第九二〇話 良い加減にしなさい!
想像以上の難度を誇る課題を前に、アグネムちゃんの奮闘は続いた。
先ずは有効な力加減を探り当てるところから、課題の攻略は始まったのだ。強力なバフを受けているせいで、“最小ダメージでカウントを稼ぐ”という、この課題に於ける最も重要な基礎すらままならない状況。これを打破しようと試みたわけだ。
どのくらいの力を込めた一撃なら、ボクサーゴブリンに対するダメージを最小限に抑えつつ、頭上のカウントを回すことが出来るのか。
試行回数を重ね、徐々にコツを掴んでいくアグネムちゃん。勿論、簡単な道のりではなかった。
倒される度にコンディションを完全回復させるボクサー。対するアグネムちゃんの疲労やダメージは蓄積する一方だ。
受けたダメージは回復薬で打ち消すことが出来る。けれど、消費したスタミナばかりは回復薬では戻らないのだ。
加えて、失敗する毎にペナルティとして、リング外の私たちへ襲い掛かってくるモンスター。
精神的にも徐々に追い詰められ、アグネムちゃんはジリジリと焦燥感を募らせていった。
それでも根気強い試行錯誤の結果として、彼女はやっとこさ最適な力加減というものを掴んだし、ボクサーゴブリンの動きにもすっかり慣れた様子。
ミコバトによる膨大な戦闘経験は、アグネムちゃんの戦闘センスを大きく底上げしており。
こうして同じ相手と何戦も演じていれば、動きを見切り圧倒することだって難しくはないようだ。それに元々、ミコバト抜きに特級冒険者にまで上れるスペックの持ち主だもの。
被弾率は非常に低く、相手の隙を見つけたり、作り出したり、そこへ潜り込むのだって巧みなアグネムちゃん。
ファーストラウンドに於いては二二発しか有効打を入れられなかった彼女だったけれど、ラウンドを追う毎に記録は順調に伸びていき。
一つ前のラウンドではついに七〇を突破。スタミナ面に心配こそあれど、この調子ならばクリアまで持っていけるはずである。
技量は間違いなくアグネムちゃんが勝っている。それも、大差で。
しかしそれでも、毎回異なるシチュエーションで、均一の力加減にて殴打を放り込むというのは、流石に困難を極めるようで。
試合の構成についても、ボクシング同様一ラウンド三分、インターバル一分という設定がなされているらしく。
挑戦に失敗し、次の挑戦に入るまでの時間も、ちょうど一分間しか休憩が取れないようだった。
ただでさえ三分間全力で殴り合えば、かなりの体力を消費するっていうのに、アグネムちゃんは既にそれを一〇ラウンド以上も続けている。
そりゃ、中には三分を待たずして決着してしまったラウンドも結構あるけれどさ。それでも、スタミナ的にはえげつない消耗を強いられているに違いない。
その証拠に、彼女の動きからは確かな疲労が見て取れる。キレもずいぶんと鈍くなり、被弾する回数も少しずつ増えてきているもの。
果たしてそんな状態で、一〇〇発叩き込むことが可能なのか。仮にダメだとすると、アグネムちゃんはボクサーゴブリンに殴り殺されるのではないか。
そう思うと、心配でならなかった。状況はなかなかに際どい。どうにかして現状の打破を図りたいところである。
「ミコトさん、これ大丈夫なんでしょうか~? 私たちに何か出来ることってありませんかねー……?」
「うーん……なら、ここらでアグネムちゃんにはしっかりと休憩を取ってもらおうか。そうしたら一気に優勢が取れるかも」
「なるほど~。アレをやるんですね~!」
スイレンさんと頷き合ったなら、急ぎアグネムちゃんの視界に入るようリングを回り込み、ボクサーゴブリンの背後へと移動。
アグネムちゃんへと二人して合図を送ったなら、狙い通り彼女と目が合った。恐らく意図は伝わったはずである。
するとその証拠に、早速アグネムちゃんは動いたのだ。ボクサーゴブリンの拳を避けざまに、鋭い打撃を繰り出す彼女。
そこには加減もなければ、かと言って全力も乗せられてはおらず。敵を倒すのに十分な威力を大雑把に込めた、雑な殴打。
