第9話 全ては過去の思い出
「生きて帰ってきた方もいらっしゃるんだわ! きっと望みはあるはず」
美羽は急いで本を読み始めた。そこには戦争の悲惨さだけでなく、人の人格を無視する本当の意味での生きた死、自分を失くす当時の様子が書かれていたのだった。
しかし、本の中で書かれていた帰還兵の証言に、美羽は心を熱くした。
「戦争中は自分自身を持てなくなる。自分を持てなくなると死んでもいいと思ってしまうようになる」と。「生きて戻る」そう断言し続けた帰還兵の強い思いが綴られていた。
「きっと田村さんもどこかで生きているに違いない。今生きているとしたら98歳ね。かなりのご高齢だわ。もしかすると、もう……」
しかし、美羽は一縷の望みを捨てなかった。
「きっとどこかにいらっしゃる。幸恵さんがこれだけ信じて待っていたんだもの」
翌日は朝から孤児院の仕事の日だった。美羽がいつものように朝の礼拝を済ませ、裏庭を掃除していると、彼女が現れた。――幸恵だった。
「あのお、昨日は失礼しました。せっかくお話ができると思ったのに、どうしてだか意識が遠のいてしまって……」
幸恵はすまなさそうに美羽に頭を下げている。
「ううん、いいんですよ」
美羽は幸恵がこの世の人ではないことを思って、むしろ彼女に同情していた。
「幸恵さん、実は昨日あのカフェで色んな事が分かったんですよ」
「健一郎さんのことでしょうか?」
「ええ。それとあなたのことも」
「私のこと?」
「ええ。幸恵さんはやはり昔あそこに住んでいらっしゃったのね? そして、ずっとカフェを営んでいらした。それもお一人で」
「ええ、そうよ。家が半焼してしまったの。両親が残した土地を売って建て替えたのよ。カフェにしたのは、あそこを皆の憩いの場にしたかったから、そして健一郎さんの知っている場所で、彼が帰るのを待っていたかったからなの」
「――そうだったんですね。あの……あなたはあそこのマスターのひいおば、いえ、ご家族みたいですね」
「あのカフェにいた若い男性が私の家族? でも、私の親戚は遠くにいて……両親はもういませんし」
「え、と……。あ、ところで幸恵さんは、どうして今になって健一郎さんを捜そうと思ったのですか?」
「――そうよね。遅すぎるわよね。あれから一年も経ってしまっては……」
「幸恵さん、一年どころか、もう78年も経ってるんですよ」
美羽は思わず幸恵に今の状況を伝えてしまった。
「78年って……。まさか。でも、確かに変だったわ。街の様子が見たこともないほど変わっていた。周りの大きな建物があの一年の間にここまで立派に建てられたとは思えないくらいに」
「あれからというのは、戦争が終わってからということですか?」
「――戦争」
幸恵はしばらくぼんやり考え込むようにしていたが、ハッとして顔を上げた。
「ああ、そうだわ。一年前まで戦争していたのよ。健一郎さんは一年前に特攻隊員になって出て行ったきり……。必ず生きて帰ると約束したのよ。だから一生懸命生きてきたのに」
「思い出したんですか? あの当時のこと」
「はい……。でもまだぼんやりとしか。ああ、私は一体何をしてたのかしら? 今はいったいいつなのかしら?」
「あの……幸恵さんはもしかして、あの時亡くなって……」
「私は……死んだの? そんな……。いいえ、違う! 死んでないわ!」
幸恵が頭を抱えてしゃがみ込んだのを見て、美羽は慌てて駆け寄って行った。
「大丈夫? また頭痛がしたの?」
幸恵はしばらくうつむいていたが、柵越しの美羽を見上げて立ち上がった。
「思い出したわ! 私がここにいる理由を。――私には子供がいたの。
あの日、終戦からちょうど1年後の8月15日だった。お地蔵様のところで健一郎さんの無事を祈っていたの。
健一郎さんが無事で帰って、未来では息子も健一郎さんも幸せに暮らせていますように、と。
そうしたら、今みたいに眩暈がしてきて……私、子供を、健二をあそこにお地蔵さんの祠に残したまま、気が付いたらこの街に来ていた。
見るもの聞くものがまるで外国のようで、しばらくウロウロしていてあの古いカフェにたどり着いたとき、なぜかとても懐かしい気持ちになったわ。
あの当時新しかったカフェが、古ぼけて
あれは私が山で切り株を見つけて表面を綺麗に削って書いたものだったんです!」
「え? ちょっと待ってください! じゃ、じゃあ、もしかすると、幸恵さんは幽霊じゃなくて生身の人間なんですか? もしかしてタイムスリップしてきたの?」
「タイムスリップとは?」
「あ、あの、時間旅行をしたということです。幸恵さんはあれから78年後の同じ場所に来たんです」
「……ああ、そうかもしれません。今ならそう信じられます。周りの景色といい、人々の服装といい、もう焼野原でもなくこんな立派な世界になっていて、おとぎ話ではないですけど、浦島太郎のようだと思いました」
「やはり気付いていたんですね? あ、あのお地蔵様って、これじゃなかったかしら?」
そう言うと、美羽はケータイに入れておいた地蔵の画像を幸恵に見せた。
「ああ、これ、これです! うちの近くにあるお地蔵様なんです! でも、こんな綺麗な色のお写真があるなんて……」
「今は写真は全部色付きなんですよ。あ、でも一つだけ疑問があるんですけど。どうして私のマンションにいらしたとき、突然消えたようにいなくなったんですか? それもドアをすり抜けたように鍵がかかったまま出て行かれましたよね? それにあのカフェにいたときも消えたって裕くんが言っていましたよ」
「消えた? いいえ、そんな芸当はできません。美羽さんのお部屋で休ませていただいたときは、私、本当に申し訳なくてすぐ帰らなくちゃと思ったんですが、ちょうどその時、ご主人様がお帰りになったようなので、急いで玄関に向かって行ったんです。
ご主人様はもう中に上がられていたので、その間に外へ出てしまったの。
そのあとで鍵を掛けられたので、私が出て行ったことには気付かなかったんだと思います」
「ええ? そうだったんですか? でも、カフェに行ったときにもまたいなくなりましたよね?」
「私、少し前からあのカフェで働かせてもらっていたんです。あの日もお仕事の日でしたから、店長は私を客として数えていなかったのだと思います」と笑った。
「で、でも、店長の小林さんに幸恵さんの名前を訊いても分からなかったんですよ」
「ここが私の実家だと分かっていても、こんなに時代が変わってしまって行く宛もないですし、ここで働かせてもらいながら自分の置かれた状況を理解しようとしていたんです。
だから偽名を使ってしまいました。友人の名前の『
幸恵は恥ずかしそうに微笑んだ。
「それじゃ、もう一つだけ。不思議だなと思ったのは、どうして、裕くんを追いかけていたんですか? それに私のところにもいらしたのは偶然ではないですよね?」
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