第九一九話 拳と手加減

 ボクシングの選手が試合時に装着する、特徴的なグローブ。

 それによく似たものを両手につけ、拳をバシバシと打ち鳴らしては戦意を誇張してみせるボクサーゴブリン。

 好戦的な笑みは、ゴブリンフェイスも相まって獣めいていた。平たく言うと、強そう。

 そんな緑色の彼女の、坊主頭の上。不意にポンと表示されたのは、数字だった。

 さながらダメージを負ったときのトレモちゃんのように。或いは頭の上に名前なんかを貼り付けて行動するMMOのPCのように。

 ボクサーゴブリンの頭上には、『100』の数字が浮かんでいたのだ。不思議で不自然で、目立って仕方がない。

 が、それの意味するところは想像に難くなく。恐らくはカウントダウンを可視化したものなのだろう。


 この課題に於いては、アグネムちゃんが奴に一〇〇発の有効打を叩き込むことが、クリア条件となっている。

 つまり、有効打が入る度にあの数字は一つずつ減っていき、ゼロにまで持っていくことが出来れば課題達成、と。そういう仕組なのだろう。

 アグネムちゃんも数字に気付いたらしく、ちらりとボクサーゴブリンの頭上を確認したなら、深い呼吸を行い。

 集中力を研ぎ澄ませ、試合の始まるその瞬間を静かに待つのだった。


 すると、それは唐突に響いたのである。レフェリーが現れるでも、選手紹介をするわけでもなく。

 カーンと、甲高いゴング音。試合と課題の始まる合図。そして動き出すアグネムちゃんとボクサーゴブリン。

 同時、楽器を掻き鳴らし始めたスイレンさん。【微睡みの調べ】を発動したのだ。


 ちなみに余談だが、この微睡みの調べは演奏スキルの中でも上位に位置するもので。

 多くの演奏スキルは、音楽を耳にした全ての者が効果を受ける対象となるのだけれど。

 しかし上位の演奏スキルともなると、自らの敵や味方、狙った対象のみなど、効果の作用する相手がデフォルトで設定されていることがある。

 尚、雑多な演奏スキルに於いても、狙った対象にのみ演奏を聞かせたり、スキル効果を及ぼす、なんていう対象を絞るための演奏補助スキルも存在するわけで。

 残念ながら今回は、そうした補助スキルを取得するだけの余裕がなかったため、微睡みの調べに備わった『敵対者』にのみ作用するという効果を活かし、ボクサーゴブリンへ向けて演奏を届けようとしているのだ。


