第五四〇話 身を守れぬ恐怖

 ミコトやオルカたちと異なり、イクシスへ直接鍛えてもらえるよう頼み込んだレッカ。と、それに巻き込まれたスイレン。

 特訓が開始されてからというもの、二人は地獄のようなハードスケジュールを毎日こなし続けていた。



 レッカたちの朝は早い。

 未だ夜が明けるよりも随分前から起き出す二人。

 イクシス邸に部屋を借りて滞在しているレッカとスイレンは、眠い目をこすりながら朝の身支度を整えると、裏手の広い訓練場へやって来る。雨天の場合は屋内訓練場だ。

 そこで行われるのは、勤勉なる自主トレである。


 スタミナを鍛えるための走り込みや、素振り、魔法やスキルを駆使したゲーム形式の訓練など、イクシスと話し合って出来上がったメニューを、時間の許す限りみっちりやり込む。

 すると、日の出頃にイクシスがやってくるので、朝食の時間が訪れるまで、ひたすら彼女へ挑み叩き伏せられる。

 後衛であるはずのスイレンも、まとめてボコボコだ。容赦などはない。



 朝食を終えたなら、イクシスはお仕事のために動き出す。

 以前ミコトが連れ回されたように、あっちこっちを飛び回って、強力なモンスターを討伐したり、厄介なダンジョンを潰したりというハードなお仕事である。

 尚、いくら勇者と言えど、転移スキルを用いてあっちこっち世界中を飛び回っていたのでは、流石に問題になるということで、お仕事は人知れずこっそり行うようになった。

 コミコトの力で透明化し、空を飛ぶか転移するかで移動を行って、マップスキルで対象を発見。

 エンカウントしたなら、まずはストレージ内から出てきたレッカとスイレンがこれと戦うことになる。


 本日最初のお相手は、巨大なアリだった。紅いアリ。フォルムもやたらトゲトゲしたクリーチャー風で、纏う雰囲気からして尋常なものではない。

 名を『クリムジアント』。特異種である。

 大きさはレッカよりも二回りほど大きく、発達した顎のハサミは絶対捕まっちゃダメなタイプのそれ。

「あのハサミはヤバいからな。しかも動きも恐ろしく速い。まずは回避に専念して、奴の動きに慣れることをおすすめするぞ」

 というイクシスのアドバイスを背に受け、油断なく構える二人。


 刹那の出来事である。

 辛うじて身を屈めたレッカの頭上で、凶悪なハサミがジャキンと空振り。

 肝を冷やしながら、すかさず【紅蓮剣】にて反撃を試みるも、刃が振るわれた時には既に、紅アリの姿はそこに無く。

 そうして奴は、空振った後の隙をこれみよがしに突いてくる。

 生きた心地のしないレッカを救ったのは、スイレンによるインターセプトだ。

 飛来した水の刃が僅かに紅アリを押し戻すも、傷一つ付かないとは正に。

 けれど、レッカが逃れる隙くらいは辛うじて作ることが出来た。


 転げるように飛び退り、心臓をバクバク鳴らしながら剣を構えるレッカ。

 完全なる格上。いや、今の実力で対峙していいような手合ではない。それは誰の目にも明らかだった。

 当事者たれば、そんな事は痛いくらいによく分かる。

 しかし、だからこそ意味があるのだ。

 恐怖を噛み殺し、口角をにやりと釣り上げる。虚勢だ。

 敵が強いほどボルテージの上がるレッカでも、流石にこのレベルの相手には笑う気も起きない。

 だが、それでも口元には笑みを作るのだ。

 気持ちで負けたら、そこで終わりだと分かっているから。


 そんなレッカの心情など一顧だにせず、次に紅アリが睨んだのはスイレンの方だった。

 自身の行動を僅かに阻害したスイレン。

 彼女はカチカチと恐怖に奥歯を鳴らしながらも、懸命に弦を掻き鳴らし、音楽を奏でていた。

 レッカを鼓舞するための、自身を励ますための、戦いの音色だ。

 本来ならば、対峙する相手にもネガティブな効果を付与するはずのそれは、しかし紅アリには何ら効果が出ているようには見えなかった。


『やっぱり虫さんには音楽が分からないんですかねぇ~……』


 なんて念話で弱音をぶちまけるも、演奏は止めない。

 そう、ミコトやオルカたちと違い、レッカもスイレンもへんてこスキルの恩恵は封じていない。

 当然である。こんな怪物を相手に形振りかまっている余裕なんて、あるはずも無いのだから。

 しかし現状に於いて、それらの便利スキルが果たして何の役に立とうというのか。


 再び、紅アリの姿が掻き消えた。

 直後姿を見せたのは、スイレンの真ん前。

 次の狙いが彼女であることは、レッカにもスイレン当人にも分かっていた。

 分かっていたが、それで尚打てる手が無いほどには、その動きは速過ぎた。


 さりとて。

 紅アリはスイレンの手前数メートルの位置にて急停止すると、血相を変えてバックステップを踏んだのである。

 理由は単純。イクシスが睨みを利かせた、ただそれだけのこと。

 彼女が得物に手をかけ、少しばかりの敵意を示してみせたなら、死の予感を敏感に感じ取ったのだろう。紅アリは賢明なことに大きく退いたのだ。


『し、死ぬかと思いました~……!!』

