5
「相葉さーん、ここ、ここ!」
階段を上りきって辺りを見まわすまでもなく、底抜けに明るい声に呼ばれて里莉はそちらへ目を向けた。挙げた片手をぶんぶんと振っているのは加藤、あの三人組の女子グループの一人だ。薄暗い喫茶店――志朗に誘われたあと辞書で調べてみた。コーヒーと呼ばれる飲み物や紅茶、軽食を楽しむ店舗だと理解している――の店内で彼女の元気は場違いに思え、少しの気後れをしながら近づく。ほかにも見える客のうち、いくらかが迷惑そうに加藤を盗み見るのが見えた。が、彼女は気にしたふうもない。バンバンとテーブルを叩いて己の向かいに座るよう里莉を促してきた。
朝型の通知ランプは加藤が送ってきたメッセージの着信を知らせるものだった。
――おまじない、試してみた?
試したもなにも詳しいことはなにも知らない。里莉は少し考えてから返信した。
――いいえ。だって、教えてくれなかったじゃない。
――うそうそ、宮っちが言ってたよ。相葉さん、知ってるはずだって。
里莉にそんな記憶がない以上、知っていたとしたらそれは瑠々のほうだ。となればそれは瑠々が消えてしまう前、四月頃のはずだ。瑠々の失踪となにか関係があるかもしれない。ない可能性もあるが、なぜだろう、妙にその時期が気にかかった。そこで今から会えないかと尋ねたところ、ほどなく学校近くの駅前で遊んでいるから落ち合おうとの返信があったのである。
「会ってくれてありがとう。お待たせしてしまって、ごめんなさいね」
「そんな改まって言わないでよ。クラスメイトじゃん、あたしたち」
布張りのソファは座ると柔らかく里莉を支えてくれた。家の革張りとは違う、そのふかふかとした感触は初めてのものだ。落ち着かなく座り心地を気にしながら階下で注文してきた紅茶をテーブルに置くと、里莉は「それで」とさっそく声を潜めて切り出した。
「おまじないのことなんだけど」
「うんうん、思い出した? で、どーするの? やっぱ八千原?」
「いえ、八千原君じゃなくて」
里莉が否定すると、加藤はなにがそんなに意外だったのか「ええっ」と大声をだした。真横に座っている客からぎろっと視線を送られたにも関わらず鼻息を荒くする。
「ほかに好きな子いるんだ? だっしょー? だーからあたし言ったのよ。八千原だけはないって。なのに宮っちも田茂っちも間違いないって言うからさあ」
「あ、いいえ。たぶん、そういった話ではないの。メッセージに書いてあったことが気になってしまって。それで話を聞きたかったのだけど」
加藤がきょとんとして首を傾げる。里莉はショルダーバッグから携帯端末を取り出してそこに書かれた文面を示しながら言った。
「宮下さんが私におまじないの話をしたっていうのは本当かしら。ええと、こういう聞き方は変だと思うかもしれないけれど、私ってキオクショウガイになってしまったじゃない? 思い出そうとしてみたんだけど、どうしても思い出せなくって」
「宮っちじゃないよ」と、加藤は自分の既にからになったグラスをストローでかき回しながら言った。「ほら、二年になってすぐの頃は相葉さんってワカコたちと仲良かったじゃん?」
「ワカコというと……前田和歌子さんのことかしら」
頭の中から級友の名前を引っ張り出して尋ねると、加藤はこくんと頷いた。
「そう、そのワカコ。あたしらのグループとは違うんだけど、宮っちはワカコとは話すことがあってね。おまじないの話はそこで聞いたんだって。でぇ、相葉さんは最初ワカコグループにいたじゃん? だから、きっと知ってると思うよってあのあと言ってたの」
「ごめんなさい。私、それも覚えてなくて。四月頃の和歌子さんと私って、どんな感じだったか聞かせてもらえる?」
「どんなって、あたしらみたいな感じ? あの頃は移動教室もお弁当も放課後遊びに行くのも一緒って感じに見えたなー。まあ、外から見てただけだから。本当はどうだったかなんてわかんないけど」