それが、強かにボクサーゴブリンの横腹を叩き。奴は目にも留まらぬ速度でリング端にまで吹き飛ぶと、尚も勢い衰えず。
ロープを引っ張りながら、リングを囲う障壁に激しく身体をぶつけては、そのまま黒い塵へと還っていったのである。
すると必然、ペナルティエンカウントが発生。私たちへとモンスターが襲いかかるも、何ら問題は無い。何せ、作戦の内なのだから。
試合前の話し合いに於いて決めていたのだ。もしも体力的にキツくなってきたならば、敢えてペナルティを発生させ、休憩時間を確保するように、と。
戦闘に関する作戦は捻り出せなかったものの、こういう部分での打ち合わせならば抜かりない。
リングの上で体を休めるアグネムちゃんを横目にしつつ、出現したモンスターを素早く処理する私とスイレンさん。
彼女の奏でる微睡みの調べとアラカミの毒。これらのコンボは、正直反則クラスの恐るべき殺傷能力を有しており。
油断さえしなければ、大抵のモンスターに後れを取ることなど無いように思えた。
逆に言えば、そうであるからこそアグネムちゃんも、負い目を感じるでもなく休憩作戦に踏み切れたのだろう。
ボクサーゴブリンがリポップし、ゴングが鳴る。途端に、アグネムちゃんがそれをワンパンで瞬殺。
ペナルティエンカウントを私たちが処理し、次なるエンカウントに備える。そんな繰り返し。
これにより、一分のインターバルを連続で獲得することに成功するアグネムちゃん。失った体力をこれで回復させようというわけだ。
目論見通り、十分な休憩を取って回復を果たしたアグネムちゃん。既にボクサーゴブリンの動きを見切っていることも相まって、有効打の記録は一気に八七まで伸びた。
しかし、そこから先が苦しい。丁寧に加減を施したにも拘らず、僅かに計算外の慣性が乗っかったりして威力が増してしまったり、かと思えばほんの少しの威力不足でカウントが進まなかったりして、なかなか思うような結果にならず。
そうこうしていると、捨てラウンドも含めて七〇ラウンドを突破。最高記録は九六にまで至り、あと一歩というところ。
全身から汗を吹き出し、心做しか足元もフラついているアグネムちゃん。そろそろ休憩を入れなくちゃマズい。
が、彼女の集中力もここに来て凄まじい高まりを見せているようで。
その証拠に今ラウンド、ここまで無駄の一切を削ぎ落としたような動きでボクサーゴブリンの攻撃を尽くいなしており。
既に打ち込んだ有効打の数は八〇を突破。未だペースには一切の乱れがない。
私もスイレンさんも、手に汗握り、息を呑んでアグネムちゃんの闘いを見守っていた。
ボクサーゴブリンの、ほんの僅かな筋肉の動きすら見逃さず。そこからどんな動作が生じると、直感的に導き出しているとでも言うのか。
まるで予定調和の如く、奴の拳は空を切る。そして、発生した僅かな隙には必然であるかのように、アグネムちゃんの反撃が突き刺さる。
強過ぎず、弱過ぎず。有効打となり得る最弱の殴打がボクサーゴブリンの身体を打ち。
また一つ、カウントが進む。奴の頭上に浮かぶ数字は、いよいよ一桁台に突入した。
残り九発。それだけ打ち込んだなら、やっとこの辛い殴り合いから解放される。楽になれる。
アグネムちゃんにはきっと、そんな希望が見えているはずなんだ。だっていうのに、彼女はそれをおくびにも出さず、揺るぎもせず。
集中力は一切の弛緩を見せない。また一つ、拳が入った。間違いなく記録更新のペースだ。クリアだって十分にあり得る。
私たちが彼女の集中を乱してはならない。そんな思いから、声を張り上げることすら憚られ。
祈るように見つめるリングの上、焦りを浮かべているのはボクサーゴブリンの方である。
奴は寧ろ、アグネムちゃんよりも余程豊かに感情を表しているように見えた。
あと数発も拳を受けたなら、敗北が決してしまう。そうはさせじと懸命にステップを踏み、拳を繰り出す。
