Chapter2 [LAEVATEINN]

Chapter 2-1

 世界は今まさに滅びの時を迎えようとしているらしいが、扇空寺辰真にとってそんなことはどうでもよかった。


 往来には「終焉の魔神ラグナロクが現れる日は近い」だのなんだのと吹聴して回る終末思想のカルト教団が日に日に勢いを増してきていたが、それすら自分の身の回りでなければ勝手にやればいいという始末だ。


「で、お前は世界の危機を前に、私の事務所でのんびり油を売っているというわけか? え?」


 大きな事務机に掛けて、山積みになった書類にひたすら手を加えているのはこの事務所の所長である。名を赤羽サツキという彼女はアッシュブロンドの髪を腰まで伸ばしている整った顔立ちの美女だ。背は高くプロポーションも抜群に良く、人通りを歩けば振り返るものも少なくはないだろう。年齢は定かではないが、恐らくは二十代後半から三十代半ばといったところか。


 対して辰真はともすれば十代にすら見えるあどけなさののこる顔立ちで、逆立つような癖の強い髪型がそれを助長していたが、二十七歳のれっきとした成人男性である。


 事務所はオフィスビルの三階に位置し、おかげでかなり広い面積を誇っているがデスクは一つしかなく、残りのスペースは書類棚、ソファ、テレビといったものから炬燵、冷蔵庫、システムキッチンといった家電まで備え付けてある。それもその筈でここは赤羽サツキの事務所兼自宅になっており、更に言えばこのビルまるごと一棟が彼女の所有物だというのだから驚きだ。


「暇ならコーヒーでも淹れてくれ。お前の愛する私が、お前のためにこうして仕事に精を出しているというのに、お前は優雅にソファに寝っ転がってまったり気分かと言っているんだよ」

「誰も愛してねぇよ」


 辰真は立ち上がり、しかし悪態は吐いたものの素直にキッチンへ向かい湯を沸かし始めた。マグカップを二つ出し、インスタントコーヒーの粉をカップの中に入れて湯が沸くのを待つ。やがて薬缶が音を立てると直ぐにカップに注いでそのままサツキの元へ持っていく。


「ほらよ」

「ああ、ご苦労だったな。置いといてくれ」


 どこまでもぶっきらぼうな態度には頓着せず、彼女は作業を続けている。辰真は机の端にカップを置いて、さっきまで寝転がっていたソファに腰掛けた。手の中のカップは白い湯気を立てていて、まだ飲めそうにない。


 だがそんな辰真を尻目に、一旦作業に切りを付けたサツキは立ち上がり湯気の立つコーヒーをそのまま煽るように口にする。とんでもない舌だ。


「ほら、お前向きの依頼だ」


 サツキは書類の山から一枚を抜いて、辰真に向けてひゅ、と投げ渡した。辰真は書類に目を通すと、ずっとやる気のなかった表情に笑みを浮かべる。その目はようやく自分の出番が回って来たことに歓喜しているのが一目瞭然であった。


 カップと書類をテーブルの上に置いて、辰真は立ち上がる。


「行ってくるぜ、魔法使い」

「さっさと行って来い、甲斐性なしの鬼」


 辰真は事務所のドアを開ける。終焉を目前に控えた世界の空は、そこに浮かぶ終焉りの象徴を除けばいつも通り空々しく晴れ渡っていた。


     ※     ※     ※


 逆さまの巨城、ニブルヘイムが現れたのはつい一カ月ほど前のことだ。空に浮かぶ不気味なその城が現れて以来、元魔と呼ばれる化け物が世界を跋扈し始めた。


 それから世界には終末思想が溢れ始め、ニブルヘイムはラグナロクの住まう城であると崇め祭るものも少なくなくなってしまった。空虚な世界に終わりを告げ、世界は新たな時へ導かれるという何の根拠も中身もない思想を、人々は日を追う毎に信じるしかなくなっているのだ。世界は緩やかに、だが確実に滅亡へのカウントダウンを始めていた。


 だがそれを「興味ない」の一言で片付けてしまった辰真も伽藍洞な人物であるかもしれない。


 一振りの刀を手に、辰真は町外れの廃工場を訪れていた。潰れてからもう何年も経っているらしく、外層は錆び付いて赤こけており、トタンの屋根は所々が剥がれて鉄骨が見え隠れしてしまっている。


 辰真は遠慮なく工場の扉を開け放った。中にいたのは何重もの鎖に繋がれた狼のような化け物、元魔だ。奴は鎖に繋がれてこそいるが、近付けばどんな人間だろうと喰い殺される。こいつの処分こそ、赤羽サツキの元へ届けられた依頼に他ならない。危険度最高クラスの元魔を多くの犠牲の上で捕えることができたものの、とどめを刺すことで出来ずにいるのが今回の依頼主だ。


