第28話 基礎鍛錬の成果
あれから一年が経過した。
リックがやったのは基礎鍛錬だ――が、しかし、その基礎が一体何なのかを想像できる人がどれほどいるだろうか。
たとえばスポーツなら、道具を手に持ち、そのスポーツに必要な行動を繰り返したり、わかりやすいのは得物を持っての素振りではないだろうか。
しかし、リックの基礎とは、それ以前のものである。
つまり、躰を作る、のではなく、躰を正しく使えるようになること。
不審な目で見られたりもしたが、一番最初にやったのはできるだけ薄着になって、外で、目を閉じてただ立っていること、である。
正しく立つ。
姿勢を正す。
中心軸を作る。
どんなスポーツを選択しようとも、この基礎能力を上げることは何よりも重要で、実力の底上げができる。走って体力をつける前にも、やるべきだろう。
両足で立つ。
こんな単純なことができていない者も多い。また、薄着になったのは肌で空気を感じるためだ。この肌感はかつてリックにとっての最大の武器であり、必要なものだった。だから今回も、それを得るためにやる。
自分が子供だということも加味して、最初は三時間ほど。微動だにしなかったので、見ていた侍女には不安がられたが、意識は自分の体内、呼吸などに集中していたため、外からの声などは全て無視した。
これだけの時間でも、全身が気だるくなるような疲労があり、しばらくは三時間前後を目安とする。
毎日やった。
雨の日でも、多少は時間を短くしてやる。
やがてリックは服を着るようになり、薄着でなくても空気が触れる感覚を把握していく。
そういえば、魔術の認識に似ていると言われたのを思い出した。
そもそもリックは魔術に詳しくなく、敵対した相手が使っているのを攻略するばかりだったが、キリュウという魔術師がきてからは、そういう話をするようにもなった。
内側と外側を把握する。
これは自分の内面、特に魔術回路の認識に利用するのだが、肌の表面を意識することで外枠を作り、その境界線から内と外を決める。中にはその境界線そのものの曖昧さに着眼する魔術師もいるようだが――さておき。
魔力も、魔術回路も認識できるようになった。あとは構成を組めば術式として完成するのだが、しかし、それは身内が扱う魔術とは違うものだ。しばらくは黙っていることにする。
姉のエシャと一緒になることもあった。
ただエシャは素振りや、家庭教師や母親から戦闘を教わっていたので、リックはそれを横目で見ながら、いつものように立っているだけ。
目を閉じて感じる段階を終えたのが、半年と少し経過してから。目を閉じて戦闘するわけにもいかないのだから、ようやく、といったところか。
だから、そこからさらに半年を経過して、おおよそ一年。
次のステップに進むかどうかの確認をする。
そろそろ動く訓練に移行すべきかどうか――。
「母さん」
その日は、母親とエシャが訓練をするらしく、細身の木剣を手にして出てきたところに声をかけた。
「あら、なあにリック」
「姉さんの前に、少し俺に付き合ってくれ」
「いいわよ。どうしたの」
「正面」
いつものよう、リックは立つ。ここ一年やってきて、躰にはもう馴染んだ。構える、身構える、いずれも必要ない。つまりは自然体。
「母さんから見て右側、俺の肩に向けて上からの振り下ろし」
「寸止め?」
「ああ、それでいい。ただ速度も力も、普段の半分くらいに抑えてくれ」
「はいはい、じゃあ行くね?」
きちんと踏み込みもなく、軽い足取りで近づいて来た彼女は、笑顔のまま振り下ろす。
ぴたりと停止、寸止めにしたようだが、しかし、止めた場所は肩の位置から外側に外れている。
リックが移動したわけではない。
ただ、左手を軽く上げただけだ。
――この技は、かつての友人が得意だった。
攻撃を受け流す、あるいは逸らす。友人は得物を使ってやっていたが、リックが習得したので躰で逸らす技だ。
大なり小なり、仲間たちは全員がこれを扱えた。というか、扱えないと銃弾がばらまかれる戦場ですぐ死ぬ。
「ん、もう一度、逆側」
「え、あ、はい」
やっていることは単純だ。
振り下ろされる剣に対し、その側面に軽く触れて、自分の躰の外側に動かす。大げさにやる必要はない、ほんの少しで軌道は大きくズレを見せるし、当たらなければそれでいい。
このために、肌感を鍛えていたのだ。
「よし。じゃあ準備運動も兼ねて、骨折しない程度の威力で、速度を上げて適当に攻撃してくれ」
「……」
「母さん?」
「うん、うん、わかった今は何も考えないことにする。私が攻撃して、リックは避ける?」
