追想 その姿はあまりにも
わたしが生きた世界でも、人々は苦しんでいる。
戦争が、病気が、偏見、差別、理不尽があった。思い出したかのように寄付などしたが、自分から積極的に何かをしたことはない。
妻と子は悪意のある、無謀運転の巻き添えで逝ってしまった。
自分のがんがわかった時には、すでに末期。
生きることをあきらめてしまった。
誰かのために、本気で何かをしたいと思ったことなどなかった。
「すべてがルキフェさんのせいなのかどうか釈然としない……。どうすれば繰り返しを断ち切れるのでしょう? 私が協力できることは、何でしょう?」
新しいコーヒーをカップに注ぎ、ルキフェと向きあう。
「ずっと解決方法を探してきました。いつからか行き交う魂を呼び止め、記憶を覗くことができるようになりました。いい方法はないかと多くの記憶を覗き、他の世界の言葉や知識を得ました。狂乱しない方法、魔族を幸せにする方法の手がかりがないかとずっと求め続けました」
どうだったのか? 何か見つけられたのか? 再び湖畔に目を向けたルキフェの答えを待った。
「さまざまな世界に足跡が残る高次の存在。そこに答えがありそうなのですが、詳しくはわかりませんでした」
「高次の存在?」
「ええ、世界に影響を及ぼして消えてしまった謎の存在が、あらゆる世界にいたようです」
「謎ですか」
神かな。全宇宙に播種船を送りだす超古代文明とか?
「魔王城に何かがありそうなのですが、私は狂乱してしまうので調べることができません」
「そこで他の魂に、助けを求めたのですね?」
「そうです。しかし最初は話をするどころか、皆さん私の姿を見ただけで泣き叫び、拒絶されました。そこであらかじめ覗いた記憶を基に、受け入れてもらいやすい姿になることにしました」
「それがシロ丸ですか?」
「はい。エルクさんには、この姿を選びました。他の方には、母親や子どもなどの姿になったのですが、今度は別の問題が起こりました。ほとんどの魂に天国に行くための試練、悪魔の誘惑と思われて、逃げられました」
ここから逃げることってできるのか。
「話を聞いてくれそうな方もいましたが、自分の暗い欲望を満たせるのではと、ほくそ笑む方でした」
……魔王と関わって欲望を満たす? ううっ、考えたくもない。
「いっそ、その方に魔王を押し付けようかとも思いましたが、誰かを代わりにして不幸にする、魔族を幸せにもできない。なんの解決にもならないことはわかっていたので、できませんでした」
ルキフェの尻尾が、イライラしたように上下に打ち付けられていたが、一瞬止まり、上機嫌な猫のように左右に動きが変わる。
「エルクさんからは、そんな欲望を感じとれません。ここまで話しを聞いていただけて、記憶をお見せしたのはエルクさんが初めてです」
ルキフェはコーヒーを一口舐め、ほろ苦く笑ったように見えた。
……シロ丸の姿がわたしに合わせた姿なら、本当はどんな姿をしているのだろう?
気になる。
見るだけで泣き叫んでしまうという魔王の本当の姿だ。イケメンの優男はよくあるけど。泣き叫ぶとは、見た時の反応が違う。
映画なら燃える大きな眼だったり、兜の中は闇だったり。具体的なその姿には、とっても興味がある。
……でも、見たいような見たくないような。夜に一人でおトイレいけなくなりそうな。あ、死んでるから関係ないか。
「もしも、もしもですが、今、本当のお姿を見せてもらったら、立ち直れないほどの傷を魂に負うとか、マイナスになることがあるのでしょうか?」
「多くの魂が精神に傷を負った状態になりました。いくつかの癒しで、ここでのことを消去しました。その後、輪廻転生を追えるだけ追った限りでは、影響が見られないようです。絶対に影響がないとは、断言できませんが」
そう言うとうつむいてしまった猫のルキフェを、しばらく見つめる。
本当の姿を見てしまったことでPTSDにならないといいな。
見せてもらった記憶も嘘のようには思えない。こちらに対する悪意を感じられなかった。もしあれが作り物としたら相当なスキルが必要じゃないか。
協力を断るのは簡単だ。知ったことではないと輪廻転生すれば良さそうだ。新しい生を生きていけるらしいし。
……でもどうだろう。本当にそれでいいのか?