『く……本来なら私がカバーしなくちゃいけないのにっ!!』

『反省は後だ。まだ終わっていないぞ』


 悔しさに歯噛みしながらも、次は自ら斬り込んでいくレッカ。

 しかしその剣は見事なまでの回避に遭い、最小に抑えたはずの隙を巧みに狙って、恐るべき反撃を繰り出してくる紅アリ。

 スイレンとの連携でどうにか痛打を避けてはいるものの、終始圧倒され続けるレッカ。

 すると不意に、レッカの足元から、石製のアリの顎がニョッキリと生え、右足へ食らいつこうとしてきたではないか。

 不意打ちな上に軸足だ。奴の行使した地魔法の一種である。

 反応した時には既に遅く、深々とハサミは足首に食い込み、レッカをその場へと固定した。


 幸い切断されるようなことはなかったが、激痛からどうしたって一瞬全身の筋肉が強張る。

 直後である。続けざまに行使された火炎球が、幾重にも彼女へと殺到したのだ。

 雨あられが如く襲い来るそれを、正に火事場の馬鹿力とでも言おうか、恐るべき集中力で見極め、紅蓮剣にて迎撃するレッカ。

 けれど、それも一瞬の抵抗に過ぎなかった。


 火炎球に紛れ、紅アリが飛び込んできたのだ。

 レッカにはもう、それをしのげるだけの余力などはなかった。

 スイレンの懸命な援護が意味を成すこともなく。

 そして。


『ここまでだな』


 火炎球の全ては綺麗に消え去り、紅アリの身体は真っ二つに断ち斬られたのである。

 レッカの目の前に割り込んだ、イクシスの仕業であった。


 一瞬、息の止まったレッカは。しかし思い出したように荒い呼吸を再開すると、全身から吹き出した冷や汗と、右足の激痛に大きく顔を顰めた。

 紅アリは言うまでもなく塵へと還り、レッカの治療も即座に施された。勇者の治癒魔法は、ココロの行使するそれにこそ及ばないまでも、相当に強力なもので。

 思わず目を背けたくなるような傷は、あっという間に痕跡すら残さず消え去ったのだった。


 そして。

「では、次に行くか」

 山のようにある、イクシスの請け負った依頼。

 レッカもスイレンも、こんな戦闘を一日に何度も繰り返し、夕方まで死物狂いで戦い続けるのである。

 何なら紅アリとの一戦などヌルい方で。次の一手で命を落とすというギリギリのタイミングまで、イクシスが出張ってこないこともザラなのだ。

 さらに言えば、夕方。一日の終りを飾る一戦ともなれば、先ほどスイレンの危機をカバーしてみせたように、決定的な一撃をイクシスが牽制することにより、二人はしこたま痛めつけられることになる。

 正しく、死線。

 実質的な命の保証こそ担保されているけれど、受ける痛みはただ事ではなく。あまつさえ、万が一がないとも言い切れなかった。

 死の恐怖を確かに味わいながら、二人は延々と戦い続ける。



 そうして、ようやっと日没を迎えたなら、今日の戦闘訓練は終りとなり。

 さりとて、レッカもスイレンもそこで休んだりはしない。

 休んでなどいられないのだ。

 イクシスが居なければ、負けていた。殺されていた。

 そんな経験を何度も繰り返したことで、一種の強迫観念が二人を追い立てる。


 残ったスタミナとMPを最後の一滴まで絞り出すように、傷が癒えたばかりの体に鞭打って、二人は自主トレを繰り返すのである。

 朝練の時よりも、当然ハードなトレーニングだ。

 何せ後は、もうご飯を食べて寝るだけ。余力を残す必要がない。

 だから、すべて出し切る。

 そうでもしなければ、死への恐怖に心が潰されそうだから。

 自分の身を自分で守れるという、そんな安心を心底欲するから。


 途中夕飯を挟んで、再度苛烈なトレーニングに身を投じ、クタクタになってお風呂へ向かう。

 そうして最後は、気絶するように就寝するのである。


 そんな日々を、特訓開始以降ずっと繰り返している。

 そしてこれからも、納得行くまでそれは続くのである。

 二人の急成長は、当然鏡花水月のそれに劣るものではなかった。

 その様は、イクシスをも唸らせるものであり。

 打倒王龍へ向けて、レッカもスイレンも着実に歩みを進めていたのだった。



 ★



 コミコトを介して、そんなレッカたちの様子を把握しているミコトは、自身の不甲斐なさに打ちひしがれていた。

 たかだかスケルトンにも苦戦し、ダンジョン一五階層から引き返して来て、リィンベルの宿へようやっと辿り着いたミコトである。

 ベッドにバタムと倒れ込み、バタバタと手足をばたつかせて悔しがる。


「ムガーーーッ! ムガーーーッ!!」

 仮面をしたまま枕に顔をうずめて、何やら大声で叫んでいるが、近所迷惑だからやめろとゼノワに頭を叩かれ窘められると、急に静かになるミコト。

 そして、徐にムクリと起き上がると、言うのである。


「私も、形振りかまってる場合じゃない……!!」


 仮面の奥のその瞳には、怪しい光が灯っていた。

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