第2話 はじまり
あの時は、私の方が、もう一杯に溜まってしまった淀みをどうにかしないと、パンクしそうだった。だからといって、叫んだところでどうにもならない現状に、生きている意味もないような気さえしていた。
行くところもなくて、どうしようもなくて、ただ、街をうろうろしていた。
目的もなく歩いていると、何度も頭の中に浮かんでくる、同じ光景。同じ声で繰り返される同じ言葉。
まだ若いんだから、すぐ次が見つかるよ。だから、ここはもう縁がなかったと思ってね。
そして、まったく同じ文面の、方々からのメール。
今回はご縁がなかったということで、不採用とさせていただきます。
どこへ行って、何をすれば、もっと違う言葉がそこにあるようになるだろう。そんなことは、いくら考えても無駄なんだろうか。
もともと安月給で、ほとんど貯蓄なんてない。だから、すぐにお金が尽きて、家賃も払えなくなって、住むところもとうとう無くなった。
何もかもが、私を拒んでいるような気がして、どうして生きているんだろう、なんてことを考えたりもして。
そんな時、自転車のタイヤがアスファルトの溝に嵌って動けなくなっている、小さな子供を後ろに乗せている女性を見かけたのだ。人は、本当に余裕もなく周りが目に入っていなくて気付いていないのか、気づいているけど自分には関係ないこととして通り過ぎているのか、どちらでも、結局同じことだけど、誰も助けない。
いや、それは私だって同じだけど。
それなら、見ているなら何とかすれば。通り過ぎてく人たちへの、当てつけみたいに。
いいことをしよう、という気持ちではなかった。ただ、本当に、私が助けることで、見て見ぬふりをして通り過ぎて行く人たちが、気まずい思いをすればいい。そういう、ねじ曲がった思いから、それだけだった。
「ちょっと、子供が落ちないように押さえててください」
私がそういうと、その女性は、子供を自転車から降ろして、抱えた。私は、溝に嵌っている降臨を軽く蹴りながら持ち上げると、意外とすんなり外れる。
「あ……ありがとうございます」
ほっとしたように、その人は何度も頭を下げた。
「いえ、別に……」
その時、人ごみの中でもはっきり聞こえるほど、私のお腹が音を立てた。その女性は、きょとんとしてこちらを見ている。
「お腹……空いてるんですか」
「えっと……」
目の前にはコンビニ。今のお礼にと、その人はおにぎりとお茶を奢ってくれた。本当に普通の、鮭のおにぎりだけど、どこにでもあるものが、その時の私に一番必要なものだった気がして、今後私がどんなに金持ちになって、どんなに豪華なものを食べることがあったとしても、このお握りを越えることはないだろう。
そんなことを、英子さんに言ったことは、一度もないけど。だって、大袈裟なことを言って、と、ちょっと面倒くさがりそうだから。
「もっと、何かいいものをごちそうできればよかったんですが。時間もあまりないので、ごめんなさいね」
「いえ……。でも、ちょっと驚いてます。ちゃんと、返って来るものってあるんだなって」
「え?」
また、彼女は、きょとんとした顔をする。彼女に抱えられた子供は、母親の髪をいじって遊んでいる。普通のことを、普通に出来ている人に、私は何を話そうとしているのだろう。
「仕事クビになって、家もなくて、こんなものを買うのも躊躇うくらいで……。私、頑張ってたつもりです。必死になって働いても、こんなあっさりと切られて。次の仕事も見つからなくて、家賃滞納で家も出て行かなきゃいけなくて。必死に生きてて、意味があるのかな。私がしてることって何の意味もないのかな、って思ってたけど、こうして、おにぎりを返してくれる人がいるっていうことに、本当にこんなことがあるんだな、って」
「あー……」
なんか、面倒くさい人間に行き当たってしまったな、と思われたのか。困惑したように、その人は声をあげた。それでも、私はなおもしゃべり続ける。
「漫画とかドラマとかだと、こういう状況って、なんだかんだと助けてくれる王子様が現れるじゃないですか」
「ああ、よくあるね。職なし家なしヒロインの前に突如現れる男」
