第6話 次元書庫の司書

 エンスからはジジイと呼ばれている彼は、この次元書庫に来てだいぶ経つ。時間感覚はほとんどないのに、自分が生前のような躰で動けるのは、とても良いことだ。

 数年前になるのか、新しくやってきたのは若い魔導書だった。今も一緒にいるが、会話がある時もあるけれど、ほとんど黙ったまま好きに過ごしている。

 彼らのやることは、寝ることも食事も必要ないため、ずっと本を読むことだ。

 ここには山ほどの魔術書がある。もう終わりだと思って、けれど継続を望んだ彼らにとって、今もまだ魔術の研究ができるのは、素直に嬉しい。

 ただ。

 魂を本に埋め込むのならば、それは死ぬ時でしかない。つまりまだ若い彼は、その年齢で死んだことになる。その若さで、魔導書を創り上げた手腕は、素直に褒めたいくらいだ。

 箱庭を作ることに心血を注いだ彼と違い、たぶん、ただただ生きたいと、それでもまだ魔術を学び続けたいのだと、彼は願ったのだろう。

 お互いに干渉はほとんどしないし、魔術を語り合うこともないが、退屈はしていなかった。

 エンスが入学したのは知っていた。ここでは、エンスの視界の映像があり、たまに見て、自分たちが今、どんな立場なのかを再確認していたし、面白そうなことがあれば、それはそれで心の栄養になる。

 そう――快適だった。


 今、この時までは。


 不思議に思ったことは、あったのだ。

 この書庫への出入口は、かなり大きく設計されている。一般的な家屋は、おおよそ高さが1800ミリで作られており、横幅もそれに合わせて長方形になっているのだが、観音開きであることを加味しても、高さは3000ミリほどで、横幅もかなりの大きさだ。

 目立った装飾はされていないにせよ、威圧感を与えるような出入口であり、彼らはそれを開いて外に出ることを禁じられている。

 だから。

 その扉が開いたのならば、来客しかない。


 初めての来客だった。


 和装、着物の裾を引きずるようにして入ってきた女性は、あろうことか扉の天井を少しくぐるようにしてやって来た。

 大きい。

 縮尺の比率を間違えたのでは、と思うほど、既にそれは人間のカタチをしているだけで、人間のサイズではなかった――が。

 その姿を、彼らは見られない。

 気付いた時には膝をつき、床に頭が当たるのではないかと思うくらいにまで、頭を下げていた。

 呼吸をするなと、本能が叫ぶ。全身はすでに汗まみれで、額から落ちる汗が床につかないよう、どうにかしたいのに身動きができない。

「ほう……?」

 見られている。

 前後左右、上下、あらゆる方向から、複数の視線が突き刺さる不思議な感覚――いや、不思議も何もない、そんな余裕はない、ただ怖い、怖い、怖い。

 人間の感覚があって良かったと思っていたのに。

 心底、どうして、そんな感覚があるんだと文句を言いたい気分だ。

「おい司書、おらんのか?」

 その声が放たれるだけで、圧迫感が増す。

 ああ、ああ、一度は死を経験しているのに、それ以上のことがあるだなんて。

 早く終わって欲しい。いやだが、何が終わるというのだ。

 こちらを意識しないで欲しい、だから呼吸をして、ここにいると示したくない。だが息苦しい、呼吸が荒い、止まらない。

「おう、いるぜ。今来た――ああ、悪いな」

 そして、救いの手が差し伸べられた。


「お前らは帰れ」


 この書庫を管理しているのは、司書であるエンスだ。それは魔導書であれ、例外ではない。たったその一言で本に戻ったのを確認してから、カウンターにあるランタンに灯りをつけた。

