何も何も何も

増田朋美

何も何も何も

その日も、かなり暑い日で、誰でも疲れたという言葉を発してしまいそうな日だった。暑いので、みんな少々夏バテ気味というか、エアコンの下でのんびりしている事が多い日だったが。

「はい、行ってきました。全くこんな時に会食しようだなんて、政治家も変わり者が居るものですね。」

なんて言いながらジョチさんは汗を拭き拭き製鉄所に戻ってきた。こういう人だから、有名な政治家と直に話をする機会は多いのである。

「まあしょうがないじゃないの。こういうときしか、国会議員さんは休みが無いんじゃないの?」

杉ちゃんに言われてジョチさんはそうですねといった。

「それにしても、お前さんは、こんな暑い日でも羽織を着ていくんだな。」

「それを言うなら、それこそしょうがないじゃないですか。男の着物は、羽織を着ていくのが当たり前なんですから、日本の伝統はちゃんと守らないとね。暑い日でもスーツを着る人は着ますよね。それと同じなんです。」

ジョチさんは、そう言って、着ている絽の羽織を脱ぐこともなく、汗を拭いた。

「理事長さん。ちょっといいですか?」

と、一人の女性利用者が、そう声をかけてきた。

「どうしたんですか?」

ジョチさんが言うと、

「寿恵子さんのことです。」

と利用者が言った。

「寿恵子さん?ああ、長澤寿恵子さんですか。彼女がまた何かやらかしましたか?」

「ええ。こんな事言うのはちょっとどうかと思ったんですけど。」

利用者は口ごもりながら言った。杉ちゃんが、言いたいことがあるんだったら遠慮なく言ってしまえというと、利用者は、決断をして話し始めた。

「寿恵子さん、昨日まで偉く落ち込んでいたんですが、今日は、周りの人と止まらないでおしゃべりしているんです。なんだかちょっと、大丈夫かなっていうか、心配になってしまいまして。」

そう言うと、別の利用者が、ジョチさんのところにやってきて、

「ええ。先程まで水穂さんが相手をしていましたが、二時間以上も喋っていたんですよ。あたしたちは、水穂さんが疲れてしまうか心配で、一生懸命止めたんですけど、それでも懲りないんですよ。だからあたしたち、彼女がまたおかしくなったんじゃないかって、心配してましたよ。」

と言った。

「でも寿恵子さんが、昨日までうつ状態で落ち込んでいたのは皆さんご存知だったんですね?それは僕もはっきり覚えてますけど。」

とジョチさんが言うと、

「はい。あたしは、精神疾患に詳しいわけじゃないんですけど、もしかしたら寿恵子さん、ただのうつ病ではなくて、また違う病気なんじゃないかと思うんです。だから、病院で見てもらったほうがいいと思いまして。」

と、はじめの利用者が言った。

「そうですか。寿恵子さんが、そういう多弁になるきっかけとか、その様な事はあったんでしょうか?」

ジョチさんが言うと、

「それは本人に聞いてみないとわからないですけど、、、。」

もう一人の利用者が言った。

「もし、明確な理由がなかったというのであれば、寿恵子さんはうつ病ではなくて、双極性障害の可能性がありますね。そうなると、今まで使っていた薬ではなくて、全く違う薬を使うことになります。そういうことなら、彼女を説得して、病院に連れて行かなければならないということになりますが、それを誰がするかということが問題です。おそらく、普通の人であれば、納得しないでしょう。信頼できる家族がそう言ってくれるならとか、そういうことならまた別ですが、彼女のご家族はとてもそんな余裕がなさそうですしね。」

ジョチさんが腕組みをしてそう言うと、

「ええ、こういうときに一番役に立つのは水穂さんだけど、薬で眠ってしまって、今は動けないよ。」

と、杉ちゃんは言った。

「あの、すみません。」

不意に廊下を雑巾がけしていた、野上梓さんが、杉ちゃんたちに声をかけてきた。

「その役目、私にやらせていただけないでしょうか?」

「は?梓さんが、病院へ行くように説得すんの?ちょっと、頼りない感じ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「いえ、大丈夫です。私は、精神疾患のある方をタクシーに乗せたことがありますから、経験もあります。それに、どっちにしろ、病院へは電車ではいかれないでしょう。だったら、はじめに車に乗れる人がその役目を負ったほうがいいんじゃありませんか。」

と梓さんは言った。ちなみに、精神疾患のある人を、病院へ連れて行くというサービスが有ることにはあるが、患者さんを説得する役目はだいたい男性がやることが多い。女性だと、感情的になってしまって失敗するとか、そういう理由である。