「そう」と言って里莉は考えた。この線ではこれ以上詳しい話は聞けなさそうだ。あと聞くとしたらひとつだが、そう思った途端に胸の奥で心臓が大きくひとつ鳴った。悪い予感、あるいはなにかが起こる予感がする。聞いてはいけない気がするが、同時に自分は聞くべきだと囁く声が体の中心で響いている気もしていた。
「じゃあ、話は変わるけれど。おまじないってどんなものなの?」
「それも忘れちったの?」
「そうなの。自分でも忘れたことが多すぎて困っているくらい。イシャからはね、どんなことが記憶を取り戻す手がかりになるかわからないから、あらゆることに好奇心を持てって言われてるの。だから、お願い。私を助けると思って、教えてくれない?」
加藤はそこでようやく周囲を気にする仕草をした。ガリガリとグラスの底に溜まった氷をかき混ぜながら「どおしよっかなー」などとおどけて呟く。焦れた里莉がお願いと手を合わせて拝むようにしてみせると、ようやく前のめりになってテーブルに両肘をついた。手のひらだけで里莉を招く。
「あのね、絵馬ってわかる?」
「エマ? それはなに?」
「えっとねー、神社で売ってる板で願い事を書くやつなんだ。字は絵、馬、絵馬ね」テーブルに拡がった水滴をすくって加藤は文字を書いて見せた。「それを神社に行って買ってくるわけ。願い事はまだ書いちゃ駄目だよ。そんでー、それを清潔なハンカチにくるんだら一晩、月の光に当てんの。そしたら月のパワーが絵馬に宿るんだって。一晩経ったら次の日――必ず次の日ね、橋のある川に行って、その下で絵馬に願い事を書く。最後によく使ってる香水を振りかけてから橋に飾るの。したら、願い事が叶うんだってよ」
「なんだか……ずいぶん煩雑なのね」
教えられた手順を頭の中で反芻しながら里莉は言った。
「それ、加藤さんは試したことあるの?」
「ないない。だって、あたし彼氏いるもん。それにさあ」身を起こす勢いのまま、ソファにどすんと背中を預けて加藤は笑った。「願い事が叶うには条件があるんだ」
その笑顔からざらりとしたなにかを感じて里莉は顔をしかめた。言葉にするのは難しいが、悪意というのが近いだろうか。あるいは悪い意味での好奇心かもしれない。里莉が「条件って?」と問うと、待っていたように加藤は再び身を乗り出した。今度は形ばかりでなく声まで潜めて言う。
「自分の一番大事なものと引き換えなんだって」
「それって?」
「さあ? 試したことないから、あたしは知んない」
加藤はふふんと悪い笑顔でグラスをかき回している。試してもいない上に知りもしないことを、さも重要な真実のように教えるのかと里莉は少し呆れた気持ちになった。
「ええと、絵馬は神社で売っているのよね。その神社っていうのはどこにあるの?」
「どこにでもあるっしょー」と、ストローを投げ出すように放って加藤は言った。自分のバッグを漁って携帯端末を取り出す。ぽちぽちと操作する顔がぱっと明るくなった。
「あ、ごめん。あたしそろそろ行くね」
「え? そ、そう? ええと、時間を取らせてごめんなさいね。教えてくれてありがとう」
「んーん。それよか、試したら結果教えてよ。八千原のことでもいいけど」
なにかギラギラとした丸い飾りがついたバッグを取り上げるなり、加藤は「じゃーねー」と手を振って階下へ降りていってしまった。グラスが置きっぱなしだが、これはこのままにしていていいのだろうか。周囲を見回してみたが真似できそうな状況のテーブルは見当たらない。困ったため息をついて里莉はようやく紅茶を口に運んだ。
神社で買う、絵馬、月のパワー、橋、香水――怪異である里莉が言うのも変かもしれないが、そんなことで願いが叶うなら人間は全員、願いだの悩みだの持つはずがないという気がする。もう一度、おまじないの要素を頭の中で繰り返す。なにかが引っかかっているような気がしていた。神社、絵馬、月、橋、香水――なんだろう。考え込みながら紅茶を啜っていると、唐突に笑顔が頭の中に蘇った。血まみれの笑顔だ。あの時、紗菜と呼ばれていた幽霊がなんと言っていたか。
――何か行事でもないかぎり、行き先なんて知りようがないんだから。
――この先っていうとお寺さんと神社と小学校と交番と。
