足元はねっとりとぬかるんでいた。膝のすぐ下まで迫るその泥のような闇に両足を飲まれたまま、里莉は立ちすくんでいる。周囲もまた見渡す意味さえ見出せないほど暗く、ぼんやりと里莉は前方を見つめると同時に、そうしている己の光景をはるかな眼下に認めていた。二重写しになっている視界と同様、意識も闇を見つめる里莉とそれを見下ろす里莉とでふたつに分かれているのに、同時にひとつのものとして認識していた。


 ――これは夢だ。


 空に浮かんで自分の姿を見下ろす里莉はそう気づいた。同時にぬかるみにはまった里莉は悲しみと焦りを感じていて、しかしどうしようもなく棒立ちになっていた。


 ふと、闇の中に誰かの姿が現れた。光なんてひとつもないのに、不思議なことにその姿はくっきりと色合いまで鮮やかに見て取ることができるのだった。


 ――瑠々。


 二人の里莉は同時に同じ名前を、ぬかるみに足を取られているほうは口に出して、それを上空から見下ろすほうは胸の内で唱えた。瑠々はぬかるみの上に、まるでそれが固い地面であるかのように立っている。ああ、瑠々は学校帰りだったんだと脈絡なく空に浮かぶ里莉は思った。


 その証拠に瑠々は制服姿だ。毎日帰ってくるとすぐにハンガーに吊すから、制服の肩口は買った時のまま綺麗な撫で肩の形に整っている。闇の中にまぶしい白いハイソックス、ローファーも週末になるときちんと手入れするからピカピカだ。鞄はどこへやったのだろう、それだけが見えないことを不思議に思ってすぐに納得した。ああ、学校に置いてきたんだっけ。でも変だな、瑠々の鞄は見つからなかったってお父さんが言っていた。きっと持ったまま、どこかへ行ってしまったんだろうということだった。


 空の上でとりとめなく考える一方で、ぬかるみの中の里莉は瑠々に向かって手を伸ばしていた。瑠々、瑠々、やっと会えた。私の半身。一体どこへ行っていたの。感極まったように――その情動を上空の里莉は別人の心を覗き見るように冷静に受け止めていた――ぐすぐすと鼻を鳴らし、視界を潤ませて前へ進もうとする。しかし、ぬかるみは重く両足に絡みつき、片足を引き上げるごとにまるで引き留めるようにねっとりと糸を引く。思うように前へ進めないままバランスを崩してぬかるみに手をつくと、意外なことにそれは硬く手のひらを支えた。ただ足だけがどうにもならない。重い。


 瑠々がスカートをふわりと広げて辺りを見まわす仕草をした。


 ――待って!


 地上の里莉が叫んだ。瑠々はそんな声など聞こえぬようにふと闇の奥に目をとめて、そこに気がかりでも見つけたように首を傾げた。駄目よ、と上空で里莉は思った。なぜ駄目かはわからない。でも、とにかく瑠々を止めなければならない。それなのに、瑠々は目をとめたほうへ向かって軽い足取りで歩きだす。


 ――駄目!


 ぬかるみの中の里莉も叫んだ。瑠々は歩様を緩めることなく進んでいく。焦って足を引いてみたが抜けない。渾身の力でついた手のひらを頼りにしてみても駄目だった。その間にも瑠々は楽しいことでもそこにあるように、嬉しいことでもあったように歩き続ける。距離が開いてく。絶望的な気分になって里莉は声を張り上げたが、それでも瑠々の足は止まらない。なにも聞こえてないように、どこか奥の方を目指している。ふと、空中の里莉は気づいて目を上げた。


 ――ああ、そうだったわ。


 全方位で闇が蠢いていた。いや、それは最初から闇なんかじゃなかったのだ。それはとんでもなく大きな口蓋だった。そうと思い出す――思い出す? いや、私は最初から知っていたんだった――なり、不気味に垂れ下がった肉塊のひとつひとつ、襞のひとつひとつが克明に見えた。瑠々はその巨大な口の咽喉に向かって歩いて行っているのだった。