「そうだ。勢いあまって俺を殺してくれるなよ」
「そんなことはしません」
そこから続く攻撃を逸らす。ただ、避けることも混ぜて、五分後くらいに終わらせる。
踏み込みからの振り下ろしに対し、右手で逸らしながら踏み込み、左手が彼女の喉に――届く前に、ぴたりと停止させて。
「充分だ、ありがとう母さん」
「――そう、ね」
ようやく、動ける段階になりそうだ。歩く、走る、避ける、踏み込む、そういった動作に躰を慣らせる。
「え? ねえリック、え、なんで踏み込めたの?」
「……? そりゃ踏み込まない方が危ないだろう。それに母さんは気を遣って、攻撃モーションが大きかったから、こっちとしてもやりやすい」
「いつもやってたあれだけで?」
「そう。俺なりに理屈はあるが」
「今度から私もやる!」
「俺は構わない。どうせ基礎鍛錬だ」
「ん」
その翌日から、言葉通り、エシャも同じ時間にやってきた。
「そもそも、何をしてたの?」
「大前提として、俺は――」
知っていた、というのは隠しながら。
「――両足で立つ、というのを改めて考えた。姉さん、姿勢を正して」
「うん」
「背筋を伸ばして、正面を見るだろ? 今姉さんは、大げさに言うと、かかとで立ってる」
「かかと?」
「目を閉じて、足の裏に意識を伸ばしてみてくれ。ゆっくりと、小さく前後に揺れて、足の裏でしっかり地面を感じるんだ。素足の方が良いだろうけど、できなくはないだろ」
小さく、前後にゆらゆらと揺れて。
「……このへん?」
「そのまま止まって、そう、ちょっと触るよ」
肩と背中のあたりに軽く触れて、微調整をして。
「全身から余計の力を抜いて。動かないように意識すると、どうしても緊張するから、呼吸をするんだ。鼻から吸って、口から出す。これをゆっくりと、苦しくない程度に」
目安は十五分ほど。
掴んだ感覚が、すぐ抜けないような頃合いを見計らって。
「よし、じゃあ姉さん、ゆっくり目を開いていいよ」
「うん。なんか、地面を踏みしめてる感じする」
「実は今、姉さんは少し前傾姿勢になってる。どうしてかわかるか?」
「足の裏、ええと足が、躰より前に出てるから」
人間の構造上、つま先は胴体よりも前へ出ているものだからだ。
「俺はこの姿勢を維持しながら、肌で空気を感じてた。軽くジャンプして、足踏みをして、……どう?」
「元に戻っちゃったわ」
「これも極論にはなるけど、俺は常に、さっきの状態を維持し続けてる」
「利点は?」
「身体能力の全体的な向上に繋がる――んだが、わかりやすく言えば、一撃の威力が上がる。姉さんがいつもやってるよう、右足の踏み込みをした時、きちんと力が乗る。あー軸を作るって感じかな?」
実際には、軸を作る前の鍛錬で、それはそれで屋内の日課としてやっているものもあるのだが、さておき。
「姿勢が崩れなくなるんだよ」
「あ、うん、疑っているわけじゃないのよ? どうであれ続けるつもりだもの。やり続ければ効果はあとでわかるだろうし、リックがやって見せてくれたものね。母さんの攻撃を逸らしたのも?」
「あれは、空気を肌で感じた結果だな。姉さん、ゆっくり俺に向けて拳を突き出してくれ」
「こう?」
拳が来る前、肘が伸びきる手前の段階で、リックはそっと内側に手を触れ、外側へ押す。
「受けじゃなく、流す。これはよく見るだろ?」
「うん、格闘訓練の接近戦闘とか、こういう感じだって先生も言ってた」
「これ、見てからじゃ遅いのはわかるよな」
「わかるわ。実際に剣でも、軌道を予測して防ごうとするし」
「俺はそれを肌で感じる。肌っていうか……周囲の空気の動きだな。最初は薄着でやってたが、今じゃこうして服を着ていても問題ない」
「え、じゃあ極端なことを言えば、目を閉じてても関係ないってこと?」
「まあ、ある程度は。実際に足音がなくても、廊下を通り過ぎる侍女の動きを把握できるくらいには、そこそこ離れててもできるな」
「続ければできるようになるのね?」
「そうだな。焦るなよ、上手くやっても一年かかった」
「わかった」
こうしていると、昔を思い出す。
新入りの子供に教えた時、理屈を覚えさせるのがリックの担当だったように思う。こんなに感覚を使って戦闘をしているのに何故だと問うたところ、同僚は、だからこそお前も理屈を知っておく必要があると笑っていた。
懐かしく思う。
だってきっと、あの頃が一番楽しかったから。
いや。
これから、どうなるかはまだわからないか。
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