なにも行事がない頃に紗菜は瑠々の姿を見ている。そしてその先には、少なくとも神社があった。時期は、時期はいつだったか。たしか桜がなんとか言っていたはず。
――では、三月の終わり頃か四月の頭ということになりますか。
そうだ、弓月が携帯端末を操作しながらそう言っていた。四月の頭まで条件に入るのなら、瑠々が高校二年になってすぐ、加藤が言っていた前田和歌子と親しかった時期とも合致する。どこに行くにも一緒なくらい仲が良かったなら、当然おまじないのことも共有していただろう。でも、だとしたら、瑠々はおまじないを試して消えたことにならないだろうか。人間が一人消えてしまうようなおまじない、そんなものが本当に存在するのだろうか。反証を試みる自分が、しかし、同時に訴えている。だとしたら、私の存在は。瑠々が想像したとおりの自分が存在するなら、おまじないだって本当だったとしてもおかしくない、と。
ショルダーバッグを掴むと慌ただしく里莉は立ち上がった。関係が本当にあるかどうかなんてわからない。しかし、志朗に話してみる価値はあると思った。
*
どっという音と共に枝葉が散った。己めがけて放たれた致命の一撃を危うく牙のひとつでせき止めて弓月は唸った。その唸り声すら千切り飛ばさんとするかのように青銅の輝きが空を切り裂く。逃げ場がないことを瞬時に判断し、弓月は眼前いっぱいに黒霧を展開した。風切る音をまとった青銅剣がいくつか霧を貫通し、勢いを失って目の前の地面に落ちた。
「そら、取ってこいぐらいしてはどうだ」
相手は余裕綽々で片手をポケットに突っ込んでいる。戦闘態勢に入るまでもないということか、村雨のもう片手はだらりと垂れ、なんの力も入っていない証拠に軽く揺れてすらいた。黒地のスニーカーの足元は、文字通り数センチばかり宙に浮いている。
「なにを企もうとも――」弓月は吼えた。「貴様の思い通りになると思うな!」
破られた霧自体を目隠しに無数の牙を差し向ける。即座に地響きが聞こえたかと思うと、村雨を食い破るはずだった牙のすべてが鈍色の金属壁に阻まれていた。
「わかっていないな。成ると思うことは成るだけだ」
「させないと、言っている!」
続けて半身のうちから牙を生じさせると金属壁に突進させる。次々に壁が歪んで陥没を作ったが、しかし、それだけに終わった。己のうちからさらに牙を――長い年月を過ごす間に同化してきた動物霊たちの闘争本能を呼び起こす。低い笑い声がしたかと思うと、金属壁が自ら液体になったかのように溶け落ちて霧散した。完全に舐められていることはわかったが、生み出した衝動を抑えることはできない。黒霧を牙たちの周囲に集めていく。ついに無数の獣頭と化したそれを攻撃の意志のもと束ねて解き放った。
殺到した獣の群れを、村雨は動じることなく真正面から見つめていた。笑みのうちに冷ややかなものを蓄えた瞳がやけにゆっくりと瞬きする――そう認識した時には、獣たちは甲高い悲鳴をあげてひねり潰されていた。なにが起こったのか、霧が晴れゆく視界で踊ったのは牙どころか虫の針さえ防げぬような薄衣である。
「お前たち主従はつくづく救えん。いや、衆生というものも同じか。そこに天国の扉があるのだ。なのに、誰も開けない。禁じられてもいないのに。なぜだ」
大きく肩を上下させる弓月を霧の向こうに透かし見ながら、村雨はまるで子供のように首を傾けた。
「あいにく、唯一神とかいうものはこの国から退けられた」
「そう、カラスと雛によって。天意を退け、天を落とし、次に求めるのが今さらノスタルジーか? なぜ破れた壁を塞ごうとする。なぜ後退を望む。所詮、人間は前進しかできない生き物だというのに」
「それによって地獄が現れたからだ!」
「地獄? 今の世がか? なにを言っている。これぞ進化、成長というものだろう。人類はようやく、長らく世界を覆っていた羈絆から解き放たれた。かつて神の玉座を簒奪し、自らが座ったように。かつて女神を殺した炎を隷属させ、日々の糧に争いの道具に発展の礎にしたように。今また新たな資産を獲得したのだ。俺はただ、その有り様を肯定しているにすぎない。お前たちこそ嫌だ嫌だと駄々をこねている自覚をそろそろ持ってはどうだ」
