第五六五話 焔
ゴリッと、一歩踏みしめる毎に靴の下で音が鳴る。
先程クラウの戦った、ゴロゴロとした岩石の転がる足場とはまた異なる、河原独特の地面。
足元には手に乗るくらいの石ころがびっしりと敷かれており、これはこれで歩き難さを覚える。
二人の面前に広がる、幅一〇〇メートルは下らない大河が、長い時間を掛けて上流より運び堆積させた、大小様々な石ころたちである。
レッカとスイレンは、そんなよろしくない足場を一歩一歩確かな足取りで踏みながら、とある一点を目指し進んでいた。
既に気配はあった。
煩いくらいの川の音に紛れて、水面に潜む強者の気配だ。
レッカもスイレンも、その背には既に嫌な汗をじっとりとかいており、呼吸もどこか心許ない。心臓の鳴る音は早く、そのくせ指先は冷たく。
脳裏を過ぎっていくのは、痛みと苦しみ、そして延々と続く悔しさの日々。
敵の気配隠蔽がどれほど優れていようと、二人はそのピリついた空気だけで、嫌というほどにそいつの存在を感じていた。
ギリッと、愛剣の柄を握る手に力の入るレッカ。
自覚していた。萎縮していると。この二ヶ月間、我武者羅に努力して、死物狂いで戦って。
それでも、圧倒的な力を前に蹴散らされる日々。その度感じた耐え難い痛みと、悔しさ、歯がゆさ。
それに、先程目にしたクラウの、呆れるほどに見事な戦いぶりである。
ゆらっと、剣身から立ち上る陽炎。強く奥歯を噛み締めたレッカは、静かにスイレンへ向けて告げた。
「スイレン、始めよう」
「…………」
返事は、小さく息を吸う音と、緩やかに始まった旋律によりなされた。
戦闘用BGMと呼ぶには大人しい、これからの戦いを予感させる序曲である。
さりとて、その効果は絶大。
二人の出す、あらゆる音が唐突に消えたのだ。
音だけではない。姿も、匂いも、熱ですらも、二人の存在を示すあらゆる情報が、スイレンの奏でる音楽だけを残し、風にでも溶け込んでしまったかのように消えてしまった。
これには、遠くよりその様子を観ていたミコトたちも驚きの声を漏らす。
そして何より、自身へと接近してくる二つの気配を警戒していた、彼女らの標的であるそのモンスターも、不可解な現象を前に警戒と混乱を余儀なくされた。
次の瞬間。
そいつは、己が直感に従い勢いよく水面より飛び出した、とほぼ同時。
背面に生じたるは、直径二メートル程はある紅き火柱。
それは安々と水面を気化させ、水底すら食い破ってみせたのだ。
大河の一部はブクブクと泡立ち、膨大な水蒸気が忽ちの内に立ち上り、煙る。
そんな驚くべき奇襲を、見事な直感により回避せしめたそれは、一種独特な姿をした生き物だった。
全身を覆うは硬い表皮。背には一層堅固な甲羅を背負い、水をかくための手脚は大きく太く発達し、異様なほどの筋肉を纏っている。しかも腕は四本もあり、いかにも近接戦に於いて与し難いフォルムをしていた。
殊更特徴的なのは、その背より伸びる太長い一対の腕である。自らの足先にまで届きそうなほど長く、おびただしい程の筋肉の鎧で肥大化した、あからさまな凶器。
そんな奴を、よりシンプルな言葉で表すのならば、そう。
タガメ人間、であろう。
「タ、タガメ人間……っ」
現に遠くでミコトもそうつぶやいている。
モンスターと言うよりは、怪人と呼んだほうがしっくり来るような出で立ち。
そんな奴は水面を突き破り、大河より飛び出た勢いの最中にありながら、背後で起こった恐るべき異変に対し、冷静な対処を見せた。
空中にて振り向きざまに、その巨大な腕をブンと振るったのだ。
風魔法である。鋭い風の刃はすぐさま火柱を引き裂き、自らに襲いかかってきた脅威を強襲し返した。
瞬間、曲調が変わる。