「だけど、現実ってそんなことは全くなくて。誰かが助けてくれるだろうなんて、都合のいいことないんですよ。さっきも、あなたが困ってるところで、誰も立ち止まってくれることすらしなかった。でもわかってるんです。それを責めるのも筋違いなことは。だって、通り過ぎる人には、なんの関わりも責任もないことだから」
「でも……あなたは、助けてくれたじゃない。王子様みたいに。女の子だけど。まあ、この際性別なんて関係ないわよね」
「親切じゃなくて、周りへの当てつけです」
正直にそういうと、彼女は豪快に笑った。それにつられて、子供も笑う。
「私がしていることは、何にも報われないし、返って来るものなんて何もない。そう思ってたけど、今、ちゃんとありました」
私はまた、おにぎりをほおばった。よく知ってる味だし、同じものは、お店にいっぱい並んでいる。でもこれは、私が報われた小さな証。
子供の頭を撫でながら、その人は、風に乗せて歌うように言った。
「報われたいから、何かが返って来てほしいから、いいことするっていうのは、間違いだってよく言われるけど、報われたいって思って、何が悪いんだろうね。そりゃあ、見返りを要求するのは違うだろうけどさ……私だって、毎日の家事、何でこんなこと限りなくしてるんだろう、って思うよ。それこそ、無償の愛でこなすものだ、って言われたって、無理でしょ。感謝もされないし、当たり前だって思われているし。それでも気にしない、なんて、思えるほど人間出来てない。本当に、報われたいなんて思っても一番無駄なことなんだろうけど」
私は、おにぎりを口へ運ぶ手を止めた。
「結局、どうして報われないんだろうっていう思いは、誰にでもあるのかな」
「そりゃあ、そうだろうね。何をしているどこの誰であろうと、人生で自分のしてきたことなんて、報われることの方が少ないのが、普通なのかもしれないね。期待しない、じゃなくて、そういう諦めは必要かも」
「しんどいこと言わないでくださいよ」
私は、出来るだけ重くならないように、するりと、滑らせるように言葉を発する。でも、それが却って、気まずくさせてしまったようだ。
「……あなたの場合は、報われるどうの以前の問題な気もするけど。でも、ただの通りがかりでも、私達は、今のこの状態で、お互いなんか報われたものはあるよね」
変な同情を向けられるでもなく、突っぱねるでもなく、なんだか誤魔化されているように甘いわけでもない。心地の良い温度だった。蒸し暑い夏の空気が、不意に鬱陶しくなくなる。
セミの鳴き声に耳を傾けていると、そこに紛れるように、その人はつぶやいた。
「あっ……言い忘れてた」
「何をですか?」
「ありがとう」
その言葉の効果を、子供でもないのに、初めて知った気がした。使うことはあっても、その本当の意味を今まで知らなかったように。どうしてこの時に限って、そんなことを思ったのかはわからないけれど。
その一言があるだけで、こんなに違うなんて。
「わ、私こそ、ありがとうございました」
「うん、なんかさ、ちゃんと噛み合うものがあって、久しぶりに嬉しいな」
私には、嬉しいかどうかはわからなかった。ただ、何もかもどうにもならないという虚しい気持ちが、ほんの少しだけ、溶かされて行った気がしたのは確かだ。
「一番報われたいことって何?」
そう訊かれて、すぐには出てこないのが、自分でも不思議だった。こんなに、呪いのように、自分を縛り付けるようなものだったのに。何が報われたいのか、それを、形として考えたことがなかったなんて。
「そうだなぁ……」
きっとそれは、夢も何もない私は、大きな野望とかじゃなくて、漠然と、普通に生きていけることが、報われてほしいだけなのだ。それは、何が報われることなのだろう。夢や目標があれば、もう少し何か違うのだろうか。普通、という、ぼやけたよくわからないものじゃなくて、もっと姿がはっきりしたものがあれば。
でも、それ以前の問題だ。
「ちゃんと、私になれること」
言ってみて、それもまたぼんやりしているな、と思う。でも、弾かれている今の自分は、きっとこの世界に存在していない。だから、私になれるということは、この世に存在するということなんだろう。そんな気がした。普通、というのは、おそらくそういうことなんだと、私は勝手に思った。
