回の担当である、黒岩刑事、山崎刑事ともに、まだまだ桜井刑事の本心や性格を見抜くには時間が掛かるだろうと、思われた。

 それにしても、捜査員としては、被害者側について考えすぎても、犯人側について考えすぎても、考えが偏ってしまい、同情などが生まれることで、真実を見失ってしまいかねないと思っていた。

 しかし、

「警察というのは、罪を裁くところではなく、真実を解明するところなんだ。そこから先の、犯人や被害者の気持ち、そして正悪というものは、起訴した後に裁判所で明らかにされていくことになる。俺たちは、犯人を探し出し、そして、何が起こったのか、その事実を解明していくことで、そこから、真実を解明するのは我々ではないんだ。我々が解明した事実を元に、真実に本当に迫るのは裁判所なんだ。だから、検事がいて、弁護士がいる。それぞれに真実に迫るために、行うね。そういう意味で、事実は表に見えていることで、捜査の段階で見えてくるだろう。事実が証拠というものの裏付けで見えてくるものだとすれば、真実は事実からだけでは見えてこないところもある。心情だったりが絡んでくることで、勧善懲悪だけでは解明できないこともある。下手をすれば、真実は事実よりもつらい場合だってあるかも知れない。そう考えると、裁判に入ってからの結審までにかなりの時間が掛かったり、さらには、裁判において、明らかにされる人間模様が、本当は見たくないものだったりする場合だってある。真実は常に正しいとは言えないんじゃないかと私は思うんだ」

 と、桜井警部補はよくそんな話をしていた。

 だから、警察組織は、縦割り世界なのかも知れない。

 人情や勧善懲悪の考え方よりなによりも、まずは、事実を解明することが大切であり、そのためには、少々の人の心に土足で立ち入ることも否めないということだってあるかも知れない。

 桜井警部補は、ずっと警察畑で捜査をしてきたので、そんなことは百も承知であったが、

「事件を解明するには、事件を起こすのも、被害者も人間であるということを理解したうえで、人情に入り込まないと見えてこない事実だってあるかも知れない。それを無視して突っ走ると、その反動はどこかで必ずくる。下手をして、自白に追い込んで起訴したはいいが、裁判の途中で、警察に自白を強要されたなどと証言されると、最初からひっくり返される形で、警察の努力が無駄になるどころか、起訴してくれた検事の顔に、泥を塗ることにもなりかねないんだ、このあたりは気を付けておかないといけない」

 とも言っていた。

「それにしても、どうして、一年前に引っ越した人がいきなり現れて、前住んでいた部屋ではないところで殺されなければいけなかったんでしょうね?」

 と、一人の捜査官が言った。

「その件ですが、先ほどお話しました通り、被害者は、実に暗い人間で、あまり人付き合いもうまくできる人間ではなかったということで、捜査にはまだまだ時間が掛かると思いますが、とりあえず分かっている範囲だけでいうと、山岸という男は、県内にある不動産関係の会社に勤めているようなんです。不動産関係の営業所間での転勤で、この街から、だいぶ離れたところに飛ばされたことで、あのマンションから出ることになったそうです。もちろん、マンションで知り合いもいませんから、密かに引っ越したそうなんですが、隣の住民も、いつ引っ越したのか知らなかったようで、反対側の隣の人は、引っ越したということさえ知らなかったと言います。今は、山岸の住んでいる部屋には別の住人が引っ越してきていて、その人も暗い人だというので、知らなかったというのも無理もないことかと思います」

 と黒岩刑事が答えた。

「どうして転勤になったのかな?」

「それは、会社の話では、通例の転勤だということでした。会社内では、暗い性格というのもあってか、可もなく不可もなくという人だったようです」

「そんなに暗い人間が、よく営業なんて務まるな」

「まあ、お客さんの中には、営業が鬱陶しいと思っている人も少なからずいますからね。そういう意味で、必要以上のことを話さない山岸のような営業も、それなりに客受けという意味ではよかったんじゃないですか?」

 と黒岩刑事は言った。

「確かに、家やマンションのような高価なものを買おうという人にとって、変に明るく、そのせいで軽く見える人はあてにならないと思うのも無理のないことなのかも知れないな。そういう意味では、黒岩刑事の言う通りなのかも知れない」

