第19話 式情饗次魔術の書
約束をしたわけではないが、きちんとエンスは用事だけ済ませて街を出た。
特に話し合ったわけではないのに、彼女がそこで待っている。これは想定内だ。
「徒歩で移動か」
「馬車ってのは面倒ごとを引き寄せそうでな」
「こっちにおいで。街道は邪魔になりそうだ」
「おう」
道を外れ、少し離れた木の下を選択し、お互いに立ったまま、軽く木に背中を預けるような姿勢になる。
「さすがに整備されてるな」
「そりゃあね。いうなれば、ここは都会だ。それよりもまず、足は大丈夫なのかい」
「ああ、いや、どうだろうな。骨は軋んだが、折れた感覚はねえよ。せいぜい、筋肉が軽く断裂したくらいじゃねえか?」
「……そうだとしても、よく歩けるもんだね」
「歩けなくなったら、死ぬ時だろ。そうでなくとも、安全じゃない場所で寝転がるのは間抜けのやることだぜ」
彼女は。
呆れたように吐息を落とした。
「魔術、使っていただろう」
「ありゃ借り物だ。ちょうど俺の読んだ魔術書に、爆発系の術式があったから、それを使ったんだよ」
「……そんな簡単に理解できないはずだけど」
「そりゃそうだ、俺も理解はしてねえよ」
「うん?」
「だから、借り物だ。あんたが言うところのスキル? あれと似たようなもんだろ。多少の改良はしたけどな、威力とか設置型にしたりとか」
「魔術スキルはそんな改良もできやしないよ……」
「どちらにせよ、俺は魔術師じゃねえよ。ただ、知らないままってのもよくはない。そこでだ、あんた、俺に魔術を教えてくれないか?」
「知ってるだろう」
「結果はな。だが、理解はしてねえよ。たとえば――」
「待ちな」
吐息が一つ。今度は呆れというよりも、意識を切り替えるような。
「とりあえず、あたしの隠れ家に移動するから、おいで。どこに耳があるかもわからない場所で話す内容じゃないよ」
「おう――待て」
一度、背負っていた袋の中から抜き身のナイフを取り出し、左手へ。
「いいぜ」
「……いくよ」
想像していた通り、足元が歪むような感覚にエンスは軽く腰を落とす。
言われる前に、一歩を踏み出せば、そこは既に違う場所であり、痛みのない右足ですぐエンスは場所を移動しながら、周囲を見渡した。
家がある。そして庭だ。あまり手入れがされておらず、敷地内の隅には雑草が多くみられ――着地、動かない彼女を視界に収めてから、三秒。
エンスは大きく吐息を落とした。
「……術陣を基点とした長距離転移」
「知ってるんだね?」
「知ってるさ、知らなきゃ対応できねえよ。つっても、俺が生前に出会った使い手は三人で、そのうち二人は、基点に罠を張っておいて、転移させて殺した」
つまり。
今のエンスたちと同じ状況で、到着と同時に罠が発動する――それを想定して、エンスは臨戦態勢だったわけだ。
くるりと、ナイフを手元で回す。
「ロープで捕縛した相手が、
「いや……検証したことはないね」
「魔術師としての錬度の差だ。一つ目のケースは、対象だけが転移してロープが地面に落ちる。これは殺せなかった二人目がやっていた。そして二つ目は、捕縛ごと転移する」
「二つ目のケースが真っ先に思いついたよ」
「じゃあ、ロープの端を俺が持ってたら?」
「それは……あんたごと転移させるしかない」
「そう、つまり、転移できない」
あるいは、しても意味がない、というべきか。どちらにせよ相手が捕まえられている認識を強く持っている以上、転移そのものが成功しない場合もあった。
「じゃあ、そのロープが十五メートルもあって、その端を俺が握っていたら? 今度は転移が成功する」
「ただし十五メートル範囲内のみ――詳しいな」
「結果はな、生死に関わるから知識がいる」
だが魔術として、魔術師として、理解はしていない。
「仕組みはわかんねえよ」
「なるほどねえ……ま、ともかく中に入りな。で、あんたはまずベッドに直行だ」
「あ?」
「その足で動き回るんじゃないって言ってるんだ。まったく、怪我をしている自覚をしたらどうなんだい」
面倒だと思ったのか、彼女はエンスを小脇に抱えるようにして中に入った。
「埃っぽいな? セーフハウスか」
「似たようなもんだよ。あたしは、あちこち出歩くからね。寝室は一つしかないけど、あんたが当面は使いな」
それほど広い家ではない。玄関から入って、リビングとは逆側の部屋が寝室になっており、ベッドに放り投げられる。
「二階は研究室だ、出入りは控えてくれ。あたしは準備して、とりあえず食料を買い付けに行くから、話はあとだ。いいね? 休んでいるんだよ」
「あいよ、本でも読んでる。ああ、水の用意だけしといてくれ」
「はいはい」