「そうだけどねえ。いくら経験があると言っても人間は十人十色。それにこういう役は少しでも怯んだらだめだぜ。本人は、病気が良くなったと勘違いしていて、せっかく良くなったのにまた病院に行くとはどういうことだとか、食って掛かる可能性もあるよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「猫の手も借りたいときですから、一度彼女にやってもらいましょう。寿恵子さんは、意志の強い女性なので、病院へ連れて行くのも大変かもしれませんが、なんとか彼女を影浦医院まで連れて行ってください。」

ジョチさんは、リーダーらしくそういった。

「それでもし、寿恵子さんを病院に連れていくことを失敗したらその時はその時で、また手を考えればいいことですよね。」

「うーん。大丈夫かな?」

杉ちゃんは心配そうに言っていたが、とりあえず梓さんは、雑巾をバケツにかけて、寿恵子さんが居る部屋に言った。寿恵子さんは本を読んでいるようであるが、なんだか退屈そうで、なにか話したそうだった。

「寿恵子さん。」

梓さんは寿恵子さんに声をかける。

「なあに、野上さん。ああ、今日はすごく暑いわねえ。あなたの国でもこんなに暑かったの?夏は、こんなに暑くて不便だなと思ってたでしょ。ねえ、ホント、早く夏が終わって秋になってもらいたいものだわね。」

寿恵子さんは早口に梓さんに言った。

「ええ。あたしは、これくらいの暑さなんて全く平気ですよ。私の国では、一年中暑いんです。一年中、こういう蒸し暑くて、汗が出て、もう疲れてしょうがないところですよ。それで寿恵子さん、今日は馬鹿に楽しそうですね。何かあったんですか?」

と梓さんは、できるだけ気軽に尋ねるように言った。

「きっと薬が聞いたんだと思いますわ。良かったです。やっと辛かったうつから抜け出せたのかなと。」

と寿恵子さんはとても明るく言った。

「でも、寿恵子さんは、元々うつ病になるまでは、物静かで優しい女性だと聞きました。とても勉強熱心で、律儀で真面目な方だったとか。だから、今の寿恵子さんは、もとの寿恵子さんとは全然違います。それは、躁病と言って、そういう病気の症状なんです。だから、治療が必要なの。今から私と一緒に、影浦先生のところに行って、見てもらいましょう。」

梓さんは、にこやかに笑っていった。

「そうなんですか?私、今までの私じゃないんですか?」

「ええ。全然違いますよ。気分がやたらに明るくなることと、もとのあなたに戻ったことは違います。だから、影浦先生に見て貰う必要があるんです。」

寿恵子さんに梓さんは言った。

「そうなんですか。私、せっかくよくなったと思ったのにそれは間違いだったんですね。」

寿恵子さんはガックリと落ち込む。

「大丈夫です。このままうつ病の治療を繰り返していたら、いつまで経っても良くなりません。双極性障害と言って、また治療薬や、方法も違います。だけど、症状の見分け方が難しいらしいので、かなり苦労するらしいですけど。でも寿恵子さんは良かったじゃないですか。そうやって人にはっきり指摘されるくらい、症状が出たんですから。」

梓さんは寿恵子さんに優しく言った。

「そうですか。確かに、風邪を引いて放置しっぱなしにしたら、余計におかしくなってしまいますね。そういうことなら、私、野上さんと一緒に、見てもらいに行きます。それで良くなると保証してくれるんだったら、一緒に行きます。」

寿恵子さんは、納得してくれたようだ。

「それじゃあ、一緒に行きましょう。車を出してきますから、一緒に乗りましょうね。」

梓さんが、寿恵子さんをつれて、製鉄所の玄関を出ていくのを、杉ちゃんたちは、ぼんやりと眺めていた。

「はあ、口が上手いな。さすがもと外国人だけあるわ。そうやって明るくて、でも真実をちゃんという才能は、日本人は持っていないかもしれないぞ。」

「ええ。日本人は、元々コミュニケーションが下手だと言いますからね。」

杉ちゃんとジョチさんは、苦笑いした。

梓さんは、自分の軽自動車を運転して、寿恵子さんを影浦医院まで連れて行った。待合室で待つことになったが、寿恵子さんは、影浦医院においてあった雑誌を読みながら、この料理はうまそうだとかそういう事を言っていた。周りの人達はうるさいだろうなとおもわれたが、そういう病気の人は他にも居るからということで、誰も注意しなかった。

