第7話 知られざる符丁とツイてない男
窓から外を見ると、すでに夕方の時間帯だった。
周囲に人の気配がないのを確認したエンスは、大きく吐息を落として、とりあえず図書室を後にする。
――疲れた。
次元書庫に留まることが、負担になっているわけではない。むしろエンスは司書として、その役割として、書庫の内部にいることの方が、本来は自然なのだ。
だから、こうして日常に戻ると、その差異に対して一気に馴染もうとして、疲労する。
いずれにせよ、まだ司書として慣れていないだけだ。理由はいくらでも並べられるが、その一言ですべて済む。
視界が二重になるような感覚も、以前と同じだ。
かといって、酩酊している感じはない――つまり揺れてない。
思考もあまりうまく回っていない。疲れている。
「だからって、嫌だ嫌だと言ったってしょうがねえ……」
ぽつりと呟いて、一人で学校を出た。
しばらくしたら落ち着くだろうから、あとで聞いた話などの編纂はしておく必要がある。
あるが。
少し気になることがあった。
黒色の直刀に覚えがある。というか、よく知っている。
生前、仲間に同じ得物を勧めて、使わせていたから。
エンスの戦闘技能は、雨天の武術家を参考にしている。
といっても、エンスが実際に見て、学んだわけではなく、そういう情報を躰に教え込まれたのが最初だ。もちろん生前の話である。
とりとめのない思考が続く。すべてが繋がっている気もするし、何もかもがばらばらに点在しているような気がする。
かつての仲間と、どうしても逢いたいとは思っていない。逢ってどうすると、そんな疑問もある。
そんな中途半端なところで、ぼんやりと生きるのも、人間らしさだ。
ああ疲れた。
どうしようもないことを考えたって仕方がない、とにかく今は休むことだ。徹夜で書いた報告書なんて、読めるはずがないことを、エンスはよく知っている。
だから、寝る前にやることは決まっている。
風呂と飯だ。
夕方ということもあって、学生たちは学校から出て、外に多くいる。表通りの定番店舗は駄目だ、人が多すぎて、どうしたって意識したくなる――じゃあどこだ。
酒場にした。
あまり学生は立ち寄らないだろう、との判断だが、この時のエンスは自分もその学生の一人であることを忘れていて、特に気にした様子もなく、つまり、店内に誰がいるのかを確認もせず、とりあえずカウンターに座って。
一つ、席を空けた隣に、似たような少年がいることにも気付かず。
「マティーニ、ベルモット多め」
ありえない注文をした。
しばらく待っていたが、返事がないのをおかしく思い、顔を上げて店主を見る。いや、そもそもいたのはウエイトレスで、店主は奥で食事を作っており、そこでようやく。
「ああ」
棚に並んでいる酒瓶の種類から、自分の間違いに気づいて。
「悪い、なんでもねえよ。定食をくれ、飲み物は酒以外なら何でも」
「はあい、ちょっと待っててね」
「おう」
視界のズレは直ったが、まだ躰が重い。魔力が消費されているわけでもないのに、このだるさは、本当にどうにかしなくては。
油断が隙になるなんてのは、大前提の教えだ。
それを見せたのは、大失態。今ここで殺されてもおかしくはないほどの、油断。
「――何故」
隣からの声に、ようやくその少年を視認したエンスは、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「その符丁を知っている?」
軽く手を挙げ、相手の言葉を制止する。
また考えることが多くなった。
「待ってくれ、見ての通り俺は疲れてる。お前と話をしたい気持ちは変わらねえから、飯を食べ終わるまで待ってくれないか」
「……構わない」
「助かる」
エンスよりも先に来ていたのに、定食が運ばれて来てから、ウエイトレスは思い出したよう彼に気づき、謝罪をして、それから彼の料理を持ってきた。
注文を忘れらるなんて、ツイてない。
食事の時は、あまり考えないようにした。とにかく腹を満たし、日常の、当たり前というものを一緒に飲み込む。
エンスの食事は早く、ちらりと隣を見ればまだ食べていたので、珈琲を飲む時間でゆっくりと待った。
これで、取り繕えるくらいには、落ち着きを取り戻せた。
改めて彼を見れば、いやはや、気付かなかった自分がおかしかったのを自覚できる。何しろ、原因はともかくも、世間的には嫌なもの、と曖昧に表現されるような雰囲気の塊のようだ。
「で、符丁がなんだって?」
「ああ、ぼくは符丁だと教わっている」
「……、俺としちゃ、ちょっとした勘違いだよ。よく聞いていた酒の注文を、そのまま口にしちまっただけだ」
「……」
「疑うなよ、事実だぜ。教わったってことは、何かありゃ今の注文をどっかで言えば、その誰かさんに連絡が取れる――ってことだろ? そいつが誰だか知らないし、今のところ深く追求する気もない。たまたまだ」
「ぼくにとってのたまたまは、悪い方を引く時しかない」
「あー……信念か」
「いや事実だ」
「そう言われても、まあ、魔術師ってやつはこの世に偶然なんてねえ、とか言ってるし、そういうもんか」
「ぼくも魔術師だが、そこまでは言わない」
