魔術水が飲めない魔術師
第27話 同じ名のリック
意識の覚醒と自覚は、五歳の時であった。
ソレは、彼らにとって当たり前のことで、家の都合上、多少の期待はされていたらしい。
起きた現象といえば、それを口に含み、喉を通して飲んだ瞬間に生理的な嫌悪が発生し、全てを吐いた。その後の結果として、腹を壊して寝込むことになるのだが――。
今の名前も、かつての名前もリックであることを、彼は自覚した。
「どうなってやがる……」
ぼそりと呟いて、寝たまま自分の手を見るが、小さく、柔らかそうだ。鏡を見たいところだが、おそらく自分の知っている顔ではないのだろう。
どうすべきか。
何もかもを忘れて新しい人生を始める、なんて器用な真似ができるとは思えない。姿が代わり、生活も変わったところで、自分は自分だ。またゼロから始めたところで、進む先はきっと、これまでの地続きになる。
かつてのような失敗はしない――と、意気込むほどではないが。
ノックがあり、声を出す前に扉が開く。
見て理解した。
そうだ、彼女は三つ上の姉だ。
「リック」
「姉さんか」
口調はどうだっただろうか、もっと柔らかかった? いや、それもいずれ馴染むだろうと、ゆっくり躰を起こす。
――ああ。
痛みがない。
今の躰には、雨のたびに痛む古傷のあった太もも、若い頃に無茶をして壊した左肩、両方ともなくなっている。
「どうしたの、笑って」
「いやなんでも。なんだか長い夢を見ていたようだけど、俺はどれくらい寝ていたんだ?」
「半日くらいじゃないかしら。もう夕方になるわ」
「記憶がぼんやりしてる……何があったんだ」
「覚えてないの? 魔術水を飲んだら、すぐ吐き出して気を失ったの」
「――魔術水?」
「そう、魔術を使うために飲む水。いくら適性がなくても、人体に害はないはずだけど……」
「悪い、もうちょい詳しく教えてくれ。水を飲むと、魔術が使えるようになるのか?」
「そうよ? ほら」
彼女は手のひらを見せ、そこに小さな火を発生させる。手のひらより大きい術陣がそこに展開していた。
「これは小さな灯りを作るだけの術式だけれどね」
「……」
術陣の発生に違和がある。
そもそも、一部の例外を除き、術陣を扱うのは大規模術式くらいなものだ。見やすく、わかりやすい術陣なんて、戦闘においては最初に除外されて然るべき、である。
わかりにくく見えにくい。
そうでなくては、有用性があるとは言えまい。
だったらこの術式が大規模なのかと問われれば、否。それとも彼女たちにとってこれが、大規模と同等の扱いなのか。
「その魔術を覚えてるために水を飲むのか」
「うーん、特定魔術っていうよりも、その系統かな?」
魔術回路と呼ばれるものは、人間の体内に作られる。自身の魔力を通すことでそれは形になり、構成を作るためのものへ変わる――言うなればそれは、設計図を書くためのペンと同じものだ。これが変化することはない。
だったら、魔術構成そのものを水にして飲み込んでいる?
本来ならば外部で構成するはずのものを、体内に? ――ああ、生前に聞いた、血液への施術に近いものなのだろうか。
どちらにせよ、リックの常識に当てはめれば、正気の沙汰ではない。
だが。
「あー……必要、なんだろうな」
「ショックを受けてる?」
「それは俺じゃなくて親の方じゃないのか」
「うんまあ、父さんも母さんも、どうしようかって悩んではいると思う。魔術が覚えられないとなると、この国じゃ生活しにくいから。いやもちろん、それ以外の道もあるはずよ?」
「俺は気にしないが、周囲はそうでもないんだろうなあ……」
よくあることだ。
周囲と同じではないことで、立ち入れないことも経験したことがある。いくら正装で着飾ったところで、溶け込むことは難しい。
「攻撃的な魔術も覚えるのか、というか覚えてるのか、姉さんは」
「もちろん。それが必要にならない方が良いけれど、覚えておいて損はないもの」
「必要なのは戦闘技能か」
「ざっくり言えば。でもリックはまだ先よ? 私だって十三歳になってようやく学校だもの」
つまり、五年後だ。リックの場合はさらに三年あるが――たぶん、猶予としてはまず三年くらいだろう。
この、運動なんてしたことがない、みたいな躰もそこそこ鍛える必要もある。
無茶をせずに、だ。
かつて、生前はそれで失敗して、肩を壊した。必要に迫られていたとはいえ、過度に負担が発生する行動により、左腕が肩より上がらなくなってしまったから。
「姉さん、あんまり心配しなくていい。どうにかする」
「どうにかって……」
「やってみたいこともあるし、三年くらいは時間を貰って好きにやるさ」
「できるの?」
「さあ……できなかったら、またその時に考えるよ」
失敗は悪ではない。生きていれば再挑戦の機会はあるし、同じ失敗をしなければ良いだけのことだ。若いうちはそれが許される。