「長澤さん、長澤寿恵子さん。」

診察室から名前を呼ばれて、寿恵子さんは、梓さんと一緒に診察室に入った。医師の影浦千代吉は、寿恵子さんの顔を見て、

「今日は嬉しそうな顔をされてますね。」

と言っているのであるが、

「なにか理由があったんですか?」

と、すぐに訪ねた。

「ありません。」

寿恵子さんは、申し訳無さそうに答える。

「具体的なきっかけが無いのに嬉しい気分になったり、明るくなったりするのは、躁転と言いまして、うつ状態から躁状態に変わったということです。そうなれば、あなたはただのうつ病ではなくて、双極性障害ということになります。」

影浦は寿恵子さんが落ち込んでいるのを見て、できるだけ明るく言った。

「それでは私は一体どうなってしまうのでしょうか?」

寿恵子さんが聞くと、

「ええ。きっと理由もないのに明るくなったり落ち込んだりを繰り返すようになると思います。でも心配なさらないで。今はいい薬が色々ありますから、それを出しておきますから、欠かさずに飲んでくださいね。」

と、影浦が言った。

「大丈夫です。寿恵子さん。あなたは今製鉄所に通えていますし、居場所もあるんですから、そこで静かに過ごすことができれば大丈夫ですよ。これから先、急に落ち込んだり、明るくなりすぎるほど明るくなったりすることがあると思いますが、それはあなたが悪いわけじゃなくて、病気が悪いんだと言うことをちゃんと考えてください。病気というのは、なかなか自分の思う通りにはいかないと思うけど、そのうち体の一部として、つきあって行くこともできますよ。」

「ありがとうございます。これからあたしはどうしたらいいのですか。やってはいけないこととか、そういう事はあるんでしょうか?」

寿恵子さんは、小さな声で影浦に聞いた。

「ええ。だから、毎日をしっかりと、何も起こさないで過ごしていけることこそ最高の幸せですよね。」

と、影浦が答える。

「意外に単純なようで難しいのよ。」

と梓さんが小さい声で言った。

「そうですか。わかりました。私は、うつ病ではなくて双極性障害。それでは、私、家族に対しても、誰に対しても悪いことをしたということになりますね。」

寿恵子さんは、小さい声で言った。

「いえ、悪人ではありません。昔の例で言えば、ヴィヴィアン・リーがかかりましたし、デミー・ロバートのようなアイドル歌手もかかりましたよ。その人達は悪人では無いでしょ。だから、悪人と決めつけてはだめよ。」

梓さんは、寿恵子さんにそういったのだった。

「すごいことが言えるじゃないですか。じゃあ、処方箋出しておきますから、薬を欠かさず飲んでくださいね。二週間したら経過を見たいのでまた来てください。」

影浦はにこやかに笑って、二人にもう帰るように促した。

「ありがとうございます。」

寿恵子さんは、そう言って、診察室の椅子を立った。そして、梓さんに手伝われながら、診察室を出ていった。また待合室で待って、しばらくすると、受付から診察料の支払いと処方箋を渡されて、二人は隣の薬局で薬を受け取って製鉄所に帰った。薬局でも今日はどうしたのかとか聞かれたけれど、寿恵子さんはちゃんと双極性障害と診断を受けたと答えた。

「只今戻りました。」

と、二人は、製鉄所の玄関の引き戸を開けた。

「ああ、おかえりなさい。どうでしたか?影浦先生、なにか仰っておられました?」

二人が部屋に戻ってくると、水穂さんが心配そうに言った。

「ええ。やはり理事長さんが予想してくれた通り、双極性障害でした。でも薬はちゃんともらってきたし、大丈夫だって言われました。」

梓さんはにこやかに笑ってそう返す。

「そうですか。それは大変な。ご家族や、周りの方にも理解してもらわないと行けないですね。」

と、ジョチさんがそう言うと、

「理解なんてしてもらわなくてもいいんじゃないかしら。」

と梓さんは言った。

「理解してもらわなくてもいい?それではだめですよ。まず、どんな病気なのかとか、そういう事はちゃんと説明してわかってもらわないと。」

「いえ、そんな事は必要ないと思いますわ。どんな病気かなんて、説明しなくても彼女を見ていればわかることだし、本で勉強なんかしても、一人ひとり個性があって、症状の出方は違うから、それは全く意味が無いと思います。それより大事なことは、もし、彼女、寿恵子さんが常軌を逸した行動を取った場合どうやって止めるかとか、酷く落ち込んでしまったとき、どう励ましてやるかとか、そっちを聞かせてあげることじゃないかしらね。」