「そうなのか? 俺の師匠が魔術師なんだけど、偶然なんてのは、具体的な仕組みを理解できない愚かな人が言い訳した、然るべきものだとか、悪意たっぷりに言ってたぞ」
「そうか……」
「俺は話半分だけどな。けど、そうだな、もしもその符丁を教えたってやつが、黒色の直刀でも持ってたってんなら、話は別だ」
「持っていた」
「――は?」
因果、という言葉がある。
推測や推理などではない。ただ、次元書庫で会話をした内容の中で、今のところ繋がりがありそうなものが、黒い直刀だけだったので、なんとはなしに口にした――半ば冗談の、投げかけだった。
期待はしない。
いや、ない。
けれど――可能性が、あるのかもしれなかった。
「よう」
「なんだ」
「今、俺はどんな顔をしてる?」
「……苦笑い、だな。嬉しいとも、嫌そうとも、その両方とも言える」
「なるほど?」
客観的に、つまりは複雑な感情が表に出ているらしい。
「名前は言えるか」
「あまり言いたくはないが……ぼくに、生きる技術を教えてくれた先生だ。ぼくも直刀を貰ってる」
「生きる技術ねえ」
「最初に教わったのは二つだ」
彼はこちらを見て。
「敵に容赦をするな。そして、筋を通せ」
「三つだ」
頬杖をつくようにして、エンスは隣にいる少年を見る。
「最後に、――必ず報復をしろ、だ」
「報復?」
「裏切り、謀略、罠……筋を通さない害悪に対しては、その後に必ず報復をする。仕事がらみでどうしても、見抜けないこともあるからな。報復は見せしめになる。次を消すことも、生き残るには重要だ」
「なら、隠す必要はない。ぼくの先生は二人、ツリマユ先生と――」
そして。
「アキコ先生だ」
「――」
さすがに、これは。
「俺には、偶然は偶然としか思えねえが――ここまで重なれば、別人だと笑い飛ばす方がおかしいな」
「知り合いか」
「まあ、な。……伝言を頼めるか」
「構わないが」
「俺の名前、エンスって名と――はは、そうだな、泳げるようになったのか、と」
「……それだけでいいのか?」
「いいさ。逢いたいのかどうかもわからねえよ」
「わかった」
「で、お前は?」
「……? ああ、ディアだ」
「そうじゃなく、いや、まあそれもそうだが、妙な雰囲気をまとってるだろ。戦場に出れば間違いなく死ぬタイプの気配だ」
「これか。昔からぼくは、――不運なんだ」
「不幸じゃなく不運ね……運がない、ツイてない、ふうん?」
ただ、それだけではないのだろう。おそらく、何かしらの手を入れて、あるいは術式でも組み合わせて、今のようにしている。
なんとなく。
「……魔導書でも読んだみてえな気配も、ちょっとあるんだよなあ」
「――魔導書?」
「文字通り、魔に導く本のことだ。人の意識を乗っ取るのが一般的だが、人の幸運を根こそぎ奪って不運にするようなものがあっても、俺は驚かねえよ」
「……読んだ覚えは、ないな。ぼくは子供の頃から、こうだ」
「それで、あまり説明をしねえのか」
「誤解されやすいからな」
それはどうだろうか。
言葉が短い方が、誤解されやすい気もするし、それほど不運である感じはしない。
決定的な二択を外すくらい、よくあることだとエンスは思っているし、ディアの苦労はともかくも、それが他人に直接影響することは少ないと見ている。
いや。
それも関わり方次第か。
「ちょっと待ってろ」
左手に目録を取り出し、人の目もあるので一応、右手でぺらぺらとめくった。
「不運、不運ね。当たりはつけてるんだろうけど、そいつは誰かの幸運を奪いたがるか?」
「そういう傾向はある」
「で、普段は抑制しておいて、敵を喰うのか。――運を喰われたら最悪だな、人はそれだけで死ぬ」
「ああ」
「なら……参考程度だが、こいつだな」
目録にある文字列を撫でてから閉じれば、いつの間にか右手には次元書庫から送られた一冊の本がある。
「こいつは魔術書だ。一応、俺の仕事上、説明しておくぜ」
「わかった」
「魔術書にも意思がある。中身を見せるかどうかも、基本的には魔術書次第。機嫌を損なわなければ一通り読めるが、それだけで全てを知るわけじゃない。二度、三度と読めば違った理解を得られるが――読者がその錬度に応じていなければ、魔術書は手元から消えることもある」
「その錬度に達した時、また現れることも」
「その通り。で、こいつは俺の保管してる魔術書だから、それほど自分勝手じゃないにせよ、機嫌が悪くなりゃすぐ戻ってきちまう。加えて、俺が貸し出せる期限は三日だ」
「……短いな」
「そのあたりは、勘弁してくれ。それにたぶん、根本的な解決にはならねえよ。内容は的外れかもしれねえ――ま、情報の対価だ。頼み事もあったからな」
「わかった、受け取ろう。ぼくは学校で教員の手伝いをしている」
「俺は学生だよ。三日後、勝手に魔術書は俺のところに戻ってくるから、それほど気にしなくていいぜ」
「わかった。感謝は、いずれ」
「おう」
――ああ、まったく。
とんだ一日になったものだ。
さて。
ここからは少し、別の話をしよう。
これはツイていない男が、司書に出会うまでの物語だ。
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