 が、残念なことに、見た感じどうやらスイレンさんの演奏スキルは、ボクサーゴブリンに影響らしい影響を及ぼすことは出来ていない様子。

 ボクサーよろしくキレのあるステップでアグネムちゃんへと接近すると、早速肉弾戦を演じ始めたのである。

 なかなか体格差のえげつない、謂わば無差別級の試合だ。尤も、もとより重量制限だなんて概念は存在していないのだけれど。

 身長で言うと、頭がボクサーゴブリンの胸の位置にあるアグネムちゃん。頭一つ分と言わず、結構な差が見て取れた。


 打ち下ろされる鋭い拳を、しかし彼女は見事に見切って掻い潜る。

 傍目には簡単にいなして見えるけれど、勿論そんなことはなく。ボクサーゴブリンの身体能力は間違いなく、エンド級に片足ないしは両足とも突っ込んだ驚異的なもの。

 まともに受ければ痛手は免れないだろう。この世界の仕様として、防具が効果を果たすのは、防具に覆われた箇所への攻撃に対してのみ。

 本当なら、それこそボクサーが用いるヘッドギアなんかが用意できたら良かったのだけど、厄介な装備変更制限により、それらしい物は身につけていないアグネムちゃん。

 その代わり、普段から頭につけてる仮面が、今ばかりは彼女を頼もしく守ってくれている様子。

 たとえ顔面を殴られようと、仮面で受ければ威力を減衰してくれるはずだ。

 仮に防具をしていない側頭部なんかに一撃受ければ、下手をするとそれで即死である。モンスターと真正面から殴り合うというのは、それだけリスキーな行為だという話。


 人間同士のボクシングなどとは、危険性が別次元の殴り合い。クリーンヒットを慎重に避けるアグネムちゃん。

 丁寧に隙を見出し、そうしてとうとう、彼女の拳がボクサーゴブリンの横腹を叩いた。

 いや、とても叩いただなんて言えるような威力ではなかった。そっと拳を添えた程度の、ソフトタッチである。

 鋭く繰り出したにも関わらず、ヒット直前の急減速。無論、課題の内容を意識してのことだろう。

 強い一撃を入れたのでは、一〇〇回のヒットを待たずして奴のHPが尽きてしまう。それを警戒し、最弱の攻撃を繰り出したわけだ。

 が、しかし。


「ミコトさん、大変ですよー! 頭上の数が減っていません~! もしかしてあの数字って、有効打を数えるのとは別物ってことでしょうか~?」

「いや、どうだろう……もしかすると、弱すぎる攻撃は有効打としてカウントされない、つまりはカウントを動かすための最低限の威力は発揮しなくちゃダメ、とか。そういうルールって可能性もある」

「そんな! あんな激しい攻防の中でそんな手加減って、難しいどころの話じゃありませんよ~!」


 デバフが届かないと見るなり、その胸中を示すように緊迫した楽曲を奏でるスイレンさん。私の考察を前に、サッと顔を青くする。

 試合が始まる前は、武器での攻撃を控えたら良いじゃない、なんて話も飛び出したものだけれど。しかしどうやら、事はそう簡単でもなかったようだ。

 一旦距離を取ったアグネムちゃんも、どうやらカウントが進んでいないことに気づいた様子。

 試しにと、隙を見て先程より強めの拳を叩き込むアグネムちゃん。とは言え、それだって見るからに手加減した殴打である。

 けれど、それを受けたボクサーゴブリンのリアクションはどうだ。腹にそれを食らった彼女は、弾かれたように身体をくの字に曲げるではないか。

 と同時、頭上の数字は『100』から『99』へ。これにより確信を得る。やはりあれは、有効打をカウントしているに違いないと。


「カウントは進んだみたいですけどー、なんかすごくオーバーなリアクションですね~。そんなに強く叩いてませんよ今のー……」

「多分、私たちが想像してる以上に、挑戦者に掛かる攻撃力上昇バフっていうのが強力なんだ。アグネムちゃんが加減なしに殴ったなら、きっとそれだけであのゴブリンは原型を失うことになると思う」


 挑戦者の攻撃力は、大幅に強化された状態で課題に臨むのだと。説明にはそのような事も書いてあった。

 しかしそれは、私たちの想像を超えるほどの、デタラメな補正だったってことなんだろう。ボクサーゴブリンのリアクションと、アグネムちゃんの困惑したような、幾らか焦ったような表情がそれを物語っている。

 恐らくは今の一撃で、ボクサーゴブリンのHPは大きく削れてしまったのだろう。果たして一〇〇発入れるまで持ち堪えることが出来るかどうか……。

 心配はあれど、幸いだったこともある。今の一撃が効いたのだろう、ボクサーゴブリンの動きは幾分キレを失い、アグネムちゃんの回避を容易なものとしたのだ。

 これ見よがしに、力加減を確かめるべく幾度も拳を叩き込むアグネムちゃん。

 その度にボクサーゴブリンは、大袈裟なほどのリアクションを見せ。かと思えば威力が低すぎるとノーリアクション。

 あからさまに手を焼くアグネムちゃん。表情は優れず、どうやら一発クリアは絶望的なようだった。


 そして、案の定。試合開始から三分もしない内に、敢え無く崩れ落ちるボクサーゴブリン。

 頭上の数字は『78』を示しており、有効打はたったの二二発。余程細やかな加減が求められるらしいことが、ありありとリング外の私たちにも伝わってきた。

 仮面をずらし、酷く申し訳無さそうな顔をこちらへ向けてくるアグネムちゃん。急ぎリングを降りようとロープ際まで駆けてきては試みる、けれど。

 しかしボクサーゴブリンが倒れ、黒い塵へ還って尚、リングを囲った不可視の壁は消えることなく健在なまま。

 戸惑うアグネムちゃんを余所に、私たちのもとにはペナルティエンカウントによるモンスターポップが発生。


 現れたのは三体の、等身の高いゴブリン……っていうかホブゴブリンかな?

