第17話 貧民街の日常

 生前の世界と比較したのならば、随分とこちらは平和らしい。隣町に行けば紛争があるような日常はなく、魔物は脅威という認識だが、住み分けされていると考えて良い。

 ここは軍事国家の領地にある拠点の一つ。兵の育成を中心にした街で、さすがにそちらは立ち入り禁止になっている。ただ、貧民街はあるものの、軍の規律がある以上、治安は悪くない。

 ならどうして孤児が出るのか?

 それは、各地にいる孤児たちが、ここなら暮らして行ける――という情報が出回っているからだ。

 事実、訓練をしたり、研究施設に入れば、彼らは軍人としての生活ができる。戦地に送られて魔物の討伐もするが、決して悪い生活ではない。

 良く言えば、金のない者たちの居場所が、ここにはある。国にとっては利用すべき資源たち。

 エンスに言わせれば、よくあることだ。生前では当たり前のように存在していた。

 嫌悪はない。ないが――許せるかと問われれば、微妙なところだ。

 ここ三日間は、朝食を終えたあとに読書、昼過ぎに外出して昼食、情報を集めたり新しい本を見たりして、夕食を買って帰宅、という流れだった。

 そして四日目に行動を開始する。

 何はともあれ、資金が必要だ。加えて、自分が居た場所だから、調べておいて損はない。

 可能なら。

 この国から出ることを視野に入れ、そのぶんの金くらいは稼いでおきたいところだ。

 ふらりと、貧民街へ入る路地へ。その際、軽く肩越しに手を振って、監視している彼女に挨拶をしておいた。

 正直に言って、今のエンスは躰を鍛えてもいないし、三日くらいでそう多くの肉もつかないので、戦闘ができるとは口が裂けても言えない。生前とは違うのだ。

 欠伸を一つ。

 ああそう、これもそれなりにショックだったのは、わかってはいたのに睡眠が深かったところか。

 深いなら深いで、定時には起きる必要がある。それが警戒なのだが、意識の方も追いついておらず、上手くいかない。昔は睡眠中でも常時警戒くらい当たり前にやっていたので、それができない事実は、なかなか堪えた。

 なので、躰に馴染ませる必要があり、ここのところは、いつも眠い顔になってしまっている。癖にならないようにしなくては。


 ――におう。


 生活用水が垂れ流しになっているのだろう臭い。用水路にゴミでも投げ込んでいるのだ、そういうところはどこでも変わらないし、エンスにとっては慣れたものだ。

 慣れる、というのも少し違うか。

 臭いが、そういうものだと受け入れてしまう。戦場で血の匂いや、腐敗臭を当たり前のものとして受け取るのと同じだ。慣れてしまうと、無意識に除外してしまうが、それだと異常に気付かない間抜けになる。だから、あくまでも受け入れるだけ。

 さて。

 堂堂どうどうと歩くわけにはいかない。

 背筋を丸め、周囲を窺いながら、ゆっくりと歩く。きょろきょろと、誰かを探すよう、怖がるよう、五歳の子供が親を探している様子を演出して、歳相応の動きを。

 ゆっくりと動くこと。加えて、隠れようとしない未熟さの演出――どの程度、演技が通じるかは知らないが、あえて間抜けを装う交渉術と同じだ。

 裏路地に倒れている人がいたら、ぎくりと躰を震わせ、ゆっくりと遠ざかる。

 だが、この匂い。

 中毒性、常習性のある麻薬の匂いに似ていた。

 ――おかしい。

 確かに常習性のある薬物は、金を稼ぐにはうってつけだが、それをこんな貧民街にばらまいたところで、稼ぎシノギが良いとは言えない。そもそも、ここにいる孤児を含めた人間そのものが、商売の対象だ。悪く言えば人身売買、その元となる彼らを薬漬けにしていては、話にならない。