きちんと水を用意していくあたり、彼女はどうも、お人よしらしい。
ナイフをサイドテーブルに置いて、両足を投げ出せば、ずきりと痛む。さすがに隠しきれる範囲を越えていて、左足の方が倍とは言わずとも太くなってしまっており、色も赤い。
黒く変色していないだけマシだ。
――さて。
本を読もうかと手を伸ばした時、それはやってきた。
手を触れて、引き出す感覚がない。
その本は。
自らの意思で、エンスの手を使い、こちら側へ顔を見せる。
五センチほどの厚さ、装丁はきちんとされているが表紙に文字はなし――魔術書によくあるタイプだろう。ここ数日で読んだものも、似たような感じだった。
膝の上に乗った本に手を伸ばすが、届く前に本が移動した。
「……」
右手がゆっくりサイドテーブルに向かう。
『遅いよ、エンスちゃん』
声だ。
『得物を握るなら、おれがこっちに出てきた瞬間にすべきだね。いつもと違うってのは、何かしらの合図だと知ってるはずだぜ? それとも、腕が鈍ったと言い訳でもするのかい』
「魔導書か?」
『まさか、おれは魔術書さ。まあ、おれみたいなのは珍しいけどね。安心が欲しいなら、夜の王にちょいと頼まれて、新しい秘書に挨拶をしておこうって話を、丁寧にした方が良かったかい?』
「名乗ってはいないはずだぜ」
とりあえず、ナイフは無駄だとわかったので、代わりに水を軽く飲んだ。
『名前ってのは己に刻むものさ。誰かに呼ばれることで固定されることでもある――きみの名前は、エンスさ。きみがそう認識している。だがその奥底、根底にあるのは六号という名称だ。忘れることはない、いや、忘れたくないのかな? いずれにせよ、きみはその番号を刻んでるよ』
「……そうか」
大きく、吐息が一つ。
忘れていたことはない。忘れたくはないし、忘れてはならない。
ただの番号であり、けれど、最初の成功例でもある六番目。つまり、五番目までは失敗だったのだ、忘れられるはずがない。
「で、お前は?」
『おれの個体名を知る必要はないよ、きっときみが生きている間では、これっきりさ。誰かを助けようとは思わないし、いくら適性があってもぼくは誰かに読ませるつもりはない。けれどそうだな、うん、おれはね、
「ゼロワン?」
『あらゆる事象、現象、生物に至る世界の全てを、0と1で表現しようって術式さ』
「オンとオフ、電子戦の根底じゃないか」
『世界ってのは、突き詰めて突き詰めて、物事や物体を小さく、細かく、最小限まで捉えようとすると、情報量はその行為に比例してどんどん多く、大きくなっていく。水、と一言で済むものを0と1で表現した場合、人間の頭脳じゃそれを捉えきれなくなるんだからね』
「それでも魔術師って連中は、仕組みを誤差なく知りたがるもんだろ。俺には理解できないが、分析計としては最上級のものだと思っておく」
『そんなに喜ばしいものじゃないけどね』
「そうか? 事実、お前にも以前の所有者がいるんだろ」
『うん、いたね。もう覚えていないけど、いたことは知っている』
「――覚えてない?」
『おいおい、おれは魔術書だぜ。そこらにあるメモ長じゃないし、記録書でもないんだ。人に限らず、意識ある者にとって忘却は特権だ。おれたちは忘れるようにできてる。大事なことも、そうじゃないことも、忘れるものさ』
「大事なこともかよ」
『その通り、大事ってことを忘れる。それはおれだけじゃなく、夜の王も
「あの二人か……」
『ともかくきみの業務について教えておくよ。それがおれの仕事らしい』
「おう。今気づいてることを列挙するか?」
『それも把握できてるよ、さすがにそのくらいは見えてる。それなら最初から、手順通りに教えた方が早いよ。まず、きみの読んだ本だけど、きみの保有する書庫に保存されるんだけどね、きみは本それ自体を収納するか、写本にするかを選択できる』
「魔術書もできるのか?」
『まあね。ただし、原本と写本は違う』
「その差は、魔術書そのものに左右しそうだな」
『よくわかってるじゃないか』
「まずは自分を把握しろって、教えたのは俺だからな。本人がそれを破るわけにもいかねえだろ」
『なるほどね。まあ複写にせよ、書庫に保存するにせよ魔力は必要だが、きみはあまり気にしなくていい。魔力切れなんて、きみが生きているうちに、あるかどうかわからないくらいには、魔力量が馬鹿みたいに多いからね。使いみちはあまりないけれど』
「俺が魔術師じゃないことくらい、一番自覚してるさ」
『その認識も、合っているとは言い難いね。戦闘ができるからって、全てが軍人じゃないのと同じさ。ま、これはいずれ解消するだろうから、覚えておくだけでいい。それと、貸し出しについて』