「いいところをついてますね。確かに、それが一番大事な事は知っていますが、それをまとめた本は何処にもありませんよね。」

水穂さんが、そういった。

「だから、彼女のご家族はどういう家族構成なのかは私は知りませんが、家族全員がそういう対処ができるようになることが一番大事だと思うんです。寿恵子さんのご家族は、どんな家族なんですか?」

梓さんがそうきくと、

「私の家族は、父と母と祖母ですが、みんな忙しい人達で私の病気のことなんかかまってもくれませんよ。」

と寿恵子さんが答えた。

「そうなんですか。ならなおさら病気の説明はいらないわ。それより彼女の症状に対処する方法を教えなくちゃ。それから、こういう病気になると仕事をやめてしまうご家族も居るけれど、それは全く必要ありませんよ。そんなに重々しく彼女のそばに居られたら、彼女もつらいでしょうからね。それにつらいことがあって、仕事に助けてもらうことだって無いわけじゃないし。」

梓さんはにこやかに言った。

「野上さんは、そういう事を、とても良く知っているのね。なんだかただの掃除のおばさんじゃもったいないわ。何か、そういう家族を助ける仕事、家族相談士みたいなそういう仕事が向いている気がするんですけど。」

寿恵子さんは、梓さんの話に感動したように言った。

「あら、私にはそんな資格ありません。人助けする仕事なんて、さんざん人種差別されてきた人が、できると思いますか。それは、水穂さんを見ればわかることなんじゃないかしら。」

梓さんは、ただ照れくさくて言っているわけではないという顔でいった。

「資格がないねえ。それは、中国にいればだろ?ここは少なくともお前さんのことを、トゥチャ族だからといってばかにすることは無いと思うよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうですが、日本でも中国でも、同じことですよ。何処へ行っても、人種差別される事はありますよ。それは、逃げることはできやしません。だからこそ、人助けができるということもありますし。」

と、水穂さんが優しく言った。

「そうなんですね。そうなると、影浦先生が言った何も変わらないで、ずっとそのままでいられるってことは、非常に難しいことなのかな。」

寿恵子さんは、ちょっと苦笑いして、

「そうなると、私は、そういうことができるように、頑張っていかなくちゃいけないですね。」

と言った。

「ええ。まあ、病気になるということはね、そんなに悪いことでもないかもよ。楽しく明るく生きていくための、大事な足ががりのために病気になったということもあるからね。」

杉ちゃんがカラカラと笑った。

「現に僕も歩けないということもあるけどさあ。それでも悪いことばっかりじゃないって自分で思ってるんだ。歩けなくたって、ちゃんと役に立っていると思うことはなんぼでもあるよ。大事なことは、そのときにいちばん大事な命まで落とさないことだ。ははははは。」

「全く杉ちゃんも野上さんも明るい方ですね。そういう明るい人材は、今の日本ではなかなか得られませんよ。」

とジョチさんは言った。

「さて、あたしは、これまで通り、庭掃除を始めなくちゃ。庭も最近、雑草が生えてきて、蚊が出てきて困るって、水穂さんが言ってらっしゃいましたものね。それでは、すぐに草取りに取り掛かります。」

梓さんは、すぐに道具置き場からつちみをとってきて庭の草取りを始めてしまった。そんな明るい顔をしていた梓さんを見て、寿恵子さんもなにか自分の中で考え直したらしく、

「ありがとうございました。薬はちゃんと飲みますから、これからも悲観せずにらくに生きていきたいです。病気になっても、ここを利用させてください。」

とジョチさんにお願いした。

「大丈夫ですよ。ただ、鬱になって偉く落ち込みすぎたり、躁転して喋りすぎてしまわないように気をつけてくださいね。」

ジョチさんは、にこやかに笑ってそう返した。

「とりあえずは、ゆっくり休むといいさ。」

杉ちゃんがまたにこやかに言った。とりあえず寿恵子さんは、音楽でも聞こうかなと言って、居室へ戻っていった。杉ちゃんたちは、多分彼女であればなんとかなるだろうなという顔でそれを見送った。

まだまだ暑い暑い夏の季節だけど、これから季節も変わっていくのかなと思われる日であった。そして、穏やかに過ごせる日が少しでも多ければいいと、杉ちゃんたちは思うのだった。何も無いということは、一見するとつまらないことのように見えるけど、実は一番幸せなことであることに、気がつく人は少ないのである。


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何も何も何も 増田朋美 @masubuchi4996

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