 やめて、とぬかるみに上半身ですがりながら里莉は叫んだ。お願い、その子を食べないで。同時に上空でこう考えていた。口の主は瑠々のことも里莉のことも気にもとめてない。なにかが口に入っていることを認識もしていない。ただ、瑠々が喉に向かって歩いているだけ。けれど、喉は異物を捉えるなり上下するだろう。瑠々は食べられてしまってそれで終わり。あとにはなにも残らない。なだらかな坂に瑠々が足をかけた。恐れることもなく、下を確かめてみる素振りも見せずに降っていく。ローファーから順にその姿が見えなくなる。くるぶしが消え、ハイソックスが下から消えていき、そして――。




 叫び声を聞いたと思い、里莉は飛び起きた。


 今はもうなにも聞こえない。けれど、その悲痛な響きが耳の奥でこだましている。瞬きをしてゆっくりと周囲を見渡すと、そこは瑠々の部屋だった。ああ、とようやく里莉は気づいた。あれは自分の叫び声だった。たしか、悪い夢を見てそれで叫んだのだ。夢の中で叫んだのか現実の音として叫んだのか、ぼんやりとした頭では判断つかずに階下の物音に耳をすませる。お母さんかお父さんから声がかかるかと思ったのだが、しばらく待ってみても誰の声も聞こえてこなかった。


 夢の気持ちがまだ腹の底に溜まっているような、そんな重い感じがする。枕元に置いてあるピンク色の目覚ましを見ると時刻は九時二十七分だった。昨晩は一時を見ずに眠ってしまってしまったからよく寝たと言えるはずだが、そんな名残のせいか思考はどんよりと濁っている気がする。今日は日曜日、特に予定は入っていなかったはずだ。どこかへ行こうという話も――昨晩の食卓では出なかった、そのはずだ。


 ぼんやりと白地にピンク色のリボンが描かれた壁紙を眺める。くすんだピンク色のカーテン、ライトブラウンの学習机に赤い布が張られた椅子。机の上には透明なマットが敷いてあって、その下にはアイドルとかいう男の子が汗を飛ばしながら笑っている様を映した紙片が挟んである。目を転じれば白いボックス収納があって、そこには少女漫画がいくらかと男の子の写真集、将来の職業について書かれた本が数冊並べてあるのを里莉は知っていた。職業のどのページにマーカーが引かれているのかも知っている。獣医やトリマー、飼育員といった動物に関わる未来を瑠々は描いていたようだった。女の子の部屋、瑠々が一欠片ずつ大好きなものを置いた部屋だ。


 ――けれど、もう物が増えることはない。


 頭の中で誰かがぼんやりと呟いた。可能性は限りなくノーに近い。電源は切れてしまって、二度と光は点らない。瑠々が愛したものたちは埃をかぶって放置されて、やがてお父さんお母さんの手によって整頓され、冷凍庫の中のパッケージみたいに保存される。


 霜がおりた想像を室内に重ねて里莉はしばらく呆然とそれを眺めていたが、ハッと我に返って頭を振った。決然と立ち上がり、勢いをつけてクローゼットを開く。いつか瑠々がしていた格好を思い出しながら、黒っぽいデニムパンツと丈の短い白のカットソーを選び出した。鞄はどうだったか忘れてしまったが、夏らしければ問題ないだろう。白い肩掛けショルダーバッグを手に取り、ベッドへ取って返して携帯端末を取り上げる。そこで通知を知らせるランプが点滅していることに気がついた。あとで見ることにしてとにかくバッグへ入れる。続いてポケットティッシュやハンカチや財布や簡単なメイク道具が入ったポーチなんかを次々に放り込んでから着替えをして階下へ降りた。