「ああ、それ、やっぱりできるのか? これから試そうと思っていたところだ」
『できるよ。ただしばらくは、必ず期限を区切った方が良い。あー……』
「動画のレンタルと同じだろ」
『ああそれ、それで通じるなら話は早い。ただきみの場合、金銭は発生しないよ。最初は二日くらいの期限を区切れば、それをきちんときみが口にしたのなら、契約はされる。やっぱりきみの魔力は消費するけどね』
「それは書庫の機能か?」
『気の利く夜の王がやったのさ。ああ感謝はしなくていいぜ? あれは面白いことが大好きで、何かと状況を動かしたくなるヤツだから、そのついでさ』
「良くしてもらってるのは理解できる」
『けれどだ、きみはあっち側――書庫にはしばらく立ち入らない方が良い。どうせさっきの女に、きみがこちらに戻って来たのを見られたんだろう?」
「なんか存在がブレてるとか言われたな」
『次元式と勘違いしてるようなら、そのままにしとけよ。いいかいエンスちゃん、あちら側はね、そもそも成り立ちから、こちらとは違う。そしてあの二人が選んだよう、エンスちゃんには適性があるわけだ。――ありすぎると言っても良い。しかもきみは司書だ』
「役割がある、役目があることが逆に、居つくことで順応しやすいってことか」
『その上での適正さ。かつては管理者もいたけれど、今は連中の巣窟だ。エンスちゃんの魔力量があって、ようやくさ』
「わかった、時間制限付きだと覚えておく」
『夜の王も百眼も、そこらの対策は考えてるだろうけど、基本的にはきみの判断だぜ。さて、じゃあおれから一つ、質問だ』
「なんだ?」
『夜の王がうるせえから、まあおれとしても興味本位だ。エンスちゃん、世界に穴が開いて、きみがどんな世界からやってきたのかは知らない。きみがどんな職業だったのかも、置いておこう。きみが知る限り、戦闘技術においてトップを三人挙げるとしたら、誰にする?』
「
即答できる一人目は、武術家の筆頭であり、その他の追随を許さない、エンスにも
「中尉――
二人目は、単独で戦場をひっくり返せる部隊のトップにいた、伝説的な存在。戦場で動く誰しもが、軍ですら、彼女たちの部隊名を知っていた。
「あとは……、……そうだな、狐だ」
かつての、生前の傭兵団の名前も、戦闘技術において、武術家ではないのにも関わらず、武術家に対抗できた存在。
『――はっ、ははははは! よりにもよって三人目に狐を出すか! ああ、笑わせてもらったお礼に、少し教えてあげよう。エンスちゃん、直接逢ったことはないんだろう?』
「三人ともな」
『だから勘違いする。確かに狐の体術は大したものだ。受け流すことに特化し、それが術式であっても無意識に受け流す始末。移動するぞと言われて、
彼は、魔術書はどこか嬉しそうに言葉を続ける。
『あいつは人を騙して笑ってるだけさ。きみたちは一撃を加えるために先を読み、布石を打つ。けど狐は違う。目の前で両手を叩いて驚いた相手に、指を突き付けて大笑いしいただけのガキだ。最初から戦闘ってステージにいねえのさ』
「大笑いしてたら戦闘にならないだろ」
『こう言えば伝わるかい? 雨天と戦闘をしながら、無傷で、もう面倒だと勝手に一人、さようならと――無事に逃げることができる、あまのじゃくだ』
あの雨天から。
決して逃がさない、なんてことはないにせよ、そもそも逃げ切れるなんてことは、戦闘に入った時点で最初から除外すべき事象なのに、それを。
「……俺から一つ」
『なんだい? 気分はいいぜ、聞こうじゃないか』
「あの場所はいったいなんだ?」
『おれから言えることは少ないね。そうだな……箱庭の魔導書でも探して読めば、きみの書庫に入るだろう。たぶん人型にもなれるだろうし、改良できるんじゃないか? そのついでに、探索でもさせればいいさ。きみができるようになるには、まだ時間がかかる』
「そうか、魔導書なら人格だか魂だかが刻まれてるから、そういうこともできるか」
『世にあるすべての魔導書を集めてもいいんだぜ』
「俺なら無事に集めきれるか」
『司書だが、本を集める役割もあるだろうからね』
「そうか、助かる」
『じゃ、おれの役割はここまでだ』
「最後にもう一つだけ」
ふわりと浮いた本に対し、エンスは問う。
「忘れることができるし、忘れるようにできてるんじゃなかったのか?」
本は。
笑いながら。
『つまり、忘れていたものを思い出すってこともできるのさ』
そんな皮肉を言い残し、エンスの書庫へ、その本棚へ、その身を潜めた。
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