奏者たるスイレンがどこからともなく姿を表し、同時にレッカもその存在を顕にした。
序曲からの鮮烈なる転調。
レッカは不可視であるはずの風の刃を難なくやり過ごすと、自身が生み出した火柱を突き破って、瞬時にタガメへと肉薄したのである。
閃くは紅蓮の剣閃。
されど、彼女の刃はいなされた。
奴は素手にて、レッカの振るった剣を弾いたのである。
一瞬だけ驚きから眉をピクリと動かすも、しかし直ぐに彼女は絡繰を看破した。
タガメの手には、何と水が纏わりついていたのだ。これで紅蓮剣の熱量に対応したらしい。裏付けに、奴の手はモクモクと蒸気を発していて。
しかし、剣をいなされ隙を見せたレッカは、窮地にあった。タガメの用いた対策を看破したからと言って、この瞬間に於いてはその事実を覆せるはずもなく。
奴の空いた腕はまだ、三本もある。ともすればこの刹那の内に、目前の彼女を致命に至らせることすら可能だろう。
けれど、奴が何かをする前にそんな未来は断ち切られた。
タガメを横合いより叩いたのは、音の衝撃。
未だ地に足のつかぬ宙の只中にあったタガメは、強かなその衝撃により、大きく身体を吹き飛ばされたのである。
無論、それを成したのはスイレンの放った音魔法であった。
飛ばされながらも、お返しとばかりにタガメは彼女へ向けて鋭く水球を撃ち放つ。
純粋に高威力のそれは、分厚い岩壁にすら風穴を開けるほどの力を有しており、当然スイレンがまともにその身で受けたなら、一溜まりもないことは間違いなかった。
が、これを切り払ったのはレッカであり。
二人は見事にお互いの隙を補助し合ったのである。
タガメは鋭く足先を河原へ突き刺し、石ころを跳ね除けながら強引に勢いを殺した。
と同時、爆ぜるように地を蹴り再度レッカめがけて襲いかかる。ご丁寧に風魔法を幾重にも振るい、しかもそれはレッカの背後、後衛のスイレンすら巻き込まん軌道にて真っ直ぐに飛来したのだった。
見えざる刃の襲来を、しかしスイレンは音から読み取ったのか敏感に察知し、音魔法にて見事に叩いてその軌道を逸してみせる。
それを尻目にレッカはタガメを迎え撃った。
ここまでは、互角の立ち回りを演じている。
さりとて彼女らの心臓は早鐘を打ち、恐怖心は今にも溢れ出しそうになっていた。
恐るべき相手だ。ステータスは軒並み高く、非常に勘も鋭い。
魔法の威力も強烈で、まともに貰えば即刻戦闘不能もあり得た。
そう理解すればこそ、脳裏を再び嫌なイメージが横切っていく。冷静さをかき乱そうと、雑音を伴い通り過ぎていく。
平常心を強く意識し、歯を食いしばってタガメと相対するレッカ。
迫るタガメへ牽制の一撃を振るう。刃が纏う炎を飛ばす【飛炎剣】だ。
しかしタガメは、迫る炎を物ともせず突破し、レッカへ向けて巨腕を振りかぶる。
だがレッカの行動はそれより尚早く。
奴の攻撃モーションが意味を成すその前に、レッカはタガメとすれ違うようにその横腹へ紅蓮の刃を滑らせたのだ。
が、その不快な手応えに、いよいよ眉をしかめる。
流石にノーダメージでこそ無かったけれど、傷は浅く。硬い表皮に阻まれ、紅蓮剣最大の売りであるところの膨大な熱は、奴のその内側に到達し得なかったのである。
しかも、瞬時に水魔法が熱された表皮すらジュワっと冷まし、ダメージは最小限。顔色の一つすら変わりはしない。
が、その気配には一層の剣呑さが宿り。
素早く構え直したにも関わらず、奴はステータス由来のスピードに物を言わせ、次の瞬間には既にレッカへ向けて掴みかからんとその手を伸ばしていたのだ。
迫る腕は四本。対する剣はただの一振りで、誰の目にも劣勢は明らか。
ビシバシとスイレンの音魔法がタガメの背を叩くも、強固なその甲羅は一切の衝撃を通さず。