 あらおはよう、と里莉の姿に気づいたお母さんは言い、それからさっとその格好に目を走らせると呟くように言った。


「出かけるの」


 里莉はそれには答えずにおはようとだけ返し、洗面所へ入った。鏡には誰もいない――ということはなく、里莉の姿が映っている。どういう理屈かはわからないが、里莉が外に出てきても問題はないようだった。歯を磨きながら鏡像を眺め、その向こう側のことを想像する。きっと鏡の中には今だけ現れる扁平な影がいて、里莉の為すことをそっくりそのまま真似ているのだろう。志朗は怪異を生むのは人間だと言っていた。たとえ里莉が鏡の向こうにもう一人の里莉がいると想像したところで、なにかが生まれることはないに違いない。


 瑠々がやっていたとおりに身支度を終え――儀式だけはしなかったが、リビングに行って改めて朝の挨拶をするとお母さんは険しい顔をしてお茶の入ったグラスを傾けていた。


「どこに行くの」


 それは質問ではなく詰問の声色をしていた。なるべく軽く聞こえるよう里莉は返した。


「ちょっと、友達と遊ぶのよ」

「どこの誰。高校の?」と即座にお母さんは言った。まるでそうしないと、今すぐ娘が目の前から消えてしまうとでも言いたげな強くて早い口調だった。


 里莉はあくまでなんでもない風を心がけながらカウンター型の台所へ行って、パンのストッカーを覗いた。食パンの袋を手に取ってから冷蔵庫を開ける。ラップがかけられた皿をひとつ取り出して電子レンジに放り込み、少し迷ってから食パンを二枚トースターに入れて電源ボタンを押した。日曜日の朝はこうするのが瑠々の家の決まりだった。


「ねえ、高校の子なの。仲がいいの?」


 食パンの袋をストッカーへ戻す背にお母さんが言った。向き直ってみるとグラスを片手に立ち上がって、台所の中へ入ってくるところだった。ごつんと強い音をたててグラスを流し台に置いたお母さんの顔は険しい。


「うん、ちょっと仲良くなったのよ」

「どこへ行くの。何時から何時」

「それは決めていないわ」

「そう。約束したんじゃないのね?」

「ええ、そうよ。これから決めようと思っているわ」


 肩に引っかけたままだったショルダーバッグを少し持ち上げてみせるとお母さんは重いため息をついた。瑠々のお母さんはもうずっとこんな感じだった。娘に少しでも自由を与えると、そのまま糸が切れた風船のようにどこかへ行ってしまうと思っているのかもしれない。


 もしこれが、と里莉は思った。もし最初から、瑠々の物心がついた頃からこうだったのだとしたら、瑠々はずいぶん息苦しい思いをしてたんじゃないだろうか。


「そんな急に。相手方にご迷惑じゃないの」


 あなたが言いたいのは本当は違うことでしょう、と里莉は心の中で答え、ふと携帯端末の通知ランプがついていたことを思いだした。にっこりと無邪気な笑顔を心がけつつ、携帯端末を取り出してみせる。


「友達から連絡が入っていたのよ。それで、相談しようということになったの。向こうから言い出したことなんだから、迷惑なんかじゃないと思うわ」


 背後でできあがりを知らせる音が鳴った。何事もなかった顔をして皿を取り出して食パンをその上に置く。そのままダイニングテーブルに着くと、お母さんはうろうろと迷うような足取りであとを追ってきた。小言はまだ続くようだった。



 弓月とお互いなにも言わぬまま玄関の鍵を開け、シャワーを浴びてからおやすみもなく自室に引き上げた時には、時計の針は三時をゆうに越えた時間を示していた。腹立ち紛れにベッドへダイブしてもぞもぞやったところまでは覚えている。