 と、桜井警部補は言った。

「今の事務所での山岸もそうなのかい?」

「はい、そうですね。社内受けは正直していないようです。実際に、同じ営業の人でも、何で自分と山岸の営業成績が変わらないことに不満を持っている人も多いくらいですからね。彼らがいうには、自分たちは一生懸命に、営業という仕事に真摯に向き合っているのに、山岸は嫌々やっているようにしか見えない。営業があんなに無表情だったら、普通なら誰も相手をしないと思うはずだといっていましたね」

「確かにそうだよね、まるで通夜のような姿勢で営業されても、この人何を考えているのかって思うのが関の山なんだろうけどね」

 と、桜井警部補は言った。

「管理人は、山岸について何か言っていたかい?」

 と桜井警部補が聞いた。

 初動捜査の段階で、最初に聞いたのは、桜井だったが、そのあとで落ち着いて考えてなにか思い出すことがあるかも知れないと思ったのだ。

「目新しい情報はありませんでしたね。ただ、一つ気になったこととして、山岸にしては、転がっていた死体は小さく見えたといっていましたね。倒れているからなのかも知れないと、そのあと言っていましたけどね」

 と、黒岩刑事は言った。

「とにかく、山岸という人物に対しては、皆一律に、暗い人間で、何を考えているのか分からないところがあるというイメージなのかな?」

 と桜井警部補が聞くと、

「ええ、その見解でいいと思います。だから、このマンションでも誰か知り合いがいたとは思えないんですけどね」

 と聞くと、

「じゃあ、殺された山岸と、元々のこの部屋の住民である、川崎明美という女の関係については、何か分かっているかね?」

 と言われ、

「いいえ、それは分かっていません。何しろ、川崎明美が行方不明ということなので、何とも言えないですね」

 と黒岩刑事がいうと、

「じゃあ、川崎明美についてはどうなんだい?」

 と聞くと、今度は、山崎刑事が手を挙げて立ち上がった。

 メモを見ながら話し始めたのだが、山崎刑事も何となく口が重たい感じがした。

 正直、ハッキリとしたことが分かっていないのだろう。メモを持っているが、そこにどれだけのことが書かれているというのだろう。

「川崎明美という女性に関しては、調べてみると、管理人さんの言う通り、3年前に離婚して、今では一人で暮らしているようです。離婚の原因というのが、夫の不倫だったということで、慰謝料を貰い、住まいは今のマンションで住むことを条件に、旦那には出ていってもらったということですね。よくある話の一つというところでしょうか。そして、今は夜の街で水商売をしているようです。場末のスナックに勤めているということでしたね」

 というのが、山崎刑事の話だった。

「夜の店ということは、じゃあ、今回の旅行というのは、スナックの客とねんごろになって、それで旅行としゃれこんだって感じなのかな?」

 と、桜井警部補が聞くと、

「どうもそうではないらしいんです。彼女の勤めているスナックに行ってみましたけど、彼女を贔屓にしている客はいるということですが、その人は、前の日に、彼女を訪ねて飲みに来たそうなんです。そこでママさんから、彼女が休みだと聞かされて、せっかくだからって、他の女の子と楽しく飲んでいたということでした」

「ということは、川崎明美という女は、贔屓の客がいたとしても、完全に彼女目当てだというわけではないということかな?」

「そうなりますね。ということは、今回の旅行は、男との旅行という線は薄いかも知れないですね」

「でも、店に関係のないところで、密かに付き合っている人がいたのかも知れないぞ」

 と言われた

「そうかも知れないですが、そのあたりのことも店の人に聞きましたが、ハッキリとは言えないけど、女の勘として、彼女のようなタイプは、誰かいい人ができたら、口では言わないけど、人に知られたいという欲求があるようで、少なくとも、何かを隠しているというオーラが出てくるらしいんです。それが彼女には見えないというのが、皆の意見でしたね」

 というのを聞いて、桜井警部補も納得した。

 もっとも、桜井警部補も、同じ考えであり、山崎刑事の情報には、かなりの信憑性があると思うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る