いままでと全く違う知識を得られるのなら、本のネタになるのなら思い切ってみるか、どうするか。どちらにしても本当の姿を見ないで、これ以上は話を続けられないか。
「……では、ルキフェさんの本当のお姿を見せてください。あ、いきなりドーンと見せられたらたぶん耐えられないので、ゆっくりと変身するとかでお願いします」
「…………そうですね。偽った姿では、納得してはもらえないでしょうね。ではゆっくりと……」
ルキフェの体から黒い靄のようなものが立ち昇り始めた。瘴気か? 見るだけで鳥肌が立ち、体中から汗が吹き出してくる。
靄はルキフェを包んだままゆっくりと大きさを増し、周りは光が吸い取られたように暗くなっていく。
ルキフェの体も黒くなり、見上げるほどに膨らんだ。
頭部には複数の目ができ、巨大なデコボコした角や触手が生える。背中から粘液の滴る薄い翼のようなものが大きく広がる。体中小さな突起物があり、細かく
ひときわ大きな対の眼は、赤く、紅く、黒く、暗く、尽きせぬ渇望と殺意が放たれる。
テラテラとぬめり脈動を繰り返す触手と角、体。血と体液と内蔵の匂いが漂う。動くたびに湿ったヌチャヌチャと音がする。
逃げ出したくとも逃げられない。恐怖にソファの肘掛けを両手で握りしめたまま動けない。
その姿のあまりのおぞましさに、肉体のない精神体のはずが、カタカタと震えが止まらない。涙、鼻水、涎、失禁、射精、脱糞した。
殺される、喰われる、死んでしまう、終わらない痛みが来る、その恐怖に押し潰される。
……目が離せない!
最悪なのはルキフェの姿に魅せられた自分がいること。
蛆の蠢きを見つめてしまうような、暗い快感がある。
そんな自分の心にも恐怖する。
目を閉じることも、顔を背けることも、手で覆うこともできない。まとう瘴気が、黒い後光に見えてくる。
ああ、でも、これほどまでに圧倒的な恐怖の存在なのに、生きることに疲れ、哀しみに絶望した瞳のシロ丸が、その体と重なる。
その瞳に深い叡智と、絶望と、助けを求める願いが見える。
……魂がつながったせいか?
シロ丸の感情が入ってくる。哀憐を感じる。自分を貪ろうとする存在と自分とを同一視してしまう。
同情してしまう。
ルキフェは元の白い猫に戻っていた。
目を背け、うつむいたままでいる。
自分の体を見下ろすと失禁も脱糞などの跡はない。清々しい風を感じ、涼しげな鳥の声が聞こえる。
「ああ……すごい。これほどとは……」
なんとか声を出したが、かすれていた。ピクリと動いたルキフェは顔を上げ、こちらを向いた。
「エルクさん、体は汚れる前の状態に設定し直しましたが、なぜかエルクさんの涙を止められません」
そう言われて顔を触ってみると涙が流れていた。
ゴシゴシと顔をこすった後で、冷たい水を、と声に出さずに望むと、手の中に水滴のついたガラスのコップが現れた。
中身を一気に飲み干し大きく息を吐いて、ルキフェに目を向ける。
「あのお姿を見た人間は、多くが狂うでしょう。わたしはよくも狂わなかったものです。いや、狂ったのかな。本物の神を見たら同じ様に狂うのか。わたしの世界では魔王は神の使いが堕ちたもの、とされてることが多い。だがそれはある宗教内だけ。別の宗教では悪神が行いを変えて、善き神になる……」
早口で独り言のようにしゃべるわたしを、ルキフェが見つめてくる。
その目を見つめ返した。
心は決まっていた。
「私にできることなら協力します」
「……ありがとうございます」
ルキフェは驚いたようにそう言って頭を下げた。尻尾が左右に勢いよく振られる。
……これは、チャンスなのではないか?
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