「そろそろ起きてきたら? もう十時だよ」


 タオルケットに潜った頭を軽く叩かれて目が覚めた。まだ眠気がある。言葉にならないうめき声をあげてタオルケットをかき寄せ抱きしめていると声が笑った。


「盟友君はとっくに起きて出て行ったのに。君はまだお寝坊さんなのかい?」


 深みのある声は実に楽しそうである。


「今日の朝ご飯はね、君の大好きなプレーンオムレツだよ。バターもたっぷり使ってある。好きだもんね、バターの味。卵は三つ。パンにつけるのはなににする? 木苺のジャムとマーマレードと、こないだ美味しいって言ってたレバームースも買ってきてあるよ。サラダ用にはパプリカを用意してあるけど、どうしようか。マリネ? 生ハム乗っける? それとも、サラダ用のほうれん草があるからそっちにしようか。オレンジと玉ねぎと和えたの、きっと好きな味だと思うんだよ。ねえ、起きようよ。なんでも好きなの作ったげるよ」


 ううう、と志朗は枕に額をこすりつけてもだえた。なんでもいいから、腹が減る話はやめてくれ。こっちはまだ眠いんだよ。


「オムレツは嫌? だったらそっちは僕が食べるよ。かわりはなにがいい? スクランブルエッグ? それにチーズ乗っけてあげようか? あとは目玉焼きかハムエッグか、そうだ、この前失敗しちゃったポーチドエッグ、潰れない作り方を教えてもらったんだ。良かったら挽回させてよ」


 腹の底から遺憾のうなり声をあげ、志朗は目元までタオルケットを引き下げた。途端に見下ろす眼差しにぱっと喜色が混ざるものだから眉間に皺が寄ってしまう。


「オムレツでいい。あとサラダ、オレンジ美味そう」

「パンには?」

「……レバームース」

「あとは?」

「おはよう、全」

「はい、おはよう」


 太陽のような全開の笑顔で言うと、八千原やちはらぜんは腰掛けていたベッドから立ち上がった。鼻歌でも歌いだしそうな声で続ける。


「着替えて顔を洗って、髪の毛もちゃんと整えてくること。それが終わったらご飯にしようね」


 本当に歌いだした鼻歌がドアを抜け、リビングの遠くへ消えていくのを聞きながら、志朗はため息交じりに起き上がった。深夜帰りの寝ぼけ眼にあのテンションはきつい。足下が妙に重いなと思って目をやると服が一式置かれていた。今日はこれを着ろということなのだろう。


 なんと表すべきか言葉を知らないが、チャラチャラしたチェック柄のジャケットと揃いのズボン、シャツは黒色でなんだかよくわからない記号が大きくプリントされている。加えてジャケットにはどこぞのアイドルみたいな金鎖までくっついていた。まったく趣味ではないのでこういうのは要らないと言っているのだが、かたくなに全はその辺りを曲げようとしない。まあ、散々お世話になって保護者までしてもらっている身としては――誓って血は繋がってない。あんなに陽気で小洒落た趣味の親戚なんて今どき漫画にもいないだろう――たまの休みにお好みの着せ替え人形になってやることくらい譲歩すべきところかとは思うのだが。


 仰せに従ってのろのろと着替え、顔を洗って適当にブラシを使ってからダイニングへ行くと、皿を並べ終わってオレンジジュースをグラスに注いでいた全が華やかな笑顔を浮かべた。


「似合ってるよ! サイズもバッチリだね!」


 うんともああともつかない生返事をして席に着く。


「さっき」と言ってから志朗は咳払いをした。眠気はまだどこかへ行っていないらしく、さっきぃと語尾が間抜けに伸びていた。「さっきさ、弓月がもう出たって言ってたけど」

「盟友君かい? 君と喧嘩したって言ってたからねえ。仲良くするコツって奴をさ、ちょっと伝授してあげたんだよね。そしたらご飯も食べずに出て行っちゃったよ。さて、君はちゃんと食べていくだろう? 頂こうよ。いただきます!」