 裏に何かある。

 一応気にしておこうと、ふらふら歩き、時には同じところを回って、川沿いへ。

 コンクリートで整備はされているが、水は汚い。深さはそれなりにありそうだが、土手の高さも相まって、落ちる恐怖を抱いても不思議ではないだろう。

 そこに。

「――ちょっと、何してるの」

 女性に声をかけられ、硬直の演技をしつつ、ゆっくり振り返る。

 自分が五歳くらいだというのを忘れたのならば、相手は少女だった。

「あ……」

「だいじょうぶよ」

 一歩、後ろに下がれば、彼女はしゃがんで視線を合わせた。

「このあたりは危ないの。どうしたの?」

「……父さんが、こっちに来たから、探しに」

「そう。あなたのお父さんは、こっちに住んでるの?」

「違う。商売で、こっちに……」

 自然な流れで裏取りをするあたり、さすがは貧民街の住人だ。小綺麗な服を着ているのも、女性ならではか。

 エンスの言っていることが事実なら、脅迫をかけたりして金を搾り取ろうしている。そのあたりのプランを既に頭の中で考えてるはず。

 ――だが。

「おーう、何してんだぁ、こんなところで」

 そう、場所が目立つ。ここは逆側からもよく見えるし、視界も開けているから。

 慌ててエンスが振り向けば、男が二人。ぱっと見て、大きい男と小さい男――年齢は、せいぜい十五かそこらか。

「チッ」

 女の舌打ちは、聞こえないことにしておいた。

「よう坊主、小遣いくらいは持たせてもらってンだろ? ちょっとこっちに回してくれよ、困ってんだ」

 会話の糸口は金から。手持ちを吐き出させるのは本当に口実で、彼女と同じくエンス自身の立場を利用して、もっと大きい稼ぎを出そうとしているのは明白だ。

 そして。

 彼らは、彼女よりも乱暴な手を打ってくる。

「……いや、だ」

「あー悪い、もう一回言ってくれねえか?」

 目の前に立てば、体格の差がある。二倍とは言わないが――さてと。

「嫌だ!」

 あえて叫ぶが、あまり声量が出ず、震えた声になっていただろうか。

「そうかい」

 握られた拳、それは大きく振りかぶられ、加減なんて忘れたかのよう殴ってきた。


 半歩、前へ。


 殴る勢いを殺さず、内側に入って躰を丸める。右手で相手の手首を掴み、左手は袖を握り、勢いそのまま――エンスは相手を、自分の腰に乗せた。

 重量があるとはいえ、骨を揃え、腰という点で乗せてしまえば、幼い躰でも充分に支えられるし、それに加えて、支えるのは一瞬でいい。

 殴る勢いに加えて、腕を引っ張る勢いが重なれば、彼は勢いよく宙を舞い――おっと、投げる前に左手で彼の腰にあるナイフを窃盗スナッチしておく――滞空、それから、大きな音を立てて川に落ちた。

「――てめえ!」

「いいのか?」

 エンスは無意識に、左手のナイフを手首の内側に、隠すようにして持つ。

「あんな汚ねえ川に落ちたんだ、とっとと救出しねえと死ぬぜ?」

「――、兄貴!」

 迷う時間そのものが短いのは、高評価だが。

「間抜け、俺に無防備な背中を向けるな」

 走り出した彼が横を通り過ぎる時、その背中を蹴り飛ばし、同じく川に落としておく。結果、死んだとしても、エンスは何も気にしない。

「さてと」

 思い出したよう、左手のナイフを手元で回転させる。人差し指を支点にしてくるり、順手で掴みなおす。それを右手に軽く投げて移動させ、同じ動き。

 手癖のようなものだ。

「出て来いよ。実地研修は悪くねえが、ちゃんと相手を選ぶべきだったな。それとも何か、俺がそっちに行ってやろうか? 三秒待つ。3、2」

 相手は。

 彼は、男は、ふらりと路地から姿を見せた。さっきのが子供なら、こちらはちゃんと大人だ。

 まずは移動するかと、そう思って、すぐに。

「ああ」

 思い出し、ちらりと背後を見れば、彼女は中腰の姿勢になって、エンスから視線を離せないでいた。

「忘れてた。行っていいぜ」

 空いた手で、あっちへ行けと手で示す。すると男が頷き、彼女は迷わず背中を向けて全速力で逃げた。

 良いことだ。

「場所を移すぜ」

「……こっちだ」

 大きな移動はない。路地に入ってすぐ、一つ曲がったところの通路だ。人通りは当然のようになく、近くの建物にも人の気配はほとんどない。

 彼は、煙草に火を点けて、建物に狭められた空を見上げた。

「とんだ厄日だ……」

「ツイてなかったな。これは本題じゃないんだが、薬物を広めてる馬鹿がいるのか?」

「表でな。こっちにいるのは、中毒になって全てを失った連中だ」

「――ああ」

 なるほど、その可能性の方が高かったかと、エンスは自分の推察が間違っていたことを認め、改める。あくまでも金があり、余裕のある連中から奪い取るのが当たり前の行動だ。その結果として行き場がなくなり、こんなところまで来ている。

「治安が悪くなって大変だろ」

「かなりな。街で作ってるんだろうと推測はしてるんだが、拠点はまだ見つけられていないらしい。俺みたいな下っ端が気にすることじゃねえけどな」

「ふうん?」

「お前こそ、あの女は逃がして良かったのか」

「野郎よりも女の方が金になる。だから多少は優遇して、飯も与えて、お前が見てやってんだろ」

 あとからやってきた少年二人は、別口だ。男は最初から、少女が接触する前からこちらを見つけていた。

「用件は?」

「おう、ここらの縄張りシマは一つか?」

「似たような組織が入り組んでるほど、広くはねえな。毛色の違う施設はあるが」

「強化人間みたいなのを作ってんだろ、そっちはあまり興味がねえ。それとも、よほどガキを使い捨てにしてんのか?」

「いや……そういう話は聞かない。強化の程度はどうであれ、就職先は斡旋されてる」

「ならいいさ、俺の用事はそっちじゃない」

「……内容は聞かない方が良さそうだ」

「お互いの名前もな」

「居場所か? それとも、案内か」

「居場所と情報」

「本当に手慣れてやがる」

「詳しく聞かない方がいいと、そう決めたんだろ?」

「そうだったな。幹部連中は川を渡った奥、そこそこ大き目の平屋にいることが多い」

「ボスがそこにいるのか」

「ボスの住居だ。日ごろから護衛がついてるわけじゃないが、それなりに人の出入りもある。正面からナイフ一本はお勧めしない」

「相手の態度次第だが、喧嘩をするわけじゃねえよ。賢い相手なら、屍体の数も少なくて済む」

「賢くなかったら?」

「ここにいる全員が、生活に困ることになるな。そういうやり方は得意だ」

 半分はハッタリだ。さすがに訓練もしていない幼い躰では、無理が過ぎる。

「口封じはしない」

「言えねえよ、後になって情報源が俺だとバレたら最悪だ」

「わかってんなら、それでいいさ」

 じゃあなと言って、今度こそエンスは気配を隠し、人に見つからないよう移動を始めた。

 貧民街ここにいる誰もが、そうしているように。


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