答える代わりに牙を差し向けたが、それは再び羽衣のような薄衣一枚によって防がれた。頭上の、どこか近くで叫び声がしている。周囲の人間はとっくに異常に気づいていただろうが、それで逃げ出すわけでもなく、異常事態に興味を持って留まる者がいたらしい。怪我をしたのか、それとも誰かを呼んでいるのか、そこまでを聞き分けることはできなかった。
「もっとも」くすっと音にして村雨は笑った。「犬ごときにこれを言っても仕方ないことではある。なあ? ご主人様の顔色以外にわかることは少ないだろう?」
「お前の為したことは誰も忘れてはいないぞ。あの大災害で多くの同胞が消えていったこと、もちろんこの俺も忘れてはいない。目的はなんだ。今度は人喰いを飼い慣らしてなにを企んでいる」
「それには既に答えたな」
つまらなさそうに村雨が言い、同時にその頭上に二本の青銅剣が再び現れた。先ほどと同じく一直線に飛来すると踏んで弓月は黒霧を展開させたが、しかし、それはまるで誰かが柄を握っているように虚空で踊った。剣閃が黒霧を突破し、破れたその隙間から新たな剣が襲いかかってくる。危うく一太刀を牙で抑え、続けざまに襲ってくるもう一本を避ける。頭上を薙いだ剣は暫時、考えるように動きを止めたかと思うと今度は唐竹割りの要領で斬りかかってきた。牙との鍔迫り合いを演じていた一本がそれを破壊して加勢に加わる。二本の青銅剣をいなし、かわして逆に壊そうとしてみても、いったいどんな硬度であるものか、逆に牙のほうが壊されてしまう始末だ。せわしなく動く弓月を眺める村雨は――ちらりと視界の端に捉える程度の余裕しかないが――もはや退屈を極めたといった様子で自身の爪を弄っている。
視界が不安定に揺れ始めていた。少なくとも今、これ以上にできることがないことを弓月は認めないわけにはいかなかった。志朗の手を借りたとしても二手、三手が足りないかもしれない。相手は志朗と同種の力を使っていると見えるが、それにしても出の早さが段違いな上に操作技術もはるかに上であった。それでなくとも余裕の態度を見せているというのに、そんな段階でこれでは本体へ手出しができない。
「もういい」
村雨が言ったと思った瞬間、足元が唐突に弾けた。跳びすさろうとする動きを青銅剣たちが邪魔をする。剣の腹をぎりぎりで蹴って宙返りし、着地して弓月は目を瞠った。そこにあったものをなんに例えればいいのか、少なくとも長く生きてきてこれまで見たことがない。積層された青銅の板、その中央にぽっかりと開いた穴。苦しい想像をするなら砲門かなにかといったところだろうか。
「滅びよ」
赤い光が穴の奥でちかりと光った。背筋をぞっと怖気が駆け上がる。できうるかぎり厚く黒霧を立てて壁代わりにし、川の外めがけて跳躍した足元でジュッとなにかが蒸発する音がした。赤い光だ。一抱えもあるような赤い光の帯が革靴のつま先をかすめて目の下のすべてを焼き払っている。なんとか川べりに手をついて待避すると同時に弓月は駆けだした。村雨が追ってくる様子がないことは、ちらりとではあったが確認できた。顎を上げて逃げる弓月を確認し、その一瞬で興味を失ったかのように領域のある方へ目を向ける。垂らしていたほうの手をもたげるのを確認した直後、その姿は土手に阻まれて見えなくなった。
車を停めたほうへ駆けながら弓月は歯がみした。周囲では怪我人が出たのか、泣き叫ぶような声が響いている。同時に川のほうへ携帯端末を向けて近づいていく人々も見て取れた。この様子を見て、志朗ならなんと言うだろう。人間のすることだから好きにさせればいいと鼻を鳴らすのがせいぜいかもしれない。自分なら――彼らには彼らの大事な人の為にも無事であって欲しいと思う。心の底から、切に願っている。しかし、今はその願いを叶える方法がわからない。ここに留まって待避するよう言葉を尽くしたとして、もしもその様に村雨が興味を持ったらどうなることか。逃走するしかない己が情けなく、また腹立たしくてならなかった。
*