 いただきますと併せて――しかし小声でもそもそと――言ってから、志朗は食パンに手を伸ばした。ご丁寧なことに希望したレバームースがすでに塗られている。


「別に、喧嘩っていうほど喧嘩してないんだけどさ」

「まあ、そうだろうねえ。してたら、盟友君はもっと落ち込んでたはずだし」

「……落ちてたの?」


 そろりと尋ねてみたら、にっこりと頷かれてしまった。


 人間を喰う怪異をどう扱うかで弓月と揉めたことは昨夜が初めてではない。そもそも、人間に可愛がられたあと忘れられるという経緯を辿って生まれるのが忘れ犬である。忘れられた事情にもよるだろうが、人間に情を寄せるなというほうが無理があるかもしれない。それで行くと昨晩の話は平行線になるしかなく、折れるなら志朗が黙ったほうが事は早く済むし、普段はそれでなあなあに済ませていた。済まさなかったのは、弓月が先に手を出したのに向かっ腹が立ったからである。ついでに言うなら、相手が人喰いの怪異とわかっていて、弓月がそれを許せない性質だとすっかり忘れて連れて行ってしまった自分にも腹が立っていた――こちらはちょっぴりだが。


「だってさ」とオレンジをつまみながら志朗は唇を尖らせた。「仕方ないじゃん。生まれつき人間食べなきゃ生きてけない奴がそうするのはさ。だって、そういうふうに生まれちゃったんだもん。それで怒られるのってすげえ理不尽じゃん? だいたい、じゃあ、生み出した人間の責任はって話にもなるしさ」

「難しいところだよねえ。今の時代、基本的に人間側は生みっぱなしだからね。大災害前なら対抗神話が生まれたりして、釣り合いが取れてたってところもあったんだけど」

「こうやって話せれば違うのに。弓ちゃん、頭ごなしで譲らないしさ。こっちが大人になるしかないってわかってても、時には腹立ってしょうがないことってあるじゃん」


 オムレツをつついたフォークを片手にぶら下げたまま、うんうんと全はにこやかに志朗の話を聞いてくれる。弓月もこうだったらいいのに、と志朗は想像したがすぐやめにした。このニコニコ笑顔のテンション高いのが二人、どう考えても手に余る。


「ただ、昨日の奴らはちょっと違ったんだよな」

「聞いたよ。武装してたんだって?」

「なんていうの? 時代劇の足軽とか武将とかがしてる格好に似てた。揃いも揃ってそんな格好の奴ばかり集まるわけはないと思うんだよな。だって、集まってた奴ら自体は全然統一感なかったもん」

「誰かが武具を与えたってわけだね」ふむ、と全は考えるように眼差しを天井へやった。「誰がというのも問題かもしれないけど、なにをというのがこの場合、最も問題かもね。盟友君が言うにはそんなに古い怪異ばかりじゃなかったってことだけど」

「へえ、そうだったんだ」


 そこまでは見抜けていなかった志朗である。こういう見た目はなんという怪異とか、この怪異はどのくらいの時代に成立したとかいうことは、弓月と全のほうが詳しいのだ。


「あーあー、こんなことなら最初から全に頼めば良かった」

「僕かい?」面白そうに全はくるりと目を回した。「志朗がそれでいいなら僕は構わないよ。だけど、戦いになったら僕は敵を許さないからね。殲滅あるのみだ」

「そうだった!」


 志朗はざくざくと仇のようにフォークでほうれん草を刺した。あっちを立てればこっちが立たない。まったく、上手くいかないものである。


「そういえば、僕や君のことをあれこれ言われたそうだね?」

「うん?」と志朗は昨晩の会話を思い出した。「ああ、弓ちゃんが切れ散らかしたやつ」


 カラスがどうとか雛がどうとか、今さらなことでいちいち怒る気が知れない。カラスとは全のことで、雛とは言うまでもなく志朗のことであるが、あの程度の軽口で怒っていてはこれまで怪異と付き合っては来られなかった。言っていることが間違っているならともかく、まったくその通りなのだから、もうそういうものだとそこは流せばいいものを、弓月はいつもいつもまるで切れやすい若者のように律儀に怒るのだ。