「なんだ、貴様は」


 入口から自身を見つめてくる辰真に、元魔は呻くような声で問いかけた。男の声も女の声も、子供も老人も全て重なり合ったような声だった。人語を介すだけの知性を持つ元魔はそういない。基本的に元魔と言えば、本能のままに破壊と殺戮を繰り返す猛獣ばかりだ。


「扇空寺辰真。鬼だ」

「ほう……。地獄の鬼が迎えにきたとでも言いたいか、人間」


 辰真は無造作に元魔の元へ歩み寄る。その目には慈悲など欠片もない。ただまっすぐに元魔に向けて刀を振り下ろす。


「そういうことだ」


 振り下ろした刀は元魔を繋ぐ鎖を破壊していた。身を縛るもののなくなった元魔は、これで晴れて自由の身である。一旦辰真から距離を取った元魔に切っ先を向け、開戦の狼煙を上げた。


「派手にやろうぜ、化け物通しな」


 牙を剥いて飛びかかってくる元魔を刀で払いのける。続けて襲いかかってくる元魔の牙も、辰真は最小限の動きでかわしていく。扇空寺流と呼ばれる古流剣術を極めた達人の動きだ。その動き、構えに隙はなく、斬り殺すことなど造作もない。


「その程度じゃあねぇだろう? それじゃあ、飼い主に尻尾振ってる犬っころと何が変わらないって?」

「随分と余裕だな、人間!」


 元魔は辰真から離れると大きな咆哮を上げた。その双眸が冷たい氷のような青い光を放つと、その頭上に元魔の体躯ほどもある大きな氷柱が現れる。氷柱はまるで重火器のように辰真目がけて撃ち出される。しかもこれはその一撃だけではない。幾重にも連なる氷柱の連射が辰真を飲み込もうとしていた。


「そういうのを待ってんだよこっちは!」


 辰真は恐ろしい速度で彼を狙い撃つ氷の機関銃を華麗な足取りで避けつつ、元魔の周囲に円を描くような軌跡を描いて工場内を駆ける。一周もすれば、氷柱は何重にも重なって元魔を覆うドームのようなものを作り上げていた。


「どれだけ逃げ回ろうと、貴様に逃げ場などない! 喰らえ!」


 元魔は全方位に向けて更に氷柱を撃ち放った。氷のドームは砕け散り、大きな衝撃と爆発で破片は吹雪のように辺り一面を舞って辰真を襲う。


「所詮は人間が、地獄の鬼を気取ったところでこのフェンリルには勝てぬ」


 元魔は淡々と吐き捨てるように呟いた。結局終わってみれば他愛もないものだ。どれだけの手達が現れようと人間などこの程度。戦いの中で、その闘争本能の渇きを潤すような者は決して見つからない。


 元魔は辺りを見回した。辰真の亡骸を探しているのだ。しかしそんなものはどこにもない。


 だが果たして、あの人間の骸はどこにいったというのだ――!?


「そいつはどうだろうなぁ、え?」


 声は上からだった。元魔が頭上を見上げると、そこには大きく跳躍した辰真が切っ先を元魔に向けて急降下してこようとしているではないか。元魔は応戦のために辰真へ向けて氷柱を撃ち込む。


 しかし辰真はそれを真っ向から受け止める構えだ。向かってくる氷柱を真っ二つに切り裂きながら元魔目がけて落下していく。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」


 地上に降り立った辰真の刀は、元魔の胴体を深く抉っていた。引き千切るように刀を抜き、振り上げる。舞い散る血飛沫は赤く、それは人を始めとした命の持つ色と何が変わらないのだろう。


「いずれニブルヘイムから現れたラグナロク様によって、この世界は滅びる。私を殺したところでそれは何も変わらんぞ、人間」


 元魔の最期の言葉を、辰真は冷やかに見下ろした。振り上げた刀の切っ先が狂うことなどありはしない。


「さぁ。俺には生の実感なんて何もない。終焉りが来るって言うなら、別にそれがどうした」


 辰真は刀を振るう。扇空寺の鬼と呼ばれた男の太刀筋に迷いなどない。それは鮮やかに命を刈り取る死神の鎌にも似ていた。


「俺は俺の守りたいものを守る。それだけだ」


     ※     ※     ※


「コーヒー、淹れ直しておいたぞ」


 辰真は帰るなりそう言われて、テーブルの上のカップを手に取った。


「赤羽サツキスペシャルブレンドだ。全く、ありがたく思えよ」


 一口。味もさることながら温度も完璧で、雑な彼とは大違いだ。それでも辰真が淹れるコーヒーがいいと言って、何の文句も言わないサツキには全く頭が下がる。


「サツキ。……ありがとう」


 サツキはしばらく目と口をぽかんと開いて辰真を見つめていたが、やがてその顔には笑みが浮かんだ。


「ああ」


 終焉などどこにあっても、最後までこれさえあれば俺はそれでいい。

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