世間勉強 お風呂と夕食
「宵の窓辺」に戻ると受付のカウンターはリリーに代わって、品の良さそうな中年の男性と若い女性が立っていた。
「おかえりなさいませ、エルク様ですね」
「はい、エルクです。ただいま」
男性はにっこり笑い、鍵を女性に渡した。
「お部屋にご案内いたします。ハイディ、エルク様をご案内してください」
「はい、支配人。エルク様、こちらへどうぞ」
案内された部屋は、二階に上がって廊下を左に行った、真ん中あたりの部屋だった。
室内は大きめのベッドに机と椅子、小さなロッカー。机には作り付けのランプ、木の水差し、桶、コップが置いてある。
「こちらがエルク様のお部屋になります。夕食と朝食は下の食堂でお取りください。水場とトイレは庭に面した外になります。廊下突き当りの戸が外階段になっていて庭に出られます。ランプは魔力で明かりがつくようになっておりますが、魔力が不足するようであれば、受付で魔石をお求めください。その他の御用も受付までお願いします」
伏し目がちに一気に説明をしてくれた。
「あの、ハイディさん、教えてほしいことがあるんだけど、いいかな?」
「えっ? は、はい、なんなりと」
「僕ね、田舎で育ったから、世間のことを知らないんだ。チップって習慣はあるの?」
「……ちっぷ……ですか? その言葉はわかりません。どういったものでしょうか?」
「ええと、心付け、かな。例えば、食事をしたら給仕のお礼にいくらか余計に払うとか、外出している間に部屋を掃除してもらうお礼に、枕の下にいくらかお金を置くとか」
「いいえ、そのような習慣は聞いたことがありません。そのようなものをいただくと、その、お付き合いというか、夜のお誘いと受け取られるでしょう。……エルクさんからなら嬉しいですが」
最後は小声。ちょっと赤くなりながら答えてくれた。
「そうなんだ。聞いてよかった。知らずにしたら誤解されるとこだったね。もう一つ、お風呂ってある? お湯を張った大きな桶につかって体を洗う場所のことだけど」
「はい、ございます。中庭の水場にございます。ただ当宿では、男女一緒の湯浴みはお断りしています」
……混浴禁止? ああ、そっち? 「英雄たちの集い」なら禁止じゃなさそうだもんね。
「係りに名を告げていただければ、お湯を提供します。料金は宿泊代と別料金となります」
「教えてくれてありがとう、ハイディさん」
「いいえ、どういたしまして。では他に御用がなければ失礼いたします。ごゆっくりお休みください」
そう言って部屋を出ていったけど、部屋の外で大きなため息をついて「よしっ」と小声がしたのは、聞き逃さなかったよ。お仕事覚えているところかな?
『ガラン、ガラン』
『はい、エルク様』
『今、大丈夫かな?』
『はい、大丈夫です』
『ノルフェ王国にあるベルグンの街に着いたよ。宵の窓辺って宿に滞在するから。なにかあれば、宿か、冒険者ギルドに伝言を残しとくよ』
『はい』
『で、ここまで来る間に、灰色狼三十頭の群れに遭遇した件なんだけれど。通常より大きく数も多く、やっぱり異常だそうなんだ』
『異常な魔物。よもやとは思いますが、本当にご無事でしょうね?』
『うん、大丈夫。でも、魔王が来ると魔物が暴れるという伝承がやっぱりあるらしい。僕が出現したせいなのかも。魔王国内で異常なことが起きていないか調べさせるよう、クラレンスに伝えてくれる?』
『了解いたしました』
『うん。じゃあ、またね』
ガランに用件を伝えた後、魔王国から来る者を待つ間の行動計画を考える。
狂乱の魔法とはどんなものか?
どうすれば魔王が狂乱しないよう魔法を解けるか?
この世界の国と政治情勢は、どうなっているか?
各国の産業と輸出入、経済はどうなっているか?
魔王討伐軍の指揮系統と編成は?
各国の教育はどうなっているか?
情報を得られる場所はどこか?
書籍の発行はどうなっているか?
購入か、図書館のようなものはあるか?
勇者についての情報はどこで得られる?