ようやく志朗と合流できたのは、午を過ぎて夕方に差しかかろうかという時分だった。前とは逆に駅の人混みを避けてピロティの柱にもたれて待っていた里莉は、己を呼ぶ声に気づいて顔を上げた。お待たせ、と駆け込んできた志朗は軽く息を弾ませている。
「待たせて悪かったな。ちょっといろいろあって、電車で来たんだ」
「いいえ、こちらこそ急にごめんなさい。あの、なにかあったの?」
そう尋ねたのは、志朗がなにかを気にするように周囲へ目を走らせていたからだ。里莉も辺りを見渡してみたが、たくさんの人と少しの怪異と、それ以外にはなにも見えなかった。
「お前が気にすることじゃないさ」
そう言いつつも、志朗は警戒するように眼差しをきつくしている。里莉は戸惑ったが、ともかく用事を切り出すことにした。加藤から聞いたおまじないの話、瑠々がそれを知っていたかもしれない話、だとすると失踪した時期と紗菜が瑠々を見かけた時期には関係があるかもしれない話――なるべく自分の勘じみたものも交えて話してみたのだが、志朗はどう反応するだろう。固唾をのむように見守っていると、案に相違して志朗は「なるほど」と呟いた。
「それで絵馬だったのかもしれない」
「どういう意味かしら。おまじないのこと、知っていたの?」
「そっちは知らないけど」
志朗はもごもごと歯切れの悪い様子を見せる。参ったなとかなんとか呟いてしばらく考えるふうにしていたが、心を決めたのか口を開いた。
「実は別口で追ってみた怪異がいてさ。そいつの根城の近くで絵馬を見つけたって、さっき弓月から連絡があったんだ。なぜかいろんな神社の絵馬が捨てられてたり、橋の下に引っかけられたりしてて不可解だってことだったんだけど」
「もしかしてその怪異って、車の中で言っていた怪異? 人喰いだったかしら。そいつのいるところに……瑠々の絵馬があったの?」
質問するのには勇気が要ったが、聞かないわけにはいかなかった。否定して欲しいと思う気持ちが半分、やっぱりと思う気持ちが半分、それらを内包して恐怖がある。もし、瑠々が食べられていたのだとしたら、もう二度と帰ってこないのだとしたら。そんなことになったら自分はどうすればいいのか。瑠々のいない毎日がこれからずっと、永遠に続くなんて考えたくもない。
震える里莉を落ち着かせるように志朗はそっとかぶりを振った。途端に全身から汗の滲んだような感覚がして頬が熱くなった。
「本当に!?」思わず志朗の両腕を掴んで里莉は言った。「本当に瑠々は関係ないのね?」
「それは、わからない」
ゆっくりと答えた志朗はどこか苦しそうであった。
「わからないってどういうこと?」
「相葉瑠々の絵馬は見つかっていない。というより、絵馬をひとつひとつ確認している余裕がなかったらしいんだ。今わかっているのはお前が持ってきた話と、人喰いと絵馬が関係ありそうだって話だけ。そもそも、人喰い自体が噂の域をまだ出ていないんだ。昨日さ、お前を駅に送り届けてから弓月と確認に行ったんだけど、確証とまで言える情報は掴めなかった」
「連れて行って!」里莉は叫んだ。「今すぐその怪異がいるところまで連れて行ってちょうだい。私が絵馬を探すわ」
「悪いがそれはできない。ちょっと……さっきも言ったけどいろいろあってさ、危険かもしれないんだ」
「構わないわ。危険だからどうだっていうの。そんなことどうだっていい。もし瑠々がその人喰いに関わっているのだとしたら? もし、関わっていたとしてもまだ間に合うのだとしたら? ここで行かなきゃ、私は絶対に後悔することになるわ」
「間に合うかどうか、わからないんだぞ。それでも行くって言うのか」
里莉の視線から逃れるように俯いて志朗は言った。
「だから、そんなことどうだっていいの。たとえ間に合わなかったとしても、私――とにかく、瑠々が関係あるかどうかわかるまで絶対に諦めないわ。八千原君が案内してくれないなら、自分でその場所を探すから。絵馬がたくさんあったのよね? ということは、この周辺には橋が少ないか、ほかの橋じゃ絵馬を置くのが難しいんだわ。そんな場所、クラスの女子全員に電話すればわかるはずよ。そうよね?」