「よう、初めて逢った以来だな、百の眼さん」

「うむ。なあに、少し聞きたいことがあってな。司書、雨天うてんを知っておるか? ああ天気のことではない。そう、武術のことだ」

 やや見上げるようにしなくてはならない相手は、相変わらずの態度である。エンスもまた、同格ではないにせよ、書庫を任せられている司書なので、怖いとは思わない。

 彼女は、ここの住人の一人だ。

「雨天ね、調べてみるか。……なんでまた?」

 左手で目録を持てば、自動的にぺらぺらとめくられる。

「遭遇したんだが、やや不可解でなあ。わたしとしても、結果そのものには不満を抱いておらんのだが……」

「ふうん? 覚えはないのか」

「うむ、それだ。妾に覚えはないのだが、あやつは知っておるような様子でな」

「じゃあ、過去か――ん、あった」

 めくられていた目録を親指で止め、本のタイトルを撫でれば、右手に目的の本が届く。

「読むか?」

「年寄りに細かい文字を読ませるでない」

「自分で言うなよ。あー、これは手記だな。雨天とは、武術家の筆頭であり、あらゆる得物を扱い、そして、あらゆる武術家を凌駕する。対するは妖魔、あやかし、魑魅魍魎ちみもうりょう、実体がない者と、同じ領域に立つことを前提とした。あらゆる得物を持つ雨天は、その技は、おそらく無手でこそ真価を発揮するだろう――こりゃ伝聞だぜ、百の眼さん」

「いや構わん。なるほどのう、妾に対しての天敵か。ふうむ」

「あんた妖魔だったのか」

「分類上はな」

「そうか。まあ、本に関してはほかに記載はなかったな」

 エンスはすべてを記憶しているわけではない。あくまでも、一度目を通したというだけで、探したのも司書としての機能に過ぎない。

 司書だからできることと、エンスができること。

 彼はこの二つを、きちんと区別している。

「でだ、俺の記憶にもあるんだが、聞くか?」

「ほう?」

「以前に伝えたと思うが、俺には生前の記憶があるからな。そっちの方だ」

「ああ、そうだったな。では聞こう」

「つっても、そんなに詳しくはねえよ。俺が生きてた頃、すでに日本は沈んでたし、武術家もデータくらいしか残ってなかった」

「よくわからん」

「だろうな。俺が知ってる話だと、雨天ってのは武術家だが、武術家ってのは雨天のことを指す――っていうくらい、頂点に位置する存在だ。とはいえ、雨天家で継いだものが全員、そうだとは言わないらしい。俺の知ってる限り、たった三人だけだ」

「……」

 彼女は腕を組み、何かを考えている。

「俺が思い出した一文は、こうだ。――武術家は妖魔と共にある」

「――ふうむ」

「内容を記録しておくか?」

「……それは助かるが、お主はまだ、長くこちら側にいると負担が大きかろう」

「これでもちょっとは成長したから、引き際くらいは見極められるさ」

「良いだろう」

 ならば話そうと、彼女は口を開く。

 大した内容ではないがと、前置して。


 そもそも。

 わたしたちが棲む場所に人間が訪れるなど、まだまだ早すぎる。到達できないからこそ、妾たちの遊び場だ。

 しかし、稀にやってくる人間もいる――だろうと、そう思っていたからこそ、少しの驚きと共に受け入れた。

 男が二人。

 年齢は、そうさな、妾から見てお主とそう変わらんだろう。躰つきはもう少し良かったようにも思うが。

 片方の男はすぐ、隅に移動してな。妾の前に来たのは、刀を腰にいた男だ。

 そうさな、――嬉しそうに、見えた。

 さて、何をしに来たのか、遊びにでも来たのかと問う前に。

「――よう、涙眼るいがんを出せよ」

 挨拶もなしで直截され、さすがの妾も驚いたものだ。

 お主にも話してはおらんかったと思うが、妾は名の通り、百の眼を内側に抱いておる。全員が人型というわけではないが――刀を持つ人間、つまりは武術、それを扱う人間に対して最も相性が良いのは隻眼せきがんだろう。その次に涙眼、この二匹に関しては対人経験がある。

 何故か。

 そこまでは妾もよく知らん……いや、覚えておらん。

 だがそやつは、妾を知っておる。でなくては、涙眼の名など出さん。

「名を問おう。妾は百眼ひゃくがんだ」

「知ってるさ。俺の名は、レーゲン。今はな」

 ふむ。

 今は、ということは、やはりお主と同じなのだろう。その時には気付かなかったがな。

 涙眼は性格上、あまり戦闘を好まん。だが相手が望んでいるし、引く気がないことはわかったのでな、望み通りにさせたとも。

 何をするのか、妾にも興味が出てきた。

 涙眼は、そうさな、あまり乗り気ではなかった。一見すると、詰まらなそうにも見えただろう。

 軽く目を伏せたまま、あやつの抜いた刀の一撃を、半歩下がって見切りで回避したのは、妾にも見えたとも。

 抜刀、それがそのまま攻撃となる一撃。かなり速いが、目で追えぬほどでもない。

 それを見たあやつは、不発だったにも関わらず、嬉しさを我慢できずに大笑いだ。

 これも今にして思えば、だな。

 涙眼なら避けるだろう、当時はそのくらいのことしか思わなかったが――避ける、というのが、あやつに何かしらの確信を抱かせた。

 そうだ、妾たちは避ける必要など、ない。

 領域を同じくしたのならば危険性はあるが、あやつはただ、鉄の棒を振ったのと同じ。受け止める? ああ、それでも良いだろう。そもそも受けたって構わん。細い鉄が首を通り過ぎたところで、虫が肌に止まった程度でしかない。