ボクサーゴブリンは何も、スポーツマンってわけじゃない。ちゃんと拳を用いてアグネムちゃんを仕留めんと、殺気を宿して闘いに望んでいる。
目の前の挑戦者を殺し切ること。それがボクサーゴブリンにとっての勝利条件なのだから。
反面、頭上のカウンターをゼロにされた瞬間、敗北が決定するのだろう。それは彼女にとって、死にも等しいことなのかも知れない。
焦りを滲ませるその表情からは、ボクサーゴブリンの胸の内が察せられるようだった。
一切のブレを見せないアグネムちゃんに対し、焦りに攻防が揺らぐボクサーゴブリン。
らしくない、甘い拳を振ったなら、容易くそれを掻い潜るアグネムちゃん。生じた絶好の隙に、三発。
絶妙な力加減にて叩き込んだそれは、この極限状態にあっては神がかってすら見えた。おぉと、思わず私とスイレンさんの口からは感嘆と驚きの声が漏れる。
怯んだボクサーゴブリン。ともすれば、その表情には幾らかの弱気すらも伺える。完全にアグネムちゃんのペースだった。
追い風である。応援する私たちも、いつの間にやらきつく拳を握っており、心のなかで頑張れと何度叫んだものか。
応えるように、一発、また一発と拳を繰り出し、的確にガードの隙間に差し込んでいくアグネムちゃん。
そうして頭上のカウンターはいよいよ『2』を示す。あと二発の有効打……いや、実質あと一発か。あと一発打ち込み、奴が倒れずに居たなら、最後の一発に加減は要らないはずである。
勝負は次の一撃で決まる。それと知ってか、アグネムちゃんの動きがここに来て、少しだけ揺らいだように見えた。
それはさながら、格ゲーで強敵を相手にパーフェクトゲームを決める直前の心境に近いだろう。クリアを強く意識してしまい、プレイングがブレそうになるんだ。
ここに来てやってくる、最大級の『自分との闘い』。緊張は最高潮に高まり、その環境下できちんと技量を発揮できるのか。
今正に、アグネムちゃんは試されているのだろう。私たちには見守ることしか出来ない。
最大限の警戒を見せるのは、ボクサーゴブリン。事ここに至っては、必死にガードを固めて相手のミスを誘う作戦か。
辛抱の時間である。身を焦がすようなもどかしさがそこにはあり。やがてインターバルがやって来る。そうなっては折角の集中が途絶えてしまうかも知れない。或いはそれすら、ボクサーゴブリンの狙いだろうか。
極限とも言える駆け引きが行われる。
さながら、たった一太刀で勝敗の決する、真剣を用いた勝負のようですらあった。
巧みな間合いの取り合い。押しては返す波のように、或いはダンスでも躍るように、距離を探り合う双方。踏み込むチャンスを狙うアグネムちゃんと、必死に阻止せんと抗うボクサーゴブリンのせめぎ合い。
しかし、思いがけず破綻は生じたのである。リングを濡らしたのは、彼女らの流した汗。それを踏んだことにより、アグネムちゃんがスリップし、体勢を崩してしまったのだ。
それを認めるなり、反射的に身体が動いてしまったのだろう。
防御一辺倒を守っていたボクサーゴブリンが、一転して即座に牙を向いたのだ。それは彼女の、人間に対する攻撃衝動がそうさせたのか、はたまた不利を被り溜まったストレスが、暴発した結果だったのか。
何れにしたところで、賽は投げられた。
ボクサーゴブリンの凶暴な拳が、強かにアグネムちゃんの仮面を叩いた。
だが。
一枚上手だったのは、打たれたアグネムちゃんの方。
拳を受けた拍子に外れ、跳ね上がった仮面。さながらパージでもしたかのように、それを置き去りにしたアグネムちゃんは鋭くボクサーゴブリンの懐へと潜り込み。
そうして、最速の二連を一気に叩き込んだのだ。
衝撃で、たたらを踏むボクサーゴブリン。その表情は唖然そのもので。
呼吸も荒く、溢れんばかりに目を大きく見開いた彼女の頭の上。
そこには確かに、『0』の数字が表示されていたのである。
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