フラッシュバックするのは、痛みの記憶。
まただ。また今回も、辛酸を嘗めさせられるのか。
極限の危機感から、スローになる視界。湧き上がる負の感情。
冷静さが、弱気に侵食されていく。
諦めがぬったりと顔を出した。
──その時だ。
『強いレッカを見せてね』
走馬灯の如く頭の中を荒れ狂う様々な思いや記憶。
その中の一片が、レッカを突き動かしたのである。
怯え、後ずさりそうだった一歩は、しかし無意識下で強烈な踏み込みへと変わり。
鋭い切っ先は、真っ直ぐに奴の胸部を見据えた。
そして。
音の壁すら突き破らん超速の突きは、目にも鮮やかな紅を纏い、深々とタガメの胸部、そのど真ん中にザックリと潜り込んだのだ。
ドンという衝撃は、前のめりだった奴の動きを僅かに止め。
瞬間、レッカは叫んだ。
「だぁああああああああああああ!!」
迸る焔はどこまでも紅く、膨大な熱量が切っ先を通してタガメの体内へ叩き込まれる。
これには堪らず悲鳴を上げ、乱雑な前蹴りでもってレッカを蹴り飛ばそうと試みるタガメ。
ギリギリで剣を引き抜き、飛び退くことで身を躱したレッカ。
さりとて、明らかな潮目。
レッカの目に、宿るは焔の如き赤。
ずっと求めていたのだ。強者を打ち破るその瞬間を。その手応えを。
そして今、それはもう目の前にある。
するとどうだ。
ジャカジャンッ! と、彼女らしからぬ一際力強い調べが、場の空気を一新するように掻き鳴らされ。
ほんの一瞬、交差するレッカとスイレンの視線。
彼女の瞳も、呼応するように燃えていた。
スイレンもまた、レッカ同様に求めていたのだ。勝利を。一矢報いるその機会を。
そして何より、スイレンもまた強烈に意識していた。
『カッコイイ二人を見せて』
ミコトに掛けられた、その言葉を。
カッコイイを作るのは、自分なのだと。
音に呼応し、爆発的に上昇するレッカの放つ熱量。
熱烈な痛みに歯を食いしばり、凄絶な敵意を視線に乗せるタガメ。
それを、真っ向から焔の瞳で睨み返すレッカ。
王龍戦で失われ、泣く泣く新調した愛剣はさりとて、彼女の期待に応えるべくどこまでもどこまでも熱を吐き。
それを受け、レッカの胸に強烈な想いが灯る。
考えてみれば、新しい愛剣にはかっこ悪いところばかり見せてきた。惨めな思いをさせてきた。
だからこそ、今、それを共に払拭するのだと。
この瞬間こそが、私たちの新たな門出なのだと。
固い決意は更なる熱となり、真紅の焔を際限なく踊らせる。
そして。
先に動いたのはタガメだった。
正に、火がついたようなレッカの変貌ぶりを認め、危機感と怒りを一緒くたにした奴は、胸の熱さも痛みも強引に無視し、全力をもってして目の前のそれへと襲いかかったのである。
無数の風の刃がレッカへ殺到し、身体には超濃度に圧縮された分厚い水の鎧を纏った。
そうして目前の脅威を確実に仕留めるべく、タガメは撃ち出された砲弾が如き勢いで彼女へと躍りかかったのだ。
が。
レッカを襲った風の刃は、またしてもスイレンの放った音魔法が、その尽くを弾き飛ばし。
ばかりか、叫ぶように放たれた彼女の歌声は、何と頭に血の登ったタガメの視線と意識を、強引に自らへと惹きつけたのである。
そして。
焔が一つ、閃いた。
水の鎧など物ともせず、レッカの紅蓮は正しく見事に、タガメの硬い胴体を真っ二つに両断したのである。
爆ぜるように立ち上る水蒸気と火炎。
そうして直後、舞い踊る紅と白に、塵へと還ったタガメの黒が、シュルリと混ざり込んでは消えていくのだった。
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