 それぞれ武器を手にした男型。ムキムキである。それらが私とスイレンさんめがけ、一斉に襲いかかってきた。

 が、演奏によるデバフのお陰で動きは遅く、更には念力で動きを阻害。生まれた大きな隙に、アラカミの剣尾を一閃。

 毒を受けた彼らはあれよあれよと内側を食い荒らされ、激痛に悶え苦しんだ。

 それでも一矢報いんと這いずる姿には、大したガッツだと感心を覚えるけれど、しかしそれだけ隙を晒していたのでは詰みである。

 ぱっぱと首を刎ねたなら、それで決着。このくらいの相手なら何ら問題なかった。


「なんかー、私の演奏って意味ありました~? もうちょっと有難がってほしいです~」

「勿論大有りだよ! 微睡みの調べがあったから、複数に囲まれても余裕で対処できるわけだしね。んで、余裕で対処できるからアグネムちゃんも失敗を悔やまずに済む。スイレンさんのおかげじゃん!」

「お、なんですかー、分かってますねミコトさん~! そうなんですよ~、私の演奏のおかげなんですよね~!」


 心配になるチョロさである……。っていうのはまぁいいとして。

 あっさりペナルティエンカウントを処理した私たちに、リング上のアグネムちゃんはホッとした様子。分かりやすく胸を撫で下ろしていた。

 しかしながら、声が届かないというのは不便である。

 普段からアクション大きめのアグネムちゃん。声が届かぬ代わりに、ヘコヘコと動作で謝意を伝えてくる。

 対して私たちも、大丈夫気にしないでと身振り手振りで伝え、再チャレンジに集中してもらうことに。


 すると、いつの間にやらリポップしたボクサーゴブリン。ダメージはリセットされ、まるで時間でも巻き戻ったかの如き風体で試合開始の合図を待っている。

 一方のアグネムちゃんも仮面をつけ直し、奴へと対峙しては次なるラウンドへと備えたのだった。

 そして、再び響き渡る甲高いゴングの音。こちら側では無意識なのか、スイレンさんがまたもやBGMを奏で始め。

 リング上に於いてはアグネムちゃんとボクサーゴブリンによる試合が、勢い良く再開されたのである。


 先ほどと異なり、今回はアグネムちゃんの方から果敢に攻めていく。

 検証のつもりなのだろう。ガードを固めるボクサーゴブリンめがけて、強烈な殴打を叩きつけた。

 強力なバフを受けている今のアグネムちゃんなら、たとえ防御の上からの一撃でも、余裕で奴のHPを根こそぎ吹き飛ばしてしまうはず。

 そう、予想したのだけれど。しかし驚いたことに、現実は異なっていた。


 上限に至ったステータスと、現環境最上位に近い、強力な拳装備。そして課題により強制的に爆上げされた攻撃力。

 それらを込めた拳なら、ボクサーゴブリンの上半身ごと消し飛ばしたとて何の不思議があるだろう。

 けれど意外なことに、ボクサーゴブリンはなんと無傷。仰け反ることすらしなかったのだ。

 ギョッと隣で驚くスイレンさん。「どういう防御力をしているんですか~?! っていうか、防御力は低いんじゃなかったんですかー!」なんて疑問とも抗議ともつかないことを言っているけれど。

 恐らくは、これも特殊なルールによるものなのだろう。防御の上から叩いても有効打にはならないって話だったし。


「ガードの上からの攻撃は、バフ以上に強力な威力減衰が働くんじゃないかな。この分じゃ、無理やり攻撃で防御をこじ開けるって手法も難しそうだ……」


 私の言に、忌々しそうに唸るスイレンさん。応援に熱が入るタイプのようだ。

 なんて、私も他人事ではいられない。アグネムちゃんにとって、相当に厳しい課題となりそうである。

 私たちは声が届かないと知っていて尚、一生懸命に彼女を応援するのだった。

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