 わたしたちは、そういう存在だ。

 ひとしきり笑った男は、刀を鞘ごと引き抜き、もう一人に投げ渡した。

「あいつはただの見届け人だ、気にするな。やろうぜ涙眼」

 そこからは、もう、妾の存在など一切目に入らないといった様子で、戦闘を始めた。

 得物を捨てて、何をするのかと思えば、一歩。

 ただ一歩。

 左足を前へ進めただけで、涙眼が目を見開き、臨戦態勢に入った。

 珍しいことだ。初めて見るかもしれん、そのくらい驚いた。妾には何もわからなかったが、何かに気づいたのだろう。

 そのままにらみ合いのような時間が経過する。

 どれくらい? さて、五分か、それ以上か……ただ、雨が降り出した。

 一言一句、覚えているとも。

 雨の勢いが増していく中で、あやつが口にした言の葉を。


「――あまおりにてクウを見上げるは、晴間はれまのぞシンもなく」


 それは祝詞だ。


うは天よりの恵み、よろこびを上げし大地の声色こわいろ響き、ああ、惜しむは我が身を流れ落ちる水滴よ――」


 それは祈祷だ。


「焦がれ求め欲するは、恵み受け歓びに震える我が身なれば」


 それは欲望だ。


「――れを望み、至ろう」


「で、戦闘が始った。拮抗しておったが、三十分ほど続いた結果、まあ、勝ったのは……どちらかといえば涙眼るいがんだろう。だが、俺と共に来い、その言葉に涙眼は応えた」

「そりゃ派手な戦闘だったんだろうな」

「よく人間がやるものだと、呆れるくらいにな」

 そうかと、頷きながらも、エンスの手元ではペンが自動的に文字を記している。

「それでだ、おかしなことが起きた。涙眼の姿があやつと同化するよう消えたのは、良い」

「良いのか」

「うむ、共に生きるのだから、そういう感じにもなろう。だがな、あやつは何気なく、一言。――涙眼、五月雨さみだれを寄越せ、と言った」

「――空から刀が落ちてきた、か?」

「何故知っている」

「まあ、生前の知識だ。……で、二戦目か?」

「いや、さすがにそれはない。あやつも血まみれで、立っているのがやっとだ」

 違う。

 そうではないのだと、エンスは知っている。

「武術家は、倒れねえよ」

「ほう?」

「倒れた時は、死ぬ時だ」

「……なるほどのう。あやつらにとって、それほどの覚悟か」

「だったらその後は撤退か?」

「うむ。見届けとして来ていた男が、連れて行ったとも。あれは魔術師だ、おそらく長距離の転移でも使ったのだろう」

「ふうん? 俺は詳しく知らないが、そいつは簡単なことじゃないだろ」

「妾たちは別の手段を持っておるから、なんとも言えんし、妾も詳しくはない」

「……そういえば、見届け人の情報がねえな」

「意識しておらんかったからな。そうさな……ああ、警戒のために得物を抜いておった。あれも刀だろうが、そう、直刀だろう。色が黒かったから、なんとか覚えておる」

「――そうか」

 動揺は隠せただろうか。

 いや、どうであれ、時間切れだ。

「話は以上か?」

「ああすまん、刻限か」

「悪いな。何か思いついたら、また来てくれ。近いうちに編纂へんさんして、完成したら百の眼さんに渡すよ。俺の考察も追加しておく。日付は今日のもので構わないか?」

「うむ。妾にとって一年や二年も、大差ない」

「だろうよ。司書の仕事としては、こんなもんか?」

「ははは、うむ、妾らは人に期待はせんが、望むことをして貰っておる」

「そりゃ良かった。じゃ、またのご利用を。それまでに俺も馴染めるようにしとくよ」

「うむ、励め。では頼んだぞ司書」

「おう」

 こうして、エンスは司書の仕事を済ます。

 きちんとお帰りを確認してから、しばらく時間を置き、次元書庫から現世へと帰った。


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