この人に、ちゃんと伝わったかどうかわからないけど、でも、ちゃんと伝わっても、そうじゃなくてもよかった。それが、言葉という形になって出て来ただけでいい。
「そっか。じゃあ、私も言っていい?」
「はい」
「私はね、とりあえず、この子が無事大きくなってくれればいいわ。ずっと何かに追われて、しんどくて、ほんと投げ出したくなることもあるけど、ふとした瞬間に、やっぱりこの子が大事だって思って、なんとか踏み止まって……」
私の中で、何かがざわりと波立った。
「……さらに、しんどいこと言いますけど……大きくなっても、無事に生きられるとは限りません」
私は自分を見本として指さした。気まずい間が出来る。子供は、もう飽きて来たのか、今にもぐずり出しそうだ。それをあやしつつ、困ったように、彼女は目を泳がせる。
「ああ……そうね。人生、ここまでくれば大丈夫とか、ないもんね」
「ないです」
実際、何も話してはいないが、両親に今の自分の話をしたら、どう思うだろう。だから、誰にも何も言えないでいる。
隣の人は、明らかに困っていた。私なんと声をかけたらいいのかもそうだし、自分の子供の将来に不安の種を植え付けられてしまったことにも。それこそ、酷い皮肉だったかもしれないと、私は少し後悔した。
「あの……」
ややしばらくしてから、遠慮気味な声がした。
「なんですか」
「とりあえず、うちに来たら……とは、やっぱり言えないんだけどね。家族もいるし、三人でいっぱいの、狭い家だしね。一日二日の話じゃないし。……そうだ、だったら、約束しよう」
「約束?」
そう、と、彼女は頷いた。
「ちゃんと職と住むところが見つかったら、お祝いに何か御馳走するよ。金額問わず、とびきり美味しいやつ」
「本当ですか?」
「うん。ただの社交辞令で、通りすがりの人にこんなこと言わないよ」
子供を抱えたまま、彼女は器用に鞄の中からスマートフォンを探し当てた。そして、私の前にかざしてくる。
「ということで、連絡先、教えて」
いつ止まるかわからない電話だけれど。そんなことをわざわざ言うのは、違うと思った。せめてそれくらいは、なんとかしなきゃ。だって、きっとこれは、私が生きるための、必要な糸だ。
私もスマートフォンを取り出して、そこに新しい情報を登録した。
「その約束が、いろんなことが、本当になるための切符だと思って」
この小さな機械の中に入った新しい番号が、私とこの世界を繋ぐものになったような気がした。具体的に何か生活が進展したわけじゃない。でも、それだけのことが、この世界をまだ歩いて行こうとする、火種になったのだ。
「時々はさ、どうしてるか教えてよ。私もきっと、ずっと意識のどこかで引っかかってるだろうと思うからさ。なんとなく、ふわっと、頭の中に私の顔が思い浮かんだ時にでも、なんか言って」
「……はい」
「英子……さん」
ほとんど無意識にその名を口にしていた。
「なあに?」
想定外に返事をされて、私は慌てた。
「あっ……いや……そういう名前なんだ、って思っただけで」
「なんだそりゃ」
あははは、と、笑い声が響く。誰かの笑い声を、こんなに軽やかに感じたのは、いつぶりだろうか。私の世界はそれほどに、何もかもが重たかった。
やがて、英子さんの笑い声に、重たいため息が続いた。
「なんかねぇ、人生ってほんと、重たいことだらけだよね。ねえ、ついでにもうちょっと愚痴っていい?」
「あ……は、はい。でも、時間ないんじゃ……」
「一分だけ」
にへっ、と、子供のように英子さんは笑った。その一分間で、不思議と私の心の方が、すっきりしていたのを、後になって自覚した。
もしかすると、最後まで、この人は、頑張れ、とは言わなかったからかもしれない。そうじゃなければ、私だけが特別そうなわけじゃないと、どこかでお互いに励まし合えたのだろうか。こんな、歪な形で。
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