「脅迫してるつもりか?」
志朗がため息のように言った。里莉は顎を上げて答えた。
「そう聞こえなかったなら、私の話し方はまだ下手なのね」
「悪いけど、それなら意味はないよ。お前があの人喰いのところに行くなら、なにが起こるとしても俺は関知しない。話が怪異同士のものである以上、俺は両方を尊重する」
「それって、どういう――」
尋ねかけた時だった。わああっと、どこかから悲鳴とも歓声ともつかない声があがった。続いて重い物体同士がぶつかる音、ファンファンと甲高い音、それに紛れていびつに歪んだ肉声がわめいた。
「はい、避けて。バスが来ますから避け……な、なんだ!? うわああああっ!!」
はっと顔を上げた志朗が音と声のした方を睨んだ。
「ここにいて。見てくる」
言うなり駆けだしていく。里莉は少し迷ったが、ショルダーバッグを担ぎ直すとそのあとを追った。走るにつれて音はどんどん派手に、大きくなっていく。なにが起こっているのかはわからない。それでもなにかが始まったというような、カチリと噛みあう予感がたしかにしていた。
*
現れたのが背の高い影だったことに心底落ち込んで弓月は項垂れた。
「おつかれだね、盟友君」
そう言って掲げた手の指先だけをぴらぴらと振ったのは言うまでもなく八千原全、弓月とは互いに盟友と呼び合う間柄の男――否、怪異だった。
「私は志朗様を呼んだはずだ」
語尾がかすれて間抜けになった。村雨の前から逃走して車に乗り込んだあと、適当に町を突っ切ってどこともしれない住宅街でようやく停まった弓月である。住所を書いた看板を見つけ、志朗に居場所を知らせると共に得た情報を伝えようとしたところ、何度端末を鳴らしても彼は応答しなかった。仕方なく、すぐに合流したい旨を現在地と共にメールにしたため、返信を待っていたのだが。
「うん、用事があるんだよね? だからさ、伝えたら?」
「どうやってだ」
「おや? 盟友君はお忘れかな? 僕だって携帯端末くらいは持ってるんだよ」
にっこりと、それはもうにっこりと明るく笑って全は自身の携帯端末を振って見せた。思わずその横っ面をぶん殴りたくなったが、多分、実際にそうしたところで簡単に拳を受け止められた挙げ句、おやおやご機嫌斜めだねとかなんとか、煽っているのか本心なのかわからないことを言われるだけであろう。
「あの子が君の電話に出てくれないなんて、そんなの当たり前じゃないか。君ってば年上のくせにあの子に譲歩させようとするんだから。そりゃあ、たまにはあの子だってキレるよね。最近の子はよくキレるっていうけど、君たちの場合はそりゃそうなるよって、僕、思うんだ」
「貸せ」と、返事を放棄することにして弓月は全から携帯端末をもぎ取った。画面には志朗と通話中との文言が躍っている。沈黙を守る端末の向こうに弓月は見聞きしたこと、特に村雨流星による何らかの企みが進行している様子であることを報告し、最後に合流してくれるよう頼み込んだ。返事は「ん」の一言である。長年のこだわりも絡むことであるから、怒っている様子の志朗に謝ることもできず、しばしどう宥めたものか考えあぐねていると向こうが返してきた。
「弓ちゃん、また暴走したんじゃん。馬鹿じゃん」
「……申し訳ありません。以後、気をつけます」
「ん。俺は里莉に呼ばれてるからそっち行けない。終わったら連絡するから、駅のいつものところで待っててよ」
「志朗様、あの……」
「悪い。電車に乗るとこなんだよね。んじゃ」
志朗はそう言って通話を切ってしまったようだった。不通の音を垂れ流す端末を前に再び落ち込み、それから不機嫌いっぱいに盟友へ差し出してやったが相手はどこ吹く風、変わらぬ笑顔で受け取ってジャケットのポケットへしまっただけだった。
「だから、君は駄目な子なんだよ。そこは年長者らしくさ、不本意だとしてもだよ、折れてあげなきゃ。結局、あの子のほうが水に流してくれたんじゃないか。そうやってなあなあにする関係、良くないと僕は思うんだよね。ほら、男女の仲でも昔からよくあるじゃない。黙って黙って爆発するってやつ。そのうち金槌で頭を殴られても文句言えないよ、君」