夕食の際に、とりあえず両親には自分が落ち着いていることと、余計なことをするなと遠回しに伝えておいた。
そして翌日。
腹の調子があまり良くなかったが、朝の早い段階で父親のところへ。
「おはよう、父さん」
「おはようリック。どうかしたかな?」
「出勤前に聞いておきたくて。姉さんに見せてもらったけど、小さな火を出して明るくする魔術、父さんも使える?」
「もちろんだ」
「見せてくれないか」
「いいよ」
手のひらを見せる、術陣の展開、そして発現。
「こんな感じだね」
「……ありがとう」
「なにか疑問が?」
「ああうん、誰が使っても同じになるってのは、気持ちが悪いと思って」
「――何故」
「父さん、包丁を使ったことはあるだろう? 俺が使っても、父さんが使っても、きっと母さんには敵わない」
「そうだね、母さんが台所に立つ回数は、ちょっと僕とは比較にならない」
「これは経験の差だ。じゃあ、戦闘をする人たちは全員が同じ武器を持つ?」
「いや……持たないね」
「そう、体格や性格によって武器は変わる。俺と父さんだって、そうだ。俺は見上げないといけないし、父さんは見下ろさないといけない」
「身長の差があるからね」
「父さん、俺が気持ち悪いと言ったのはね、同じ人間で、親子で、同じ性別なのに、俺と父さんで同じことなんて、探せば探すほどないのに、なくて当然なのに、どういうわけか同じことをやろうとしてる魔術が気持ち悪く感じるんだ」
「……」
「あと腹の調子が悪くて困る……」
「ふ……ははは、まだ安静にしているんだよ」
「もちろんだ。今日も仕事だろう? 俺のことは気にせず、相談する時は声をかけるから」
「そうか。家庭教師が必要なら、いつでも言うんだよ」
「わかった」
それなりに大きな屋敷であり、管理する侍女もいる。父親の稼ぎがそれなりにあることも覚えてはいた。記憶のすり合わせは昨日のうちに終わらせてある。
軽い朝食を終えて自室に戻れば、教育係の女性がすぐやってきた。といっても、どちらかといえば老婆だ。
「今日はどうなさいますか、リックさん」
「ばあさんまで俺に気を遣うのか? とりあえず、魔術が駄目なら体術でどうにかすりゃいいと考えるのは浅はかか」
「そうですね、体術であっても魔術は関わります。たとえば剣技などもそうでしょう」
「――剣技?」
「お母上が得意なので、見せてもらえばよろしいかと。魔術によって発生させる体術ですよ」
断言できる。
それは、魔術ではない。
「ん……」
周囲を見て、学習用のデスクに紙とペンがあったので、それを持って彼女と向かい合うテーブルへ。
「そもそも、魔術水を飲む以外に方法はないのか?」
状況を記す。魔術水、魔術、術陣、行使などを順序だてるのではなく、文字として記し、その紙を見ることで全体を把握する――昔から、よくやっていたことだ。
「ありますが、魔術水ほど安定して覚えることはできません。各地から冒険者たちがここに集まるのも、魔術水があるからです」
「出所はどこだ」
「……」
「ん?」
「リックさんは強い言葉を使うのですね」
「おかしいと思っても、そのまま聞き逃してくれ。魔術水を飲んで躰を壊してから、記憶が混乱してて、よくわからないんだ。それで?」
「魔術水は基本的に教会から販売されています」
「どれも同じなのか」
「いいえ、覚えようとする魔術によって、それぞれ違います」
「料金も、か。お布施と言うべきかもしれないが」
「はいそうです。飲むまで躰に馴染むかどうかはわかりません。基本的なものですと、半年ほど常飲して結果を待つこともありますが」
「割に合わないギャンブルと同じだな。ばあさんも使えるのか?」
「初級のものなら、いくつか」
「さっき言ってた剣技もか?」
「はい、単純なものではありますが」
「どういう感覚なんだ? 自分の躰が勝手に動くのか」
「そうですね、最適化された行動を勝手にしてくれる感覚で間違いはないかと。ただ上級剣技などは、たとえば斬撃そのものを飛ばしたり、具現させるようなものもあります」
「なるほど、ね」
「リックさん」
「勘違いするな、俺は魔術を覚えようとは思わないし、躰を鍛えるのを中心にするつもりだ……が、ばあさんは魔術をおかしいと思ったことは?」
「……? 質問の意図がわかりかねます」
「そうか。なら、今後はばあさんの座学に加えて、俺なりに躰を鍛えよう。焦るつもりはない、ばあさんもそのつもりでいてくれ」
「ではそうしましょう」
さあ、ここからは手探りの時間だ。できることをやって、できないことを見極め、やるべきことをやる。
注意すべきは、焦らないこと。
それはリックが得意な部分だった。
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