「懲りないよね、盟友君も」

「ほんと。当人たちが流してるんから流せばいいのにさ」

「まあ、彼は彼なりにね。思うところがあるんだよ。大事に大事に育てた一粒種が理不尽に馬鹿にされちゃ黙っていられないっていうかさ」

「一粒種って。田舎のじいさんじゃあるまいし」

「あはは。それで行くと僕も盟友君もじいさま極まりないからねえ。可愛い子のことについつい夢中になっちゃうっていうのは、もはや習性かもね」

「メーワク!」


 ぶすっとオムレツにフォークを突き立てる。まあまあと言った全がさらに続けようとして言葉を切った。志朗の寝室がある方へ耳をすませる素振りをする。


「携帯、部屋に置いてきたのかい? 鳴ってるみたいだけど?」

「忘れてた!」


 慌てて志朗は部屋に戻ってベッドの上を探した。くぐもった着信音が鳴り続けている。枕とタオルケットを持ち上げてみても見当たらない。端末はまだ鳴り続けている。焦りながらタオルケットを揺すると、ぼとりとシーツの上に落っこちてきた。手に取ったところで音がやむ。不在着信を知らせるメッセージを確認し、志朗はぐっと眉を寄せた。弓月からだ。今はまだ、ちょっとだけだが腹が立っている。食事を摂ったあとにかけ直せばいいことにして、志朗は端末をポケットに突っ込んだ。



 時刻は遡って、九時をまわった頃であった。弓月は車を飛ばして昨晩の場所まで戻ってきていた。といっても、再び領域内に侵入するつもりはない。昨晩に見聞きしたあれこれを盟友殿――八千原全である――に話したところ、匂いのもとを探したほうがいいのではないかと言われて戻ってきたのだった。


 川の周辺にはすでにランニングや散歩にいそしむ人間たちがいた。領域で一暴れした直後ということもあり、周囲をはばかりつつ警戒もしつつ川底へ降りてみたのだが、そこには誰の姿もなかった。顔を上げれば木漏れ日が降り注ぐ中、早起きの小鳥たちがせわしい動きで飛び跳ねているのが見える。どこからか、楽しげな犬の鳴き声も聞こえる。のどかそのものであった。


 鼻をきかせながら捜索するほどのこともなく、弓月はを見つけた。護岸のコンクリートブロックのすぐ足元に、一見してゴミ捨て場のようなものがあった。すり鉢状にえぐれた地面になにか白っぽいものがうち捨てられている。近寄ってみるとそれはすべてが絵馬だった。大きさは統一されておらず、形も微妙に異なっている。


 土で汚れた紐を試しにひとつつまんで引き上げてみたが、おかしなところは何一つない。あえて言うなら香水を振りかけてあるとおぼしき、強い花の臭いがするのが特徴的であろうか。印刷された馬の描かれた面が風に吹かれてくるりと裏側をさらし、そこに書かれた文字をあらわにした。


 ――第一中学校二年A組・今永哲治くん・告白が上手くいきますように。


 端々が丸っこい文字からはいかにも女性が――特に大人になりきっていない少女が書いたという印象を受けた。しかし、なぜこんなところに捨てられているのか。誰か不心得者がいて絵馬を盗んできて捨てたにしては、様々な神社のものをかき集めてきた様子が不可解である。振り返って領域のほうを見てみると、昨晩は暗闇で見えなかった揺らぎの向こう側が薄く透けて見えた。


「あれは――」


 思わず声が漏れた。橋脚の作る薄い暗がりの中に無数の絵馬がぶら下がっている。誰かがわざわざ設置したものか、金網が斜めに石造りの脚に立てかけられていた。鼻をきかせてみる。する。そちらからも花のようなもの、柑橘系と思われるもの、様々な種類の匂いが渾然一体となって漂ってきていた。そちらへ足を踏み出しかけた時である。とっさに弓月は足を踏み換えて低く構えた。草叢を踏みしだく音がする。それは川を避け、枝葉を時折払いながらこちらへ近づいてきていた。