わかったから黙れと思ったが、それを言っては負けのような気がする。しかし、気の利いた返事も思いつかず、弓月は黙って車へ近寄った。
「ここへは?」と尋ねると、全は頭上を指差した。
「自分の羽で。そのほうが早いし面倒がないからね」
カラスだカラスだと言われているとおり、全の本性は大烏である。伝説の上で太陽には烏が棲まうとされるよう、その昔に神武天皇を熊野国から大和国へと導いたとされる八咫烏が太陽を象徴とするように、古来から烏は太陽と結びつけられてきた。中でも全は賞罰――お天道様が見ているという概念を背負って生まれた烏である。その言葉が庶民にまで浸透していることからもわかるとおり、少なくとも忘れられた犬として生を受けた弓月よりは、強い力を持っていた。人の身をいったん烏に戻して空をひとっ飛びなどわけない話である。
弓月は車に戻ってエンジンをかけ、それから助手席を見やった。今日もご機嫌麗しい様子の盟友殿は助手席のドアを開きはしたが、閉じないままそこに片手をかけている。
「乗れ」
「だって、もう帰るから」と、全は空を示した指をつうっと動かした。
「来ないのか?」
驚いて弓月が尋ねると当然のような顔をして頷く。
「だって、志朗に言われちゃったんだもん。敵を殲滅なんて駄目って」
だったら出る幕はないよねえと子供のように頬を膨らませている。村雨が噛んでいるとわかった以上、戦力としてはいて欲しいのだがと弓月は考えを巡らせた。とはいえ志朗の意志に背くのも、ことに不興を買っている今はよろしくない。
「そういうことだから。村雨にまた遭ったらさ、よろしく伝えておいてよ」
「まずは志朗様と合流しないことにはな」
そうは言ってみたものの、志朗と二人だけであれをどうにかできるとも思えない。
村雨と初めて出会ったのは七年前、当初は敵だとは思いもしなかった。そうと判明してから戦った時、弓月たちが三人揃うことは最後までなかった。しかも結局、当時の弓月は奴を取り逃し、志朗と全はというと双方無傷のまま向こうが退却を選んだというのだから、これが志朗と弓月ではと考えれば頭の痛い話である。例えば奴が出した鋼の壁、志朗がよく使う盾と完全に同種のものであったが、その出のスピードときたら段違いであった。なにしろ、志朗はなにを出現させるにしても詠唱というべきか、己の中のイメージを固めるという段階を踏まなければならない。これまでに見たところ、村雨にはそれがない。両者互いに攻撃しあったとして――仮に志朗が防御に徹してもだ、潰されるのは間違いなく志朗のほうだった。
「ひとつだけ、助言をしておこうかな」と、全が言った。「たしかに村雨は強力な相手だ。振るう力は志朗とまったく同じに見えるし、だとしたら想像力の豊かさは断然向こうに軍配が上がる。だけどさ、君たちがやらなきゃいけないことは村雨を倒すことじゃないからね。それだけは忘れないようにするといい」
「奴を潰さずになんとかなると思うのか」
「なるんじゃない? 七年前と同じさ。目的さえ潰せば事態は収まると思うよ」
どういうことだと問いただしたのとちょうど同時だった。どこか遠くで遠雷に似た爆音が響き渡った。聞き間違いかと思って窓を開け、しばらく耳をすませてみたが続く音はない。空を睨んでいると全が言った。
「僕にも聞こえたよ。勘違いじゃないと思う」
「ともかく、志朗様との合流を急ぐ」
「頑張りなよ。どうしようもなくなったら僕を呼んでって志朗に伝言。よろしくね」
言い終えるや否や、全は人型を一条の光に変えた。一直線に宙を切り裂いた光の行く先を目で追えば、金色の烏が大きな翼を悠然と開くのが見て取れた。それは大きく羽ばたきながら車の上を二度ほど旋回したあと、東に向かって飛んでいく。
手を伸ばして助手席の扉を閉めてから弓月はギアを操作してアクセルを踏んだ。とにかく、合流を急がなければならなかった。なにせ、今の志朗は独りでいるのだ。
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