第8話 わたしのひみつ
誰にも言えない秘密がわたしにもある。
たとえば、焼きたてのパンをしめしめと言いながらつまみぐいしたりとか、とれたての卵をその場で盗み食いしたとか、そういうちっちゃな悪いことはいつも積み重ねてきた。
けど、彼のことは次元が違う。
戦争中のことよ。
わたしたちホビット族は戦うことに向かないし、山のなかに暮らしていたからまだ実感がなかった。なんとなく風のうわさで異世界の人たちと争っていることだけは知っている、その程度。
不安と平穏の日々のなかでのんびりとホビットらしく暮していたわ。
そんななかで泥に汚れた彼を山のなかで見つけたの。
見たことのない服を身に着けていた彼にわたしは怯えたわ。人間はわたしたちより圧倒的に大きいし、遭遇したのが普段は人がいないところで、わたし、野イチゴをとりにきた無防備な姿だったから……ぴりぴりとした緊張と警戒、わたしは息をごくりと飲んだ。
そのときだ。
ぐぅ。
大きなドラゴンの鳴き声だ。
わたしはそれが目の前の男の人からだと理解して、びっくりした。けど、そのあと。
くぅくぅ。
これはわたし。
男の人もぎょっとした顔をしていた。
これで緊張が完全に溶けてしまったわたしは笑って彼の口にとったばかりの野イチゴをえいっと投げた。
ぱくり。
もう一個。
ぱくり。
えい。
ぱくり。
えいえい。
ぱくり、ぱくり。
全部食べちゃった。
わたしは、ぷぷっと笑って、手を伸ばして彼の腕をとっていたわ。
連れて帰り、泥を洗い落として傷の手当をして、あたたかいシチューとかたい黒パンを作って出してあげた。
彼はぺろりとそれを食べて笑ってくれた。
それからわたしは椅子を指さしてみた。
彼は彼の言葉で椅子と言った。わたしも椅子と口にした。
わたしはそれからいろんなものを指さして二人で言い合った。それで彼はわたしの口にできる共有語、わたしは彼の世界の言葉を覚えた。
二人で大きな葉っぱに石で文字も書いて、同じ言葉を共有した。
わたしにとっては幸せな日々だった。
彼はわたしの前では顔を出してくれなかった。はじめて会ったときから黒いかぶりものをずっとしていた。あれがなんなのかわたしにはわからないけど、目はなにかガラスのようなもので覆い、頭をすっぽりと覆っていたっけ。口元はごはんのときだけしか見せてくれなかった。
たぶん顔を知ると危険なのだろう。彼も、そしてわたしも。彼は異世界の人でよくないものだというのは噂で知っていた。幸いだったのはわたしは一人暮らしで、パパはこんなときも冒険に出ちゃってて! だから、さみしいなかにするりと入ってきた顔も見せてくれない彼と生活は楽しかった。
元気になって家の手伝いもしてくれていた彼は、唐突に消えてしまった。
今なら彼が消えた理由がわかる。
彼はいくつかの道具を持っていた。わたしにもときどき触らせてくれていた。そのなかに銃があって、これは人を簡単に殺せると口にして構え方、撃ち方を教えてくれた。どうして、と聞くと俺がいないとき無事でいるためにと彼が口にした言葉の重み。
本当にそんなことがあるとは思わなかった。
果物を山にとりにいったわたしに鹿が向かってきた。ああ、踏み殺されると思ったとき、どんっと重い音がして、鹿が倒れたの。彼が銃を使った。その銃の音はわたしと静かな山に響いて、たぶん、邑にも聞こえた。
彼はわたしに背を向けてしまった。
このままだと追っ手が迫ってくると思ったのね。
たった数か月だった。
終わることはわかっていたけど、あまりにもいきなりだったのにわたしはその日から一週間泣きつづけた。
恋とか愛とかじゃなくて、さみしいなかに支えてくれた人だった。
その翌日にパパは帰ってきたけど、わたしは彼については言えなかった。パパと彼は違うから。
名前も知らない、けどとてもあたたかい大きな彼は生きているのかしら。
わたしが覚えているのは、ぬくもりと大きさと、あとは不器用な文字。
これがわたしが異世界の言葉がわかるひみつ。
誰もいえない秘密。
今だって覚えているし、思い出す。
たぶんね、あれがわたしの初恋。ホビット族の役人所で働くのも、誰とも結婚しないのも、いつか、彼とまた再会したいと思ったから。きっかけが、ちいさくてもいいから作ろうとしたわたしなりの精一杯。
そんなささやかなものじゃあ、だめだって、わかっていても、冒険に踏み出す勇気がわたしはなかった。
だのになくしたものやなくなったものをずっと思い続けている。
うじうじ、じめじめ。
だめよ!
わたしは夢のなかで叫んだ。
苦しい思いだけの過去の夢から目覚めて、耳に涙がたまってる。
勇気を出して彼を追いかければよかった。異世界に行ける門があるのだから、彼を見つけるための冒険に出ればよかったのよ。
わたしは陽気で愉快で頑丈なホビット族だもの。
あのときできなかったけど、いまならできる。
わたしは、急いでベッドを抜けて、ズボンと上着を身に着けて、銃をおなかにしまいこむ。
まだ何も知らないわたしの旦那様。
裏切者かもしれない。
大罪を抱えて、ばれたら御家断絶の処刑かもしれない。
けどわたしは彼から聞いてない。
どうしてわたしと結婚してくれたの? あそこまできて花を渡してくれたの。あなたの目、やさしい声、不器用だけど大きな手のひら、その翌朝のばかみたいなやりとりから一回も会えていない。
わからない、わからない、わからないこといっぱい!
わたし、あなたのことを知りたいわ。
「どこに行くつもりだい、お嬢さん」
窓から入り込んできたシリウスにわたしは息を飲んだ。
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