「ほう」


 感心したような声をあげたのは金色に髪を染めた男だった。


「誰かと思えば忠犬か。こんなところでなんのお使いだ? ここにはお前の大好きな骨もガムも落ちていないと思うが」


 派手な顔立ちに、派手な装束を併せた男である。洒脱なうねりをつけて遊ばせた金髪、黒いレースの飾りがついたゴシック調のタンクトップ、ダメージ加工のされたパンツや耳殻からはじゃらじゃらとシルバーのアクセサリーをぶら下げている。


 弓月は一瞬息を止めて硬直し、すぐに我に返った。


「なぜ貴様がここにいる」

「なぜというのはこちらの台詞だ。いやはや新宿以来、六年、いや七年ぶりか。主従共々どこに逃げたかと思えばまだこんな都会にいたとは。考えもしなかったぞ、駄犬」

「なぜこんな場所にいると聞いているんだ」


 獰猛な犬がするように、低く男を睨めあげながら弓月が言った。


「なぜもなにも。都会には人間が多くいるからな。俺の目的を考えれば至極当然のことだろう。それとも、七年という月日は駄犬には長すぎたか。人間に比べるとずいぶん小さなおつむしか持ち合わせていないと聞くからな。その程度のことも覚えていられなかったか?」

「まさか、あの人喰いは貴様の差し金ではないだろうな」

「まさかもなにも」男は顎をしゃくって領域の入り口を示した。「わざわざこんな川底へ俺が散歩に来るとでも思ったのか? わかりきったことをわざわざ確認せずにはおれんとは、犬というのはつくづく頭の小さい生き物なのだな」


 しかし、と続けながら男はパンツのポケットに手を突っ込んだ。すらりとしたその立ち姿からは警戒もなにも感じられない。


「こちらからすればまさかではある。あの雛に見つかるとは。用心するようには言い置いていたが、これは想定していなかった。困ったものだ」


 まったく困った素振りを見せずにくつくつ笑う男に弓月はうなり声をあげた。


「貴様、今度はいったい何を企んでいる!」

「企むとは失敬な。俺はただ皆に素直になって欲しいだけだ。知っているだろう」

「知っているとも。貴様の企みがすべてろくでもないことくらいはな!」


 フン、と鼻を鳴らしながら男は顎をあげた。耳殻から垂れ下がるいくつものピアスがその動きに合わせてちゃらりと鳴った。


「犬には理解できんか。今の世がどれだけ素晴らしいか、あるいは雛ならば理解しているかもしれんが」

「雛君もお前にはたいそうお怒りだ。もちろん、我が盟友もだ。この世をここまで破壊しておきながらその言い草、まさか許されるとは思っていまいな」

「許すも許さないもないだろう。世界は変わってしまった。もう後戻りはできない。怪異たちはこれからもっと増えるだろう。個々人の思いを汲み、想像の翼のままに現れ出でて、いずれはこの世の理すら変えてしまう。俺がしたことと言えばその針を少し進めただけだ。七年前、たとえ俺がなにもせずにいたとしても歴史はなにも変わらなかったに違いない。ただ、その年号が早いか遅いか、それだけでしかなかったのだ」

「違う! 貴様が扇動しなければ恐怖の大王が現れることはなかった! 雛君がそれを抑えることもなく、あのアンゴルモアが恐怖の翼を広げることもなかった!」

「吼えるのはけっこうだが、ご主人様の都合は考えなくていいのか。そら」と、男はアーマーリングを嵌めた人差し指を掲げて頭上でくるりと回した。「ギャラリーには事欠かないようだが。このまま吼え続ければ警察沙汰では済まないぞ」

「その警察も感謝するだろう。お前の悪辣さを知ればな!」

「まったく、人聞きの悪いことばかりを言ってくれる」


 男は顎をあげて弓月を睥睨している。余裕に満ちたその立ち姿、癖のある前髪の奥にある暗い瞳の笑み、すべてに怒りを煽られた弓月がついに左手を握りしめた。


村雨むらさめ流星りゅうせい! 今ここで決着をつけてやる!」


 黒霧を爆発させるや否や、弓月は村雨めがけて突っ込んでいった。

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