明日はベルグンで、なにが購入できるのか調べよう。
着たきりの服も買いに行こう。
洗顔用具や筆記用具も購入しよう。
いろいろ考えているうちに日が傾いてくる。体を洗って、食事にしよう。
「宵の窓辺」のトイレは、ポットンだ。
清潔ではあるが、明かりがなく暗い。魔法で光の玉を浮かべて用をたした。夜目が効くし、魔法の光もある。
……他の人はどうしているんだろうね。受付で明かりを借りるのかな。
水場は差し掛けがついて、簡単な仕切りで囲まれ「男性用」の立て札。
外からは中が見えない小屋の方には「女性以外は使用禁止」の立て札がある。
「男性用」には先客がいた。
中年の太めのおじさんが、湯に入って肌かき器で体をこすっていた。
おじさんが入っている木桶の隣にも空の桶がある。湯を沸かしている従業員に声をかけて、湯を張ってもらう。
横に、張り渡してある木の棒に服がかけてあったので、そこで裸になる。こちらに気がついたおじさんが、ジロジロと僕を見て、ぼそぼそっと言った。
「いいもの持ってるなぁ。えっ? ぼうず? あ、いや、子どもじゃないのか。失礼した」
木桶から出て、布で簡単に拭き、服を着ておじさんは終了。「お先に」と言って出ていった。
……ふむ、いいものってなんだ? わかっているけどね。ありがとう、ルキフェ。
従業員が香油を塗ってくれたので、おじさんを真似て、肌かき器を使ってみた。
石鹸ほどではなく、どうにもきれいになった気がしない。浄化と洗浄の魔法を使うほうが良さそう。
食堂で夕食。食堂に入ると、リリーとハイディが給仕をしていた。席はかなり埋まっている。ハイディに案内されて壁際の席につく。
「エルク様、飲み物はなんになさいますか?」
「どんな物があるの? あまり、食堂で飲んだり食べたりしたことがないんだ。あ、それから『様』はやめてもらえる? 年上のきれいなお姉さんにそう呼ばれると、困ってしまう。エルクでいいよ」
「……はい。エールとりんご酒がございます。エールは樽を開けたばかりの新しいのと、ちょっと時間が立ったものに薬草を入れたもの。新しいのは甘くて、薬草入りはちょっと苦味があるの。好みだけど、苦いほうが料理に合うって注文する方は多いの。それとりんご酒、ちょっと酸っぱいかな」
「じゃあ、新しいエールから試してみるよ」
「はい。本日の料理は子羊肉のロースト。羊と玉ねぎ、人参のスープ。柔らかいパン。別料金だけど、羊の内臓を煮込んだもの。それから羊舌のソテーがお勧めね」
「うん、聞いているだけでも美味しそうだ。お勧めももらうよ」
「はい、ちょっと待っててね」
ハイディがエールと料理を運んできてくれたので早速いただく。
「いただきます」
エールはカルメラのような味でほのかな甘みがあり、飲みやすかった。アルコール度は低い。
子羊肉はほんと美味しいね。地球と同じものなのかなぁ。脂身と柔らかな肉にニンニクと塩味がきていて、噛むほどに旨味があふれて美味しい。ほんと脂がうまいねー。
薬草入りのエールもおかわりで出してもらったが、こちらのほうが確かに料理に合っているなぁ。ここなら子羊の頭も上手く料理しそうだね。ハギスも期待していいかな。食前には、塩味のバターミルクティーもいいよね。
ただ、食堂にいる人の注目が集まったのには閉口した。支配人がリリーに耳打ちしてこちらを見ている。一挙一動を見られているみたい。
なぜに? 子どもひとりだから?
持参のテーブルナプキンで口を拭いて、料理を運んでくるハイディに小声で尋ねた。
「ねぇ、なんでみんなこっちを見てるのかな?」
「……エルク、様、か、閣下。この食堂では、貴族の方をお迎えしたことがございません。エルク様が初めてなので、皆がどちらの方のお忍びか、気にしておりますです」
「はぁ? あ、また、このカトラリーかな?」
「ええ、エルク様の上品さに、感服しておりますです」
ふぅー、ハイディの言葉が変になってるよ。いやフィンガーボールがあっても、手づかみで指が汚れるの嫌だし、口の周りに脂や汁なんかがつくのってイヤなんだよね。本当は箸で食べたいくらい。
「ハイディ、って呼んでいい?」
「はい、もちろんです、ございます」
「僕は確かに、それなりの教育を受けてきているよ。けど、身分は貴族じゃないよ。異国の教育を受けた、いいとこのお坊ちゃんってとこかな」
「そ、そうなんですか?」
……はい。単なる貴族ではありません。じつは王です。フフ。
「うん、だから、エルク、でお願いね」
ハイディはしばらく戸惑ったあとで、笑った。
「はい。実は、お客様たちはみんな、エルクが貴族様なら、いつご機嫌を損ねて首を飛ばされるかって、怖がってるの」
「はあ? 貴族ってそんなことするの? できるの? 理不尽だねぇー」
ハイディはにっこり笑うと、リリーのところへいく。リリーはハイディの話を聞いて客席をまわり、説明してくれたようだ。
食事を終えて、食堂の入り口にいるリリーのところに向かった。
「あの方と湯浴みを一緒にしたんだ。あの方はきっとエルフだね。あの美しさ。子どもに見えるが大人なんだろう。実は拝見したのさ、ご立派なものを」
「あら、いやね」
連れの女性にささやくおじさんの声が耳に入った。
あのおじさんね。どうぞ、お幸せに。
「エール代と追加の料理は今払ったほうがいい? お湯の料金みたいに部屋につけておいて、後で精算できる?」
リリーに尋ねると出立時の精算でいいとのこと。
「では、ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」
そう挨拶して部屋に戻った。
部屋に戻り、魔力を流し、ランプを灯す。
寝るにはまだ早いので、宝物庫から換金できそうなものを探した。
金貨や宝石は換金が難しそうだ。
「民のものだから、無駄遣いはできないけど。必要経費は許してもらおう。金の装飾品はいけるか。子どもだから足元見られるか。狼の代金は解体後だろうけど、終わったものから売って、代金もらうってできるかな? ギルドで聞いてみよう」
自分の態度は良かったのか、今日の出来事を振り返ってみる。
礼儀には礼儀を返す。
理不尽には、受けた以上の理不尽で返す。侮られないよう、倍返しなのは必ず。
毅然とした生き方をする僕じゃなきゃ、やろうとしていることは出来ない。
……自分は、上手くやれていたんだろうか。
前世では、誰かに暴力を振るったことはなかった。今日は多くの人に傷を負わせた。いずれ、必ず、人を殺す時が来るだろう。
「覚悟か。僕は覚悟を持って生きなきゃいけないんだね、シロ丸」
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